
「全国道路施設点検データベース〜損傷マップ〜」(国土交通省)より
最近になって国土交通省が新たに公開した「全国道路施設点検データベース〜損傷マップ〜」は、トンネルや橋の在処を知りたい探索者にとって本当に便利なサイトである。道路法による供用中の道路という条件はつくが、この条件を満たす国内全ての橋やトンネルの位置を、簡単な諸元と共に、地図上で見ることができる。しかも無料で! これまで、「トンネルリスト」などで名称が判明していても所在の分からなかった小規模なトンネルの在処を知る最強の武器である。
今回はこの「全国道路施設点検データベース」を基にした探索を紹介しよう。
冒頭に掲載した地図が、そのスクリーンショットである。
見慣れた地理院地図上に、緑色の丸いアイコンで1本のトンネルの位置がプロットされている。元の地図には見えないトンネルである。
元サイトでこの地図上のアイコンをクリックすると、チェンジ後の画像で拡大表示するような「概要情報」が表示される。
このトンネルは、名称が「無名隧道1(むめいずいどういち)」である。
なんて投げやりな名前だろうかと思わず笑ってしまったが、このサイトがなければきっと場所が分からず、見つけられなかったトンネルだ。
(このような「無名隧道」シリーズがこの地域には沢山あるが、従来は名称と実物の対応が難しかった)
【周辺地図(マピオン)】
↑この「無名隧道1」というトンネルがあるのは、千葉県富津市の笹毛という場所だ。
トンネルの長さは45.2mで、なぜか幅員のデータは「0」となっている。竣功年は昭和44(1969)年になっていた。
この全長はそう長くはないが、地理院地図に描かれる最小限度よりは長い。にもかかわらず描かれていないのはどうしてだろう?
道自体ははっきりと描かれているのだが…。
なお、グーグルストリートビューで現地を見ると、この場所らしい。(↓)
この直線の道路の途中に、「無名隧道1」はあることになっている。
明らかにこのストビューの画像で見える範囲内だが、見えない。
地図にないトンネルは、やはり現地にもないのだ。
でも、「全国道路施設点検データベース」だと、“ここにある”ことになっている。
この“謎”の答え、あなたは分かりますか?
それでは、答え合わせと行こう。
地形図やストビューを見て、現地の地形を把握したことで、おそらくこうではないかという予想が私にはあった。
それを確かめるのが、この探索だ。
2025/2/5 6:45
霜が降りるほど冷え込んだ日の朝一番で現地へやって来た。
千葉県道256号新舞子海岸線から、この写真の砂利道を約600m東へ向かった地点である。
写真奥に東京湾が見えるが、向こうからやって来て、振り返って撮影したものだ。
地形図のとおり、道は本当に真っ直ぐ(本当に1本の直線だけで構成されている)で、これで地形が平坦ならば不思議もないが、丘陵の起伏に入っても全く直線を崩さなかった。
この地点に車を路駐して、自転車を降ろした。
問題の「無名隧道1」の表記地は、ここから130mばかり写真手前方向に進んだ先だ。
はい、こちらが隧道表記地方向の風景だ。
直線の登り坂の途中だが、ここから左へ別れる砂利道がある。そして分岐を無視して直進しようとすると、そこに「この先社有地につき進入禁止」の看板が掲げられている。
「浅間山開発(株)」と「松浦企業(株)」という2社の名前が書かれており、これらの会社の私道であるのだろう。
特に封鎖されている様子はないが、ストリートビューもここまでしか入っていない。看板があるからだろう。
肝心の隧道表記地点は、チェンジ後の画像の“矢印”の辺りだ。
丘上へ登っていく直線道路のちょうどサミットになっているあたりのようだから、切り通しの代わりにトンネルだった過去があったとしても不思議はない感じだが、現状そこがトンネルでないことは間違いない。
ここまではストビューで予習してきたとおりである。
「全国道路施設点検データベース」では現役の施設とされているトンネルは、やはりその表記地点には影も形もない。
……のか?
