常磐線 旧隧道群11連発 その4 

公開日 2006.02.02
探索日 2006.01.21




 朝に仙台を発った私は、常磐線の電化に伴う旧隧道群を一つずつしらみつぶしに探索してきた。
一つ目の下郡隧道攻略開始時からはもう3時間を経過し、やっと4本の隧道を完了したが、今回の計画本数11本のうち未だ半分に達しておらず、午後六時という私に与えられたタイムリミットは刻一刻と迫っていた。
 と同時に、午前中こそ冬の太平洋岸らしい快晴に恵まれたが、時刻の経過と南下につれて空模様も怪しくなり始め、カーラジオのニュースが、都心でも5年ぶりの積雪を観測しているなどと盛んに報じている。
今この時も、隣県の茨城県水戸市あたりまでは雪雲に包まれているらしく、この先の探索への不安を煽った。

 しかし、次の探索したこの小高〜桃内間は、探索の進捗状況を一気に進める上で、私の味方となりうる区間であった。
なぜならば、このたった4km足らずの駅間には、その南半分に集中するようにして、4本の旧隧道が犇めいていると言う机上調査結果が上がっていた。
ここで一挙4本を攻略できれば、やっと残りは3本となり、クリアも見えてくる。


小高 〜 桃内 間 

耳谷の隧道群

13:41

 左の地図の通り、この区間の旧隧道4本は一連の旧線として現在線の東寄りに並走して存在しており、記録に拠れば昭和42年に全長1.1kmが廃止されている。
 アプローチとしては、並走する県道120号線の桃内駅付近に進入箇所があるのだが、私は手探り状態だったので、とりあえず旧線が見える場所と言うことで、桃内駅の北寄り300m程の位置にある、築堤を潜った脇道に車を駐めた。
今回は探索中の移動距離が大きいので、旧線上での取り回しに不安はあったが、チャリを組み立てて使用することにした。
本日常磐線探索では二度目のチャリ出動である。

 右写真は車を駐めた場所(左地図中の車の記号の位置)から、傍のガードを撮影したものである。
築堤上は架線柱の様子から複線となっていることが分かる。
旧線敷きも利用されているようだ。



 くぐると、ガードの旧線側半分はかなり堅牢な造りであることが分かる。
現在線側は普通の矩形のガードである(上の写真と比較して欲しい)

 アーチの中は、高さの割に幅が広いというか、幅が広い割に高さがないというか、圧迫感がすごい。
滑らかな側壁や両側の坑口部分はコンクリートであるが、さらにこのガードの東側半分のスプリングライン以下(側壁部分)のみ、古そうな石積みとなっている。(左右両側とも)
この不自然な意匠は、当初は現在のアーチの半分の幅の石造橋台によるガードであったものを、後にアーチ化すると同時に奥行きを倍に延長したのではないかと考えさせるが、裏付けは取れていない。


 県道側からガードを振り返ると、坑門にてコンクリート部分と石積みの部分とが存在することが判明。
やはりコンクリート部分は後補のものであると確信された。
ただし、元来の形状については不明である。
 また、現在は一面アスファルトに覆われている道路部分だが、この道路の下には水路が隠れているようである。
となると、元来はこのガード(あるいは橋)には、道路と水路が並んで潜っていたのではないかと考えられる。
後に水路が道路の下に隠されたのではあるまいか。

 見慣れないアーチ状の重厚なガードに、思わず探偵気分で時間を使ってしまった。
 やば! 先を急ごう。



 羽州浜街道を踏襲し、国道6号線の旧道でもある県道120号線は、小高桃内間で常磐線と一度交差する。
そして、この交差箇所の前後に二つずつ、合計4つの隧道が存在するが、私はこれらを桃内駅付近から北上しつつ連続して探索する計画だった。
築堤の脇を通る県道を北上していくと、前方には小高い丘が立ちはだかっており、隧道群はこれをクリアするために存在している。



 間もなく真っ直ぐ続く築堤から県道が東へと膨らんで離れる。
この膨らみの部分にも現在線の隧道が二つあり、その隣に旧隧道があると踏んだ私は、この場所から旧線捜索を開始することにした。
というのはちょっと大袈裟で、県道からすでに、僅かではあるが煉瓦の坑口の上端が見えていたので、これを目指すことにした。

 と、そこで看過できぬ物を発見。
地層も鮮明な山肌にぽかりと口を開けた3つの穴。
こんなに目立つ場所に、一体ナニモノだ?




