橋梁レポート 一般国道342号 祭畤大橋 “廃橋三昧” 序

所在地 岩手県一関市
探索日 2011.10.24
公開日 2012.04.01

国道342号は、秋田県横手市と宮城県登米(とめ)市を結ぶ全長約170kmの一般国道で、途中には奥羽山脈を越える標高1100mの須川峠がある。
峠の太平洋側は岩手県一関市にあたり、道はその中心市街地から県境の峠の近くまで、北上川の支流である磐井川に沿って続いている。
沿道には奇岩巨石が林立する厳美(げんび)渓や、厳美温泉、真湯(しんゆ)温泉などの温泉場があり、秋田、岩手、宮城三県を結ぶ観光ルートとしても重要な路線である。

そしてこの途中、市野々原と真湯温泉の間にある祭畤地区で支流鬼越沢を跨いでいるのが、祭畤(まつるべ)大橋である。
祭畤地区の標高は300〜350mくらいで、東北自動車道の一関ICから23kmの地点、周囲は山である。

「田へん」に「寺」、見慣れない「畤」という漢字だが、本来の読みは「じ」である。字義は「留める」というようなものらしく、熟語の「霊畤(れいじ)」は「神を留める場所」すなわち「祭(神事)を行う場所や祭壇」という意味がある。そのため古くは「霊畤」を「まつりのにわ」と読んだことが知られる(奈良県の鳥見山中霊畤{とみのやまのなかのまつりのには}が有名である)。おそらく、「祭畤」という地名もこの「まつりのにわ」を元にした命名だと思うが、「畤」を「べ」と読む理由は分からない。また、ここで祀られた神とは、古くより田神の霊山として信仰されてきた栗駒山そのものであったろう。


さてこの祭畤大橋だが、以前にもこのサイトで紹介したことがある。「ミニレポ79 旧 祭畤橋」がそれである。

前の探索は平成17年の5月に行ったもので、私とミリンダ細田氏とパタリン氏の3人でここを歩いた。
詳しくは前掲のレポートをご覧頂きたいが、祭畤大橋には祭畤橋という旧橋が存在しており、須川側から旧道を辿ると比較的簡単にアプローチできた記憶と記録がある。

旧橋は古めかしい小振りなランガー橋で、橋の前後の藪が濃かったことと相俟り、“緑の谷に埋もれた存在”というような印象を私に与えた。
事実それは谷底にあって、ほとんどアップダウン無く谷を“一跨ぎ”にしていた大橋とは、まさに天と地ほどの違いがあったのである。

狭く険しく藪に満ちた旧道を踏破しながら思った事は、頭上を悠々と駆け抜ける大橋への羨望と、我々が手にした土木という力への自負であった。
あのとき、今日の事態 は絶対に予期し得なかったし、再訪する事になろうとは夢にも思わなかった。


祭畤“大橋”にいったい何が起きたか。


既にご存じの方も大勢いるかと思うが…。



現場の3キロ手前から、レポート開始!!




“復旧”以来、初めて通った国道342号



2011/10/24 6:31 《現在地》

夜明け前に一関を出発した私の車は、ほとんど通行量の無い国道342号を西へひた走り、30分も掛らずに沿道最奥の集落となる市野々原(一関市厳美町)に到着した。

祭畤大橋はさらに3kmほど先にあるのだが、ここでなにやら見慣れない大きな看板が、路傍に立っているのを発見。
車を走らせていると間違いなく読み切れない文字数に溢れていたので、一旦車を止め、読んでみた。

その内容は…




「地域を守る建設産業」がメインのタイトルで、「災害復旧工事にご協力願います」がサブジェクトだろう。
走行中の車内からでは、せいぜいその下の「道路使用と通行に関しての御願い」というサブタイくらいまでしか読めないだろうが、重要なのはさらにその下の本文である。

この先は岩手宮城内陸地震震源地付近であり、被災程度が大きい地域となります。災害復旧工事が現在進行中ではありますが、工事関係者はじめ、震災地を視察、あるいは観光の一般者の方につきましても、地域住民の方々が生活しておられますので、マナーを逸脱する行為は絶対に止めて下さい。また、いざというとき道路がなければ、大切なものを守ることは出来ません。交通法規を守るとともに、道路を大切に使いましょう。

