廃線レポート 中津川発電所工事用電気軌道 反里口〜穴藤 第4回

公開日 2022.06.02
探索日 2020.05.09
所在地 新潟県津南町

 第一隧道(仮称)南口捜索


2020/5/9 7:12 《現在地》

pop氏よ、見てくれているか!! 私はやったぞ!
あなたが見つけてくれた隧道を、窮めたぞ!
そんな誇らしい気持ちを胸に地上へ戻った私は、すぐさま次なる行動を開始。
隧道北口のすぐ下の斜面を降りて、80分ぶりに写真の町道分岐地点へ帰還した。

大きなことをやり遂げたような達成感が既にあるが、今回踏破すべき軌道跡は、距離のうえでまだ始まったばかりである。
直前の隧道は、その位置と長さの両面から、かつて秋山郷の入口に控える門戸という役割を果たしたであろうが、閉塞が確認された以上、これを迂回して郷中の最初の集落“穴藤”を目指す必要がある。
距離的には、中津川に沿ってあと2.5km遡ったところが穴藤だ。



上の写真の撮影位置から、下ってきた斜面を振り返って撮影した。

ほぼ河原の高さにある町道と、山腹を横切る軌道跡の落差は、この地点でおおよそ20mほど。
場所が分かっていれば到達は容易いが、草が生い茂っている季節では、下から見ても全然存在が感じられない。
特に隧道は少し奥まっているので、見える位置になかった。

これから、隧道を迂回して、河原の町道を上流へ向かう。
pop氏も確認していない南口の捜索発見が、次のタスクだ。
簡単に見つかってくれると有難いが、先ほど目にした無残な洞内閉塞が北口と思われる以上、おそらく無事な状況にはないだろう。覚悟が必要だ。

自転車……。読者諸兄はその行方なんてあまり気にされないと思うが、私の自転車は6:13に現在地の200mほど下流の町道上に乗り捨てられたままである。
回収に戻ることも考えたが、この先どうせまた乗り捨てる展開になる予感がするので、このまま歩いて上流へ向かうことにした(もちろん探索後に回収した)。




凄い。

工事用軌道が隧道で突破していた尾根を、川べりのスレスレを明かりで通過する町道からの眺めは、

「石落し」と呼ばれている中津川対岸の落差300mにもおよぶ大断崖を一望する、圧巻の絶景だった。

観光ガイドには見玉の展望台から眺めると書かれているが、この谷底からの眺めの方が凄いじゃないか?


しかし、私が真に見るべきものは、別にある。



これは写真中央付近を拡大した画像だが、

ここに横たわる、対岸の崖と比べれば遙かに可愛らしい尾根は、

第二隧道(仮称)の擬定地点である。

あの尾根の向こう側が穴藤集落だ。そこにある発電用鉄管路の頭が尾根越しに見えている。

これは今後の展開を占う重要な眺望だ。果たして第二隧道は実在するのか。



新旧地形図をもう一度見較べてみよう。

だが、地形が違いすぎて合わない!

特に、昭和26年の地形図が2本目の隧道を描いている辺りの地形が、いまとはまるで違っている。
これはさすがに地形が変化したというよりは、古い地形図の測量が不正確だったのだと思う。
集落周辺は当時からかなり正確に描かれているのであって、いかに中津川の谷底が
人跡稀な秘境であったかが窺える不正確さといえるだろう。

それでも無理矢理に現在の地形図と合わせようとした結果、
2本目の隧道の位置は前述した尾根であると推定して、この探索に臨んだ。



同一地点からもう1枚。これは下流方向を振り返って眺めだ。
上流と比べればとても解放的で明るい眺めに、大河の下流を感じる。
反里口集落とその下流の集落が、同じ河岸段丘面上に綺麗に並んでいるのがよく見えた。

軌道は、起点付近の釜落しにあったインクラインで反里口がある段丘面に乗り、
反里口を出てからも同じ高さをキープしたまま、現在地の第一隧道(仮称)へ至り、
徐々に河底の勾配に追い上げられつつも、最後まで軌道らしい緩やかさを維持して、
穴藤まで達していた模様である。(そこで河床に追いつかれ、穴藤の大インクラインで再び突き放す)



