常磐線 旧隧道群11連発 その8 金山隧道 <後編>

公開日 2006.02.24
探索日 2006.01.21



遂に公開! 金山隧道 その内部。

全長 1646メートル

16:18

 金山隧道は有名な廃隧道で、かつ低山であることから侮りのあった私は、思いのほか接近に苦労させられた。
それでも、隧道直上の国道沿いにあるコンビニを出発して約30分、午後4時18分にその坑口へと辿り着いた。

 明治32年に竣功し昭和38年に老朽化を理由に廃止されるまで64年間、常磐線最長の隧道として幾多の列車をその身に潜らせたが、いまではそのどちらの坑口も深い藪に閉ざされ、夏期はまるっきり接近できないようだ。

 見た者の目を必ずひく特殊な坑門の装飾…日本鉄道会社の社紋である白い「動輪」のレリーフ…のためか、廃線を取り扱う多くの書籍などにこの隧道は取り上げられているし、多くのマニアが訪れている場所だが、ネット広しといえどもこの洞内を通り抜けたという話は聞かれない。



   興味のない人が誤って立ち入ってしまうような場所ではないせいか、隧道への進入を拒むような柵などは設けられておらず、殆ど廃止された当時のままの姿を留めていると思われる。
 この日それまでに私が体験してきた10の旧隧道には一風変わったデザインの隧道がいくつもあったが、この金山隧道はそれらの集大成とも言うべき荘厳さで、まるで城門のようである。
さしずめ王家の紋章が飾られる場所には、現在の常磐線や東北本線を敷設し東北地方を鉄道の恩恵に浴ししめた、日本鉄道株式会社の社紋である動輪を象ったレリーフが、廃止後40年余りを経ていまなお堂々と輝いている。



 鮮やかだったはずの坑門の煉瓦は蒸気機関車の煤煙によって真っ黒に変色してしまっているが、不思議なことに、おそらく石造と思われる動輪のレリーフは、今もかなりの白さを保っている。

 実際にこの場所に自分の足で来てみるまでは、本などでこの姿を見ても感動は薄かった。
隧道という機能だけを考えれば無駄の極致であるところの動輪のレリーフは、私の好みに合わなかったのだ。
しかし、苦労してそのものを目の前にすると、印象は少しだが変わった。
当時、全国にも数えるほどしかなかった長大隧道を苦労して掘りきった技術者たちであれば、いざ完成すれば“機能”としてだけ働くことになる隧道に対し、せめて、利用者の目にとまるかもしれない坑門だけでも飾ろうと考えるのは、無理もないことだろうし、美しい心の動きだと思う。
私個人の意見としては、身の丈にあった装飾をするべきであって、その意味でこの金山隧道は、かような華美な装飾に耐える大物であると思うのだ。

 なお、この動輪をならず者のイタズラから守っているのは、蜂たちのようである。
写真をよく見て欲しい。



 

 動輪の意匠を存分に楽しむ余裕は、残念ながら今の私にはなかった。
日帰りのつもりで秋田から来ているのに、遠く400kmも離れた当地で既に夕方を迎えている。
しかも、これから潜る闇の深きは人跡未踏とさえ言われるものである。
万一、洞内の閉塞といった不測の事態が起きていないとも限らない。
速やかに、洞内へと潜入開始である。



 既に坑口から洞内へと注ぎ込む明かりは薄暗く、これ以上なく陰鬱な雰囲気を醸し出している。
自分は勇気があるなどと言うつもりはないが、「普通の人ならばまず入ろうとは思わないだろう」ムードだ。(“慣れ”って怖い)
また、フラッシュと焚いて撮影すると、小さな埃の粒子が辺り一面に舞っていることが分かる。
空気は乾燥しきっていた。



   隧道進入10m。
この段階で既に、白亜の動輪が半ば強制した高潔な印象は、脆くもひびが入る。
美しい坑門に誘われて目的無く立ち入る者ならば、この段階で引き返すのではないだろうか。
少しでも内部に入ってみれば、飾りがあるのは坑口だけで、内部はただの廃止後40年余りを経た廃隧道であることが分かるのだから。
特に、この隧道をカリスマ的に感じている人には入らないことをオススメしたい。
確実に、幻滅するから。