本当に?
遅ればせながら、これが現在地の地図である。
私はこの“直線道路”を、西側の県道から走ってきた。
このまま進むと国道127号に続いているようだが、現在地から国道までの区間は、企業名義で「進入禁止」の看板が設置されている。
だが、「無名隧道1」は、その進入禁止(私道?)である区間内に表記されている。
……それはおかしいのである。
「全国道路施設点検データベース」の対象は、道路法の道路である。私道は対象外だ。
データベースには各トンネルの路線名も記載があったが、「無名隧道1」は「市道羽根坂線」という道路上にあることになっていた。市道は道路法の道路にあたる。
こっちさ行く!
隧道はきっと、この道の先にあるぞ!
6:46 探索開始。
左の道は最初下り坂になっていて、あっという間に平坦な谷の中へ降り立った。
そのまま開渠状の水路をクランクカーブをしながら渡る。この無名?の橋の傍らに「農耕車両以外通行禁止 富津市」と書いた看板が設置されていた。
この表記からすると、ここも道路法の道路ではなく、おそらく農道だろう。
6:47 《現在地》
出発から1分後、私が辿ってきた道は、地図にない十字路にぶつかった。
地形図だとここは十字路ではなく、私が辿ってきた手前の道と左折する道だけが描かれている、道路の屈曲地点に過ぎない。
だが実際は十字路になっていて、正面と右方向にも車道規模の道が通じている。
ただし右折の道だけは未舗装のようだ。
私は、ここを右折してみる。
ほんの僅かに轍の存在が感じられる、右の道の入口。
電柱に何かの看板(工事看板らしい外形)が取り付けられていたが、ものの見事に白化していて、全く読み取れない状態だった。
封鎖されていたりはしない。
チェンジ後の画像で、右奥の方に上部が平らな稜線?尾根?が見えるが、あれは最初に見送った進入禁止の直進路である。
地形図からも読み取れるが、あの道路はいまいるこの谷を、真っ直ぐの築堤で横断している。
……もう皆さまも分かったであろう?
私が、地形図にない「無名隧道1」を、どこに疑っているかが。
あ。
あは。
あったwww
タマゴタケみたいな形をしたコルゲートのトンネルがwwかわいいwww
6:48
お〜う、これはなかなか強烈な1本だ!
坑口前は【こんな風な分岐】
になっていて、隧道を無視して進む道もある。
だが、地理院地図には、ここまでの道も、この先の道も、もちろん隧道も、描かれてはいなかった。
この隧道、立地も構造も共に強烈な個性があるが、まずは立地の特徴を見ていこう。
地理院地図上に“青い線”で地図にない道路と「無名隧道1」を描き足した。
この地図からもはっきり分かると思うが、隧道が潜っているのは、冒頭に登場した直線道路を戴く築堤である。
築堤全体に灌木が生えていて一見自然の山肌のように見えなくもないが、その正体は、谷を横断するように作られた直線形の完全な人工物である築堤だ。
完全人造の地形を潜る隧道であることが、本隧道の立地面における最大の特徴である。
ちなみに、隧道(トンネル)とは自然の地形を潜るものをいう……というような言葉の定義はないので、別に何を潜っていても問題はないはずだが、経験上、築堤を潜る地下道は、そのまま地下道や立体交差、あるいはアンダーパスなどと呼ばれることが多く、冒頭に紹介した国土交通省の「全国道路施設点検データベース」でも、その多くは「トンネル」ではなく「大型カルバート」という別のカテゴリで集計されている。
立地だけでなく、構造もきわめて奇抜である。
坑門は台形型のコンクリート擁壁で、扁額を含めて装飾は全くない。
そして構造面における最大の特徴が、道路トンネルとしては限界レベルにまで小断面のコルゲートパイプ・トンネルであることだ。
写真に自転車を一緒に収めたので、断面のヤバ〜イサイズ感が、分かると思う。
なぜか「全国道路施設点検データベース」だとこの隧道の幅は「0」と入力がされていて、その真意は不明(入力ミス?)だが、全国トップクラスの狭小トンネルなのは間違いないだろう。
なお、コルゲートパイプとは鋼板に波状の凹凸を付けた軽量で高強度なパイプ材のことで、円形やアーチ型、U字型など多様な形状やサイズに成形されたものが道路や水路などいろいろな場面で使われている。近年ではトンネルの覆工(あるいは補強材)にもよく使われているが、大抵はトンネルとしての本来の断面やサイズに合わせた成形がされている。
