牛岳車道 (延長部) 最終回

公開日 2010.3.29
探索日 2009.4.29

※この画像は縦にスクロール出来ます。

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「牛岳車道」として長く続いたレポートも、今回で終わりである。

命も危うい危険なシーンがあったり、時間に追われてヒーヒー言ったりするのがこれまでの“最終回”の常であったように思うが、「利賀村へ辿り着きたい」という旅の目的が成就されんとする今回は、おそらくこのレポートでも最も平和な回となるだろう。

右の地図を縦にスクロールさせて見てもらいたいが、利賀村の旧役場(現在は南砺市の「利賀行政センター」)のすぐ近くにある「利賀小学校・利賀中学校」を目指している。

そこは国道471号(及びその旧道)の利賀村内における最高地点:海抜650m(ちなみに現在地は598mで、ここまでの最高所である「犬の糞尾根」は約630mだった)であると同時に、次なるステージ(利賀村の百瀬川側(栃折峠のある))への引き継ぎの地点だ。


…それでは、まったり行ってみよう!


いま、利賀村が君に開かれる!




明るい秘境村とその暮らし


2009/4/29 11:49 

利賀ダムを見下ろす展望台を出発し、これまでの険しさが形を潜めた山腹のトラバースを再開する。

これから利賀村中心部までの距離は5.1kmで、その間の高低差はダウン50mだ。
これは至って楽な行程と予想された。




出発して間もなく、押場集落跡で出会った青看の表と裏。(→)

この、行き先が「利賀」しかない青看を見るのは二度目か三度目か…。
レポに登場しているのは二度目だと思うが、書かれている数字は見違えるほど小さくなっている。
それにしても、「酷道」と呼ばれることはあってもちゃんとした国道なのに、その行き先表示が一つだけというのはなんだか新鮮だ。

利賀が近くなった一方で、当然のことながら、振り返り見る数字はヒトケタ増えている。





あ、 ムラ来た。



なんか、意外に普通っぽいぞ。




沿道二つめの(有人)集落となる、北豆谷(きたまめだに)。
高沼集落との間は約6kmも離れている。
また、次の大字となる大豆谷の集落と接しており、事実近世までは大豆谷(おおまめだん)という一村であったという。
両大字で一群の集落を形成し、地形図を見ると30軒ほどの建物が国道を中心として、海抜600m前後の東向き斜面に点在している。 

写真は集落の入口に近いところにあったバス停。

立派な待合室には、過疎村の悲哀に満ちた「乗って残そう」系の標語が…。

省エネとマイカー自粛 廃止とならないうちに あなたも わたしも 乗って残そうみんなのバス 利賀村営バス

ちなみに時刻表も見てみたが、痛々しいほど白かった。

井波行き(国道471号を通って砺波方面へ向かう路線)は朝昼2回、反対は昼夕2回、合計一日2往復。

…人口900人の“交通涵養力”の限界を見る気がした…。




これ、なんだ?

【拡大写真】

↑を見ると分かるが、平成2年建立の新碑で、題目は「創業百周年記念」とある。
題字は「艾之碑」(よもぎのひ?)。

しかもこの碑の揮毫者は「建設大臣 綿貫民輔」とある。
井波町(現在は利賀村と共に南砺市)出身の綿貫民輔氏は富山県議会議員を経て中央政界入りし、国土庁長官や建設大臣、衆議院議長などを歴任。自民党の重鎮として知られた人物。
彼と利賀村との結びつきは案外に深いらしく、利賀ダム建設促進期成同盟会会長であったり、“そば”を使った村おこしの推進者であったりしている(利賀ダムが採択されたのも彼の力量あってこそか)。
だが、国民新党を結成して望んだ第45回衆議院議員総選挙(平成21年)には落選し、政界引退を示唆しているともいわれる。

この碑の裏面には、「創業明治二十四年」の文字がある。
これは牛岳車道が開通した翌年である。

(10032901)

これが何の碑なのかがその場では分からなかった(近くに案外人が居なくて聞けなかった…)が、今考えると、艾(よもぎ)は近世にかけての五箇山地域の主要産物である塩硝(煙硝)の材料となる草である。
明治24年当時も塩硝が盛んに作られていたかは確信が持てないが、地域振興には関係の深い記念碑と思われる。


(10032902)

