隧道レポート 旧山古志村の東隧道 前編

所在地 新潟県長岡市
探索日 2011.5.16
公開日 2011.5.22

このレポートは、当サイトが山古志(やまこし)を採り上げる最初のものとなるので、ここで少しだけこの山古志という“オブローダーにとって興味深い地域”の概要を説明しておこうと思う。

山古志を端的に言えば、昭和31年から平成17年まで存在していた新潟県古志(こし)郡山古志村の事であり、現在は長岡市の山古志地区と呼ばれている。
ただし歴史的に見ると、山古志村の地域だけが元々「山古志」と名付けられていた訳ではなく、右図に緑色で示した旧山古志村の範囲の南側に接する小千谷市、旧川口町(現長岡市)、旧堀之内町(現魚沼市)、旧広神村(現魚沼市)のそれぞれ一部地域もともに古志郡に含まれ、山古志の総称の中にあった。
ようするに、旧来の山古志地域(主要な村が20あったことから山古志二十村ともいった)の北側2/3ほどが、最近の山古志村の地域であった。
しかし以後のレポートでは特に注釈しない限り、単に山古志といえば旧山古志村の範囲を指すことにする。

右の地図を見て貰えば明らかだが、さすが“山”古志というだけあって、村域は全て魚沼丘陵(越後丘陵とも)の標高200〜600m程度の山岳地帯にあり、しかも全国有数の豪雪地帯である。
村の広さは約40平方キロ(東京都江東区とほぼ同じ広さ)で、そこに合併直前おおよそ2000人が暮らしていた(江東区人口の約1/230)。
名産品としての錦鯉や伝統行事の「牛の角突き」はそれなりに有名であったが、この純山村の名前を全国的に知らしめたのは、平成16年10月に発生した新潟中越地震の最大の被害地域になった事だった。
この直下型の地震で震度6を記録した山古志村では、村へ通じる道路の大半が土砂崩れで一挙に不通となったために、人口の大半が一時期孤立する事態となったのである。

このような事態となったのは、山村の宿命というべきか交通基盤が十分ではなかったからであり、地震当時からこの地域を横断する2本の国道(国道291号と352号)があったものの、一方は土砂崩れで完全に寸断され、他方は元より未開通だった。

冒頭で山古志村が“オブローダーにとって興味深い地域”だと書いたのは、山村という立地条件から考えて交通に対しては熱心だろうという一般論からだけではなく、ここが村民の自営工事による手堀隧道としては日本最長といわれる中山隧道(中山隧道については、「廃道をゆく3」に紹介されています(執筆担当は私ではありません))の所在地であり、他にも同じように手堀で作られた経緯を持つ隧道が村内にいくつもあることが知られていたからで、私もずっと行きたいと思っていたのだが、地震のせいで村内が混乱している状況では探索どころではないだろうと自重していたのである。
だがそろそろ7年が経過し、いい加減大丈夫かなという判断で、平成23年5月に私は初めて山古志の地を踏んだ。
そして、中山隧道はもちろん、楽しみにしていた手堀隧道たちをたくさん堪能した。

ここで最初に採り上げる東(あずま)隧道も、そのような隧道のひとつである。


今回の山古志村探索の最大の目的は村内にある手堀隧道の現状調査であったが、準備期間が長かったこともあり、出来るだけ漏れがないようにと(私にしては珍しく)、事前に目的地のリストアップを行っていた。
その際、廃隧道が期待できるものについては歴代の地形図から抽出し、現役と考えられるものについては現在の地形図はもちろんとして、さらに平成16年当時(地震前)の「トンネル調書」という行政資料から山古志村内のトンネルをリストアップしておいたのだ。
そして東隧道の名前は、この「トンネル調書」に記載されていた。(要するに平成16年当時は現役扱いということ)
記載の内容を一部転記する。

東隧道  昭和9年竣工 全長134m 幅1.8m 高さ1.8m

ここでまず注目したいのは、竣工年の古さである。
有名な中山隧道(全長877m)の竣工は昭和24年といわれているから、それよりも15年も前に完成していた事になる。
もっとも、中山隧道の着工年は昭和8年であり、東隧道が中山隧道の1/7程度の長さである事も踏まえれば、東隧道の着工も同じ時期だろうと考えられた。
いずれにせよ、完成した時期でいえば村内でも有数の古隧道であり、かつ幅1.8mに高さ1.8mという緒元は自動車道として見た時の限界ぎりぎりの数字であるから、手堀隧道とみて間違いないだろう。
このような断面サイズの隧道が、平成16年のトンネル調書にはこれを含めて村内に3本、現役として記載があった。
そしてこのこと自体、山古志村の特異性を私に十分感じさせた。