だがこのトンネルでは、まるで築堤を潜る水路暗渠の如きサイズ感のコルゲートパイプが、トンネルの断面というよりは、コルゲートパイプの最も基本的形状である真円形断面に近い形のまま使われている。
一応、人や車(も?)の通行の便宜のため、路面部分の幅1.5m程度はセメントで均されている(=鋪装)から、完全な真円断面ではないが、ここまで真円に近いシルエットのトンネルは極めて稀である。
これは見慣れた道路トンネルのイメージからは相当異質なもので、パイプの中を通る不思議な通路という印象を受けるのである。
なお、当サイトの古い読者であれば、静岡県掛川市に存在する岩谷隧道を思い出したかもしれない。
コルゲートパイプの使い方や路面のセメント鋪装の様子などよく似ているが、おそらく断面(というかパイプの径)は今回のほうがより狭いであろう。
自転車とのサイズ比較という大雑把な根拠ではあるが…。
私は岩谷隧道を四輪自動車で通過したことがある猛者を知っているが(そんな猛者たちと一緒に道路の凄い本を書きました! 2025年11月20日発売予定!!)、ここは果たして通れるのだろうか?(^_^) 特に交通規制はないが…。
そしてもう一点だけ特筆したいのが、名称のことだ。
扁額がないので、現地には隧道名を知らせるものがなく、というかそもそも、これが築堤を潜る構造物と分かる人であれば、前述したような理由からトンネルだと思わない可能性が高いのであるが、「全国道路施設点検データベース」によると、このトンネルには「無名隧道1(むめいずいどういち)」という、「無名」も名なのかという哲学的疑問を持たずにいられない名前が与えられている。
実際、データベースを見ると、同じ富津市内には「無名隧道1」から「無名隧道12」まで12本の「無名隧道」が存在している。
同じ隧道名が複数あると管理上不便だから最後に通し番号を付けて区別しているに過ぎないのだろう。それぞれの立地は離れている。
「無名」という名前のトンネルは全国的に見ると結構沢山あるのだが、無名に通し番号が付いているのはここだけかもしれない(笑)。
6:50
無名隧道1、いざ突入!!!
もちろん、自転車に乗ってね。
おかしいな。
まったくもって、おかしなトンネルだ。
なにせ、普通に通行しているだけで、不思議と笑いがこみ上げてくるのだ。
通行量が極端に少ないから問題になっていないが、これでもしラッシュアワーがあるトンネルだったら、大勢の笑い声が外に反響して漏れて大変気持ち悪い騒音になりかねない。道路法の道路である市道羽根坂線に属する、現役かつ大真面目の道路トンネルであるのに、通行感は公園の遊具である。こういうトンネル公園に良くあるよね、築山を貫く土管みたいな。
このコルゲートパイプの外側がどうなっているのかを知る手掛りは現地にないが、コンクリートの覆工が別に有ったりはせず、直接に地山を押さえ込んでいるのだろう。というか、築堤を作る時点で先にコルゲートパイプを設置し、そのあと周囲を土砂で埋めることでトンネルになったのだろうから、周囲が固い岩盤などであろうはずもない。
中央付近の天井にポツンと一つだけ電球が取り付けられていた。
しかし、故障なのか、意図的なものなのか、消灯していた。
とはいえ、通行人の安全を守る照明設備の存在は、その光熱費が公費によって賄われていたであろうことからも、このトンネルが建設された段階では真っ当な公道の役割を担おうとしたことを窺わせた。
現状としてもトンネルの構造自体に目立った故障はなく、徒歩や自転車での通行は問題なく可能である。
データベースの記録によると、トンネルの全長は45.2mである。
幅員は0mと記録されているが、実際は路面部分で1.5m、最も幅が広い地上から1mくらいのところで2.2mほどではないだろうか。また、天井の高さは2.1m程度とみられるが、真円に近い断面なので、二輪車はともかく四輪車には向かない。
鉄の壁に囲まれた暗く円い通路を光のほうへ進んでいくと、あのジェームズ・ボンドのテーマが脳内に再生され始めた。
彼が登場する映画の最も象徴的なシークエンス(Gun barrel sequence)を思い出したのである。
……出口が、近づいてきた。
なんだか、本当にボンドが登場する映画のセットみたいな風景が見えてきた。
……公道だよな……ここ。
ここから見た印象として、トンネルを出た先はそのままもろに私有地みたいな雰囲気だが…。
出るよ?
