廃線レポート 上信鉱業専用軽便線(未成線) 第5回

公開日 2015.5.04
探索日 2015.4.08
所在地 群馬県長野原町〜嬬恋村

【情報4: 吾妻川を渡る橋脚跡】


出発時には、時期外れの降雪のため果たしてどうなるかと危ぶんだが、実際には至極順調に探索の成果を挙げ、出発から3時間30分を経過した午前9時半時点で、読者情報によるターゲットは一つを残すだけになっていた。それが終われば「終点」の芦生田を見てから、自転車か、あるいはJR吾妻線に乗って、スタート地点へ引き返す予定だった。

【情報4: 吾妻川を渡る橋脚跡】は、専用線がこれまで一度も渡らなかった吾妻川の本流に、ただ一度だけ対峙する場面である。
あの支流の遅沢川でさえ、あれだけ巨大な橋を架けようとしていたのだから、相当の大型橋梁の痕跡を期待したいところだが、そこはやはり未成線。
情報によれば、「割と高さのある橋脚が一本ぽつんと残っています。」とのことであった。
でも、なんだかんだ言って楽しみだよ。

さて、今井発電所から再スタートだ。




2015/4/8 8:32 《現在地》

発電所から少し進むと国道が上り坂になり、そのまま山側に並走していた専用線の路盤を呑み込んだ。
ここから【情報4】の擬定地点までは300m程度であり、情報が吾妻川を渡る橋である以上、この辺りで専用線は国道と交差し、川側に転位するのだろう。
普通に踏みきりでの平面交差が計画されていたと思われる。




今度は川側に平場が現れたら面白かったが、残念ながらそうはならなかった。
勾配を緩めずに上っていく国道に鉄道がついて行けたとは思えないので、左側の下方に置き去りにしたと思うが、ここで突如国道の川側に歩道が出現しており、その下に呑まれてしまったのかも知れない。

そして見ての通り、この辺りの吾妻川の河谷はかなり広い。畑として利用されている段丘地が川の両側にあるためだ。まだ対岸に橋を架けるには早い感じ。



何かある!

国道の上り坂が頂点に達する直前、川側の狭い林の中に、
木立ではあり得ない“太い”ものが1本、混じっているのが見えた。

対岸の山腹もこれまでよりはだいぶ近付いていて、架橋可能な範囲である。
でも、それでもかなり大きな橋でなければならないが、覚悟の上だろう。
また、大きさだけでなく、高さの面でも、想像していたよりも壮大だ!


9:45 《現在地》

これが今回寄せられた情報のラストナンバーだ。
うっかりしていれば見過ごしそうな“さりげなさ”で、そのうえ木立に紛れるカモフラージュもされていたから侮れない。情報さまさまである。

見たところ、情報の通り現存する遺構は“1本”だけで、巨大な吾妻川の河谷を目の前にして如何にも力不足な感じを受けた。
ただし、現地を見ているだけでは、最初からこれしか施工されなかったのか、後から撤去されてしまったのかは判断しかねたが。

そして重要な訂正もあった。
情報では「橋脚が1本」あるということだったが、これはどうやら橋台である。
向かって左側は本来ならば盛り土なりコンクリートの擁壁なりで埋め隠されてしまう部分で、だからこそ固定のための“ツメ”が付いている。いずれにせよ、ここが架橋地点で間違いない!