上記の追記は誤りでした。「艾」は「よもぎ」とも読むけど、「もぐさ」とも読む。
モグサはヨモギを乾燥させたもので、漢方薬や主にお灸に使われている。
そして、この利賀村はこのモグサの日本有数の産地であったらしい。

モグサの研究(11)産地について(2)」(全日本鍼灸学会雑誌49巻2号より) に、
利賀村の「野原もぐさ」は昭和の末に廃業したが、その創業は明治中期だったという(野原信高氏)。
その頃利賀村では10軒以上の農家が副業にモグサを製造していた。

とあるのだが、この文中の野原信高氏は、「艾之碑」の裏面に「三代目野原信高」とある人物のことだろう。
つまりこの碑は、かつて利賀がモグサの産地として栄えたことの記念碑である。
(近世までに塩硝の産地としてヨモギと親しい関係にあったことが、その別利用法となるモグサに至ったことは想像に難くない。) 

情報教示:2ちゃんねる有志の方




国道の下に、もう一本集落道が存在している。
旧道ではないらしい。





集落のずっと向こうの利賀川谷底には、利賀ダムの工事現場が白々しい人工斜面を晒している。
【工事用道路計画図】と見較べると、現在地がどこか分かる。

この撮影当時、「3号トンネル」はまだ着手されていなかったようだ。
いつかあそこに国道471号の標識が立つ日が来るのだろうか。




浅い堀割を抜けると、大字大豆谷に属する大豆谷集落に入る。

写真はその堀割を振り返って撮影したもので、左奥の利賀郵便局や正面奥の八幡神社がちょうど大字境の上にある。

この郵便局の建物は、集落内ではダントツに大きく立派な建物である。
普通ならばそれだけで終わるところだが、昭和40年代まで冬期間の交通を献身的に支えた逓信隊員(郵便局員)の苦労を知る者として(詳細は栃折隧道のレポートで)、このくらいの“お城”は許せるような気がする。

…もっとも、許すのは私ではなく住人であるわけだが、彼らの中には今も郵便局に対する感謝が続いている気がした。ただ大きいだけじゃない綺麗な建物なのだ。(ちなみに私も郵便局には親しみを感じる一人だ。…何となくだが。)





(←) この道は、よそ見471(しない)
  無理471(しない)
     みんなの利賀ダム建設

なんか本当にこの利賀村は全村挙げてダムを歓迎しているような感じを受ける。
もちろんそんなことはないはずだが、でもこんな標語が村の大通りに出ているくらいなのだ、賛成派が多いことは容易に想像できる。

(→)
2台目の自動販売機と、少年を発見!!

その彼は、いま自転車のタイヤに空気を補充している最中だった。

これから私も彼の通う学校に行くことになるわけだが、こことの高低差は80mくらいもある。
彼らの脚力は相当のものがありそうだ。




平成六年五月建立
史跡きたろ
           勲四等 野原啓蔵 謹書

野原敬蔵氏は、利賀村の第28〜30代の村長を務め、村の観光化に尽力した人物である(らしい)。
それ以上のことは残念ながら私は知らないが、がそれ以上に分からないのは、「史跡きたろ」である。

ググっても全然ヒットしねぇし、どうなってるの!

なんなの! 「きたろ」って!

確かに“来た”けどさ…。




大豆谷集落はぐんぐん先細り、最後の山岳区間が始まる。

とはいえ、もう先ほどまでのような険阻な雰囲気はない。
ほとんどアップダウンもなく、淡々とした感じで道は続いている。

なお、村を出かかった辺りでいやにこじんまり&小綺麗な斎場があった。
商店こそ少ないけど、人生に関わる施設は一通り備えているようである。





何の変哲もない、でも少しだけ大回りのカーブ。




防火栓がポツンと立っている。




別に曲がりきれなかった訳じゃないのよ。


ただ、地下水槽の蓋らしきコンクリートブロックと、ブルの轍が誘う視線の先に…、





えらく小さい、隧道がありやがった…!


え? まだ何かあるの?

が気になるって?