しかし、東隧道は他の2本の手堀が疑われる隧道(そのうちの1本は中山隧道)と異なり、唯一事前には所在地が明らかでなかった。
トンネル調書にも所在地という欄はなく、頼みの綱の地形図にもこれに該当しそうな隧道は描かれていない。
もちろん、昭和9年竣工ということだから、それ以降の歴代の地形図も一通り目を通したが、やはり合致しそうな隧道は見あたらなかった。
結局、東隧道に関しては現地での偶然の発見を期待するとともに、場合によっては聞き取りをして見つけることにして、「所在地不明」のままリストに載せて現地へ向かった。


山古志村の探索は3日間にわたって行ったが、初日を終えた段階で東隧道は見つからず、その在処につながる情報も得ていなかった。
少なくとも平成16年までは現役扱いであった隧道なのに、村内の主だった道路を走り回っても見つからないというのは、それがマイナーな場所にある事を予感させた。
このままでは未発見で終わってしまう焦りを感じた私は、2日目に中山隧道を探索する途中で立ち寄った小松倉集落(山古志村の南東端にあり中山隧道の工事をほぼ独力で遂行した集落)にて、何となく詳しそうな雰囲気を醸していた、庭先でぜんまいを無心に揉み続ける古老に突撃した。
そしてこの老夫婦こそ村内隧道のマニアのような人物であり、東隧道の場所も呆気なく明らかになった。


“隧道神”が私の持参した地形図(コピー)に書き込んでくれた東隧道の入口は、右図に示した位置である。→

そこは小松倉集落から西北西へ約2km離れた梶金(かじがね)集落内で、隧道はそこから東側の尾根を越えて芋川支流東川(この川の名前が隧道名の由来かも)の畔に出ていたと教えて貰った。
ただし最近は見に行っておらず現状は分からないというが、西口(梶金集落内)の場所ははっきりご存じだった。
それだけ分かればもう十分!
(実は探索初日、梶金から東川を渡り木籠(こごも)に出る道を自転車で走行していたのだが、隧道には全然気づかなかった…)

なお、“神”は場所を教えてくれただけでなく、東隧道建設の経緯に関わる重要な話もされたが、それは現地レポートの後にまた改めて紹介しよう。

前説がちょっと長くなってしまった。
“神”から教えて貰った場所で見つけた 東隧道の 奇妙な姿 を、まずご覧いただこう!


震災をうけた集落のひとつ、梶金の現風景


2011/5/16 13:06 【位置(マピオン)】

教えて貰った坑口の場所は、梶金集落を通る村道28号線(長岡市合併後の現在名は不明)から少しだけ東に入った所であり、その入口の目印となる民家の特徴も教わっていた。

前述したとおり、昨日の夕方にも自転車でこの村道を通って、梶金から木籠へと抜けたのだが、短い峠道の前後ともに隧道の存在に気づかなかった。
もっとも、少しばかり道路から離れているということならば無理はないかも知れない。確かに東川という川はあるが、東隧道の擬定地だとは思っていなかった。

なお、小松倉とともにこの梶金も近世の山古志二十村のひとつに数えられており、歴史の古い集落である。
そして明治21年の町村制施行後は、どちらも東竹沢村の一集落となった。
この東竹沢村などの近隣4村が昭和31年に合併し、はじめて自治体名として古名の「山古志」を冠したのが山古志村であった。

ちなみに、越(こし)といえば越後・越中・越前三国を総称する古名であり、同音の古志が越後国の郡名として古代(延喜式)からあった。
その中の一部(山岳部?)が山古志と呼ばれていた訳で、かなり歴史の古い地名と考えられるのではないだろうか。



山古志探索2日目の昼過ぎの撮影なので、私にとってはこれが最初の山古志村の風景というわけではないが、皆様にとっては最初の場面である。

死者数は68人と比較的少数だが、新潟県が「新潟県中越震災」と命名したほどの激甚な災害風景(特に地形の崩壊)を未だに鮮明に覚えている方も少なくないと思う。私も連日報道されたヘリを使った孤立者救出の模様をよく憶えている。また、天然ダムによって出来上がった湖に沈んで行こうとする集落の景色なども。

