廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 導入

公開日 2017.04.01
探索日 2010.05.04
所在地 静岡県川根本町

※千頭林鉄レポート再開記念として、拙著『廃道探索 山さ行がねが』に掲載された「千頭林鉄 大間川支線」のカラー版写真を、同書の読者様全員へプレゼントします。
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人里とのロング・グッドバイ! 大間集落を出発


2010/5/4(火) 4:30 

ここは大間集落(寸又峡温泉と言った方が通りが良いか)の中ほどにある観光駐車場だ。
これまでの千頭林鉄探索でも、私は毎回ここに車を止めて行動している。
険しい南アの山々に己の探究心をぶつけんとする熱い人々の最後の足溜まり。この場所に対して、私はそんなイメージを持っている。

今回は私にとって異例なG.W.中の探索になったが、これは同行者であるはじめ氏のスケジュールの都合による。東京からここへ来るまでの道や駐車場の混雑を心配したが、すでに連休も終盤であるせいか、特に渋滞に巻き込まれることなくやって来られた。閑散としているとまでは言わないが、駐車場も空きが目立っていた。

午前4時半、夜空の色に払暁の気配を敏感に感じ取った我々は、急かされるように車から起き出して準備を始めた。準備と言っても、いつも以上に念入りに荷造りを確認するだけだが。なんといっても今回は、3日間無補給で探索を続ける計画である。忘れ物は取り返しの付かない結果に結び付くかもしれない。
そして写真を見ての通り、私もはじめ氏も普段の探索で背負っているものよりも一回り大きな60リットルのリュックをパンパンに膨らませなければならなかった。遺憾ではあるが、やむを得ない。

本日の計画の前半をお復習いする。
今日の前半は、ひたすらに自転車を漕いで、軌道跡への侵入地点となる大樽沢手前の「自転車デポ地点」を目指す行程だ。

ルートとしては、今回初めて通行する寸又川左岸林道を利用する。
「現在地」から左岸林道起点まで約2km、そして寸又川左岸林道を約12.5km、さらに日向林道を約5.5km、合計約20kmというのが、自転車での攻略目標である。
この区間の成否は今回の探索全ての根幹となる部分だ。万が一にも途中で引き返すようなことになったら、スケジュール的に、二の矢を放つことはほぼ絶望であろう。緊張していた。

なお、サイクリスト諸兄なら分かって貰えると思うが、未舗装の林道18kmは既に“大ネタ”であって、単なるアプローチには役不足だ。しかし、今回の本編はあくまでも大樽沢以奥の軌道跡である。そこまでは全て「導入」でしかない。
もっとも、左岸林道も日向林道も千頭林鉄の後釜として千頭営林署が整備した林道であるから、林鉄とまるっきり無関係というわけではない。
そのことも念頭に読み進めて貰えれば、退屈しにくいとは思う。
というか、我々にはそんなことを心配している余裕などなかった。

4:36 二台の自転車に跨がった二人は、まだ暗い大間集落を出発した。




4:46 《現在地》

出発から僅か10分後、我々は早くも2kmを走破して、寸又川左岸林道の起点に立っていた。
既に今日の自転車行程の10分の1を終えたハイペースの理由は、ここまでが下り道だったからに他ならない。現在地の標高420mという数字は、これから3日間の探索で訪れる場所の中での最低標高であろう。目の前には県道のナトリウムネオンが煌びやかだが、しばらくはこんな現代の明るさともお別れだと思うと寂しかった。
この林道起点周辺は15日前の4月19日に探索し、平成3年までは、ここから150mほど離れた位置に起点があったことを解明している。→(レポート)

しかし、薄暗い林道の行く手を見ると、二台ばかり路駐されている車が見えた。
この時間に停めてあるということは、我々と同じくG.W.を利用した寸又川遡行を企てている先行者がいるのかもしれない。或いは光岳登頂狙いか、別の山かも分からないが、どちらにしても心強い味方を得た気がして、少し寂しさが薄らいだ。



林道へ入って僅か数十メートルで、高い施錠ゲートに行く手を阻まれた。
二人は粛々と、ゲートの向こう側へ自転車を運ぶ作業を行った。
探索済みなのはここまでで、ここから先へは初めて足を踏み入れる。

現在の林道起点から封鎖地点にかけては、この道の素性を知らせるような物は何もない。
唯一、ゲートに取り付けられた「一般車両通行止め」の看板があるが、これも林道名さえ明かしていない。
だが、この一見して無個性に見える林道こそ、全長40.6kmというバケモノじみた長さを誇る、日本屈指のピストン(=行き止まりの)林道、寸又川左岸林道なのである。

4:51 ゲートインからの出走開始!




