道路レポート 富山県道72号坪野小矢部線 石動狭区 後編

所在地 富山県小矢部市
探索日 2018.11.13
公開日 2018.11.25

やったか?! (フラグ)


2018/11/13 11:34 《現在地》

衝撃的な激狭直角カーブを振り返る。

視界の左側に横たわっている大きな小矢部橋と、この足元にある激細の道路が同一の県道であることが、たまらなく愉快だ。
両者の間には数メートルの段差があるが、障害物はそれだけで、直上から見れば両者の路面はほぼ接触しているように見えるだろう。大縮尺の地図上に正確に表現すれば、そういう形にならざるを得ないはず。

なぜこのような奇妙な径路となったのか、ぜひ知りたいと思うわけだが、まだ探索は終わりではなく、本県道の狭隘区間はもう少し先がある。
まずはその終わりまで紹介しよう。



今までも狭い県道は山ほど走ってきたが、市街地でこんなに狭いと思ったのは、……初めてかも知れない。

県道らしい要素は皆無だ。
具体的には、白線とか、ヘキサとか、デリニエーターとか…。それらが全く見られないこの区間は、いよいよただの(狭い)街路にしか見えない。
どこかのお宅のオシャレなガレージが、鉄っ気で赤くなった小さな路面を見下ろしていた。

……県道72号、どんまい!




電柱よ、お前また……。

この道が数字としての道幅以上に窮屈さを感じさせる原因は、いくつかある。
一つは、道のすぐ際まで建物があること、そしてもう一つ最大の要因と思われるのは、電柱の存在だ。

ただでさえ狭いのに、沢山の電柱が路上に立っていて、邪魔。
しかも、右側へ行ったり左側へ行ったりするものだから、ここを車で走る場合、まるで自動車教習所の狭路コースみたいに、左右への微妙なハンドル操作が必要になろう。

このようなことも、先ほどの“激狭直角カーブ”を抜けられるドライバーには問題とはならないかも知れないが、実際この辺の電柱にも擦ってしまう車がいるようで、巻かれた保護具はかなり傷だらけだった…。



11:35 《現在地》

魔の直角カーブから70m進むと、左から1本の道が合流してきた。

そしてこの場面を境に、道はようやく息を吹き返す……と書くと、直前の沿道にお住まいの人には失礼かもしれないが、「行き止まりではない通り抜けが出来る道の雰囲気」が甦る。

ここで合流してくる道はただの市道だが、100mほど先で、さっき分かれたばかりの県道324号に繋がっているので、この道を利用すれば県道72号の最もヤバい区間を簡単に迂回出来る。
じゃあ迂回するね、となるのが普通の人。それを潔しとはしないのは、マニヤ。




丁字路を越えて振り返ると、やっぱりあった!

見覚えのある、
「この先直進通り抜け出来ません」 の看板が。

設置者は県の土木事務所であり、とても地味で消極的な表明の仕方ではあるが、ここが県道(というか県管理の道路)ということを示していた。
やはり、県道72号のこの区間――一つの直角カーブをもつ約100m区間――は、「通行止め」や「通行禁止」 ではないものの、「通り抜け出来ません」と案内される、“奇妙な区間”なのだ。

例えば、あの問題のカーブに対し、「最大幅1.5m」のような、大きな車は通れないことを示す規制標識を設置することも、道路管理者にはできるはずだが、敢えてそうせず、現状のような案内となっている理由は、調べてみたが分からなかった。



これで難関は突破だ。あとはもう出口へ走り抜けるだけ!
…なんていう甘い気分でいることは、1分も許されなかった。

丁字路を後に県道を走り始めると、50mほどの目と鼻の先で、これまで全く予告されていなかった「通行止め」が、突然現われたのだ。

「工事中につき通り抜けできません」と書かれた工事看板が出ており、明らかに工事のための通行止めだが、寝耳に水である。もしかしたら、前述した“迂回ルート”には何らかの予告があったのかも知れない。工事関係者も、県道を抜けてくる人はいないと思ったのかも。

よく見ると、工事区間直前の本当にギリギリの位置に、左へもう1本だけ脇道がある。そこへ逃げ込めばこの工事通行止めを回避できそうに見えるが、そうは問屋が卸さなかった。
道路標識の通り、ここを左折できるのは、軽車両と歩行者だけなのである。



そして愉快なことに、

県道72号は、左折である。

普通乗用車でも通行に困難を感じる区間をどうにか越したと思いきや、県道はここで突如 一方通行 となり、こちら側から自動車で辿ることはできないという!