別に気にならないだろ……。




ayasi

それはさっき見た防火栓でしょ。


……。



なんかあるな…。

上写真中の怪しいと思った部分を、クリックしてみてください。





実は偶然に隧道を見つけた訳じゃなく、これも今回の主要な調査目標であった。

ただ「牛岳車道」(とその延長線)とは由来の少し異なる物件なので、今回は端折る。


この“穴”さえ除けば、道は至ってすんなりと終着の地「利賀村」へ接近していった。




いよいよ村の中心部。
明らかにこれまでの小集落とは格が違う、緩斜面の大きな広がりが感じられる地形。

山村というよりはむしろ、高原村とでもいいたくなるような空の広さである。

そして、そこに朝「道の駅」を出発して以来、ほぼ半日ぶりとなる信号機のある交差点が見えた。
その交差点の角には、これまでで一番大きな村の建物が見えていた。

いかにもといったその佇まいは…、もうお分かりですね?




13:04 《現在地》

おそらく村唯一の信号機のある交差点は、国道471号(左折)と、ダム工事用道路(将来の国道471号バイパス…右折)と、県道34号「利賀河合線」(直進)が交差している。

そして、南西角にある村で2番目に大きな建物(たぶん)は、これまで何度も名前の出ている旧利賀村役場「南砺市利賀行政センター」だ。

なお、この利賀村中心部一角の大字は「利賀」ではなく「利賀村」という。面白いのは、平成16年の南砺市合併以前は利賀村(大字)「利賀」だったものが、合併後に敢えて「村」の一字を付け加えて「利賀村」という大字を名乗るようになったことだ。
数百年も名乗り続けた「村」への愛着の深さを感じさせるエピソードといえるのではないだろうか。




役場と、その前に立つ「野原清治翁之像」。

この恰幅が良く胸に多数の勲章を付けた野原清治氏は、“きたろ?”の村長の先代の村長。すなわち、第25〜26代村長を歴任した人物である。

彼については、東京都武蔵野市との間に姉妹都市盟約を結び、両市村の子供たちを中心とした交流事業を進めた業績をネット上で拾うことが出来た。
また、昭和42年〜50年という彼の任期中には、今回紹介した道が村道脇谷線の建設(昭和45年完成)を経て近代的な道路へと生まれ変わっているし、再三の陳情によって防雪設備を整え、冬期間の通行を可能としている(昭和46年から)。

彼は政治力で村の交通事情を劇的に改善した立役者なのだろう。
手の届かぬほど高い像なのにとても良く磨かれ、周囲の芝生も花壇も整っていた。
それは、ありがちな先代村長像の放置プレーではなかった。 (思いつきで彼を「昭和の三島通庸」なんて書いたら、利賀の人は怒るかも)




すいーっ。

って、これはどうでも良いんだが、次に紹介するのはちょっと凄い。


今までの利賀村のキーワード(なんでしょうね?)を象徴する施設を見つけてしまった。

難しいと思うので、次の内から選んでみましょうか?

 @ ガソリンスタンド
 A 道の駅
 B ねことマタタビの郷

さあ、どれだ?




答えは、これです。

これ!→


って、これは正気か?!


いや、今のは失言。

でも、このスロープは……。

ちょっと、車椅子とかで登るのはうんざりするんじゃないか…。

もちろん、無いよりは全然優しいわけだが…。
こんなに激しい“九十九折りスロープ”は見たことがないぞて!




なんか、緩やかかつ鋭角な九十九折りの重なりは、水平感覚を麻痺させる眺めだ。
どこか「エッシャーのだまし絵」を彷彿とさせないだろうか。

しかも、山村にいることをしばし忘れさせるようなコンクリート一色の建物前通路全体。
その向こうの国道敷きも合わせれば、ほんと都心以上に緑が少ない気がする。

一応このスロープは現役らしく、使えることは使えるようだが、見た感じで使われている痕跡はない。
自転車で通ってみたい気もしたが、不謹慎と思い自重した。
そもそも、このスロープの主である施設にちゃんと用事があって私は登ってきたのだ。

そう、まだこの施設が何なのかの答え合わせをしていなかった。


答えは…





C 道の資料館




最後の最後まで驚かせてくれたよ、利賀は。

なんで人口900人足らずの村に、ほとんど村人以外が興味を持ちそうもない「道の資料館」なんてものがあるのかってことだよ。

しかも入ろうとしたら、有料だというじゃないか。
別にそれはいいんだが、受付の話し好きそうなおばちゃんが、「道路のことはあまり展示してないよ」と言うじゃないか(笑)。
縄文から今日までの村の営みや歳時記が主な展示内容だと言うのは、一般的な郷土資料館と何も違わない気がしたが、親切すぎるおばちゃんに免じてつっこまないことにした。

