探索前日の夜に地図で見つけて「おいしそう」と思い、実際に現場を走って「おいしい!」と確信した、大いに険道マニヤの心をくすぐってくれた今回の県道であるが、その正体については……、
探索をする前からあからさまに分かっていた。
そう書けば、「うんうん」と頷いている人は多いだろうが、まだピンときていない方もいらっしゃることだろう。
今回の机上調査は簡単なものだが、ご覧いただきたい。
『小矢部土木事務所管内図』(1989年版)より転載。
まずは、今回探索した県道が、確かに県道だという証明から。
左図は、平成1(1989)年版と少し古いものだが、富山県小矢部土木事務所(現:高岡土木センター小矢部土木事務所)が発行した管内図である。
これを見ると、現在の県道72号のルートは、県道241号としてはっきりと描かれている。
路線番号がいまと違っているが、平成5年の主要地方道指定に合わせて路線番号が変わったのである(路線名は変わらず)。
縮尺の影響で、デフォルメされているというか、単純に角が取れてだいぶ真っ当な道(立体交差みたい)のように見えるが、確かに小矢部橋の東詰には奇妙な線形が描かれていることも確認できる。
今回探索した道は、確かに県道なのだ。
といったところで、いよいよ本題。
旧版地形図から、過去の姿を見てみよう。
昭和27(1952)年の地形図と現在の地理院地図を比較すると、県道72号の今回探索した区間の大半が、かつては“国道”であったことが分かる。
しかもこの国道というのは、昭和27年に一級国道8号に指定されたばかりの、押しも押されもしない北陸地方最大の幹線道路である。
現在の小矢部バイパスを通る一般国道8号から見れば、2代前の旧々道にあたるルートだ。
地形図の用意はないが、さらに時代を遡っても格式は微塵も揺るがない。
旧道路法下(大正9年〜昭和27年…いわゆる「大正国道」)は国道11号線であったし、さらに古い国道表の時代(明治18年〜大正9年…いわゆる「明治国道」)は国道20号線であった。わが国に「国道」と名のつくものが初めて誕生した明治9年に国道三等北陸道に列せられたのがこの道であり、近世の加賀藩が公道とした北国街道であり、古代律令制が定めた北陸道にまで由緒を辿りうる、まさに歴史の塊のような道である。
私は右図のような2枚の地形図を比較しただけではっきり調べたわけではないが、近世における北国街道の石動宿の景色を受け継いでいるのが、現在の県道72号の沿道随所に見られる町家建築なのであろうと思う。
ただし、県道72号がかつての国道8号を受け継いでいるのは、終点である商工会前交差点(小矢部市中央町)から、小矢部川を渡った先の東福町までである。
東福町以東の県道72号は、昭和27年の地形図には「町村道」として表現されており、旧道路法の時代までは国道でも県道でもなかったようだ。
その正体はよく分からないが、小矢部橋の位置に支点を置いた北西―南東方向の連絡路として、早い時期に登場した道だったと思う。
詳しいことをご存知の人は、どうかご一報ください。
右図は、前掲した新旧2枚の地形図の小矢部橋周辺を拡大したものだが、こうして比較してみると、小矢部橋の位置が少し変わっていることが分かるだろう。
この橋の架け替え伴って、県道72号の“激狭直角カーブ”が誕生したことが、はっきり分かる。
(←)昭和21年と昭和38年の航空写真を比較してみると、小矢部橋の変化は一層分かりやすい。
昭和21年の航空写真に写る小矢部橋が何代目の橋なのかは不明だ。ここに初めて橋が架けられたのは、北国街道時代の正保4(1647)年だといわれており、たいへん歴史が深い。もちろん木橋だったろうから、近代まで数十回は架け替えられたと思われる。近代以降では、明治16(1883)年12月に、これまた木橋が架け替えられた記録があるが、同じ橋が昭和21年まで存続していたとも思えない。
現在の小矢部橋へ架け替えられたのは、昭和36(1961)年のことである。(参考(pdf)
そしてこのときは、単純に架け替えるだけではなく、大規模な河道の拡幅を伴う河川改修事業が行われた。
きっかけとなったのは、昭和28年と29年に相次いで起きた小矢部川の大水害であったようだ。
その結果、航空写真でもよく分かるとおり、左岸の西福町が大きく削られて河川敷に取り込まれた。
堤防や橋も高くなり、その影響から、橋の前後には長い坂道が必要になった。
このことが、小矢部橋の右岸、東福町側に【U字型の坂道】や“激狭直角カーブ”を誕生させた、直接の原因である。
架け替えられた小矢部橋の線形は、北陸交通の大動脈である一級国道として非常に無理があるように見えるが、この点には別の解決がなされていた。
それは、昭和31(1956)年に完成開通した石動大橋である。
国道8号はこの時点で小矢部橋を通らないルート(現在の旧国道)に変更されており、以後は生活道路に徹する未来が約束されていた小矢部橋には、1.5車線程度の道幅があれば十分で、両岸に直角カーブを配した悪線形でも、問題はないと判断されたのであろう。