だから、県道72号の全線を忠実に自動車で辿ろうとする試みは、起点から終点へ向けて行われねばならない。私のように終点からはじめてしまうと、ここで断念することになる。




なお、直進する工事中の道は、市道である。
現地にあった工事看板によると、市道島福町線というようだ。
(グーグルマップは、この道を県道として描いているが、誤りである。地理院地図やスーパーマップルデジタルが正解。)

仮にこの市道を進んだ場合は、約200m先で再びこの県道と合流する。
そのうえ、旧国道8号との平面交差という面倒な場面をショートカットできるので、先へ進むには普通に便利である。
つまり、この県道が一方通行であることで不便を感じている人は、実質的にほぼほぼ皆無(一方通行区間の沿道住人と、走り潰しを狙う県道マニヤくらい)であろう。



11:36 《現在地》

自転車であることをいいことに、規制と工事の目をかいくぐって左折する。

ここも例にもれず道が狭く、古き良き日本家屋の軒瓦すれすれを通り抜けるようになっている。
電柱はここでもショートカット許すまじと、路上に突出して意気軒昂の様を見せているうえ、誰かが親切心から取り付けたであろう手書きの「進入禁止」の張り紙が、幅を利かせていた。




角を曲がると、とても立派な瓦屋根をいただいた小さな地蔵堂が待ち受けていた。
部外の私には眺めて癒される以上の説明はくださらなかったが、この道が古くからあることや、この街区が経済的に豊かであったことなどを想像させる、アクセントであった。

チェンジ後の画像は、この丁字路を振り返って撮影した。
ここに限らず、県道72号の狭隘区間の周辺は、隣家と軒を連ねた瓦屋根の家構えと、道路に間口を向けた短冊状地割に特徴がある、いわゆる町家建築を留めている場所が多い。
これは、宿場町に典型的とされる風景であって、県道72号の来歴を物語るものでもあった。



一方通行区間を逆走方向へ走行中。

一方通行区間はごく短く、国道8号旧道に出るまでのたった130mしかない。
そしてその沿道で一番目立つのが、「皆来」という食堂の駐車場である。
写真左側の広いスペースがその駐車場であり、お店自体はここから少し歩いた、先ほど紹介した市道島福町線沿い(ここから50mほど)にあるのだが、駐車場に掲示されていた手書きの案内文が可愛らしかった。(↓)




「この坂道は一方通行です
 下りて来れるけど上がれません
 この駐車場を利用する場合
 旧8号線側からしか止められません」

土地鑑のないドライバーにとっては、なかなか魔宮の入口のようなところにある駐車場だけに、手を差し伸べようとする店主氏の優しさが嬉しい。
(ネットにある口コミ情報を見ると、「看板の辺りで曲がってみるものの発見できなかったのですが、大きな車ではすれ違いも難しい通りにありました」とか「知る人ぞ知るって場所にお店があります」とか、皆さんこの県道を楽しんでおられる模様)



11:37 《現在地》

県道72号の賑やかだった【終点】から、ちょうど2km。

短い中に、本当に【い】【ろ】【い】【ろ】ありましたが、一連の狭路区間もこれで終わりだ。

素通りを許さない存在感を纏って現われたのは、平成5(1993)年まで国道8号だった広い道。現在は県道42号になっている。
この探索の【スタート地点】も、この同じ国道8号旧道上であったわけで、なにやらいろいろ遊んで「帰ってきた」という印象だ。

どこかの目的地へ向かうためというよりも、ただ「県道を辿りたい」という目的のために走ったわけだが、「スタート地点」からここへ来るまでの“小さな移動”で、こんなに楽しい思いをしたことは自慢できる。私が道路趣味者だから、特に楽しかった感はあるけれども。



旧国道側から見る県道72号の入口は、こんな風になっていた。

まあ、普通は入ろうと思わないだろうな(笑)。
一方通行なので、道が狭いのはまだ良いとしても、“卒塔婆”も何もないので、そもそもここへ入ろうという動機づけが難しい。
そして交通の流れが段違いに早い旧国道側には、右折レーンも左折レーンもないため、減速して侵入する行為自体が少し危険である。今は交通量が減っているからまだいいが、国道8号だった時代は、入りづらかったと思う。