6:52 《現在地》
出た。
どこだここ。
カッコイイ言い方をすれば、地図にない場所(道)だ。
藪ではないものの、やはり日常的に使われている道路という感じはしない。
しかし、すぐ先には明らかに使用者がいる施設がある。これも地図にはない。
出た先も気になるが、まずは忘れずトンネルの振り返り。
これが無名隧道1の南口である。市道としての終点側なのか起点側なのかは皆目分からないけれど。
坑門の外観としては先の北口と変わるところはない。やはり扁額などはないのである。
チェンジ後の画像は少し遠くから撮影。
北口でも同じことを書いているが、このトンネルが潜っているのは完全に人工地形の築堤であるものの、植生からは自然の地山との区別は付かない。それほどいろいろな樹木が繁茂している。上に道路があることさえ、先に見ていなければ分からないくらいだ。
トンネルの竣功は昭和44(1969)年らしいから、築堤もそれと同じくらいの年月はここにあるのだろう。
その間、植生が育つに任せていたらこんな風になったのか。
トンネルを出た先にあったのは、DOX FIELD Southern Valleyという会員制のドッグフィールドであった。
上の地図に青線で描いたように、施設内の道路は枝分かれしていて、南へ行く線と東へ行く線があった。
いずれも砂利道だが、車の出入りは常にある様子だった。
そして東へ向かう線については、最終的に築堤上の直線道路に繋がっていることを確認した。「社有地につき進入禁止」とされている区間内に繋がっていたのである。
この写真は、先の地図の「現在地」の位置で撮影したものだ。
こんな感じでよく整備された、私道っぽい雰囲気のある道路が続いていた。
トンネル側から来る場合は、特に通行規制は目につかないが、市道と私道の区別が付かないし、また沿道に取り立てて記録すべきものもなかったので、レポートは省略する。
そして最後はもう一度、無名隧道1を潜ってスタート地点へと戻った。
写真は南口に隣接する住居の前からトンネルを撮影。
坑口の直前までは広い道があるが、トンネルだけが極端に狭い。そしてそのトンネルは市道である。
現地のレポートは以上である。
トンネルとしては小粒で、変わり種ではあるものの、さして大きな背景があるとも思われない感じだが、実はこのトンネル……というか上を通っている築堤の道は、なかなか凄い背景を持つ。
キーワードは、「出土規模において、世界最大の、一大土木工事」。
地元の人であれば皆が知っている話だと思うが、机上調査編として附記しておきたい。
名前も姿も立地も、全部が奇妙である「無名隧道1」は、如何にして誕生したのか。
その背景を、資料から探ってみた。
まずは、歴代の地形図と航空写真を見てみよう。
@ 地理院地図(現在)
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A 平成12(2000)年
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B 昭和50(1975)年
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C 昭和45(1970)年
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@最新の地理院地図。
元の地図には描かれていない無名隧道1や前後の道路を青い線で書き加えている。
この書き加えた内容を含む“現状”が、過去とどのように繋がっているのかをこれから見ていこう。
A平成12(2000)年版。
隧道は描かれていないものの、隧道の位置を通過する「徒歩道」が描かれており、その東端は国道127号にまで達している。
また、国道127号の東側、@では「富津ソーラー発電所」とされている一帯が、非公開の道路を示す「庭園路」記号が縦横に走る「砂取場」となっているのが目を惹く。
だが、次の版ではさらなる壮大の風景が展開する!