 刈り取られ寒々とした田んぼの向こう側に見える穴の正体は、ただの空洞であった。
3つの穴は繋がっておらず、それぞれ奥行きは2m〜3m程度。
単純に貯蔵庫のような意味合いで土地の人が作ったものと思われる。

 ちなみに、私はチャリを押してあぜ道を歩いて築堤上に見える煉瓦の坑門を目指したが、これは道と言うよりも私有地バリバリなので、叱られても知りません。
ちゃんとしたアプローチルートもあった(後から発見)なので、オススメはそっちだ。



 いざ田んぼの隅の築堤下まで接近してみると、これを上ることが意外に一筋縄でいかない事を知った。
ましてチャリ同伴となれば、徒労に終わる可能性も十分にありそうだ。
あたりには道らしきものはなく、5mほどの藪さえ突破できれば旧線上にチャリごと進入できそうなのだが…。
 どうするべきか、逡巡したのだが、結局は…。



 チャリを重しにして藪を潰し、あるいはチャリを担ぎ上げ、築堤の天辺まで上り切った。
すると、ちゃんと刈り払いされた旧線が足元に煉瓦の坑口と共に現れ、ホッとした。
ただし、下りも蔦が絡み付く意外な難所だったので、時間が惜しい私はチャリを力の限り放って、路盤に投げ落とした。
それを追うように、自分も強引に藪を体重で押切り、旧線跡に転がり出た。

 ちょっと力業に出たが、何とか素早く旧線跡へと辿り着いた。



 ちょうどその時、軽やかな警笛を響かせて、クリーム色の列車が並行する線路に躍り出てきた。
このカラーリングはどこか秋田を走る男鹿線や五能線の列車にも似ており、失礼ながら田舎臭いという印象を持った。
この列車が大都心の日暮里や上野まで行くのだろうか?(行かないよね)
これならば、奥羽本線や田沢湖線を走るステンレス製の列車の方が都会的である…。

 って、私は一体なんて恥ずかしい、田舎根性丸出しの事を書いているんだ。
電化されている常磐線と、幾らデザインの野暮ったさが似ているからって、非電化の男鹿線や五能線を比較しちまうだなんて。
失礼!



 少し旧線を桃内駅方向へと歩き、二つ並んだ第一耳ヶ谷隧道(現在線の方は“トンネル”だが)を併せてパチリ。
電化のために役目を終えた明治の隧道と、代わりに任を負った昭和のトンネル。
機能は全く同じ「トンネル」なのだが、外見のイメージだけで、こうも異なる印象を与えるものか。

 次の隧道(当然「第2」だ)が既に、隧道越しに見えている。
二つの隧道は、共に短いものであることが分かる。



 おそらく50mにも満たないこれまでで一番短い隧道だが、坑門の装飾に手抜きは見られない。
階段状の翼壁を持つ姿は、前回紹介した岩迫隧道と似ているが、左右対称であるためかさらに儀容に満ちた印象を受ける。
これまでの隧道の中では比較的煉瓦の色も良好で、欠けもないことから保存状態は良いと言える。

 短い隧道であっても力を抜かずに坑門のデザインを行った日本鉄道には、官設ではないが故の余分な示威心があったのだろうか?
同年代の煉瓦隧道には、鉄道道路の別なく装飾的要素がまず含まれる。
これは「様式」として、ある程度は存在して当然と言える物だったとも考えられるが、特にこの常磐線区内に存在する一連の隧道群には、一つとして同じデザインの物がないほどに、凝っている。
現代の公共事業ならば、金の無駄だと言われるだろうが、当時の風潮はこのような虚飾(過剰な装飾)を、市民も国威の発現として好意的に捉えていたのだろう。


 第一耳ヶ谷隧道の内部写真は撮られていなかった。
改めて内部で撮影するほどに長さがなく、外から見えていたとおりだという意味だ。
実際、特に印象に残ったことはない。

 現在線とは藪を挟んで平行しているが、藪が濃いために単独線路のように感じられる第一第二隧道間の直線部分。
次の隧道の上の尾根には高い杉の木が見えており、延長もいくらか長そうである。
また、この隧道間の直線も遠目に見たよりも長く、これだけの距離がありながらも、先ほどのように二つの隧道の出入り口を全て貫通して遠望出来たのは、この路線がそれだけ贅沢な線形で造られていた証しだろう。



 振り返ると、潜ったばかりの第一隧道の北口である。
南口とほぼ同じデザインで、違いを見つけることに大変苦労する。
今ひとつ自信がない、というか、後年の劣化による物である可能性があるのだが、構造上の違いとして気付いたのは、笠石の煉瓦の厚みが、南口4枚、北口は3枚である事くらいだ。
全体的に赤化しているのは、苔のせいだ。



 直線を走り(チャリなのでこう言うところはペースが稼げる)、すぐに次の第二耳ヶ谷隧道の南口へ。

 この坑門もまた、第一と同様のデザインで、違いを見つけることは出来ない。
さきほどは、「一つとして同じデザインの物がないほどに」などと書いたばかりで(探索中にもこの辺りまで来ると、おそらく同じデザインの物は故意に避けたのだろうと考えつつあったので)残念な気がしたが、これだけ近接した第一第二の坑口デザインは、敢えて美観のために同一にしたのかも知れないなどと、自分を納得させてみた。



