常磐線 旧隧道群11連発 その3 

公開日 2006.02.01
探索日 2006.01.21




 鹿島〜原ノ町間にて二つの旧隧道を攻略した私は、車に戻るとすぐに更なる南下を開始した。
次なるターゲットは、一駅間をスルーして次の磐城太田と小高(おだか)の間にある。

 原町市街地にて駅前の入り組んだあたりに間違って入ってしまい、国道6号線へ戻るのに少し苦労した。
それでも6号線に出ると流れは順調で、あっという間にバイパスは太田川を跨ぐ。
そこから緩やかなアップダウンを経て、間もなく小高町の標識が現れた。
目指す隧道はこの真西にあるが、やや離れており道もないので、一度小高駅のあたりまで進むことにする。
丘を下ると小高川を渡る橋で、直後小高駅のある市街地へと入る県道が分かれる。
国道から折れ跨線橋を渡って市街地へはいる。
見慣れぬ街角にキョロつきながらも、狭い小路を二度三度曲がり、隧道へ近づけそうな郊外地へとたどり着いた。

 時計を見ると時刻は既に午後1時を回っている。
残る隧道は最終目的金山を含め、あと8本。
タイムリミットは、午後6時に仙台駅前到着(厳命!)となっている。

 え?
なぜ仙台かって?

 いやぁ…。
実はですねぇ。
同行してきた彼女を仙台駅前に朝、置いてきたんですよねー。
「一日好きにショッピングしてて。」って。
で、6時に迎えに来るからって。
仙台に連れてくる代わりにガソリン代を半分出してもらうという契約でして…。
まあ、飲み食い代が二人分になると思うと…、やっこさんは結構喰うんで、結局儲けにはなってない気もするんだが…。

 おっと、どうでもいい話ですな。
ともかく、午後6時には仙台駅前にこの首を差し出さねば。
私との関係は終わるに違いない!!


岩迫隧道 

磐城太田 〜 小高 間

13:11

 私が車を置いたのは、左の地図中の車の記号のあたりで、線路沿いの田んぼの中だ。
小高町の中心部からは1kmほど北上した田園地帯である。
線路は築堤の上を真っ直ぐ駆けており、この築堤も線路2本分の幅がある。
半分は旧線敷きである。
 このやや小高町寄りには築堤が跨道橋になっている箇所があり、煉瓦製の旧橋台がちらりと見えたが、立ち止まることはしなかった。
時間が惜しい!
なんとしても金山にたどり着きたいのだよ。



 農道を小走りで駆け、築堤に上る道を見つけた。
コンクリ鋪装の小径を上ると、すぐに金属製のゲートがあったが、脇が甘くスルリと通過。
築堤上の旧線跡には、現在線のレールと平行して保線用の車道があった。


 あまりレールに近いのと、平行してあるく距離が数百メートルに及ぶので、チャリを組み立てることを惜しんで徒歩で来たことを悔いた。
が、仕方がないのでランニングで進む。
既に現在線の岩迫トンネルが見えており、町の境である尾根がはっきりと立ちはだかっていた。
そこをめがけて、旧線跡も真っ直ぐと続いている。
ここで電車が来たら気まずい思いをするだろうから、「来ないでくれ〜」と心の中で叫びつつ、臆病な私は駆けた。



 運動不足気味の私はすぐに息が上がってしまったが、列車が来る前に現在線とサヨナラ出来た。
そして、単独になった旧線跡の道は、やがて隧道へと吸い込まれていく。
この隧道の周りにも、竹藪が鬱蒼と茂っていた。

 この隧道は、前回紹介した江垂隧道や川子隧道と同様に明治31年に開業しており、昭和42年に電化のために廃止された点も一緒だ。



 これは立派だ…。

 思わず距離を置いて立ち止まってまずは一礼したくなる。
威風堂々たる大変に重厚な坑門デザインである。
遠目には藪に坑門の大部分が隠れ、その偉容に気づかなかったが、近づけば近づくほど、圧倒するような迫力がある。
この小さな単線の隧道には、大仰とも思えるような坑門である。

 この坑門の意匠は言葉で言い表すのは地幅を取りそうなので、まずは写真を見て欲しいのだが簡単に説明すると、全体像として左右対称ではなく、現在線側には上部が階段状に切り揃えられた翼壁があり、反対側は通常通りの形である。
また、坑口の中心線上には、扁額でも付ければ良さそうな凸部分が取り付けられており、全ての縁は煉瓦2段の段差を持って仕上げられている。




 特に特徴的な現在線側の階段状翼壁部分。

 蔦状の木々が絡み付いており廃風を醸し出しているが、これだけ精緻な意匠の隧道を覆ってしまうと雑多な印象は避けられない。
かなり貴重な意匠を有する鉄道文化財だと思うので、木々によって破壊される前に手を打てないものかと思う。
幸いなことに、現時点での保存状態は頗る良好である。



 如何に美しい外見を持とうとも、内部の様子は毎度お馴染みの灰まみれである。

 これまでとの違いとしては、左右のいずれにも側溝が存在しない。
また、この隧道は緩やかにカーブしており、出口を見通すことは出来ない。
延長は200m足らずだが、初めて「SF501」に頼って探索する必要を感じた。
また、この隧道にはスプリングライン(=側壁とアーチの境目部分)付近に錆び付いたケーブルが残っていた。
電話線だろうか。



 この隧道内部にも距離標らしき木柱を見つけたが、江垂隧道内で目撃した物よりも小さく、数字も読み取れなかった。
500m単位の距離標かも知れない。

 壁の汚れぶりがよく分かる写真である。
まるで、車両火災でも起きたのかと思えるような姿だが、いずれの隧道も同様の有様で、常磐線特異の様相を呈している。
現役当時に保線の人たちが待避坑で列車をやり過ごすような場面はあったに違いないが、命懸けだったのではなかろうか。



 やがて光の下へ。
果たしてこちら側の坑口は、如何ほどの物だろうか。



 北側の坑口も、堂々たる佇まいであった。

 やはり南側同様に左右対称ではなく、片側が階段状になっていることは共通しているが、全体的な印象はまた大きく異なる物がある。
天辺の凸部分はなく、現在線側の非常に広々とした翼壁と、一部が手前側に張り出している反対側の階段状翼壁との組み合わせは、躍動感さえ感じさせる、軽やかなデザインだ。
 全体的に苔による赤化が目立つが、構造物自体は非常に良く残存しており、類型のない保存すべき坑門デザインと考えられる。


 左右それぞれの翼壁の様子は上の写真の通りで、左側は現在線ののっぽなコンクリの坑門と接しており、ほぼ一つの平面を成している。
接している部分では互いに干渉したはずだが、現在線側が煉瓦に一歩譲るように施工された様子がうかがわれ、嬉しくなった。
 一方の右側はこれまで干渉する物もなく、建立当時のままであろう。不必要と思えるほどに自由に羽を伸ばしている。
なお、手前側に折れた部分の下部には水路が裏側から通じており、今回は裏側を見なかった(後悔してる…)が、背後には広いスペースがありそうだ。
(あ〜、どうなっているのか気になる…。再訪せねば。上るのが大変そうだが。)


 隧道の先では現在線と合流しており、特に遺構のような物はなかった。
私は、すぐに引き返し、ふたたび金山を目指しての移動を開始した。


 次回は一気に数が進みそうなエリアへ。


隧道 のこり本。
地球滅亡まで のこり …4時間と30分。