隧道レポート “浅河原断崖の隧道”捜索作戦 前編

所在地 新潟県十日町市
探索日 2024.03.23
公開日 2024.05.04

《周辺地図(マピオン)》

2023年5月、足立区在住の高橋さまから、彼が子供のころ探検したという素掘りの小さな隧道について調査依頼が寄せられた。場所は、日本屈指の豪雪地として、また新潟県産コシヒカリの産地として有名な、新潟県十日町市である。
情報提供メールの内容は、以下の通り。

高橋氏からの情報提供メール(抜粋)

足立区在住の高橋と申します。母の実家が新潟県十日市町にありまして、私が子供の頃に素堀の小さい隧道を探検した記憶が有ります。
十日市町橋の北詰に、信濃川の河岸段丘の崖がありますが、そこの中段、つづら折りに隧道は有りました。昭和53年頃の話です。下は雪止め?の擁壁で通れませんでした。

5年ぐらい前にも行きましたが、崖の崩れ止めにモルタルの吹き付け施工されて、何となく道が分かる程度に残っています。道の始点の崖上の立木が目印です。今は危険防止のため崖の上に手摺が有ります。
隧道自体は、ほんの数メートルで、道も河岸段丘の崖を降りるだけの物だけの短いですが、いかがでしょうか。



河岸段丘の崖の九十九折りにある、数メートルの小さな素掘り隧道?!

十日町橋なら何度も車で通ったことがあるが、そんな隧道は知らないぞ! 知ってる人いるか?!

情報によると、隧道は昭和53年頃の時点では通れる状態で存在しており、5年くらい前(令和元年頃?)の時点では、隧道の現存は不明ながら、隧道へ通じる崖の道形はなんとなく分かる程度に残っているとのこと。

場所は、十日町橋の北詰の河岸段丘の崖であることが明示されていたので、新旧の地形図を確認してみたが、隧道を描いたものは見つからなかった。
凄く短いらしいので、そのせいであろうか。
一応、昭和28(1953)年版には、この河岸段丘の崖(土崖の記号が連なっている)を横切って十日町橋北詰近くに降りる徒歩道が1本描かれているので、この道に短い隧道があったのだろうか。
なお、現在の地理院地図からはこの徒歩道自体抹消されている。




だが、最近よく使っている、全国地価マップの大縮尺地図を確認したところ、超怪しい道が発見された!

十日町橋の北詰にある浅河原という交差点から河岸段丘崖に突入していく、おそらく歩道程度の激狭の道(青色の道は公道全般を示すようだ)が描かれており、その先は崖の中腹で唐突に途切れているものの、まるでその九十九折りの頂点に隧道があったかのような空隙を置いて、その先再び同じ幅の道が登場し、崖上の耕地を通る別の道に繋がっているように描かれていた!

位置的にも、状況的にも、高橋氏の証言に強く合致している。
きっとここだという確信めいたものがあった。

なお、軽く検索してみたが、ネット上には情報は見当らず。
また、以前別の調査で入手していた『十日町市史』にも目を通したが、この隧道や道に関する情報は記載がなかった。

文献資料のないところに忽然と現れた、少年が体験した隧道。
これまた、冒険少年の隧道探検譚に端を発した探索となる。
いつの時代も少年は、隧道を探検して初めて大人になるものだ。
見た目はオジサン、頭脳もオジサンのヨッキれんも、少年の思い出の隧道を追体験してみたい。

現地探索を2024年3月23日、翌日の都内開催『廃道の日7』への移動の最中に寄り道して行った。


 この断崖絶壁に、道と隧道があった?!


2024/3/23 10:36 《現在地》

国道253号浅河原交差点。
かつての激闘の地、八箇峠を西に下って、十日町の中心市街地を横断、すぐに信濃川を十日町橋で渡ると、突き当たりの丁字路がここだ。
まさに、突き当たる。

大絶壁だ。

信濃川中流部の河岸段丘地形の顕著さは、少年たちの教科書でも全国にお馴染みだが、段丘“崖”に立ち向かうことの困難を肌身に感じるのは現地民だけである。
この段急崖は、実に40〜50mあるほぼ垂直の比高を有し、まるでもう1本信濃川が流れているかのように上下の土地を隔てている。
その隔絶に立ち向かったのが、今回の調査対象となる道だと思われるが、この崖は……。

そもそも、ここがこれほど険しいという印象を持ったのは、今回が初めてだった。
以前もこの交差点を通って景色をチラッとは見ていたが、草が茂っている季節だとここまで険しい印象は受けないのである。
廃道を発見するという意味では、夏より今が適しているのは間違いないが、残雪というか、まだ普通に冬の雪が豊富にあり、近年少雪の傾向があるとはいえ、やはり豪雪地十日町だ。
ちょっとここを攀じ登ってどうこうできる状況なのか、いきなり不安な第一接触の眺めであった。



ちょうど突き当たりの崖のてっぺんに、とても目立つ木立の一角があった。

もしかして、この木立のことか、情報提供メールにあった……
「崖の崩れ止めにモルタルの吹き付け施工されて、何となく道が分かる程度に残っています。道の始点の崖上の立木が目印です。」
……というのは。

崖全体を執拗に覆っている四角い枠の模様は、法枠工(のりわくこう)というオーソドックスな治山施工である。
こんなに覆われていては、隧道どころではない気がするが、なんとなく道が分かるというのは、どういうことだ……。




なんとなく道が分かるぞ〜〜。

本当になんとなくだが、言われてみれば、法枠工の斜面を斜めに横断するようなラインが、断続的に見える。

もっとも、道があったという前提でなければ、ただの地形との区別は出来ないかと思う。

というか、“高橋少年”はかつてこんな崖に突撃を……。ガチオブローダーを越えて、高所土木作業員かよ…。


って、おい!