以上述べたことが、推論も混ざってはいるが、ほぼ間違いないと思われる、小矢部橋の周辺に集中する県道72号の悪線形の由来である。
しかしもう一歩踏み込んで、このような悪線形の道路を、なぜ富山県が昭和35年に県道の認定を与えたかは、不明である。
普通に考えれば、わざわざ(当時の)旧国道を県道に指定する必然性はなく、石動と砺波方面を結ぶ県道が必要だとしても、石動大橋東詰の国道上に起点や終点を置けば良さそうである。そうすれば、“激狭直角カーブ”も“一方通行区間”も、県道になることはなかった。
これについては、旧国道の沿線を廃れさせたくないという地元関係者の要望があったことも想像されるが、実際問題、県道に認定されてから半世紀以上経っても“こんな状況”なのである。県道指定に実効があったかは甚だ疑問である。(結果論だが)
ミニコーナー: 小矢部川の両岸に分かれた「福町村」
昭和30年代の河川改修によって川幅が倍増する前の小矢部川は、対岸がずいぶんと近かったようだ。
現在は川を挟んで小矢部市の西福町と東福町が向かい合っているが、昭和41年に町名が分けられる以前、一つの大字「福町」を形成していた。
さらに遡ると、明治22年の町村制施行によって石動町の大字となる以前、いわゆる近世村としての福町村があった。
いまほど川幅が広くなかったとはいえ、それでも富山県の7大河川に数えられる小矢部川である。その両岸が、江戸時代には既に一村だったというのは、驚きだ。
前述したとおり、架橋が早くなされたという事情もあるだろうが、村と川の心理的な距離の近さにも起因すると思われる。
実際、福町村の歴史を『角川日本地名辞典』で調べてみると…
当地は浅瀬伝いに小矢部川を徒渉できる場所であったため,加賀藩の成立に伴い,高岡・富山・江戸への往還が繁くなるにつれて,舟渡しが必要となり,藩として慶長11年に渡守を置くことにした。次第に町場として形成され,寛永19年に近くに藩米を収納するために,藩倉小矢部御蔵を設置した。しかし,舟渡しだけで陸路交通が不便であったので,正保年間頃に小矢部橋を架け,その近くに波止場を設けた。その後,長舟を使って,藩米を伏木・吉久の御蔵の方へ川下げした。そして戻り荷として塩・大豆・肥料・日用物資などを,伏木・高岡方面から運んできた。また,旅客を運ぶ乗合舟もあって,高岡の木町との間を往復した。こうして,明治31年の国鉄北陸本線開通の頃まで,休み茶屋・飲食店・宿屋・商家などが建ち並んでにぎわった。
…云々とあって、ここが水陸交通の結節点として、極めて川との結びつきの濃い土地柄であったことがわかる。
それだけに、川を徹底的に障害物としてのみ扱う現代の道路行政とは、多少馴染まなかったことも想像しうる。
「ぽっと出の県道なんて、うちの町内には認めてやるもんか!」
そんな住民感情を空想して、県道の現状と結びつけるのは、さすがに飛躍があると思うが、想像としてはなかなか楽しい。
最後は、未来の話をしよう。
右図は、小矢部市が平成26(2014)年に公表した「都市計画用途地域計画図」であるが、ここに同市が都市計画事業で整備しようとしている道路網(都市計画道路)が掲載されている。そしてこの中に、現在の県道72号と路線の大部分が重複する1本の都市計画道路がある。
その名は、都市計画道路3.4.8号 社内・上野本線。
市の資料(pdf)によると、同路線は全長2670mからなる、幅16mの堂々たる2車線道路であり、昭和28年5月4日に最初の都市計画決定を受けている。
全体の径路は、今回私が探索で辿ったルート(県道32号→県道72号)をほぼなぞっているが、小矢部橋を渡った先の東福町一帯は、ほぼ現道のない場所に計画されている。
この道路が「県道として」実現すれば、本レポートで取り上げたような“やべぇ線形”は、完全に解消されるだろう。
平成27(2015)年12月に公表された最新の「小矢部市都市計画マスタープラン(pdf)」によると、同路線は平成26年3月末現在で1413mが改良済(完成)しており、残りは1.2kmほどであるようだ。
そして、「道路整備の基本方針」に列挙されている項目に、「高速道路へのアクセス性の向上や近隣都市間との連携強化、市街地間の連絡性の向上を図るため、国道8号の4車線化などの整備促進、(都)社内上野本線を始めとした県道の整備等を促進する
」とあって、市は社内・上野本線を県道と認識したうえで、重点整備項目に挙げているのである。
事実、探索中にもこの数年以内に整備されたような区間を【見ている】。
そう遠くない将来、この県道の風景は大きく変化してしまうする可能性が高いような気もするが、一方で、半世紀も変わらなかった道路はそう簡単に変わらないような気もするのである。
はてさて、どうなるのでしょう?
一つだけはっきりといえることは、いつでも道は、街の変化の核心だということ。
より大勢が納得できる道を次代へ繋ぐことが、関係者の使命といえそうだ。気軽なことに、私のような険道マニヤの役割は、そこにはほとんどない。