2018/10/27 9:58 《現在地》
これは凄い……。
木造の合掌式支保工なのか?
戦前の技術書でしか見たことがないような構造物が、こんなに綺麗に残っていようとは……
これ、実は“擬木コンクリート”とかじゃないよな…… 本物の木材だよな…?
ちょっと凄すぎて、目の前の景色が素直に頭に入ってこないんだけど……。
ひえぇぇええ…
マジで木だコレ。
いやいやこれ…、私がうっかり裏側から来てしまったから気付かなかっただけで、
実はこの向こう側は、“此ノ木忍者村”みたいな公園だったりとかはないよね?
……馬鹿なことを言っているのは分かっているんだが、なんかさ、
古いものを復元することが目的な施設なんじゃないかなという疑いを無視できないくらい、
恐ろしく昔びた種類の構造物が、新しげな装いで現存していた。
これ、明らかに最近にも手が入っている…(驚)
入口の合掌する木枠の天端部分を見ているが、各部のパーツを固定するために見慣れた現代のボルトナットが使われている。
こういう構造物が盛んに作られていた時代の固定方法ではない。昔は伝統的な大工道具である鎹(かすがい)などで固定していた。
だが、固定方法は古くなくても、それはこの構造物の貴重性をさほど毀損していないと感じる。
むしろ、この構造物が無意味な古風の再現品ではなく、現代を生き続けるための真っ当な補修が
近年も行われているということを感じさせ、私には余計に貴重なもののように思われた。
しかし…、なぜこの隧道にだけ、このようなものが残っている……?
これは、いったい…………
今回の隧道の要は、支保工(しほこう)。
というわけで、オブローダー的な目線から、支保工について一度まとめてみたい。
オブローダーはよく古い素掘りの隧道に潜り込むが、そうすると右写真のような種々の支保工を目にすることがある。
しかしこれは現役のトンネル、すなわち現代のトンネルでは、なかなか目にすることのない構造物だ。
だからこそ、支保工のある隧道というだけで古さをビンビンに感じることが出来るのだが、実はこうした素掘り隧道にある支保工には、ちょっとした謎がある。
次に引用するのは、『道路用語事典 第3版』という最近の書物に掲載された支保工の解説文だ。
このようにはっきりと、“仮の構造物”と出ている。
しかもこれは最近の書物に限ったことではなく、例えば昭和9年のトンネル工事の技術書『隧道工学』においても、「隧道掘鑿中又は掘鑿後永久的の覆工が完成するまで一時岩石又は土砂が崩壊するのを防ぐ為に作る構造物を支保工と呼ぶ
」とあって、仮設構造物であることは揺るがない。
実は、トンネル建設現場における支保工とは、昔からこのような仮設構造物を言うのであって、覆工のない隧道(=素掘り隧道)の壁面を(朽ちるまで)半永久的に支保するものは、構造的にはさておき、分類的にはその範疇ではないのだ。
それでは、このような支保工を類型立てているものは何かというと、これは鉱山の世界で地下の坑道を支保するのに用いられる坑内支保の全くの流用であることに気付く。
右図は、支保工の分類を私なりにまとめたもので、まず構造面では支柱式とアーチ式に大別される。
アーチ式のものは、しばしばセントル(コンクリートを流し込むための型枠)に似るが、別のものである。
そして、このいずれの型式も、適用範囲とでも言うべきか、トンネル工事用と鉱山用とで別々の種類を持っている。
もっとも、トンネルでも鉱山でも支保工が地山を支える目的の支柱であることは変わらないから、技術的にも形状的にも似通うのは当然であり、例えばトンネル用の「鳥居式」と鉱山用の「三つ枠」はほぼ同じものだ。
ただ、決定的に違うのは、トンネル用の鳥居式は、これを導坑のような小さな断面に適応した後に、周囲を掘り広げていくことが前提で、そうすると枝梁式や後光梁式に発展する。
だが、我々が古い隧道でこうした枝梁式や後光梁式の支保工を目にすることはない。これらはあくまでも、仮説の構造物だからだ。
古い素掘り隧道に残されているのは、鉱山用の支保工(坑内支保という)として技術的に確立、継承されてきた類のものである。
ここにあるのも、あそこで見たのも、全部「三つ枠」そのものだ。