5:20 《現在地》

実際に林道名を記した標識が初めて現れたのは、入口から1.5kmほど入った所にある朝日岳登山口を過ぎたところであった。
この場所に林道の起点にありそうな標識が現れたのは謎だが、さらっと出て来た。
なお、「南赤石林道(寸又左岸)」と書かれているが、これは南赤石林道シリーズの寸又左岸線といったニュアンスだ。昔は単に寸又川左岸林道であったが、今はこれが正式名である。

なお、さらっと写真1枚で1.5kmをかっ飛ばしたが、こういうペースで書き進めないと、おそらく「本編」に入るまでに「導入全5回」とかをやらかすハメになりそうだからね…(苦笑)。
でも、現実の経過時間を見れば、しっかり30分以上もかかっている。
ここで急にペースが悪化した理由は、これまた単純で、上りの勾配がきついからだ。


左図は、左岸林道の起点から自転車デポ地点までの勾配のグラフである。
起点は標高420mほどであるが、序盤からグイグイと高度を上げ、最初の5kmで約400m登る。単純計算で平均勾配8%である。
激急とまでは言わないが、結構急な坂道であることが分かるだろう。
その先も上りは続き、10km地点あたりで標高1000mを越えるまで上ることになる。
だが、日向林道に入ると一転して猛烈な下り坂に転じ、大樽沢手前で軌道敷きと同じ高さになる頃には、標高700mまで下るのである。

このように“そこそこ大きな峠越え”といっても差し支えのないようなアプローチになったわけだが、実は選択肢はもう一つだけあったのだ。
それは、軌道跡でもある右岸林道を使うルートで、チェンジ後の画像にその勾配グラフも表示した。
右岸ルートは距離は3kmほども短く、上りの高低差に至っては約半分で済むのだが、大きな懸念として、千頭堰堤と日向林道を結ぶ超急勾配である連絡歩道の存在があった。
地形図にも破線で描かれているこの連絡歩道は、2週間前の探索の帰路に“徒歩で”通過したのだが、その急さたるや、自転車同伴の危険度が高いことは当然として、上るとなればそれだけで完全にグロッキーになってしまうのではないかという、そんな畏れを抱かせるほどだった。

それでもどちらを選ぶかぎりぎりまで悩んだのだが、新しいルートへの興味という要素が最後に一歩競り勝って、左岸ルートを選ぶに至ったのだった。


が、このルート選択、もしかすると、失敗だったのかもしれない。
そう不安になるような事態が、この序盤から生じていた。

それは、私の予想を上回るはじめ氏の苦戦であった。
この急坂が始まってからずっと(つまりほぼ最初から)、私のだいぶ後ろで苦しそうに自転車を押している姿が見て取れた。
私は乗って漕いでいるのだが、この差に私は不安を感じた。

これまで何度も一緒に探索をしてきた私の印象として、これは単純なはじめ氏の体力不足ではないと思う。
問題は、自転車での探索には不慣れだということだろう。
そもそも彼がいま乗っているMTBからして、シティサイクルでは厳しすぎるからと、私が当時サブ機としてストックしていたマシンを急遽レンタルして乗ってもらっていた。
つまり、はじめ氏にとってはおそらく初めて跨がったMTBである。しかも普段は負わないような大重量を背に、慣れない急坂の砂利道へ漕ぎ出た彼の苦闘は、いかばかりだったろうか。この点については、出発前にお互いもう少し相談を重ねるべきであったのかもしれないと思いもしたが、既に計画の再考には遅かった。



差をあまり開くと、無駄にはじめ氏を焦らせて疲労させてしまうと思ったので、私も普段より幾分ゆっくり目に進むことにした。
どうせこの辺りで急いだところで、最終的には山中泊をするのだし、まだまだ先は長すぎるほど長いのだから、焦っても仕方がない。

2km地点あたりからは、河床との高度が本格的に広がったせいで、眺めが爽快になってきた。
特に、2週間前の探索で通行した寸又川対岸の軌道跡(この区間のレポートは未)や、そこで間近に見た色々なものが、鳥瞰を思わせる俯瞰のアングルで見晴らせることは、大いに愉快だった。