9:48 《現在地》

吾妻川左岸には橋台以外の遺構がないことを確認してから、架橋地点の全貌を見られる500mばかり上流に架かる町道の橋へ回った。

写真はその橋の上から架橋地点を望遠で覗いたもので、架けられなかった橋の規模を想像する助けになる。

もっとも、私が写真に描き込んだ橋の姿は、なんの根拠も無いものだ。想像をリアルに描くことも出来ない。
唯一現存する橋台の位置から、橋の高さだけは正確にわかるが、進行方向も定かではない。
もちろん橋の形式や橋脚の位置なども全く分からない。
その姿は漠然としているが、全線中で最も高く長い橋だったことには疑いがない。
また本橋の仮称は、吾妻川橋梁としたい。

(当然だが、橋台を施工したくらいだから、橋全体のちゃんとした設計図があったはずだ。どこに保管されているのかいないのか。国立公文書館で検索すると昭和23年の「上信鉱業株式会社専用鉄道敷設免許申請書返附」なる資料があることが分かるが、内容未確認。)



今度は同じ橋の上から、望遠ではなく、肉眼で見たのと同じ風景を撮影。
専用線の橋(写真の赤線)は、左岸の高い河岸段丘の縁から始まり、やや斜めに吾妻川を跨いでから、
現在はセメント工場が建っている低地も越えて、村道上面の山腹に取り付くライン(黄線)だろうか。
その場合の橋の長さは、だいたい150〜180mといったところ。



9:50 《現在地》

情報にない本橋の遺物を求めて、先ほどから見えていたセメント工場のあたりへやって来た。
ここは探索始まって以来の吾妻川右岸だ。地名も嬬恋村芦生田に入り、これは資料などで度々現れた専用線の終着地として度々目にした名である。

だが、肝心の遺構については、まずセメント工場内については全くなさそうだ。
その背後の山腹も、工場用地を造成する段階で切り崩されたのかいかにも平板で、まったく路盤がありそうにない。 というか、無いと分かる。




セメント工場付近から眺める、橋台がある対岸の林。
残念ながら橋台そのものは緑に隠され見えないが。
また、眼下の川を見れば、河床も両岸もだいぶ大規模に手が加えられていて、一度建造された橋脚が壊された後だとしても、痕跡は無さそうだ。

結局、路線内最大の吾妻川橋梁の現状は、事前情報の通り、橋台一基のみと結論せざるを得なかった。
まあ、ここに遅沢川で見たような立派な橋脚の列が残ってでもいたら、とうの昔にメジャーな未成線になっていて、私が楽しむ余地などなかったかもしれないが。
そういう歪んだ意味ではありがたい喪失、ないし未完成であった。





現状については分かったものの、果たして吾妻川橋梁の橋脚は最初から作られなかったのか、作った後で壊されたのか。
本線最大の構造物であるだけに、この謎くらいは解き明かしておきたい。

その手段は、帰宅後の航空写真の調べに拠った。(聞き取りをしたかったが、あいにくの雪で道行く人に出会えなかった)
それでは早速ご覧頂こう。


昭和50(1975)年の航空写真は解像度が良く、障害物もないために、吾妻川の河中の様子もかなり鮮明に見えるのだが、当時既に橋脚が立ち並んでいた様子は無い。
ゆえに、昭和50年当時には既に存在しなかった可能性が高い。

そして米軍が撮影した昭和22(1947)年のものは、解像度が低いために、川の中に橋脚が立っていたかどうかを判断するには弱いものの、見えていないのは確かである。
それよりも気になるのは、この昭和22年版には南岸に続く路盤らしきラインが、かなり鮮明に見える事だ。
矢印のあたりに、連続したラインが…。

さらにグーグルマップで現在の航空写真を確認したところ、【このように】、昭和50年当時ともだいぶ変わってしまっていることが分かった。
川の中の様子も、南岸の建物の数も、位置も。

結局、かなり高い確率で吾妻川橋梁の橋脚は一度も建造されたことが無いということ。
そして、南岸には確かに路盤が造成されたが、それも後に壊された部分が多いというのが、歴代の航空写真を見ての感想である。
以上をもって、【情報4: 吾妻川を渡る橋脚跡】の調査を完了したい。