むしろ、展示内容が異なっていた落胆は、数分でものの見事に解消されたしまった。
なぜなら、このおばちゃんが利賀村民を代表して(?)、道路への熱い想いを語ってくれたからだ。



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【「道の資料館」管理人証言の抜粋】

村の道は不便で、自分たちの世代はみんな苦労してきた。

昔は庄川沿いの平村(現在の国道156号)より利賀村のほうが全然道は良かったが、戦後は向こうばかりどんどん整備されて追い越されてしまった。
こちら(つまり私の通ってきた道)も平成に入ってやっと国道に昇格して徐々に改良されてきてはいるが、まだまだ隣(平村のこと)にはかなわない。

でも、今やっている利賀ダムの工事が完成すれば、国道156号への近道が出来る。
そうすれば隣よりも便利になるし、村にもお客さんがもっと来てくれるようになる。

でもダムの工事は予定よりも随分と遅れていて、自分たちの世代には出来ないのではないかと不安に思っている。


話の節々に滲み出ていたのは、同じ南砺市に合併した隣村の平(たいら)村への、熱烈なライバル意識だ。
とくに交通と、それに関わってくる観光誘致の問題に関しては、強く意識しているのが感じられた。

交通改善こそが、村を生かす唯一の道と考えているように私には見えた。

「利賀村誌」も、はっきりこう書いている。

戦後の利賀村の行政においては、いつの時代も道路整備が最重点の課題であった。


「誇大妄想狂」と評された、
昭和20年代の大森林鉄道計画(構想)。

しかもこのページの見出しは、「誇大妄想狂」といういささか衝撃的なものだ。

戦後まもなく利賀村が全村を循環する森林鉄道の構想を立て、大阪営林局に誓願したが全く却下された話や、その次に現在のダム工事用道路に匹敵するような大トンネルの構想を富山県にぶつけたが全く無視された話などが書かれている。そのページのタイトルである。
つまり、村の為政者が小村の身の程を弁えない遠大な交通計画を立て、いつも罵られたことを皮肉に書いているのだ。

この村誌の交通に係わる細かさには、最初から少し狂気じみたものを感じたが、それは思い過ごしではなかったらしい。

麓から20kmも奥まった山村、かつ全国有数の豪雪地。

部外者にとっては絶望的とも思える悪条件が、外界との連絡を担う道路への希求の原点にあることは間違いない。
そして、この村の人々に車道の利便性を強く印象づけた最初の存在が、「牛岳車道」であったのだろう。

今なお村の随所には、道路が出来た喜びや感謝の気持ちが碑や建物として残っているし、『利賀村誌』が示すとおり、それを未来へ受け継ごうとする意志も明瞭だ。
利賀村の道路の物量は決して多くないが、道路好きにとっては物心両面の聖地かも知れない。




最後に国道から分かれて旧国道に入り、峠の傍の「利賀小・中学校」へと向かった。

上の二枚の写真は、いずれもその途中から撮影したものだ。

海抜650mに位置する利賀村唯一の学校は、村人全員を優に収容できるのではないかというほどの、間違いなく村一番の巨大建造物だった。

背景の山は、利賀のもうひとつの顔である百瀬川地区を隔てる楢尾峠の稜線だ。
ここにも国道471号がまだ県道だった時代の新旧トンネルが存在している。




13:38 《現在地》

学校裏手の旧楢尾隧道が見えてきたところで、このレポートは終了である。

結局、庄川から利賀川沿いを遡ってこの利賀村地区の最高地点に辿り着くまでの半日、約20kmの道のりの中で、幾つもの分岐する廃道や廃隧道たちを目撃した。
そのうちの一部は既に探索を終え、一部は今後の課題となっている。

・栗当で見つけた、小牧ダム(双竜湖)に架かる吊り橋跡。

・栗当の対岸に見えた、西岸林道の廃道区間。

・脇谷で出会った、県道59号の不通区間。

・大豆谷地区の国道端にあった廃隧道(2本)。

・目の前に見えている旧楢尾隧道。


利賀はいま、私にとっての「廃道パラダイス」の様相を呈している。