上の写真の枠内をズームしたのが、この写真。

大間集落の1.5kmほど上流にある大間堰堤(昭和13年完成。この建造も千頭林鉄建設の当初の目的の一つだった)が湛える神秘の青い湖面が、鳥の声も聞こえぬ早朝の谷間に沈んでいた。
その谷を高々と跨ぐ、まるで寄せ木細工のように華奢なトラスドアーチは、昭和30年代に架け替えられた二代目飛龍橋で、現在は右岸林道が通るが、もとは千頭林鉄の橋だった。おそらく日本に残る林鉄由来の橋としては、最も高い橋だと思う。
そこからまた視線を落とし、湖面すれすれに架かっている様に見える吊り橋がある。実際はこれもさほど低くはない、観光名所として有名な夢の吊橋だ。
こうした景色を楽しみながら、ゆっくりと登っていった。



5:35には、路傍のカーブミラーの支柱に取り付けられた2.5kmキロポストを見つけた。

凝視しないと読み取れないくらい文字がかすれているが、残っていただけでも貴重かも知れない。
この後もときおり同じデザインのキロポストが現れたが、おそらく本来は500m刻みで設置されていたもののようだ。今では見あたらないものの方が多い。
(なお、実際の現在地は入口から2.2km辺りだと思う。少し数字がずれているのは、平成になってから起点が移動したからだろう)

…それにしても、明日の午後くらいの我々は、この数字が「30」より増えているのを目にすることになるのだろうか。
計画通り行けばそうなるはずだが、それはそれで恐ろしいことのように思われた。今はきつい登り坂だから余計にそう思うのだろうが、果てしなく遠い世界のようだ。

こちらは、5:51に撮影した路上写真だ。
路上に散乱している落石を見て撮影したのだった。
おそらくここ数日内に散らばったものだろう。

わざわざこうしたものを撮ろうと思うくらいには、今のところ、この道の保守状況は良い。
基本的に快適なフラットダートであり、道幅も大型の運材トラックや作業員を山奥へ輸送するバスが安心して通行出来るだけの5m幅を確保している。
また、所々には大型車同士が楽にすれ違えるような広い場所も用意されていた。
さすがはマンモス営林署と呼ばれた千頭営林署の誇るマンモス林道だけあって、林道としては立派な作りだと思った。

なお、この探索当時、私はまだGPSを装備していなかった(いまから考えるとこれも恐ろしいが…。はじめ氏はGPSを携行していた)ので、キロポストなどの目印がある場所以外は、正確な現在地の特定は出来ない。


右は、6:13に撮影した、寸又川上流方向の俯瞰写真。
V字峡谷の対岸壁面をぶった切るように一筋の明瞭なラインが通っているが、あれが軌道跡だ。
現在は右岸林道になっているが、こちらと同じく一般車両は通行止めで、中部電力の関係者やダムマニアなど、千頭堰堤を目的とする人が通う道になっている。
いくつかのトンネルがあり、いずれも林鉄時代のものだ。そのため必然的に道幅が狭い。

昭和37年に林鉄の全廃を決断した千頭営林署が、その代わりとして昭和39年から大車輪で整備を進めたのが、今いるこの左岸林道だ。
トラックの機動力を活かしてV字谷の急崖の上まで道を上げたことで、難しいトンネル工事や狭隘な道幅からは解放されたが、代償として多数の支流谷を巻くための大掛かりな迂回と、支流が生み出す新たな急崖との闘いを余儀なくされることになった。
もっとも、林道とはあくまでも森林を利用するための道であり、迂回は必ずしも不利にならない。むしろ受益面積を広げるメリットもある。

ここではっきり言えることがあるとしたら、左岸林道は、我々が欲する奥地への捷路には向かない存在だということだろう…。


6:18、依然勾配は緩まず、曲がっても曲がっても先には同じくらい急な坂道が現れ続ける状態が続いている。

肩の荷が重い。
「序」で述べた通り、夜営道具で一番重いテントそのものは持たずに入山しているが、タープやシュラフやガスランタンなどは入っており、何より3日分プラス予備の食糧を大量に持った。
これを書いている2017年現在に較べても、当時は荷物それぞれの重量に対する吟味が雑であったから、総重量こそ計ってはいないが本当に重かった。
(その代わりではないが、今は首から提げたカメラや、大量の予備バッテリーなど、記録のための資材が当時よりも遙かに重くなっている…)