ただし、“卒塔婆”はなくても、これまで沿道で何度も見た県土木事務所の「この先幅員減少通行注意」の看板が、ここにもあった。
こいつがここで県道を感じさせる唯一のアイテムだ。
管理者サイドの微妙な告知加減が、なんだか面白い。
行政は誠実だから無視はできないけれど、目立たせたくはないんだろうな、ここが県道である事実。



なお、我らが県道72号は、これで終わりではない。
全長18.3kmあるこの主要地方道は、まだ9分の1ほどを終えただけであり、これから砺波平野を横断し砺波市坪野まで道は続いている。
というか、県道72号坪野小矢部線として専ら県民に認識され、利用されているのが、ここから先の区間である。今までの狭路区間は、あってないようなもの…。

県道72号は、旧国道8号である県道42号にぶつかると、50mだけ進行方向と逆走するように西進し、そこにある「石動大橋東詰」交差点を左折する。




石動大橋東詰交差点には、県道72号の“卒塔婆”が立っている。
しかし、旧国道の側に青看はない。

曲がってみると、「終点」以来久々に、この路線で2回目の遭遇となる“ヘキサ”が待っていた。
すぐ先で旧北陸本線の複線を潜り抜けて、あとは広大な平原へと道は解き放たれる。
ここからは2車線の真っ当な県道である。




オマケ編: 直線の延長にある、短い旧県道区間


地図を見ると、おそらくこの県道の旧道と思われる道が見つかった。
それは、今回のレポートの終着地点となった旧国道との合流地点の南側(図中の赤破線部分)である。

現在の県道72号は、旧国道の南側で大きく弓なりのカーブを描いているが、迂回せずにまっすぐ田園を貫く道が別に存在している。これが旧県道である。

旧道がいつまで県道だったかはっきりしたことは分からないが、県道自体の認定は昭和35年(当初の路線名は坪野石動線)であり、昭和43(1968)年の航空写真に現在のルートは見あたらず、昭和50年版に始めて登場しているので、この頃に切り替えられたのだと考えられる。

ここでは「オマケ」として、今回の本編で探索したような狭隘県道が、以前はもっと遙かに長く存在していたことが伺える、旧県道区間の探索を紹介したい。




旧県道は、さきほど辿り着いたばかりのこの地点から始まる。
右の道からやってきた県道72号が、旧国道をまっすぐ突っ切った先にある道が、昭和40年代までは県道だった。

現在のクランク状に屈曲した状況と比べて、路線のつながり方は遙かに自然であったことが分かる。
というかそもそも、旧国道自体がそこまで古い道ではないと思われる。
道としては県道が先にあって、後からできた国道にぶった切られたのだろう。(これは机上調査で確かめる)




問題の旧県道へ入ると、左側に地蔵寺というお寺があり、その影響からか、反対側の路傍に沢山の古碑や石仏が並んでいた。そこには富山県らしい巨大な墓石や忠魂碑もある。

チェンジ後の画像は古碑の一つで、【転迷開悟】迷いを転じて悟りを開くこと。の四字が大刻されていた。あわせて明治28年の刻字がみられる。あまり目にしない言葉なので目を惹いた。

このお寺の前までは、1.5車線くらいのありがちな道幅だったのだが…。



やっぱりこうなったか…(苦笑)

予想通り、旧北陸本線のガード下が鬼門になった。

先ほど、現県道の跨道橋をちょっと見たとき、ピンときたのだ。
たぶん、旧道の跨道橋が狭すぎて、それをなんとかするために、いち早く県道を付け替えたんじゃないかと。
どうやら、その読みはドンピシャだったっぽい。

現われたのは、とても狭く、高さも全く足りない、県道として活躍するには非常に厳しい跨道橋だった。
しかも近づいてみると、道路と水路が一つの跨道橋を上下に共有しているではないか!
跨道橋であると同時に、水路を渡る橋でもあったのだ。
これでは、高さが足りないからって、路面を掘り下げて無理矢理高くすることもできなかっただろう。



高さ制限2.0m」の規制が行われている、天井のとても低いガード下。
これより低いガード下も稀にあるが、都道府県道としてはもはや落第ものといっていい。
“険道”のハードルが滅茶苦茶に低かった昭和40年代であっても、これは真っ先に改善したくなるような交通上の障害だったと思われる。人が車に乗って移動するだけならばまだしも、物流のことを考えれば、このような高さ制限は大変な失点である。狭隘さ以上に問題は大きい。

上を跨いでいる旧北陸本線は複線で、高さは同じだが幅の異なる2本の跨道橋を連続して潜る。
奥の跨道橋が狭く、橋台が煉瓦造りだった。おそらく明治31(1898)年に北陸本線の金沢高岡間が単線で開業した当時の構造物であろう。

…最近、廃線跡の探索をしていないなぁ……なんてことを思いながら、しげしげと煉瓦の壁を見つめていると…。
きっ、 来たぞコレッ!!