 デザインに関係する物ではないが、この坑口には今までのどの隧道にも見られなかった物が残存していた。
トンネル銘板代わりの、金属製のプレートである。
最初ご覧のように外れかけて裏返りさえしていたが、落ちてしまわないように丁寧に裏返してみたらば…。



 「第二耳ヶ谷」「78M33」の文字がかなり鮮明に残っていた。
第一に比べると大分長いように見えた第二だが、それでも100mにも遠く満たない短さであった。

 プレートは取り付けられていた4隅の内、3隅までが腐食により留め金ごと損失しており、復旧は困難だろう。
大風などに煽られて遺失する可能性が高そうだ。



 この隧道の内部は、これまで見てきた物の中ではダントツに煤煙の付着が少なく美しかった。
延長が短いことがその原因であろう。
また、汚れ方が全体にまでは広がっていないおかげで、汚れのひどい箇所とそうでない箇所との鮮明な色分けが発生している。
天井の中でも天端の部分が最も汚れており、ついで側壁に汚れが目立つ。

 これは言うまでもなく、蒸気機関車の排煙箇所と符合している。
特に、天井の汚れが天端に極端に集中しているのは、終盤に長く本線を駆けた国内旅客用最強のSL「C62」は馬力の大きさもさることながら、その巨体でも知られていた。
竣功が明治中期と古い本隧道の狭い断面に対して、巨大なC62の煙突が天端すれすれに達し、煉瓦を焼くような勢いでぶつかっていたのだと想像される。(ただですら煙の多い常磐炭を焚いて走っていたのだ。)
これだけ選択的な汚れ方は、珍しい。



 第一第二と相次いで貫通すると、次にあるはずの「第三」は一応見えてこそいたが、思ったよりも遠くだった。
この間の300mほどの直線の途中では、県道(旧国道6号線)を跨ぐ跨道橋がある。

 二つの隧道を後に再び漕ぎ出した私だが、ふと、第二隧道の南口を見ていなかったことを思い出し、一応記録しておかねばとチャリを止め半身で振り返った。








あがーッ!!(←顎の外れた音)


すっ、スゲー!
な、なんだこの城は!!

 振り返った先にあったのは、未だかつて私が遭遇したことのなかった、異様な坑門の姿であった。
いまにも、馬に跨った甲冑の騎士が現れ、私をその手にした鋭いランスで串刺しにしそうな勢いである(???)



 ちょっと、この坑門の意匠は、文章でダラダラと説明する愚を犯したくはない。

  見てくれ!
   見ての通りだ!
    すごいでしょ?

 私が設計した隧道でもなんでもないわけだが、この隧道の紹介として最も妥当なのは、そんなところだ。
 けっして説明が面倒なのではなく、複雑なこの形状を言い表すならば、

いまにも、馬に跨った甲冑の騎士が現れ、私をその手にした鋭いランスで串刺しにしそうな勢いである。

 と言うより他はないからだ。

 あ、でも…。
一つだけ、言っても良いですか?

 設計された人には申し訳ないのですが…、
地形的に左右対称に出来なかったのはやむを得ないとしても、向かって左側の(上の写真左)、やる気の無さそうな斜めの擦り合わせ方はどうだろう…。
どうにも、バランスが悪いというか。
私のセンスが悪いのか…、 私的には、ここだけが惜しい!
猛烈に、惜しい!!
これで左右対称ならば、最高だったろう。



 それはともかくとして、
これだけ手の込んだ、本当に手間のかかっただろう、この精緻を極めた坑口の意匠が、見たところなんでもないような、たった78mの隧道に設けられた真意は、何だったのだろうか?
反対側の坑口に比べても、圧倒的な違いがある。

 一つ一つの隧道に、敢えて異なるデザインを持ってきたその真意が、私は知りたいのである。
もっと言えば、一体誰がこのようなデザインを設計し、各隧道にどのような異図で割り振ったのだろうか?
各隧道ごとに別々の施工主体があり、それぞれが競いあったのだとすれば納得も出来るが、そのような話を聞いたことはない。

 従来から総花的と評される、この一連の常磐線明治隧道群に秘められた真意を、今後時間がかかっても解き明かしていきたいと思った。
皆様の考えや、ずばり答えを知っているゾという方も、ぜひご意見をお聞かせいただきたい。
ただの飾りにしても、何かしら深い意味があるのかも知れない。


 次回も、美しくも怪しい隧道の乱れ咲き?!


隧道 のこり本。
地球滅亡まで のこり …4時間と09分。