私も辛い。
しかし振り返れば、たった一人の仲間は、もっと辛そうだった。
彼のためにも、私のためにも、そろそろ一段落してくれないだろうか。景色的には、もうだいぶ「高い!」って感じになってきたぞ。




6:40
前の写真からまた20分あまり淡々(坦々なら良いのに…)と上り続け、時間も体力を相応に消費して辿り着いた(?)のが、一体のお地蔵さま。

古道にあるそれというよりは、献花台の存在からして慰霊像のように思われる。
背後の舟形(地蔵が背負っている舟形の加工をされた石材)を良く見れば、来歴に繋がる情報があったかも知れないが、自然にスルーしていた。

そして、お地蔵さま かーー らーー のーー




6:41
でかい看板! & 広場!

年季と本気を感じさせるこのデカ看板だが、私には別の場所で見覚えがある。
15日前、この林道の今は廃道となった起点部分で、全く同じデザイン、同じ大きさ、同じくらい草臥れた看板を、目にしている

今回もやはり読み取りづらく、全文を明らかにすることは出来ないが、書かれた内容も同じであると思う。
すなわち、「ここから先は千頭営林署の専用林道です」「…の通行を禁止し…」「万が一無断で…事故等が発生しても責任は負いません」「千頭営林署長」などの文字が見て取れる、国有林専用林道への一般車両の進入を禁止する内容である。
現在では、起点から封鎖されているこの林道だが、かつてこの辺まで解放されていた時期があるのかも知れない。今もそうなら、探索も幾分は楽だったのに…。



かーーらーーのーー


6:42 《現在地》

安全門!

解放ゲート!

4.5kmキロポスト!

林業盛んなりし時代を彷彿とさせる大仰な安全門が、交通量の少なさと裏腹に小奇麗となったフラットダートを、寂しげに見下ろしていた。
安全門には、絶対に欠かせない「安全┼第一」の文字も、「千頭営林署」や「4.5KM」の文字も、全て掠れて亡霊のようになってしまっていた。

解放されたままのゲートに目を転じれば、そこには新旧2世代の「4.5km」キロポストが置かれていた。
また、銀色に塗装されたゲートの支柱は、9kgか10kgの軽レールだ。もちろん千頭林鉄からの転用だろう。

今では封鎖区間内で常時開放され、ほとんど無用の長物と化しているこのゲートだが、かつては里山と奥山を分ける象徴的な存在であったかと想像する。
ここからは、“山男たち”(女性も炊事婦などの仕事には就いていたが、誤解を怖れず、ここではこの表現を使わせて貰う)の世界ということだ。
私は緊張を新たにした。

が、その一方で、目前の坦々たる道に安堵した。
その安堵を表情に出し、少し遅れて上がってきたはじめ氏に、「辛いのは多分ここまでだ」と笑顔で励ましの声を掛けた。
無論気休めではない。左岸林道序盤にある最もキツイ勾配区間は、ここで終わりのはずだ。
事前に勾配グラフを作っていたので分かっていたのだが、現在地である4.5km附近で標高800m(起点から+380m)に達すると、以後はピークの12.5km(日向林道分岐)まで、8kmで250mほどをアップするだけである。つまり平均勾配はこれまでの8%から、3%程度まで一気に緩和される。この数字は高速道路や森林鉄道の最急勾配よりもだいぶ緩やかである。



2度目のゲートインを果たして間もなく、

再びのお地蔵さまを目にした。進行方向を向いており、まさに見送られる感覚がある。

連続して現れた慰霊仏に、この林道が持つ生来の厳しさを思った。

何卒、2人を無事に還し給え。


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左岸林道と千頭林鉄、その遙かな遙かな道行き


6:45
地形図は嘘を吐かなかった!
見よ! 今までとは違って優しさのある、この勾配を。
これには、はじめさんもニッコリである。(というほどにこやかではなかった気もするが)
依然として上り基調ではあるが大幅に勾配の緩和された路面に、第2ステージの始まりを感じ取った我々は、ペースを回復させて前進を再開した。

現在、行く手には大きな楔状の谷が口を開けており、その対岸のほぼ同高度に1km以上も先の本道が見えた。
谷は、寸又川が左岸で受け入れるいくつもある支流のうちで、地形図に名前が記されている数少ない一つ、下閑蔵沢である。