7:14 《現在地》

第一隧道北口直下より200mほど、川べりの町道を前進した。
町道は依然として見通しも良く河原を直進していくが、気になるのは隧道北口の行方だ。
どんなところにあるのか全く情報がないが、距離的にはそろそろあってもおかしくない。

そんなことを思いながら、隧道が潜る尾根の先端部が中津川に削られて出来た険しい斜面を見上げていると…… そこが大きな崩壊地になっていることが分かった。

分岐地点にあった工事用モノレールは、この崩壊地の上に至るものであり、この崖の崩壊を抑える工事が現在進行形で行われていたのである。
ほぼ1年前にpop氏が訪れた際、南口へ近づけなかったのも、この工事のためであったと思う。(今日はGW中のせいか工事が行われていなかった)



おそらく川沿いの町道もこの崩落に巻き込まれたことがあるようで、辺りが荒れて見えるのはそのせいだろう。
暴れ川と崩壊した崖に挟撃される立地は、広々とした眺望とは裏腹に危険な町道なのである。

しかし問題は町道ではなく、隧道南口である。

あの【閉塞壁】には、地表の大規模崩壊に巻き込まれている感じがあった。
天井が強い圧力で押しつぶされ、そこから水気を強く含む瓦礫がなだれ込んできていた。
あの圧壊の状況と、ここから見上げた巨大な崩壊地は、符合している。

北口は町道から20mほど高い位置に存在していた。
南口もほぼ同じ高さにあるはずだが、ちょうどここから20mくらい上に、工事用道路らしき平場が見えた。それが軌道跡かもしれない。
南口擬定地は、おそらくこの治山工事現場に呑まれている!



7:18 《現在地》

状況的に、南口の現存が絶望的であることは理解したが、一縷の望みをかけ、擬定地へ通じる工事用道路へアプローチした。

結果は駄目でもいい、私の納得のいくものを見せてくれ!




工事用道路の行き止まりまですんなり到達。
ここまで入口から100mくらいだったが、気になる点は何もなし。
最近作られたらしき砂利敷きの綺麗な車道だった。

で、道はここですっぱりと終わっていて、その先には急なゲレンデのような草と土の斜面が広がっている。
全体がお椀状に凹んだ一目瞭然の地すべり跡地だ。
そして、ここが北口の擬定地となる。

残念だが、やはり開口の望みなしと判断して間違いないだろう。




私がここへ辿り着いたとき、一頭の大きなカモシカが、道の行き止まりの先に佇んでいた。

彼は私を見ると、走り去るわけでもなく、ゆっくりと姿勢を変えて、

斜面のある一点に視線を向けて固まっていた。

その古老然とした風格に、言葉以上の何かを感じとった私は、その視線の先へ行ってみた。



うん。

ここに埋れてそう。

冗談抜きで、確かにここだと私は感じた。
斜面の傾斜にわずかながら作為を感じた。
それは北口を取り囲む傾斜の再現のように感じた。

感じた。 感じた。 感じた。

答えは分からないが、ここが大規模に崩れたのは数年以内のことだと思う。
わずか数年前まで90年近い長時間、隧道は貫通を維持していたのではないだろうか。

惜しかったと思う。



7:21 《現在地》

私は今、【閉塞壁】から10m以内の至近にいると思う。
この位置を南口と特定したことで、隧道の全長は180〜200mと計算できた。
工事用軌道という短期間利用を前提とした隧道としては、驚くに値する長さだと思う。
現在の町道は河原まで降りることで隧道を使わずこの尾根を越えているが、高度を保ったまま尾根を越えたかった軌道にとって、この長さの隧道は必須だったのだろう。

続いては、この南口跡地を起点に軌道跡を辿っていこうと思うが、とりあえず直近の軌道跡は、斜面の崩壊や工事用道路の造成によって地形が変わっているせいか判然としない。何か見いだせるまでは、工事用道路を進もう。