B昭和50(1975)年版。
見よ! 地図の盤面いっぱいに展開する「山砂採取場」とその積み出しのために設けられた2本の「ベルトコンベヤー」を!!!
これについては後述するが、「出土規模において、世界最大の、一大土木工事」とする資料がある。
そして、現在との比較における重要なポイントとしては、隧道が潜る直線の築堤道路が元は山砂を海上へ輸送するためのベルトコンベヤー通路であったことだ。
起伏を無視して伸びる直線道路がベルトコンベヤーの跡だったというのは、わかりみが深い気がする。
C昭和45(1970)年版。
Bからわずか5年を遡った地図風景は、全く長閑な房総の里山に過ぎなかった。
無名隧道1の竣功年は昭和44(1969)年とデータベースにあったが、地図上ではその翌年でもまだ平穏であった。
地図の最北部に「浅間山」(「せんげんやま」という)の注記を持つ標高170mほどの山が見えるが、間もなく裾野まで完全に跡形なくなるのである。
この時点で、隧道のある地点を通る「徒歩道」は既に描かれており、この道が通る谷戸の全体に水田の記号が見られることから、これが農道や生活道路として古参のみちであることが明らかだ。
IV. 昭和23(1948)年
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III. 昭和50(1975)年
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II. 平成17(2005)年
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I. 令和6(2024)年
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今度はより隧道の周辺に焦点を当てて、先ほどとは逆に古い順に航空写真を見較べてみよう。
写真は地図以上に変化を忠実に見せてくれるはずだ。
IV.昭和23(1948)年。
昔ながらの歪な区画をされた水田が、樹枝状に広がる谷戸の全体に展開している、純農村の風景だ。
III.昭和50(1975)年。
白い屋根に覆われた完全に直線の構造物が出現している。これが山砂運搬用のベルトコンベヤーである。
また、地形図Bではベルトコンベヤーが単体で描かれていたが、実際はその北側に並走する道路も作設されていたことが分かる。
そして、このベルトコンベヤーと道路のセットは、長閑な谷戸を巨大な築堤によって分断している。現在では植物が茂って分かりづらいが、当時は盛土の形がよく分かる。
そこには今回の主役、「無名隧道1」の両坑口もはっきり見える。
航空写真IV→IIIの変化から、今回の隧道は、山砂採取事業に関係する公共補償として建設されたことが読み取れる。
II.平成17(2005)年。
平成7年に撮影された航空写真まではベルトコンベヤーが写っていたが、この平成17年版では跡形もなく撤去され、代わりに直線道路が広くなっていた。
しかし周辺の山砂事業が終息したわけではなく、従来山林であった部分に新たな採取場が現われている。
谷戸にあった水田は区画整理が進んでいるが、一方で築堤や隧道によって分断された上流部は荒廃が進んでいる。
I.令和6(2024)年。
II.では休耕地化していた谷戸の上流部が再開発され、今回の探索で目にした家屋を含む複数の建物が登場している。
その決め手となったのが“矢印”の位置に付けられた新たな進入路の存在だろう。従来の隧道は狭すぎて、再開発の役には立たなかったのだろう。
逆に言えば、II.の当時はあんな細い隧道でも補償が成立するほど、一帯の土地の利用度(価値)は見くびられていたのだと思う。
以上で地形図と航空写真の比較を終えるが、ここまでで、無名隧道1が建設された経緯は山砂事業に対する公共補償であると理解した。