 さながら白い煉瓦を使ったかのようにあらゆる内壁は白化し、さらに坑口に近いあたりは、シダ植物や苔が取り憑き緑色に変色している。



闇色の隧道


 まだ目が闇に慣れず、SF501を点灯させても不安なほど暗く感じる。
特に濃密な闇などというものが、あるのだろうか。

 時間があまりないこともあって、私は一度隧道へ入ってからは殆ど立ち止まらず黙々と出口を目指し始めた。
するとすぐに、この隧道の特異な部分に気が付いた。
今も点々と枕木が残されているのだが、それは一般的な枕木ではなく、左右のレールごとに敷かれた小ぶりな物である。
そして、その枕木の殆どが埋まっている道床だが、一見土のようだが、実は粒の大きなコンクリートである。



 隧道は入ってすぐに緩やかな右カーブとなっており、呆気なく入口の明かりは見えなくなってしまう。
当然のように、出口など全く見えない。
こうして、金山隧道の探索者は、進入から間もなくして、ライトだけを頼りに進まねばならなくなるのだ。

 それにしても、これまでのどの隧道にもまして凄まじい内壁の汚れ方である。
これらは全て、SLの吐き出した煤煙がこびり付いた物だろう。



 あなたは信じられるだろうか?
分厚くこびり付いた灰により、壁の形自体が変形している。

これはまるで…車両火災でも起きかのように見える…
禍々しささえ覚える有様だ。



 オイオイ…。

 何の冗談だか知らないが、この炭まみれの中になぜ、灯油かなにかのポリタンクが落ちているのか…。

 その場では深く考えると凹みそうなので止めたが、どうしても焼身自殺のイメージを拭えない発見だった。
まだ、辛うじて入口の明かりが届きそうな場所だったから救いがあったが、1kmも先だったら、逃げ出したくなったかも知れない。



 大体坑口から300m。
もう、後ろにも前にも、光は見えない。
だが、この辺りまでは踏み込んでくるマニアもいるようで、点々とジュースの空きボトルが落ちていた。
これまでの長大廃隧道での探索でも大概そうであったが、坑口から奥へと進むに従って侵入者の足跡や痕跡は減っていく。
この隧道の場合、1.6km超という長さであるから、前も後ろも見えなくなったこの辺りで引き返す人が多いと思う。
それは必ずしも臆病風に吹かれてと言うよりは、どこまでも変化のない洞内を歩いていても仕方がないと思うからだろう。
私も、通り抜けるという目標がないのであれば、このくらい歩いた段階でもう洞内の状況は大体理解できたと判断し引き返しただろう。
そのくらい、洞内の様子に変化は乏しい。



 さらに進むと、変化が現れた。
しかし、それは感動を呼ぶようなものではなく、単に「あ〜あ、汚れるなー」と言う類のものである。
黒と白だけの世界に、鮮やかに咲いた茶色の花… 食事中の人、ごめんなさい。



 その泥は自然と盛り上がるような感じで道床に広がっていたが、天井から滴ったような痕跡はなく、おそらくは床に近い側壁からじわりじわりと染み出したものだろう。
小さな隙間からはみ出してきた地球の中身は全くもって柔らかく、心配したような臭いはないが、見た目は完全にヘドロである。
躊躇わず踏み込む私の背後には、グッチャラクッチャラと不快な音を立てて大きな足跡が刻まれた。
この時点で、泥の上に残る足跡は、私のほかにもう一人の往復分くらいだけになっていた。
普通の神経の持ち主なら、この泥を見ただけで引き返しても不思議はない。



   足元は泥濘に支配されているときも、それ以外のあらゆる部分は白と黒に覆われている。
特に、天井の中央部、天端の部分はモロに蒸気機関車の煙突から吹き出す高熱の煙を浴びたせいか、焼けただれ、見るも無惨な状況となっている。
常磐線の隧道群が特に煤煙で汚れているのではないかと言うことについてはこのレポートでも前に述べているし、その理由としては、廃止間際まで「C62」という大型で大出力の蒸気機関車を利用していた事との関連性を推測している。

 だが、これまでのどの隧道よりも遙かに激しく汚れた金山隧道についてだけは、現役だった当時もそれが問題視されていたことを示す、貴重な文書を発見した。
それは、幸いにして今もネット上で自由に見ることができる資料だ。