崖の下に交差点から入っていく小道があり、その先には、

まるで地下へ通じていそうな鉄の扉があるじゃないか?!

早くも隧道発見したか?!?!



ただ、ちょっと違和感がある。

探索前にチェックしてきた全国地価マップの地図だと、私が隧道擬定地へ通じているのではないかと考えた小道は、もう少し南側である。隧道擬定地自体も、もっと南だ。

“扉”へ通じる小道の入口は、地図通りだと思うが、“扉”のもっと先まで小道が延びていて、そこが隧道擬定地である。

実際の景色と照らし合わせると……(↓)。



もっとあっちの方が、本来の擬定地ではないかという疑惑が。

地形的には、いずれにしても相当ヤバイ。
思いつきでなんとなく踏み込んで目的を達成できる感じはしない。
さあ、どうしようかな。

ま、まずは……



まずは、不気味な存在感を醸し出している、あの扉だ。
近くまで行ってみよう。

今回は、自転車を活躍させる場面が無さそうだったので、近くに車を止めて歩いて行動を開始。



ひっきりなしに車が行き交う浅河原交差点から、膝まで埋まる積雪が全く避けられていない小道へ進入。

夏場は草に埋れていそうだが、全国地価マップでは細い公道として表現されていたように(市道だったか?)、確かに道形がある。
そして道は問題の扉へと通じている。
なお、最新の情報であろう十日町市公開地理情報システムで市道を表示しても、ここに道はないことになっている。現在は廃道済の可能性大だ。



10:40 《現在地》

小道は、鉄の扉の前で終わっている。
地価マップの地図では続いているように描かれているが、そこには国道の法面と一体化した治山の擁壁があり、踏み込める余地はない。
無理矢理上を乗り越えることは出来るかもだが、擁壁の先に道の続きが直ちに再開している感じでもない。

鉄の扉は、閂が掛っていたが施錠はなく、相当力を使ったが開けることが出来た。
普通の隧道に扉があるのは考えづらいが、雪中隧道のようなものであれば、可能性があるかも知れない。
せっかく開いたので、内部を確認する。



内部は、極めて複雑であった。
基本的に人道の規模であるが、分岐とアップダウンとらせん構造が錯綜しており、この狭い洞内にどうして運び込めたか分からない巨大な鉄檻があったりした。
まだ、水没している領域もあった。まるで川砂利の中に掘られたような内壁が印象的な穴だった。

後ほど、この穴の正体を語る人物に出会えるのだが、結論を言うと、これは農作物などを蓄えるための倉庫として掘られた穴だという。
隧道ではないことがはっきりしたので、これ以上の言及はしない。
実際、どこにも抜けてはいなかった。

地上へ戻ったが、小道はこれ以上進めないので、少し場所を変えて仕切り直しする。



10:50 《現在地》

ここは浅河原交差点から120m南へ国道を移動した地点。
セメント工場入口の広場から、浅河原交差点方向の段丘崖を撮影した。
先ほど注目した“目印の木立”や、“名残の道形”らしきものがここからも見えるが、当初考えていた隧道擬定地はもっとこちら寄りであるので、移動してきた。

チェンジ後の画像のピンク色の枠の辺りを、望遠で覗いてみると……。



明瞭な道形が!

位置的に、これこそが地価マップに描かれている小道であるに違いない。

ならば、このラインを左に辿っていった先に、探し求める隧道が……あるはずっ!



あそこだ!

穴の存在は確認できないが、見えにくい部分に残っているかも知れないッ!

さすがにここからだと、確認できないな。

咄嗟にドローンを使用して確認することも考えたが、せっかく来たんでそれは最後の手段だ。自分の足で答え合わせをする贅沢をまずは選ぼう。

それにしても、崖の途中で露骨にブツッと道形が終わっているが、

まさかあそこから隧道が始まって……



こんな風に、隧道内で切り返して降りてくるとは、これはちょっと想像できないな。

情報提供がなければ、探そうとも思わなかったろう。

ただ、やはり相当に地形は変化してしまっているようで、全国地価マップには描かれている下段側の道は、全く跡形もなく法枠工に呑まれてしまっているようである。
下の方は人工的な盛土になっていて、この一帯で旧跡を見出すことは無理だろうな。
崖の下半分は、探索という意味では絶望的な状況といえる。



隧道、とくに下段側の坑口の現存は絶望的と思われたが、間近に寄って確かめないと納得が出来ないので、頑張ってみた。
国道を横断し、落石防護壁の隙間から山手に入り、まるで崖錐のように積まれた盛土の斜面を登った。
積雪していて苦戦が予想されたが、工事用の通路の名残があって、意外に簡単に目的地まで行けた。
むしろ夏場は藪で大変かも知れない。



10:53 《現在地》

崖の中段にある人工的な平場へ到達。

何かがある感じはしないな……。これより下は原地形が埋没していて、そこにあった道も失われている。
道の先に隧道の下側坑口があったと思われ、おそらくその位置は平場よりも高いと思うが、地価マップの道の末端がある辺りを見上げてみても……(↓)



穴も、その名残らしい凹みも、道形さえも、見当らない。

大きな崩壊があってから、法枠工で固められたのかも知れない。
上の方の道形が意外に鮮明に残っていたのとは対照的に、痕跡がまったくない。
多少雪が邪魔をしているが、穴を隠すほどの積雪ではないので、下側の坑口は現存しないと断定して良いだろう。
情報提供者が体験した昭和53年当時でも、「下は雪止め?の擁壁で通れませんでした」とあったから、当時でさえまともには開口していなかった可能性がある。

下側での探索はここまでだ。

もう一度、仕切り直しだ。



くっ!! 自転車がッ!!!




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