廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 第3回

公開日 2016.09.28
探索日 2013.01.31
所在地 千葉県君津市

見えざるものを見よ、奇想天外なる発想で。


2013/1/31 9:22 《現在地》

探索開始から約2時間半、“トロッコ谷”進入直後の廃レール発見という現実は、これまで半信半疑から脱していなかった今回探索の意義というべきものを、一瞬にして問答無用の確信へと引き上げる効果があった。
当然のことながら、これには私のテンションも急上昇!!!

林鉄不在と考えられてきた千葉県内に、資料では見たことのない森林鉄道が存在した可能性が、現実のものとなったのだ。
しかもこの瞬間、私はその偉大な探索の先鋒に立っている可能性があった。
そんな想像は、探索者としての私を大いに興奮させた。




3年前に聞いたきりの古老の証言だが、「今もトロッコのレールが棄ててある」と、廃レールの存在を言い当てていた。
或いはこの先にも別の廃レールがあるかもしれないが、とりあえず的中したことは間違いない。

となれば、当然次に期待されるべきものは、同じ証言の中に出てきた“長さ500m、幅2mくらいのトンネル”である。
千葉に林鉄というだけでも驚きなのに、長さ500mというのが事実ならば、全国の林鉄隧道の中でも相当の長さ自慢となる。そんなものが発見出来たとしたら、今回の探索は少しばかり、歴史に残るものになるかもしれない。

なお、この写真は廃レールが発見された地点を上流側から見た全体像である。
ここには堰跡があるので、おそらく、廃レールは増水で流されてきて、ここに他の倒木などの堆積物と一緒に残ったのだろう。
いずれは更に流され、ダムの湖底に消えてしまうかも知れない。



そしてこれは、上の写真を撮影した同じ位置から、反対の上流方向を撮影した写真だ。

ここはまだ“トロッコ谷”の入口といえる場所だが、その渓相は先ほどまでいた“隣の谷”を一回り以上スケールダウンした感じで、よく似ている。
両岸の切り立ち方や、流れる水の少なさ、小刻みに蛇行する点など、共通点が多い。
そのうえで、私が今一番に不思議を感じるのは、この谷のどこを、トロッコが通っていたのか?…ということだ。

これまで私は数多くの沢沿いにある林鉄跡を探索してきたが、その路盤の在処はほとんどが谷底ではなく、両岸どちらかの斜面内にあった。
谷底に氾濫原のような平坦な土地があるのなら別だが、かように狭い谷底に路盤が存在したというケースは見たことがない。それほどに、この谷は狭い。

であるにもかかわらず、谷底から見上げた両岸の斜面には、路盤跡を感じさせるような平場がまるで見えないのだ。
或いは、見えないほど高い位置にあるのだろうか。
実際に上って確かめるべきなのだろうが、谷底から外へ出ること自体が容易でなく、簡単には踏み切れなかった。



上の写真の奥に見える蛇行地点の景色が、これだ。
向かって右側の斜面には、支流のかなり高い滝が落ちていた。水量の少なさは惜しいが、なかなか見応えがある。
…といった具合に、連続して現地の写真を見て頂く訳は、読者諸兄にもこの谷の地形というものを、言葉だけでは伝えきれないその険悪ぶりを、実感として感じ取ってもらいたいからである。

もちろんそれは、私が現地で歩行を続ける中で感じ取ったことに他ならない。

私は、少し前に現実として発見した廃レールの流出元である路盤を、なかなか見つける事が出来ないことに、焦りを感じ始めていた。




路盤は見あたらないが、この支流の滝の前の小さな平場には、かなり古そうな炭焼き窯の跡らしき痕跡を発見した。

温暖多雨な気候のため、針葉樹の生育にはあまり適さない房総半島の山林は、大消費地に近いこともあって、昔から木炭の生産が盛んであった。
江戸時代には、一帯を支配した前橋藩や川越藩が、専門の役人を置いて炭焼き職人を山に軟禁するのに近いような体制で、生産を管理していたほどである。

ここで発見された、ほとんど原形を留めない炭焼き窯が、いつの時代のものであるかは判然としないし、トロッコと関係があるのかどうかも分からないが、この谷で目撃した穴や堰に続く“人跡”であった。

願わくは、早くトロッコの路盤跡をも見つけて、安心したいものだ。



9:29 《現在地》

炭焼き窯の地点から5分ほど、距離にして200mほど前進すると、谷が二股に分かれていた。
向かって右が本流、左が支流である。
地形としての支流は、先ほどの滝なども含めて数多く有るが、地形図上では数少ない水線が描かれた支流である。

そしてこの支流と本流が分かれる地点の中央の岩盤(矢印の位置)に、不思議なものがあった。




← これなんだが、何だと思う?

