隧道レポート 太郎丸隧道(仮称) 第1回

所在地 新潟県長岡市
探索日 2012.06.01
公開日 2012.12.06

※このレポートは単独でもお読みいただけますが、ミニレポート177「法末の丑松洞門」の続きとなりますので、先にご覧頂くことをオススメします。



【周辺地図(マピオン)】

今回の中越地方における山チャリ&オブローディングツアーの〆は、この太郎丸隧道と決めていた。

この隧道については既にいくつかの訪問記がネット上に上がっているが、実は正式な名前は分かってない…みたいだ。
しかし私も確たる答えを知らないので、一度聞いたら忘れないインパクトをもった「太郎丸隧道」の名前を、使わせて貰うことにしよう。

その先行した方々はだいたい、この隧道に西側から辿りついているようである。
それで東側のレポートは見あたらない。(見逃していればごめんなさい)

ということで、それが後進者の義務と言えるかは知らないが、今回私は、現状不明の東側からアプローチしようと思う。
多少無理をしても、隧道まで辿り着きさえすれば、貫通はしているらしいから、なんとかなるだろう。


今回はそんなわけで、自分が一番に探しにいくわけではないからか、少しお気楽に考えていた。
しかし廃道のゼウスは、そんなお気楽探索を許すつもりがないらしい。
ただ通過のつもりだった法末(ほっすえ)集落で予想外の明治手堀隧道を与えられ、喜んでほいほいと潜り抜けたならば、いつの間にか、当初の目論見とは違う道で太郎丸という“本丸”へアプローチする事に決まっていたのである。



この廃道がなんぼのもんか知らないが、まずは丑松からのアプローチ。


それを無事に制すれば、いよいよ太郎“本丸”戦ということになる。


いざ、合戦場へ!




丑松隧道から小国沢への下降ルート



2012/6/1 14:16 《現在地》

スタートから廃道!

…というのは、ちょっと新しい?


丑松洞門南口にある分岐を右折すると、最初から路面に草が生い茂る廃道の状態であった。

現在はそんな道を2分ばかり自転車で走った後の風景である。この間は特に景色の変化は無かった。

左に鋭く切れ落ちているのは小国沢川の一番奥の源流谷であり、その谷底は明るく開けている。
そしてそこは最新の地形図でも水田の記号が描かれているのであるが、実際には全く耕作されている気配がなかった。



この廃道の状態をひとことで表わせば、

路盤しっかり草ボウボウである。

草の茂りが強いため、路面全体が凹凸しているような錯覚を受けるが、実際には法面などから来る堆積物や路肩の決壊は、あまりなかった。
そして、最初の約500m間でおおよそ120mの高低差を下るという急な下り坂のため、多少の草むらは肉体と自転車の重みで、強引に切り裂いて進むことが出来た。

結果、6月冒頭の緑はそれなりに濃くなっていたけれど、ほとんど自転車から降りることなく、なかなかの順調ペースで進むことが出来たのである。

とは言っても、間違いなく廃道状態ではあるし…




この路面を見て、どう思う? →

植物の生育には理想的と思えるぬかるんだ地面に、去年の枯れススキが多数倒れ臥している。
そんな、路面。

これはもう少しだけ遅い時期に来てたら、絶対に大変な苦労をしていたと思うのである。

まして逆コースを辿ろうものなら、ススキの海に遭難しかねない状態だったろう。

今回私は、時期的にすんでのところで激藪の地獄を躱し、そして無事“地形図上の破線道”を通過する事が出来たように思う。



丑松洞門から200mほど離れた辺り、ちょうど上の写真のグネグネ道から下りが急になり、そのまま鬱蒼とした杉の植林地に突入した。
相変わらず10%は下らないと思われる猛烈な下りが続いているが、日陰なので藪は薄くなった。
そして、よく見れば路面に舗装が出現していた。