うんうん……。

微かにだけど、平場の存在が感じられる。

南口と同じ高さに、山腹の傾斜が緩い部分が続いているのである。
先に探索した北口へ続く軌道跡も、このような緩斜面と化している部分が多くあった。
おそらくこれが、地形に溶け込みつつある軌道跡終末期の景色とみて良いと思う。

正直、あまりにも外観が緩慢で、藪も深く、歩いてみたい気にはならなかったので、引き続き町道を迂回して進むことにする。





歩かなくても分かる、このダルさ。

いまだかつて、この緩慢な斜面に描かれた微妙な平場の正体を、
電気軌道の跡であると喝破した余所者が、どれほどいたであろう。

依然として町道より10m以上高い位置に軌道跡は続いているが、だいぶ近づいている。
それなのに、軌道跡を町道として再利用しようという意識は全く感じられない。
道路と鉄道、由来が異なる道同士の隠しきれない余所余所しさを感じる。

ところで、写真の奥で町道が“コンクリートの壁”を迂回するようにカーブしているが…



そこには、かつて見たことがないほど長い砂防ダムがあった!

砂防ダムの特徴的な両袖の盛り上がった部分がなければ、おそらく存在に気付かなかったと思う。

(→)
袖に埋め込まれた砂防ダムお馴染みの銘板には、「牛首砂防ダム」の名が。
昭和54年の完成。
堤高は、たった6m。
しかし、延長が210mもあるという。
これ一基で中津川の広い川幅をカバーしている。
(もしかしたら日本有数の幅を持つ砂防ダムなのではないかと思って調べてみたが、日本最大幅は870mもあるというから恐ろしい。)

で、この牛首砂防ダムを越えると……




7:28 《現在地》

町道のゴールである重要施設に到着!

“牛首”のすぐ上には、“頭首工”が待っていた。

現役道路による探索サポートはここで終了。

これより上流、穴藤までは無人の谷となる。

もう、軌道跡を歩くことから、逃げられない…!




 正面ヶ原頭首工の石碑が語る第一隧道の新事実?!


2020/5/9 7:28 

(前回の更新からうっかり随分と時間を空けてしまったが、続きを書いていく)

大正11年から数年だけ存在した中津川発電所工事用電気軌道の廃線跡の探索は、もともとの造りが簡便であったうえ、廃止から100年近く経過しているため、奇跡的に原形を留めていた「第一隧道(仮称)」を除くと、明確に廃線跡と判別できる場所はここまで決して多くなかった。地形をよほど注意して観察して、辛うじて平場という形で残滓を感じられるような場所が多い。

そのため、ここしばらくは廃線跡と並行している舗装路である町道を辿ってきたのであるが、ついに町道の終点が現われた。……というところからのレポート再開。




暴れ川である中津川の谷底を走る町道の終点には、正面ヶ原頭首工という津南郷土地改良区が管理する施設があった。頭首工とは用水路の取水口のことであり、これは正面ヶ原用水という灌漑用水の取水施設だった。

軌道跡はここで終わらずさらに上流へ通じているはずで、そちらへ向かうには、頭首工の門前から左へ分かれる未舗装の道(緑の矢印)が使えそうだった。
だがそちらへ行く前に、頭首工の敷地内に大きな石碑が見えたので、何が書かれているか確かめることにした。



大量の取水がコンクリートの巨大な水路を駆け奔る施設内であるが、僻地のためか柵はなく、自由に出入りができた。
しかも施設全体が中津川の低水地にあるため、改めて水面と地面を隔てるような堤防もなく、なんというか、原始の大河に唐突に人工物があるような不思議な風景だった。

もちろん、重要施設は洪水で破壊されないよう嵩上げされた建物であったが、その建物や石碑が「石落し」の名を持つ日本屈指の大岩壁を背景に佇む景色は、観光地としてはほとんど無名ながらも、息を呑む絶景であった。
かつて無骨な小型電気機関車の牽引するトロッコ列車は、この崖を脇目にゴトゴト走っていたのだ。