う〜〜ん。
何かが、埋め込まれていた跡??

そういえば、“隣の谷”でも、同じような出合の地面に標柱が立っている場所(写真)があったが…。
孔の形状は違えど、似たような標柱がここに立っていたのだろうか。

幾つも並んでいたりしたら橋脚を挿す穴という線も見えてくるところなんだが…(実際、その印象を最初に持ったので、だいぶ色めきだちはした)。



なお、この写真は谷の出合から見た、支流側の眺めである。

私はここまでも、そしてこの先も、支流らしいものが現れる度、入口から見える範囲は必ずチェックした。
その理由は、古老の証言である。
古老は、例の“トンネル”の位置について、「ダム湖の上の沢を遡っていくと2mくらいの滝がある。それを越えるとまた1mくらいの滝がある。その先で谷は二手に分かれていて、左の小さな谷を上っていくと、トンネルがある」というようなことを言っていたのである。

しかし正直なことを言うと、聞き取りの直後に私が記憶を元にレコーダーへ吹き込んだこの証言内容は、少しばかりあやふやだ。
古老は確信を持って語ったと思うが、聞き取る私の側が、少しばかり聞き流していたのである。そのため、肝心の「右」や「左」といった部分さえ、いまいち自信がなかった。
これは、現地で軌道跡さえ見つけられれば、そこまで詳しいレクチャーを受けずとも、自力で隧道には到達出来るだろうと考えていたためである。
後悔をしても始まらない。私に出来ることといえば、現地で見つけた支流をひとつひとつ確かめるだけだった。

…そして、この支流についてジャッジを下せば、ここは軌道跡ではないだろう。余りに狭く、急である。



谷に入ってすぐさま廃レールを発見した時には、「もらった!」と思ったのだが、
その先の展開は、まるで煙に巻かれてしまっている。肝心の路盤跡が見つからない。

それもこれも、この狭い回廊状の谷から外へ出ていないのが原因とは思いつつも、
具体的に上ってみよう、目指してみようと、そう思わせるようなものが、何も見えないのである。

かつて炭焼き人たちは、この険しい山野を我が物顔に跋渉したのであろうが、
その遠い後裔である私には、それほどの気概も能力も、備わってはいなかった。

さあ、どうしよう。

このまま、谷底を遡り続けるのが正解なのか、そうではないのか。




9:44 《現在地》

トロッコ谷の入口から、約600m地点まで進んで来た。

レポートは省略するが、この間にも先ほど紹介したものとよく似た古い炭焼き窯の跡が2箇所、やはり同じような川の蛇行内の小平地に存在していた。
だが、相変わらず谷の地形は極めて険阻で、外との交通を感じさせないし、肝心の軌道跡も見つからないままだった。
そんな膠着の中で、初めて「おっ!」と思えるものが現れたのが、この地点だったのである。

「まさかとは思うが…」
そんな前置きをした上で、軌道跡ではないかという“希望”を私に与えたそれは、前方の岩壁上に見える、まるで切り通しのような形をした窪みである。

だが、もしあそこが軌道跡としたら、そこへ至る路盤は空中にあったことになる。
それも、手前側にはいつまでも着地点がない。
延々と、私が歩いてきた谷の上空を、まるで高架橋のように軌道が通っていたと?

……非常識である。

これは流石に、軌道を探し求める気持ちが見せた“幻”に過ぎなかった。



だが、この地点には、

そんな“幻”ではない路盤が、かつて確かに実在していた。

その痕跡と思われるものを、遂に私は掴んだ!!