このメッセージに対する私の第一印象は、意外性だ。

普段我々が目にする道路が発するメッセージの大半は、道路管理者(例:青看)か警察(例:速度制限標識)からのものである。
しかし、「地域を守る建設産業」と一番大きな文字で書かれている事からも、この看板のメッセンジャーは「道路作りをする人々」である。
道路管理者や警察が語らないことを敢えて訴えている割に、「マナー」や「交通法規」を守れというメッセージは抽象的過ぎる気もするが、とまれ最も訴えたいことは赤文字の部分であろう。
一瞬思った「この先では災害復旧工事こそが正義である」は行きすぎた曲解だが、この先に彼らが死力を尽くしている世界があることは、十分に伝わってきた。

それはさておき、敢えて前説では触れなかった本件の重要キーワードが、ここで早くも現れた。
岩手宮城内陸地震」である。



最近はメディアに名前が出ることも少なくなったが、私が前回探索した3年後の平成20年6月に祭畤のすぐ近くを震源地とする、マグニチュード7.2の大地震が起きた。

気象庁に岩手宮城内陸地震と名付けられたこの地震では、岩手、宮城、秋田、福島の4県で23名の死者行方不明者が出ており(岩手県は死者2)、重軽傷者は山形県も合わせて426人に達している(住家被害も多数に及ぶ)。 この地震の最大震度は6強(宮城県栗原市 ほか[なお、栗原市は平成23年の東北地方太平洋沖地震でも唯一最大震度の震度7に見舞われた])で、一関市街も震度5弱を観測した。
そして、震源が内陸の山岳地帯であったため、山崩れの被害が多発した事が特筆される地震であった。

同地震によって道路も大きな被害を受け、特にこの国道342号の被害が大きく、市野々原〜秋田県境の再開通は2年後の平成22年5月30日であった。



看板があった場所から数百メートル進むと、車窓に異変が現れた。

これまで余り意識していなくて気付かなかった可能性も0ではないが、この風景は仮に意識していなくても目に飛び込んでくる“威力”がある。

市野々原の民家の背後の山で、壮大な規模の治山工事が現在進行形で進められている光景である。
前年(平成23年3月11日)に発生した東北地方太平洋沖地震の影響は不明だが(この一帯は前より大きな震度6弱に見舞われた)、工事の進み具合や先ほどの看板の存在から見ても、大半が4年前を起点とする風景であろう。

国道からも良く読み取れる民家と同じくらい巨大な看板が、ここでも自らの死力を熱烈にアピールしている。
今度の主体は、岩手県農政局だ。
「治山激甚災害対策特別緊急事業」という名称は、これ以上求め得ないほど勇ましく、「くらしを」“戦って”「守る治山事業」といった面持ちだ。




そして今度は同じ場所で、山とは反対側の磐井川に目をやる。

するとこちらも工事中の雰囲気で、見るからに仮設と分かる敷鉄板橋が川を渡っていた。
対岸は妙に緩やかな山であるが、それに似つかわしくない頑丈さで、治山的処方を受けていた。
まさに、固められた山といった感じ。

車を止め、川の水面が見える位置まで近付いていくと、

さらに驚くべき光景に出会った。




な、何だ?!
この川、変だ!!


変な川。

どう見ても、普通じゃない。

まるで浅い運河のようで、明らかに人口河川。
しかし、コンクリートの河道でもなく、両岸は“素堀”である。
それに、人工的な河川にしてはちゃんと谷底を流れているし、別に“本来の河道”があるようには見えない。(その証拠に、上流は“天然の川”に通じている)

勘の鈍い私が事の真相を知ったのは、近くにある解説板のおかげだった(上の写真に写っている)。



対岸に見えた“妙に緩やかな山”は、山崩れの結果出来た地形であり、本来はそこを磐井川が流れていた。
そして山崩れによる河道閉塞と天然ダムの成長を阻止するため、一から開削されたのが現在の河道であった。