終着地芦生田集落を前に、忽然と姿を消した路盤。  


吾妻川橋梁を渡った専用線は、吾妻川南岸を村道よりも高い位置で山沿いを走る計画だったと思われるが、このエリアは私をあざ笑うかのように接近を拒んだ。
なんというか、取り付きが悪かった。冒頭のセメント工場に始まり、続いて現れた写真の嬬恋村水質浄化センター、さらに民間の製造工場などが、山沿いに立ち並んでいた。
どこも突然の訪問を受け入れろいうのは難しい話だろうし(聞いたわけではないが)、そこに何か遺構が有ると分かっているならば難しいチャレンジもするが、建物の背後に見え隠れする山腹に、それらしいものは見えなかった。

結局、南岸に移ってから600mほどの区間は、手持ちの地図上に予め引いていた「推定ライン」を目で追い掛けただけで、具体的な成果は得られないまま、終点の待ち受ける芦生田集落へと探索の舞台を移すことにした。




9:55 《現在地》

ここは地形図にも記載されている「瀬戸の滝」対岸のカーブで、ここを曲がればすぐに芦生田の集落が始まる。
だが、思っていた以上に川縁まで山が高く迫っており、ここを専用線はどのように回り込んだのだろうかと不思議に思った。
桟橋でも設けなければ、ここを村道よりも高い位置で横断できるとは思えない。


… ま さ か ア レ と か ?

そんな期待を私が抱くのは当然で、

とりあえずこの山の裏側がどうなっているのか、確かめる価値があるだろう。



険しい岩場を回ると、間もなく村道よりも高い位置に平場が現れ、そこへ上るお誂え向きの砂利道があった。

平場と言っても、今まで見てきたような線的なものではなく、もっと広大ないわゆる造成地っぽかったが、専用線は村道よりも高い位置にあったと思うから、ここは迷わず登る事にした。左折。




平場の上には、思いのほかに広い土地が広がっており、そのまま芦生田の住宅地が広がっていた。
もっとも本来の芦生田集落は、大正初期に軽井沢から伸びてきた草津温泉軌道(後の草軽電鉄)の一時的な終点となった嬬恋駅を中心に発展したらしいから、そこから少し離れたこの辺りは、いわゆる新興住宅地なのだろう。芦生田は嬬恋村の役場などがある中心地からも近いので、人口もそこそこ多そうだ。



正直なところ、この新しい住宅地を前にして、しばらく冷遇されていた未成線探索の熱も、いよいよ挫けそうだった。

だが、捨てる神あれば拾う神ありとは、ここで振り返った私のキモチを現した言葉としてこの上もなく適切だった。




10:01 《現在地》

なにこの台形。

不自然すぎるだろう?

上ってほしいんだな?

上ってほしいんだな!

この位置にまっすぐ山へ突き刺さる “築堤” があるとしたら、その先は…!



なにがおきたかわかるか。わかんないだろうからせつめいしてやる。じつはおれにもわけがわからん。だって“築堤”にのぼろうかとおもってちかづいてみたら、その“築堤”のうえではなく、はいごにみえてきやがったんだ。隧道隧道隧道隧道隧道隧道隧道がががががが!!!!!!

すまん!取り乱しかけた。

でも、情報になかった隧道らしきものが見えてきたのは真実であり、あわわわわわわわとなったのも真実だった。
写真に黄線で示したのが、いかにも築堤と見えた地形なのだが、その上ではなく、その傍らの山際に、口を開けていた。





こんなものが、口を開けていたんだ!


これ、ガチで専用線の隧道じゃないの?

長野原の街の近くで見たのに続く、第2号隧道じゃないの?



ナンで教えてくれなかったの?

これ、芦生田に住んでる人… いや、嬬恋村に住んでる人なら全員知ってたんじゃないの?
知っていたけど、「山行が」なんか知らないから教えてくれなかったんだよね。(←真相)
それに、近くに住んでしまえば、こんな当たり前にある穴は、興味の外になるものだろう。


でも、私にはこの穴が必要だ。


次回は、
この穴を探る。