動画を、ご覧下さい。↓↓





私がここで見つけたものとは、河床の岩盤に穿たれた直径15〜20cmほどの円形の孔だ。

川底の岩盤にある丸い孔といえば、甌穴(おうけつ、ポットホール)をご存じの方も多いだろう。
甌穴は、川底の窪みに嵌まった小石などが川の流れで回転して周囲の岩を削ることで形成される純然の自然地形であるが、人工物のような綺麗な丸い孔が形成される。


でもこれは(→)

この、水に浸かっているわけでは無い、岩場の側面に付けられた四角い凹みは、どう見ても自然の造形物では無いんだよな。

ご丁寧に、鑿の痕まで残っていやがるぜぇ…!



また、この渓流に甌穴があったとしても不思議ではないが、その数があまりに多いのは問題である。

動画の中で私が歩きながら数えているが、ほんの20mほどの間に7〜8個は見つけている。
しかも、それらの配置に、ある程度の規則性が感じられたりもする。



…なんて、思わせぶりはもうヤメだ。

これが軌道跡であると、私は確信した!!

岩盤にある無数の穴や凹みの正体は、木造桟橋の橋脚を埋め込んでいた、人工の掘削孔に違いない!



この写真は、上の写真と同じ場所を反対方向から撮影したもので、赤い記号を付けた場所に孔や凹みが発見されている。
おそらく、念入りに探せばもっと沢山あるだろう。

そして、見つかった孔や凹みから想像される路盤跡の姿を、チェンジ後の画像に書き加えている。
この想像図の橋脚は数が少なすぎると思うが、痕跡が残っていない孔もあるのだろう。逆に、この想像図とは明らかに矛盾する位置には一つの孔も見つからなかった事実が重大だ。

これまで姿を見せなかった“幻”の路盤だが、実は、このトロッコ谷に侵入した段階で間近にあったのだ。
これまで谷を辿る中で、知らずにずっと路盤跡も辿ってきたのである。
事実、帰路ではこれより下流の各所でも、同様の孔を発見している。
偶々意識せずに見つけられるほど目立っていたのが、ここであったのに過ぎない。(さきほどの支流出合にあった孔も、同様の正体と思われる)

そして、このトロッコ谷に存在したトロッコの路盤とは、大部分の区間が、このような河床に設置された極めて低い桟橋や、同様に低い盛土であったと思われる。
こんなのは、他の地方の常識に照らせば、奇想天外といってもいいくらいのイレギュラーだろう。
実際に私も今まで、そんなトロッコ路盤跡を見たことはないし、想像したこともなかった。

だが、この房総という土地ならば、十分あり得ると私は思う。

房総の多くの谷がそうであるように、この谷の特徴は、河床が平坦で常時の水量も極めて少ないが、両岸には著しく険しい岩壁がそそり立っている。
このような谷に、決して何十年も使うわけではない一時的な林産物の運び出しのための道を敷設するとしたら、河床に簡易な桟橋を築造するというのは、理に適っていると思う。



直後。本当にその直後、

谷が牙を剥いた。

これは支流の光景ではない。
河床に桟橋のトロッコが敷かれていたと今しがた断定したばかりの、我らが本流の光景だ。
古老の証言にもあったものであるかは分からないが、合計落差6mほどのナメ状になった二段滝。

まさにこれは、路盤は河床に存在したと断定した私に対する、挑戦状だ。
こんな険悪な、通常ならば谷の上を遙かに迂回するか、隧道でも穿って越えるしかないような地形を、
谷底の桟橋が越えていけるのかどうかを試す、そんな場面のように感じられた。

そして―



はここにもあった。


これでもう、間違いないだろう。

谷底の桟橋は、私には想像して描くことも出来ない“匠なる技”を用いて、

このような険阻をも乗り越えて見せたのだ。

こんなところをトロッコが走行していたとは俄には信じがたい、

信じがたい “事実”である。



これは続いて現れた、ナメ滝の二段目(上部)である。

つぶさに観察すれば、おそらくここにも何らかの桟橋の形跡があったと思うが、
残念ながら、私の方にじっくりと観察するだけの余力が無かった。
命の危険を感じるような落差ではないのだが、沢靴ではない今日の装備では、
このナメはヌルヌルで危うく感じられ、最小限の動作で、この険悪を乗り越えるのが精一杯だった。


軌道跡を遂に認識したことで、私の意欲は最高潮に。

この先、全てを暴く覚悟で臨む!