チェンジ後の画像は、反対に川を背に眺めた石碑だ。
背の高い碑には、「竣功」の文字と共に「流水不息」(流れる水は清いというような意味)の漢文と、新潟県知事君健男の揮毫が刻まれていた。
低い碑については、後述する。
碑の背景には山際を横切る道が見えるが、これは門前で分岐した小径であり、残念ながら軌道跡ではない。軌道跡はもう少しだけ上を横切っていたはずだが、例によって斜面化していて判別は不能だった。



これらの碑は、立地から容易に想像できるとおり、「正面ヶ原頭首工」や「正面ヶ原用水」に関わるものだった。低い方の碑には「事業の沿革」を記したかなりの長文が刻まれていたのだが、その一部を抜粋して以下に転記する。今回の軌道跡探索からは脱線した話と思われるかも知れないが、たぶんこれ、無関係じゃない。下線を引いた部分に、特に注目してほしい。

本水路は、大正8年 正面ヶ原開田事業の水源として穴藤地内より中津川に幹線水路を開鑿し(中略)取水してきたが、昭和24年、25年のアイオン・キテイと相次ぐ台風と豪雨の災禍により、細越、宮の前地点に於いて水路が地山もろとも大崩壊を起こし通水不能となった時、たまたま出穂期のため関係農家は、ただ茫然とし、一日も早き復旧を渇望し数度の協議を重ねたるも(中略)国・県をはじめ関係機関に切々たる陳情を続けるに及び、特例として緊急災害復旧事業として採択され、綿密周到なる設計と技術に加えて日本発送電株式会社及び東京電力株式会社の絶大なる援助を得て、ようやくにして揚水施設が完工し、下流石坂地点より取水し今日に至った。しかしながら(以下略)

『事業の沿革』 碑文より一部抜粋

碑文は(以下略)の続きがあり、昭和24年と25年の災害からの復旧事業として整備された水路も再び老朽化したため、昭和43年に改めてここにある取水施設とトンネル水路を整備したという内容が本題である。
しかし私にとって重要なのは、冒頭の下線の部分だ。

大正8(1919)年に、穴藤から正面ヶ原まで中津川沿いに幹線水路を開鑿して取水したが、昭和24年と25年の災害でその水路が崩壊したという内容があった。

右の鳥瞰地図を見て欲しい。
穴藤は今回のレポートのスタート地点であり、中津川第一発電所の所在地だ。正面ヶ原は中津川と信濃川の合流地点に近い津南小や中学校がある段丘面をいう。
すなわちこの水路は、電気軌道の路線と並行する区間に存在していた。
しかも、水路の開鑿が大正8年で、電気軌道の開鑿が大正10年(開通は翌年)。廃止はそれぞれ昭和24年と大正13年だから、時期も一部重なり合っている。

そして碑文によれば、正面ヶ原用水の取水口は右図の@→A→Bのように変遷しているらしく、昭和24年までは@〜Aにも水路があったようだ。しかしこの区間が災害で使えなくなったため取水口がAに移動して揚水式水路となり、さらに後にBに移動して、かつ水色の破線で描いた水路トンネルが使われるようになったのだという。

ここからが最も重要だ。
先ほど探索した第一隧道(仮称)で、私は珍しいものを見つけている。
(←)それは洞床のコンクリート板の下に隠された大きな水路のような【空間】だった。

なぜあんな空間があったのか、現地で大いに謎を感じたばかりだが、直後に訪れたこの頭首工で早くもその正体に関する重大なヒント……いや、ずばり回答を与えられたのではないだろうか。
このような符号は、偶然ではないと考える。

おそらく、第一隧道は正面ヶ原用水と工事用電気軌道が共用していたのだ。
時間軸的には、先に水路隧道が開鑿され、それを拡幅する形で軌道隧道を開鑿した可能性が高そうだ。
わざわざ密閉に近いコンクリートの蓋をしていた以上、軌道と水路は同時に使われていたのだと思う。
そして先に軌道が廃止された後も、昭和24年まで水路として隧道は使われ続けていたのだろう。

また、pop氏の情報も合わせれば、この水路隧道時代やその後についても、歩道用の隧道としても使われていた可能性は高い。
水路、軌道、歩道などが、あの不気味な隧道を入れ替わり立ち替わりに利用していた…!