それは急坂道の補修によく使われるコンクリートの簡易舗装で、流水のあるところだけ辛うじて土砂の中から顔を見せていた。

この舗装の出現により、決して遠くない昔までこの道が現役だったことが伺われた。
中越地震前まで丑松洞門を通行していたという“改造軽トラ”は、この道もきっと通行したのであろう。

もしそうだとすれば、行き先はどこだったのか。

それは、たぶん…。



14:23 《現在地》

この小国沢川の谷底にあった(地形図では今も“ある”)広大な水田だろう。

この辺りまで来ると、法末集落の末端の家からも2km以上離れており、途中には山も谷も隧道も隔たっていたわけだが、それでも地名の上では相変わらず法末である。

この小国沢川をもう暫く下ると別の大字になるが、この源流付近は法末に属している。
そしてこれは近年に始まったことではなく、刈羽郡法末村という一村だった時代、すなわち明治以前からだ。
明治34年に上小国村の一部となり、その後も変遷して現在は長岡市の一大字となっているが、この谷間の一角は昔から法末の住民により耕されてきたと思われる。
丑松洞門のやや西寄りに見える位置も、この谷底へのアクセスを考慮したのならば頷ける。



谷底のほぼ平坦な道になってから500mほど進むうちに、草の下の轍は徐々に顕在化し、やがてこの浅い掘り割りに達すると、現役のものとなった。
しかし、ここまではただ一面の田んぼも耕作されておらず、依然として無人境であった。
さしもの“米の国”にあっても、やはり交通不便な耕地の放棄は相当深刻なようである。

ところで、轍が復活したこの掘割の周囲には、前後の道には見られない太い杉の森が存在しており、何か象徴的な意図を感じたのであったが、後で地図を見返してみると、ちょうどこの場所が大字法末と、大字小国沢の境に当たっていた。
つまり、丑松洞門が作られた明治中期には、ここが法末村と小国沢村(明治22年〜34年は結城野村)を隔てる村境だったと考えられる。

さて、そろそろ分岐が来るはずだ。



14:30 

丑松洞門から1.1kmを15分ほどで走破し、廃道ではない砂利道に辿りついた。

道はやや川底から高い位置に付き、行く手のさらに広くなった小国沢川の谷を見晴らせる感じになった。
道は緩やかな下りであり、自転車には快適な軽ダート走路であった…

あったのだ

 が !

ちょっと嫌な予感がして… GPSを見たらば…




既に分岐地点を通り過ぎてたよ…。

その逸走した距離はほんの少しではあったのだが、

問題は、

ここまで分岐を意識しながら走ってきたのに、それに全然気付かなかったという、

私のボンクラぶり
太郎丸隧道へゆく道の不明瞭さだ!





ジトーッ  とした悪寒が体を支配する。

大袈裟でなく、入口にさえ全く気付けなかったというのは…

最近にはあまりない、やっばい展開。


憮然とした表情のまま、地形図にはちゃんと破線の道が描かれている、
眼下の小国沢川対岸に目を向けてみたところ……………。




ビームの“残骸”を発見…。


あ れ か ・・・。



いったいどこで2本の道は分れていたのか。

地形図だとこの辺りに明確な分岐が描かれているが、地形的には特定が出来なかった。

写真は先ほど紹介した村境の杉林を振り返っており、地形図だとそこから少し“こちら”へ来たところで分岐している。
だが、私が最初行き過ぎた現道は左手のやや高いところにあり(黄色の矢印)、対して谷底で
小国沢川を渡る太郎丸隧道への道は、右下の休耕田と同じ高さに有ったとしか思えないのだ(赤い矢印)。


…まあ、この際細かいことは良いだろう。

とにかく、突入すべき入口は見つかった!




自転車をどうするか、最後まで悩んだんだけどなぁ…。

勢いで イッ っちゃったんだよなぁ……。




地形図さん、そろそろ更新してくれなイカ?


地図に道が無かったら、絶対に自転車同伴とか考えないレベルだぞ、これ。




次回、


後悔は先に立たず?!





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