いつもの エキストラ軽トラ、きた〜〜ww

ちょっとだけ遅いよ〜。
出来ればここじゃなく、【直角カーブ】で来て欲しかったって、読者もみんな言ってるよ。
さては、私を追いかけてきてくれたけど、道がややこしすぎて手こずったのかな?

…という冗談はさておき、2.0mの高さ制限は軽トラがやっとということがよく分かる写真が撮れた。
運転席のおばあちゃんは、もうこの道には慣れっこみたいで、全く減速せず駆け抜けていったが。




跨道橋の南側橋台に取り付けられていた橋梁銘板によると、この橋は「田川用水橋りょう」というらしい。
水路と道路が一つのガード下を共有していたが、名称の上では完全に水路橋だ。
明治期に北陸本線が開業した当初から、水路と道路が1本のガード下を共有していたものとみられる。

前述した通り、部分的に煉瓦が使われているこの橋台だが、銘板に刻まれていた竣工年は昭和35(1960)年というものであり、このときにコンクリートで橋台の補強および拡幅、さらに橋桁の更新が行われたようである。
昭和35年といえば、この道が県道の認定を受けた時期と重なるが、道路にとっては踏切よりも遙かに質(たち)の悪いこんな“立体交差”が、そのままの断面で更新された事実には、明治期から当時までの道路と鉄道の間における「<」な力関係が透けて見えるような気がした。



跨道橋を潜ると、まわりは田んぼになった。
石動という地方都市の市街地を脱出し、次のムラまでの道中へ遷ったという感じを受ける。

特筆すべきは、軽トラ向きと思える道幅の狭さである。
昭和40年代までは、このような道路が平然たる県道として、地方の町や村を結んでいたのだろう。
そんな状況の中では、私が今回の探索で私が目にした数々の驚くべき“険道”風景も、平凡なワンシーンでしかなかったのだろうと思えるのだ。

チェンジ後の画像は、田んぼの中の十字路に面して建つ二つの地蔵堂。
田んぼを突っ切る直線の農道でも、近年の土地改良事業で誕生したものではなさそうだ。




11:43 《現在地》

旧国道から450mほどで現県道とぶつかり、一連の旧道区間が終った。

いまから振り返ると、【小さなお堂】があったところが町場の端で、そこから田んぼを突っ切る直線道路がここまでずっと延びていた。
そしてこの直線は、ここから現県道へ引き継がれ、さらに1km以上先まで続いている。
昔はもっと沿道の家は少なく、冬は地吹雪に見失いかねないような心細い道であったと想像する。だからこそ、この沿道には点々と目印や避難場所になりそうなお堂があるのではと思った。

以上で、県道72号の現地探索を終える。




ミニ机上調査編 〜石動の町を貫く県道72号の正体〜


探索前日の夜に地図で見つけて「おいしそう」と思い、実際に現場を走って「おいしい!」と確信した、大いに険道マニヤの心をくすぐってくれた今回の県道であるが、その正体については……、
探索をする前からあからさまに分かっていた。

そう書けば、「うんうん」と頷いている人は多いだろうが、まだピンときていない方もいらっしゃることだろう。

今回の机上調査は簡単なものだが、ご覧いただきたい。




『小矢部土木事務所管内図』(1989年版)より転載。

まずは、今回探索した県道が、確かに県道だという証明から。

左図は、平成1(1989)年版と少し古いものだが、富山県小矢部土木事務所(現:高岡土木センター小矢部土木事務所)が発行した管内図である。

これを見ると、現在の県道72号のルートは、県道241号としてはっきりと描かれている。
路線番号がいまと違っているが、平成5年の主要地方道指定に合わせて路線番号が変わったのである(路線名は変わらず)。
縮尺の影響で、デフォルメされているというか、単純に角が取れてだいぶ真っ当な道(立体交差みたい)のように見えるが、確かに小矢部橋の東詰には奇妙な線形が描かれていることも確認できる。