わが国のトンネル建設は明治期に本格化したが、海外からの鉄道技術の導入とセットのもので、覆工ありきのものであった。だから、それらを継承するトンネル技術書も、支保工を覆工までの仮設構造物としている。しかし、わが国にも近世以前から長い鉱山掘りの技術継承があり、鉱山に限らず用水掘りや隧道工事にも広く使われてきたが、先進的ではないので、あまり語られてこなかったように思う。
隧道の一部でありながら、隧道の技術書にはなぜか出てこない、隧道における半永久的構造物としての支保工のお話しでした。
目の前にあるこの支保工は、覆工前の仮設構造物では明らかになく、坑道掘りの技術から来ている坑内支保の一種である、合掌枠に見える。
これまでも、三つ枠の坑内支保はよく見てきたが、合掌枠は初めて見る。
合掌枠について、古い技術書にはこのようにあって、特に天井からの地圧が強く、崩落の危険性が高いときに用いる、特殊な工法だったということだ。
だからこそ、これまで様々な隧道を見てきた私が、ようやく初めて目にすることになったのだろう。
このような特異な支保工が現役の隧道で使われているということが、今回の最大のポイントであろうが、果たしてこれがまさに現役といえるかどうかは、ぎりぎりオッケイということにしたい。
現状、隧道の内部には比較的新しい車の轍が刻まれており、外へ出たところで直ちに小崩落と倒木(→)があり、その先の轍は薄くなるが、前回紹介したこの200mほど手前の【最後の分岐】辺りまでは、現役の道路だといえると思う。
実際の利用実態の有無についても、このあとで此ノ木集落へ下れば、さらに情報を得られるかと思う。
それでは改めて、10:00…… 入洞!
すげえぇぇえ!
私の中の新世界だった。
写真は普通に起立した目線の高さで撮影したもので、道路トンネルとしては非常な窮屈を感じる。
とにかく支保工の門構えが肉厚で重苦しく、轍はあるので一応は自動車も通れるのだろうが、厳しい。
支柱の太さは一様ではないが、太いものは直径30cmもあって、天井を支えるぞという気合いを感じた。
全て目測の数字だが、全長はおおよそ25m、高さ2.5m、幅2.5mといったくらいの数字だろう。
なお、この高さと幅はいずれも有効断面についてで、支保工を取り除けば各1m以上は拡大ができそう。
支保工を残したままの素掘り隧道における断面的な不利さが、身に沁みて分かる体験だった。
天井に目を向けると、天井の梁の外側に角材が隙間なく敷かれていて、素掘りの天井が全く見えない状況だった。
私が今まで見てきた支保工で、ここまで丁寧な造りのものがあっただろうか。
残念ながら、合掌枠そのものを見慣れていないので、この梁の配置や構造全体がオーソドックスなのかアレンジなのか判断できないが、虚飾はない構造に見えた。
東口から全体の3分の1くらい進むと、天井の造りに変化があった。
梁の形は変わらないが、天井板がそれまでの隙間のない板敷きではなく、より原始的な細丸太敷きになった。
木皮を剥いでいない生の丸太を敷き並べているだけなので、ここでようやく隙間から内壁が僅かに見えた。
剥離した落石がそこにいくつか乗っているのが見えていて、支保工は期待された機能を果たしているようだった。
ちょっと待って!
いま気付いたんだが……
この支保工って、実は地面に建っているだけで、側壁や天井を支えてなくない?!
待って待って!
だったらそれって、そもそも支保工じゃなくないか?
道路用でも鉱山用でも、支保工が地盤を支保するためのものだというのは大前提で、落石が通行人に当たるのを防ぐ屋根というのは、あくまでも二次的な効用である。
支保工とは、地山に穴を開けたことで自然に起こる地山の緩みや地膨れを、早い段階で抑えることで、変状の拡大を防ぎ、隧道が圧壊することを防ぐためのものだ。だからこそ、出来るだけ支柱や梁を壁面に密着させることで支えるのがセオリーなのだ。しかし、これはそうなっていない……。
一方で、落石から道を守るために建てるものは、落石防止ネットや覆道である。となればこれはもしや……
合掌造りの木造覆道という、これまた初めて見る構造物なのではないか?!