数分後、我々は労することなく下閑蔵沢を渡る橋へ達した。
欄干のない橋だった。
一瞬、もとからそうだったのかと思ったが、そんなことはなかったのである。
良く見ると、対岸の橋頭にだけ2本の親柱があり、そればかりか拉(ひしゃ)げた高欄の切れ端が親柱から数メートルだけ伸びている。

こういう地形ではまれにあることだが、橋の上を乗り越える規模の土石流や鉄砲水がかつて起こり、欄干の大部分や手前の欄干2本をへし折って、どこかへと持ち去ってしまったのだろう。
綺麗な顔して、おそろしい、じゃじゃ馬っぷりだ。

残った2本の親柱には銘板もあり、「しもかんぞうさわはし」「昭和四十一年十二月竣功」と読み取れた。(一緒に立つ案内板には、「栗山沢(下閑蔵沢)」とあった)
この道路が整備された進行方向は不明だが、普通に考えれば起点から奥地へ進んだであろう。だとすれば、起点からここまで約5kmを開設するのに、着工から約2年掛かったことが分かる。
現代の並みの道路工事に較べれば、大変なる急工事が窺われるもの凄い進捗速度である。



6:53 〜 7:05 《現在地》

下閑蔵沢を過ぎて間もなく、少し先行していたはじめ氏が不意に自転車を停め、なにやらモソモソとズボンを脱ぎはじめたではないか。 さては、気合いが入りすぎてオーバーヒートしちまったのかのかと思って聞いてみると、事態は遙かに深刻であって、正直青ざめた。

なんでも、靴擦れしそう・・・な気配があるから、予め絆創膏を貼っておくというのである。

予防処置であると聞いて安堵はしたが、もしここで靴擦れが起きたとしたら、これから3日間の歩行は、想像を絶する苦行になってしまうだろう。
しかも、歩き慣れた彼がこうも早く靴擦れの不安を感じたというのは、間違いなく、慣れない自転車での行動(長距離の押し作業)に原因があると思われ、私としてもいたたまれないものがある。
ここではその“予防措置”と足休めのため、出発から2時間半で、初めて長めの休息を取った。(つうか、もうそんなに経ってるんだな… 遠いな…)



そして、「まんきぼつ」。

なんだ「まんきぼつ」って?

グーグル先生に聞いても、この道を訪れた人しか書かない単語のようで、しかも皆が正体不明と口を揃える。
わざわざ案内板が立っているくらいだから、なにがしかの謂われがある“地名”だと思うが、地名解題にも現地の昔名にも明るくない私には、さっぱり分からない。

せいぜい、この山が「ヨッキ没」の地にならないよう頑張るだけだろう。

この後もしばらくは平坦に近い砥道が続き、ハイペースの道行きとなった。



7:25 《現在地》

7kmのキロポストを脇目に進んだところで、ひときわ大きな橋が現れた。
これは先程来入り込んでいた寸又左岸第二の楔谷、閑蔵沢を渡るための橋、その名も朝日橋といった。
橋の上に第三のゲートが取り付けられていたが、これも解放していた。

橋の親柱は全柱健在だったが、曰く、竣工年は昭和41(1966)年12月という。
…って、これだと2kmも前に渡った下閑蔵沢の橋と同じじゃないか〜?!!
間違いでないとしたら、本当にもの凄い林道開設の速度である。
先ほどは起点から終点に向かって工事が行われたと予測したが、それだけでなく、適当な奥地からも複数切羽で同時進行的な工事が行われたのかもしれない。
昭和41年当時、既に終わりが見えてはいたが、平行する林鉄が健在であり、奥地への資材運搬には恵まれていたと思われる。




7:27
閑蔵沢を渡って200m足らずで、再度の橋が現れた。
こちらは上閑蔵沢といい、閑蔵沢の支流である。
ほとんど涸れ沢で、橋の規模も小さいのだが、それでも洪水時の土砂排出力は侮れないようだ。
またしても親柱や欄干が無事でなくなっている。
今度は、山側の親柱2本と欄干が完全に行方不明だ。

残された親柱の銘板によれば、この橋の名前は「かみかんぞうさわはし」で、竣工年はこれもまた昭和41年12月。
いったいどこまで行くんだ、昭和41年12月の開通区間は!?