今回探索した道は、確かに県道なのだ。
といったところで、いよいよ本題。
旧版地形図から、過去の姿を見てみよう。



昭和27(1952)年の地形図と現在の地理院地図を比較すると、県道72号の今回探索した区間の大半が、かつては“国道”であったことが分かる。
しかもこの国道というのは、昭和27年に一級国道8号に指定されたばかりの、押しも押されもしない北陸地方最大の幹線道路である。
現在の小矢部バイパスを通る一般国道8号から見れば、2代前の旧々道にあたるルートだ。

地形図の用意はないが、さらに時代を遡っても格式は微塵も揺るがない。
旧道路法下(大正9年〜昭和27年…いわゆる「大正国道」)国道11号線であったし、さらに古い国道表の時代(明治18年〜大正9年…いわゆる「明治国道」)国道20号線であった。わが国に「国道」と名のつくものが初めて誕生した明治9年に国道三等北陸道に列せられたのがこの道であり、近世の加賀藩が公道とした北国街道であり、古代律令制が定めた北陸道にまで由緒を辿りうる、まさに歴史の塊のような道である。

私は右図のような2枚の地形図を比較しただけではっきり調べたわけではないが、近世における北国街道の石動宿の景色を受け継いでいるのが、現在の県道72号の沿道随所に見られる町家建築なのであろうと思う。

ただし、県道72号がかつての国道8号を受け継いでいるのは、終点である商工会前交差点(小矢部市中央町)から、小矢部川を渡った先の東福町までである。
東福町以東の県道72号は、昭和27年の地形図には「町村道」として表現されており、旧道路法の時代までは国道でも県道でもなかったようだ。
その正体はよく分からないが、小矢部橋の位置に支点を置いた北西―南東方向の連絡路として、早い時期に登場した道だったと思う。
詳しいことをご存知の人は、どうかご一報ください。


右図は、前掲した新旧2枚の地形図の小矢部橋周辺を拡大したものだが、こうして比較してみると、小矢部橋の位置が少し変わっていることが分かるだろう。

この橋の架け替え伴って、県道72号の“激狭直角カーブ”が誕生したことが、はっきり分かる。


(←)昭和21年と昭和38年の航空写真を比較してみると、小矢部橋の変化は一層分かりやすい。

昭和21年の航空写真に写る小矢部橋が何代目の橋なのかは不明だ。ここに初めて橋が架けられたのは、北国街道時代の正保4(1647)年だといわれており、たいへん歴史が深い。もちろん木橋だったろうから、近代まで数十回は架け替えられたと思われる。近代以降では、明治16(1883)年12月に、これまた木橋が架け替えられた記録があるが、同じ橋が昭和21年まで存続していたとも思えない。

現在の小矢部橋へ架け替えられたのは、昭和36(1961)年のことである。参考(pdf)
そしてこのときは、単純に架け替えるだけではなく、大規模な河道の拡幅を伴う河川改修事業が行われた。
きっかけとなったのは、昭和28年と29年に相次いで起きた小矢部川の大水害であったようだ。

その結果、航空写真でもよく分かるとおり、左岸の西福町が大きく削られて河川敷に取り込まれた。
堤防や橋も高くなり、その影響から、橋の前後には長い坂道が必要になった。
このことが、小矢部橋の右岸、東福町側に【U字型の坂道】や“激狭直角カーブ”を誕生させた、直接の原因である。

架け替えられた小矢部橋の線形は、北陸交通の大動脈である一級国道として非常に無理があるように見えるが、この点には別の解決がなされていた。
それは、昭和31(1956)年に完成開通した石動大橋である。
国道8号はこの時点で小矢部橋を通らないルート(現在の旧国道)に変更されており、以後は生活道路に徹する未来が約束されていた小矢部橋には、1.5車線程度の道幅があれば十分で、両岸に直角カーブを配した悪線形でも、問題はないと判断されたのであろう。

以上述べたことが、推論も混ざってはいるが、ほぼ間違いないと思われる、小矢部橋の周辺に集中する県道72号の悪線形の由来である。
しかしもう一歩踏み込んで、このような悪線形の道路を、なぜ富山県が昭和35年に県道の認定を与えたかは、不明である。
普通に考えれば、わざわざ(当時の)旧国道を県道に指定する必然性はなく、石動と砺波方面を結ぶ県道が必要だとしても、石動大橋東詰の国道上に起点や終点を置けば良さそうである。そうすれば、“激狭直角カーブ”も“一方通行区間”も、県道になることはなかった。
これについては、旧国道の沿線を廃れさせたくないという地元関係者の要望があったことも想像されるが、実際問題、県道に認定されてから半世紀以上経っても“こんな状況”なのである。県道指定に実効があったかは甚だ疑問である。(結果論だが)