あとは、この山砂地業の正体について簡単に紹介したい。
ご存知の方もいらっしゃると思うが。
以下に紹介するのは、日本国土開発株式会社の公式YouTubeチャンネルで公開されている『砂山を運ぶ 浅間山開発工事記録』という約30分のカラー記録映画である。
これを見れば、かつて当地で繰り広げられた未曾有の大土木工事の全容を当事者の言葉で知ることができる。
私が繰り返し引用している「出土規模において、世界最大の、一大土木工事」も、この映画の言葉である。
ベルトコンベヤーが動く姿もバッチリ収められている。
「無名隧道1」のような本筋から見ればあまりにも枝葉に過ぎない構造物については登場しないが、一見の価値があるので時間がある方はぜひ見て欲しい。
昭和46年、千葉県富津市で三菱鉱業セメント株式会社から、三菱建設株式会社(現:ピーエス・コンストラクション株式会社)とジョイントベンチャーで受注した浅間山山砂採取工事は9年間で8,000万立方メートルを採取する大土工事現場でした。土砂はモータースクレーパ8台(CAT657)とトラップローダーの組み合わせと、バケットホイールエクスカベーターとシフタブルコンベアの組み合わせにより採取。土砂はメインコンベヤーでいったんストックヤードまで運搬し、さらに国道と鉄道をまたいで船積み桟橋までベルトコンベア輸送するというもので、最盛期には月170万立方メートルの採取を行いました。コンベア幅は180cm、毎分300mのスピードを有し、搬送能力は毎時8,000tを確保していました。
『日本国土開発|工事記録アーカイブス:砂山を運ぶ -浅間山開発工事記録-』
『富津市史 史料集1』には、この工事の経緯が計画側の視点からまとめられている。
千葉県の富津地区埋立による工場用地造成計画に対応し千葉県開発公社は、その後背地である富津町浅間山丘陵地帯を開発し住宅団地造成を計画した。たまたま日本鋼管は京浜工場の移設に伴う扇島埋立工事を計画、埋立用土砂を必要としていた。右両計画に即応して当面日本鋼管KK扇島埋立用として土砂約4000万立方メートル(全計画土量の約50%)を全長約3kmに亘るベルトコンベヤー並びにプッシャーバージ船団にて搬出すると共にその跡地に千葉県開発公社が住宅団地を造成するという本浅間山開発計画が実現の運びとなった。なお本区域を開発し東京湾周辺の埋立用土砂として供給方検討中であった東亜港湾工業(株)並びに三菱鉱業(株)は千葉県開発公社の委託を受けて本計画を実施のこととし、右担当機関として浅間山開発(株)を設立土砂搬出工事及び住宅団地造成工事を行うこととなった。
事業開始年月日
昭和45年1月 土砂搬出設備工事着手
昭和46年3月 各防災施設完了
昭和46年4月2日 各土砂搬出設備負荷試運転
昭和46年11月2日 本格出土開始
『富津市史 史料集1』より
詳しく説明しようとすると当事者が多く複雑になるが、ごく簡単にまとめると右図のようになる。
ときは昭和40年代初頭、高度経済成長の中で、埋め立てによる工業地の開発と、従業員が住まう新たな住宅地の開発が共に燃え上がっていた東京湾の沿岸が舞台である。
当時、千葉県による富津市沿岸部の工業開発が行われ、千葉県開発公社はその後背地にあたる浅間山一帯に住宅団地の造成を計画した。
時を同じくして、日本鋼管株式会社は自社工場移転用地として扇島に新たな埋立地を造成するための土砂を欲しており、ここに浅間山を切り崩した山砂で新扇島を作るという一石二鳥の計画が起ち上がった。
8000万立方メートル(東京ドーム1700杯以上)の山が海へ移動して島に変わるという、神代の国生みのような壮大な出来事が現実に行われたのである。
それも昭和45(1970)年1月の着手から昭和55(1980)年の完工までたった10年の間に、人間だけの力でやった!