……なお、この水路軌道兼用隧道説は、後の机上調査によっても概ね肯定されることになった。



7:36 《現在地》

石碑を後に、今度は頭首工の門前で分岐している未舗装路へ入った。
入って50mほどの地点で振り返ったのがこの写真で、いまにも轍が消えそうな不安な道である。

そして肝心の軌道跡は、依然として山際の少し高いところを並走している気配がある(黄色い破線の位置)。
そこは一面がシダ植物に覆われた土の崖錐斜面で、頻繁に落石や雪崩を受けているから、軌道跡の如き細道が100年も原型を止められるはずはなかったと思う。

いま新たに、旧水路が軌道跡の近くにあったことが強く疑われる状況になったが、旧水路らしき痕跡は今のところ見当たらない。




そしてこちらが、これからの進行方向の眺めだ。
津南の5月初旬は消雪直後の時期ではあるのだが、既に斜面の緑は濃い。
そして、斜面に樹木があまり生えていないのは、雪崩の多いことを教えている。
わずか3回くらいしか冬を越す必要のなかった工事用軌道だけに、遠慮なくこんな斜面の下を横断したのかもしれないが、残された水路は維持管理が大変だったと思う。

正面右奥の尾根上にスギが纏まって生えているところが見えるが、旧版地形図に隧道が描かれていた「第二隧道(仮称)」の擬定地が、あの下の辺りである。今度はそこを目指すぞ。




前の写真の地点から5分ほど進んだが、草地が続いていて風景に変化がない。
既に足元の轍は消えていたが、依然として道を辿っている感じはあった。
ただ、ここが軌道跡ではないと思う。

そのように考える根拠をこの風景の中だけで説明するのは難しく、実際ここを歩いているときには、「いつの間にか軌道跡を見失った」と考えていたが、さらに進んだ先の状況から遡って考えると、やはり軌道跡は今いる道の左側、ほんの少し高い位置に並走していたと思う。

ぶっちゃけ、この辺りはただの草地が続いていて、テンションが少し下がっていた。
それでもGPSが表示する現在地は着実に次の隧道の擬定地へ近づいているので、期待感を持続することは出来ていた。



7:46 《現在地》

さらに5分ほど同じような景色を歩くと、ようやく景色に変化があった。
既に第二隧道の擬定地まで、100〜200mの近いところまで来ている。
だからこそ、隧道へ通じる軌道跡を見つけるべき正念場に差し掛かっている。

ここに来て、私が辿ってきた道(緑色の矢線)と、その一段上に並走している軌道跡と考えている道(黄色い破線)の並走が、いよいよ鮮明に現われるようになった。
この2本の道には元来別々の用途があったのだと言わんばかりに、決して交わることなくずっと並走してきたのだと感じた。地形的にはとっくに一つになっていて良いはずだ。

想像を少し逞しくすれば、この2本の道の正体は、軌道跡と農道だったと思う。
上段が軌道跡、下段が農道だ。そして農道の下の広大な氾濫原はかつて水田だった。それは旧地形図を見れば明らかだ。
そしてもう1つ重要な気付きがあった。
並走する2本の道形の間に、窪んだところがあった。



2本の道の間にある窪地は、一度気づいて意識を向けると、その後は明確な存在となった。
そしてまもなく、その窪地の山側にえらく古びて苔生した石垣が現われたのだ。
これで私の考えは固まった。

窪地の正体は、碑文にあった初代・正面ヶ原用水の水路跡に違いないと。
長年の堆積によって窪地は全体に浅くなっているものの、確かに窪地が続いているのだ。
つまりここには、水路を挟み込むように軌道と農道が存在していたのだと思う。
たぶんだいぶ前からそうだったのだが、地形が変化していて気付ける場所がなかった。

こんなに大掛かりな施設が、無人となった広い谷底に残されていた。
これまでに感じていた疑問や謎が、苔や草に覆われた遺構の発見によって、爽やかに氷解していくのを感じた。
そんな気持ちよさの中で、本日2度目の大焦点となる第二隧道擬定地が、迫っていた。