ミニコーナー: 小矢部川の両岸に分かれた「福町村」

昭和30年代の河川改修によって川幅が倍増する前の小矢部川は、対岸がずいぶんと近かったようだ。
現在は川を挟んで小矢部市の西福町と東福町が向かい合っているが、昭和41年に町名が分けられる以前、一つの大字「福町」を形成していた。
さらに遡ると、明治22年の町村制施行によって石動町の大字となる以前、いわゆる近世村としての福町村があった。
いまほど川幅が広くなかったとはいえ、それでも富山県の7大河川に数えられる小矢部川である。その両岸が、江戸時代には既に一村だったというのは、驚きだ。
前述したとおり、架橋が早くなされたという事情もあるだろうが、村と川の心理的な距離の近さにも起因すると思われる。

実際、福町村の歴史を『角川日本地名辞典』で調べてみると…

当地は浅瀬伝いに小矢部川を徒渉できる場所であったため,加賀藩の成立に伴い,高岡・富山・江戸への往還が繁くなるにつれて,舟渡しが必要となり,藩として慶長11年に渡守を置くことにした。次第に町場として形成され,寛永19年に近くに藩米を収納するために,藩倉小矢部御蔵を設置した。しかし,舟渡しだけで陸路交通が不便であったので,正保年間頃に小矢部橋を架け,その近くに波止場を設けた。その後,長舟を使って,藩米を伏木・吉久の御蔵の方へ川下げした。そして戻り荷として塩・大豆・肥料・日用物資などを,伏木・高岡方面から運んできた。また,旅客を運ぶ乗合舟もあって,高岡の木町との間を往復した。こうして,明治31年の国鉄北陸本線開通の頃まで,休み茶屋・飲食店・宿屋・商家などが建ち並んでにぎわった。

…云々とあって、ここが水陸交通の結節点として、極めて川との結びつきの濃い土地柄であったことがわかる。
それだけに、川を徹底的に障害物としてのみ扱う現代の道路行政とは、多少馴染まなかったことも想像しうる。
「ぽっと出の県道なんて、うちの町内には認めてやるもんか!」
そんな住民感情を空想して、県道の現状と結びつけるのは、さすがに飛躍があると思うが、想像としてはなかなか楽しい。



最後は、未来の話をしよう。

右図は、小矢部市が平成26(2014)年に公表した「都市計画用途地域計画図」であるが、ここに同市が都市計画事業で整備しようとしている道路網(都市計画道路)が掲載されている。そしてこの中に、現在の県道72号と路線の大部分が重複する1本の都市計画道路がある。

その名は、都市計画道路3.4.8号 社内・上野本線
市の資料(pdf)によると、同路線は全長2670mからなる、幅16mの堂々たる2車線道路であり、昭和28年5月4日に最初の都市計画決定を受けている。
全体の径路は、今回私が探索で辿ったルート(県道32号→県道72号)をほぼなぞっているが、小矢部橋を渡った先の東福町一帯は、ほぼ現道のない場所に計画されている。
この道路が「県道として」実現すれば、本レポートで取り上げたような“やべぇ線形”は、完全に解消されるだろう。

平成27(2015)年12月に公表された最新の「小矢部市都市計画マスタープラン(pdf)」によると、同路線は平成26年3月末現在で1413mが改良済(完成)しており、残りは1.2kmほどであるようだ。
そして、「道路整備の基本方針」に列挙されている項目に、「高速道路へのアクセス性の向上や近隣都市間との連携強化、市街地間の連絡性の向上を図るため、国道8号の4車線化などの整備促進、(都)社内上野本線を始めとした県道の整備等を促進する」とあって、市は社内・上野本線を県道と認識したうえで、重点整備項目に挙げているのである。

事実、探索中にもこの数年以内に整備されたような区間を【見ている】
そう遠くない将来、この県道の風景は大きく変化してしまうする可能性が高いような気もするが、一方で、半世紀も変わらなかった道路はそう簡単に変わらないような気もするのである。
はてさて、どうなるのでしょう?
一つだけはっきりといえることは、いつでも道は、街の変化の核心だということ。
より大勢が納得できる道を次代へ繋ぐことが、関係者の使命といえそうだ。気軽なことに、私のような険道マニヤの役割は、そこにはほとんどない。