『富津市史 史料集1』より
前掲した地形図Bに見たとおり、浅間山を切り崩して作られた広大な砂取場から海へ向かって2系統のベルトコンベヤーが同時に稼働していた。
北側のA系統と南側のB系統があり、それぞれ掘削にあたる事業者が違った。日本国土開発株式会社が担当していたのはA系統である。今回探索した隧道が潜っていたのもA系統。
ベルトコンベヤーの先端は両系統とも海上に1km以上伸びていて、先端に船積み設備があった。そこでは同時に2隻の作業船(土砂運搬と海中投下を行う)であるバージが横付けされ、プッシャーと呼ばれる動力船と合体し連日東京湾内を往復し続けた。
左の写真はA系統先端の様子である。

『土木施工 13(10)』(1972年9月号)より
右の写真はA系統のベルトコンベヤーをヤード側から撮影したもので、奥が海だ。
海まで続くこの直線の中央部約1kmには平行する道路があり(遠くの方に見える)、その道路部分は現在も道路として利用されている。
今回探索した隧道もこの写真の範囲内に存在するが、遠いので全く見えない。
また、転載元にあるこの写真のキャプションは次のようになっている。
「ベルコンルートは将来の道路計画に合致したので、山林と田圃を直線で通る(A系統)」と。
この“将来の道路計画”というのは、千葉県開発公社が持っていた住宅団地造成計画の関連であろうと思うが……
思い出してほしい。
というか見直してほしい。
先ほどの地形図@やAを。
扇島の埋め立ては昭和55(1980)年に完成し、ベルトコンベヤーの使用も終了となるのだが、その後半世紀近くが経過して、ベルトコンベヤーの撤去はされているものの、今なお浅間山跡地一帯での住宅団地開発は全く行われていない。
事業終息直前の昭和54(1979)年という時期に発行されている『富津市史 史料集1』は、この事情についても述べており……
跡地の住宅団地については、その後の自然環境保全問題及び昭和48年の石油ショック以降の経済変動にわざわいされ富津沖埋立規模の縮小、流入人口の減少、諸公共事業の後退、立地条件の不利、宅地予備群の増加等々と相まって、各種審議会より今日の社会的経済的見地から今具体的方向付けをすることは軽率のそしりを免れないとの理由で、当初計画の変更が提言され、現在最適な計画を模索中である。
『富津市史 史料集1』より
当初は美味しい一石二鳥であったはずの計画も、終わってみれば、一石一鳥が現実だった模様。
この論文の5〜6pに、その後の経過が詳しくあった。
それによると、110haの跡地利用方策として、昭和59(1984)年に富津市が事業主体となる浅間山運動公園の整備を開始、翌年にオープンしている。
が、この施設は約3haに過ぎず、残りは様々な利用方法が模索されたが、平成26(2014)年頃から複数の太陽光発電所が稼働するようになって現在に至る。
令和に入ってからもプロポーザルによる開発方策が模索されているようだが、直近では令和5(2023)年に破談になってるな…。
最後に、今回登場したベルトコンベヤー跡の直線道路って、当サイトではずいぶん昔のレポートでも一度登場している。
以下に述べることを裏付ける資料はないのだけれど、ベルコン跡の直線道路には、もしかしたら、あの未成に終わった“磯根崎海岸道路”と接続されて、東京湾口道路と房総スカイラインを結ぶ重要な道路になる可能性があったのかもしれない?
位置的にも、事業の背後関係的にも、案外にあり得る気はする。
ではもしかして、そんな未来があったとしたら……、
「無名隧道1」は、今より輝けたのだろうか。
……たぶん、そこは変わらなかったと思う。(笑)
こんな日陰の道に触れられるのは、本当にオブローダー冥利に尽きるな。今回も調べがたのしかったです。