あれから7年近くが経過し、集落は私が期待していた以上に平穏な風景を見せてくれていた。
人々は外見的にはまったく普通に平穏に暮らしているし、おそらく道などは地震以前よりも格段に整備され、国道291号はほぼ完全な2車線快走路へ変貌を遂げていた。
こうした集落内の村道においても同様で、路面に亀裂が残っているなどの一見して分かる傷跡は見られなかった。



昨日も通った集落内を行くと、さっそく教えて貰った特徴に合致する民家が正面に見えてきた。
この民家の前の横道に入ると、その先に東隧道があるというのである。

そして、確かにそこには峠の方向へ分け入る小径が存在していた。
昨日も一瞥はしたが、その先に隧道があろうとは考えなかった道だ。

なお話は隧道からまた離れるが、先ほどの写真の民家といいこの民家といい、どれも見るからに新しい住宅である。
そしてこういう新しい住宅の極端な多さは、ここだけでなく、山古志の多くの集落で見られた。
それに、集落が背にする山腹にも目を向けて欲しい。
絶壁のような急斜面というわけでもないのだが、かなり頑丈そうな法面工や治山工が大々的に施されていた。

これらの多くが震災と無関係ではないと思われるのだが、確証はない。




脱線ついでに、梶金では巨大な古民家の廃墟を目撃した。

地震が無ければ、こういう民家は今も多くの集落に残っていたのではないかと思うが、実際には数えるほどしか見られなかった。

この廃屋は建物全体が国道のある川側に向かってひしゃげており、周辺では土石流が起きたようなえぐれた地形も見られた。
そしてそのえぐれた地形の全てがm巨大な治山工の升目で埋められていた。地震に伴う土砂崩れで廃墟化したのかもしれない。

しかし、廃墟自体はそう多くなく、私が巡った多くの集落が、春の晴れた日という印象もあるのだろうが、とても明るく新しい雰囲気を纏っていた。
それこそ山村というよりも、郊外の洒落たニュータウンのような集落が多かったのである。
そんな集落ばかりがあるというのも、やはり普通ではないのであり、傷跡といえなくもない。




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車道とは異質な線形を見せる、東隧道西口


13:07 《現在地》

昨日、自転車で坂道に喘いでいる最中に、

この脇道の行く先に注意を払わなかったことは、責められるべきではない。

なにせ、ぜんぜん隧道がありそうな道の雰囲気ではないのである。
(入口からチラッと見た程度では、隧道は見えない)

路面のコンクリート舗装が妙に新しいし、案内板なども一切無い。
基本的に、私があまり興味を感じないタイプの小径である。




実際に入ってみると、ますます印象の薄い感じの道である。
なんというか周りの民家が新しいせいで、ニュータウンにある小さな公園の歩道のようである。
さすがにこの状況はごく最近の整備によるものと思われるが、
中山隧道がそうなったように、ここも遊歩道化する計画でもあるのだろうか。

そんなことを考えながら歩いて行くと、あっという間に、

それは見えてきた。





実際にこれを見るまでは、半信半疑だった。
だが、これでもう動かしようがない。

それにしても、ミスマッチな風景だ。
しかし場違いなのは隧道か、それとも白すぎる道や真新しい周囲の家並みなのか。どちらかというと後者のような気がする。
若草が萌え育つ裏山に、それとはよく馴染んだ坑門なき隧道が、ひっそりと口を開けていた。民家の裏庭といっても良い位置である。

ひと目見て分かるこの小ささは、トンネル調書にある寸法通りか。
明らかに自動車で入ろうと思うような大きさではないが、ここまで特に車止めのようなものはなかった。
ただ、坑門には見慣れた「通行止」の立て札が。既に現役は引退してしまったのだろうか…?




さらに私を驚かせたのは、

隧道の進行方向が、直前の道路に対して“ねじる”ような歪な変化を見せていたことだ。

坑門を境に左へ30度ほど折れると同時に、これまで平坦だった道が隧道内では相当な急角度で下っていたのである。

まるで地の底へ下っていくかのような隧道。
そこには、光も風も無かった。
私が入洞に不安を憶えたのも、当然のことだった。

“神”の情報をもってしても、この反対側の坑口の現状が分からない。
自ら行って確かめてみろと言わんばかりの展開だが、昨日私が車道(村道28号線)から見た反対側の…東川の風景は、穏やかさなどとは無縁の山岳風景であったし、民家など一軒もなかったはず。

この隧道。
134mという長さの奥に、何かを隠しているのだろうか。