 それは、『土木学会誌』の昭和15年2月発行分に含まれる「常磐線金山隧道内コンクリート道床改修工事に就て」と言う文書である。

 この文書は、金山隧道の道床をコンクリート化した時の報告書であり、私が洞内に入って最初に不思議に思った奇妙な形の枕木の正体を知ることも出来た。だが、そのこと以上に私が知りたいと思った、この異常な汚れ方の原因も記されていたのである。
その部分を一部抜粋して紹介しよう(文体は平易に改めた)。

 金山隧道は、南口(始点方)304m間は半径503mの曲線で、なお勾配は前半は2.5の上り、後半は7.1及び10の下りで殆ど隧道中央部で高く、南口に向かって下り勾配となっている。
 以上の如き隧道なるため、列車からの煤煙は容易に排出し難く、また撒砂も多く、線路保守困難なるため、昭和4年6月より約1ヶ年半に亘り、隧道内延長1565mを総工費112000円を以てコンクリート道床に改築したのであったが(以下略)

 この隧道が特別に煤煙で汚れた原因は、煙の篭もりやすい隧道の線形と長さ、さらに勾配のため煙を多く吐き出すと言うトリプルパンチによるものであったのだ。納得である。
写真は側溝を流れる水、それはまさに墨汁であった


 足元の泥は束の間のものであったが、その先には壁面の黒が空間に染み出しているのではないかと思えるような、濃密な闇が延々続いていた。
道床には、板のような薄い枕木が点々と敷かれている。
さきほどの“報告書”では、隧道内で勾配を越えるために砂を撒く列車が多くて、バラストが砂に覆われたり、煤煙で汚れるなどして保守に問題があった。
そのためにバラストを用いないコンクリート道床に改築したのだと書いてある。
 実はその先にも報告書の内容は続いている。
せっかく改良はしたものの、まだ技術的に成熟していなかったコンクリート道床は、やがて列車の衝撃のために枕木が破損して軌道が乱れるなど問題が起きたようだ。
それで、この2枚板の不思議な枕木が使われる様になったようなのだが、ちょっと素人には内容が難しく、これは専門家の力を借りたいところである。

→リンク先 “土木学会誌 昭和15年2月号「常磐線金山隧道内コンクリート道床改修工事に就て」



 坑口から800mあたりだろうか。
相変わらず、どこまでも真っ直ぐ続く、黒い回廊。

 当時の記録に拠れば、峠のサミット(隧道内の標高のピーク)は南口から766m地点であるから、大体この辺りだろうか。
もっとも、その勾配は緩やかであり、体感できるほどではない。

16:33

 やっと半分来たかという辺りだろうに、貫通の雲行きは俄に怪しくなっていた。
それは、進むほどに足元を覆う泥が深さを増していたからだ。
上の写真では両側の側溝を覆うだけだった泥は、その先では遂に道床全体を埋め尽くした。
さらに進むと、ますます泥は深くなり始め、私に大きな不安を感じさせたのである。

 経験上、水没は攻略が不可能ではない。
意を決して水に入るという他にも、ボートを持ち込むなどといった攻略方法が実践されるからだ。
しかし、水面のない泥沼はある意味、最も困難な道床のコンディションである。
泥の上を渡る舟はないし、物理的にもある一定以上の深さとなると、人の脚力では進めなくなってしまう。
最悪転倒すれば、水の場合同様窒息する危険性もある。
サミットを越えたばかりのこの位置で始まった水没(泥没)… 
一番怖いのは、このまま下りに合わせてドンドンと深くなっていく事だ。
おそらくそうなれば、如何に勾配が緩やかでも、さしては進めないだろう。


 だ、駄目かもしんない…



 き、気色悪い。
お食事中のみなさまには、ご愁傷様でしたと言うより他はない。
この金山隧道に、今何が起きていて、これから何が起きようとしているのか、それは私には分からないが、傷つけられた地球の膿のような茶色い泥は、至る所の壁からじわりと沁みだしており、結果、私を試すかのように困難な足元を演出している。



 煉瓦の隙間から一筋の水が放物線を描いて、さながらションベン小僧のように道床へ注いでいた。
その周囲には、真っ黄色の泥の花が咲き乱れ(オエッ)、それとはコントラストも鮮やかに小粒の黒砂が流紋を描いている。
これらはすべて、巨大な地圧によって押し出されたものに他ならず、徐々に隧道を押しつぶそうとする力の表れである。
果たして、金山隧道は、あとどれくらい保つのだろう。

 いよいよ、ネット初公開?!
 金山隧道最深部映像を、次回最終回にて大紹介!