このような“地形の大手術痕”を見せられたことで、
2年間も通行止めになっていた国道342号の被害の大きさというものを、初めて私は実感した。
(復旧してからこの道を通るのはこの日が初で、それまで敢えて近付かないでいた)


…というところで、本題の祭畤大橋へ進もう。





「祭畤被災地展望の丘」からの眺め


6:54 《現在地》

「なんじゃこの違和感は〜!!」

と、思わず口に出して言いたくなるほど、私の心の中にはこの少し前から違和感が渦巻いていた。

しかし、それはここへ今初めて来た人には、きっと感じられない感覚だ。
過去との比較が無いならば、この写真に写っている景色は別に変わったところはない。
至って平穏普通な風景である。
それでも強いて目に付く違和感をあげるとしたら、「平穏」とは相反する「被災」という文言の入った案内板の存在くらいか。

この真新しい駐車場に車を収め、代りに自転車を下ろしてから、“矢印”の所にあるこんもりと盛り土がされた、「祭畤被災地 展望の丘」とやらへ登ってみた。




“丘”は狭く、栗駒の峰を背景にして、東屋1棟と案内板1枚、それに“怪しい鉄塊”1つが並べられているだけの空間だった。

え?

鉄塊が既に全てを語っているって?!

…まあまあ。

早まらず、もう少しだけ私の楽しい違和感に付き合って欲しい。


丘の上から、国道の進行方向を再度眺めてみると…。




そこには、カーブしながら高々と磐井川を跨ぐ、完全に見覚えのない橋が架かっていた。

何が起きたのか。

流石に東北人の一人として報道その他で知ってはいた。
しかし、実際に見るのは初めてというわけで、見覚えのある風景の中にある全く見覚えのない橋に対する違和感は、しばらく消えそうになかった。

いま、「見覚えのある景色の中に」と言ったが、それは国道から分かれる、白い矢印で示した道のことだ。
6年前の探索で、ほぼ同じ場所に立って撮影した写真があったので、次にご覧頂こう。




特徴的なのは、この道(市道・鬼頭明通線)の直線くらいで、
新旧位置を同定する比較物に乏しいが、ともかく平成17年の時点では、
この道を分断して通る現在の国道は、影も形もなかった。



今度は同じ丘の上から、一関方面を振り返って撮影した。
そこにもやはり、見覚えのある道が、見覚えのない風景の中に存在していて、私は相当の違和感を感じた。

勘の鋭い人ならば、この風景から感づけるかもしれない。

私の車がある駐車場が、本来は白い矢印で示した道の路面であったということを。

白い矢印で示した道は、先ほどの写真から一貫して、市道鬼頭明通線である。
つまり、平成17年には全く存在しなかった国道が、市道と並行する形で出現したということを示したかった。

私の違和感を説明するために、少々まどろっこしい説明をしてしまった。
何より分かり易いのは、地図上の変化を見て貰うことである。




右の地図は、平成20年版の2万5千分の1地形図の一部(旧「ウオッちず」)である。
この地図には、現在の国道はまだ描かれていない。
ということはつまり、ここに描かれている国道は、平成17年に私が(羨望の眼差しで)見た祭畤大橋である。

そして、現在地「祭畤被災地展望の丘」は、市道鬼頭明通線“上”である。

この地図に、現地で得た情報を元に現在の国道を書き加えたのが、次の地図である。

ちなみに、平成24年4月現在の最新版の「ウオッちず」(当該地図のリンク)でも、国道は書き換えられていなかった。




劇的!!
ビフォー
アフター

…である。まさしく。

正直、今回の主題(初代:祭畤大橋)の前では、「市道鬼頭明通線の一部が駐車場になっていた」ことなど些事も些事で、どうでも良いレベルの話かも知れないが(苦笑)、個人的にこうした道の変わり身が大好きなので、大きく取り上げた次第である。


さて、「展望の丘」というくらいだから、この場所へ立つ事で得られる真の収穫は、こんなものではなく、それは次の展望風景に他ならない!






あっ…




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