ところで、素掘りの側壁に白いフリーハンドのラインがチョークで描かれている。おそらく剥離の有無などを検査した際のものだろう。最近にも管理者の手で、隧道の健康状態が検査されたのかもしれない。
隧道内に合掌造りの覆道があるという、予想外の状況を目の当たりにして、即座に連想したものがあった。
それは、わが国でも最古参に属する有名な道路隧道である、初代宇津ノ谷隧道である。
明治9年、静岡県の東海道は宇津ノ谷峠に登場した初代の宇津ノ谷隧道は、全長の9割にあたる200mの坑道が、右図のような木材で組んだ合掌枠で囲まれていたという(残りは石造)。
スギ、クス、ケヤキなどの4〜5寸の角材を隙間なく合掌に組んで、内壁を全く見えなくしていたというのだが、その理由が興味深く、『しずおかトンネル物語』に引用されている当時の構造書によると……
……とあって、ようするにこの部分は地山は安定していて崩壊の危険性はないが(危険な場所は石組みとした)、通行人が素掘りの内壁を見ると、崩れてくるのではないかと恐れるので、それを防ぐ為に木材で覆ったというのである。
この“思いやり”も功を奏したのか、隧道は大いに繁盛したが(有料隧道だった)、明治29年に洞内照明のカンテラの火がこの木枠に燃え移り、火災となって落盤を生じたために、初代隧道は廃止された。明治37年に煉瓦造りの2代目隧道が完成し、これが今も立派に現存する(国登録有形文化財)。
この宇津ノ谷隧道のケースは、支保工ではなく覆道としての機能を期待していたものとみられる。
たとえ岩盤は安定していたとしても、素掘りであれば多少は小石が転げ落ちるくらいはあって、合掌枠はそれを防ぐ効果もあったはずだ。
左の写真は、千葉県勝浦市の私道にある素掘り隧道だが、ここには金属製の合掌枠のようなものがある。
しかし、明らかに支柱その他構造全体が脆弱で、支保の役割を果たし得ない。
これもまた、天井からの小石の剥離が通行人に降り注ぐことを防ぐ覆道目的のものと推察される。
思うに、この用途では天井板が水平である三つ枠よりは、傾斜している合掌枠の方が、天井裏に落ちてきた石が側壁伝いに排出されやすく、管理上好都合だったと思われる。
ただし、此ノ木隧道の合掌枠が、支保工としての機能を全く有していないかは分からない。
天井裏など見えない部分も多くあり、側壁を全く支えていないとしても、天井を支えている可能性はある。それでも大部において、現存する貴重な“木製洞内覆道”とみて良いと私は考えている。
ようするに、この隧道の中にはサザエさんハウスの連続せるものが並んでいるわけで、各支柱の地面と接続する部分が要である。
そのため、支柱が地面の水分で腐食するのを防ぎ、荷重を分散して地面に伝えるために、コンクリート製の土台が仕込まれていた。
それはまるで、伝統的な日本式家屋の床下を見るようであった。
土木構造物でありながら、技術としては建築物に限りなく近い。
だから、家屋のようだという感想は自然なものだった。
かつて、木造支保工が鉱山やトンネル工事現場で欠かせない存在だった時代には、支保工の組み立てを専らとする、斧指(よきさし)という職人が多く存在した。しかし、彼らの技の冴えを活かせる場所が、今の日本にどれほどあるだろう。
もし、この地に斧指の技術継承が行われていて、その実践の場として隧道が存続していたというのならば、とても素敵なことである。だがおそらくそのようなことはなく、地元の大工さんが、昔からこの隧道にあった合掌枠を、現代の技術でもって補修・再現したものではないかと思われる。
新鮮な隧道景色を楽しんでいたが、気付けばもう出口は迫っていた。
だが、最後にも驚きが待っていた。
外へ出て、振り返った私が見たモノとは――
さらに次回後編では、
此ノ木集落で古老の聞き取り調査に成功した!
お楽しみに!
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