7:29
さあ、久々の苦行だ。

上閑蔵沢を越えて間もなく、暫く振りに骨のある上り坂が立ちはだかった。
地図によると、ここから1km程度は平均勾配8%弱の厳しい上りが続くとみられる。
自転車での登攀にまだ慣れないはじめ氏にとっては、特に頑張りどころだ。
これを越えれば、急勾配の上りはさほどないと思われる。
そして、いずれ徒歩の探索に切り替われば、彼の本領を発揮出来るだろう。

浸食壮年期である当地の山は、谷と尾根のメリハリが極めてくっきりしており、中腹において多数の等高線がほとんど乱れず綺麗に平行している場所が多い。
そこをトラバース気味に上る道は、細かなカーブはあっても、マクロ的にはほとんど直線的な上りとなっていて、先が見えすぎるため精神的にも疲れやすいと感じた。
いかにも大きな地形の波に揺られているという印象で、甘っちょろい精神主義などは一瞬で押し潰す、本当の物量を感じる山道だった。ヨッキれんはこういうの好きだぜ。



7:44 《現在地》

ん〜、鋪装されてるぞー。なんて思った矢先、現れた。

再びの安全門!

解放ゲート!

宿舎!

附近にキロポストは見えないが、だいたい8.3km附近であり(地形図にも建物の記載あり)、標高は950mに達した。
傍らの電柱には、今さらながら「一般車Uターン」の手書き看板が取り付けられていたが、ここまで一般車が入れた時代もあったのか。 …羨ましい。

木造建築に目を向ける。
これは歴戦の山男たちが疲れを癒し、僅かな憩いを貪った、いわゆる造林宿舎だろうか。
2週間前の探索では、これから向かう大樽沢の軌道沿いや、或いは逆河内支線の軌道敷き上などで、同じような作りの建物を見ている。
そして、おそらくは今夜の宿になるだろう大根沢の宿舎も、これを廃屋化させたようなものだろうと予想をしている。



安全作業遂行のシンボルであった“安全門”は、さび付き方が前のもの以上に半端なく、もはやその寓意を現す機能を失っていた。
ただただその大きいことに、大型運材トラックを日夜潜らせていた盛況を偲ぶばかりだ。

その一方、安全門前の宿舎壁面に取り付けられていた「安全十則」の看板は、その機能をまだ十分果たすことが出来る。
朝の始業前のミーティング(KYT)は、きっとこの前で行われただろう。

これは、ここに限らず東京営林局管内各地で目に出来る看板だが、林業従事者だけではないあらゆる作業(探索も)の基本とすべき重要な内容であるので、自戒も込め掲示しておく。
各自で読み込んで欲しい。「山さ」行く前にチェックだぞ!




安全門と一体となった大型ゲートは、もう動かされる予定もないのか、数年分のツタがからまっていた。
我々は短い休憩をとった後で、4度目となるゲートインを果たす。

その行く手には、坦々とした道があった。
どうやら厳しい上り勾配区間を、乗り越えられたようだ。
鋪装が続いているのも、地味にありがたい。




ところで、この宿舎があるのは閑蔵沢と日向沢を分ける尾根の近くだが、一帯はこれまでの沿道には見られなかった大規模なスギの植林地になっている。
そのうえ、林床に目を向けると、急斜面を空積みの石垣で階段状に切り分けた地割りのような痕跡が随所に見られた。

おそらくこれは、かつてこの場所にあった上閑蔵集落の名残であるとみられる。
現在は大間よりも上流の寸又川沿いに集落はないが、昭和20年代までは、そうではなかったと聞く。
いくつかの小さな集落が存在していて、その一つが上閑蔵と呼ばれていたという。
この地の集落については、後ほど改めて多少の説明を試みるが、探索時には寄り道をしようという余裕はなかった。



7:52
宿舎を過ぎて間もなく、ひときわ眺めの良い場所に出た!

ここは閑蔵沢と日向沢を分ける尾根の突端で、いま目前に広がっているのは、久々の寸又川本谷の景色ということになる。
道より上の斜面も険しいが、下の険しさは段違いだ。
地形図を見ると、この場所(現在地)には標高960mの独立標高点が示されているが、水平距離でわずか400mの位置に描かれている寸又川の河床は、標高500mである。
つまり、道と谷底の間に500m近い落差があるということだが――

なんとこの路肩に立つと、
谷底近くを直接見下ろすことが出来た!

↓ 高所からの眺めに注意!! ↓



半端ねぇ!

この斜面を落ちていったら、本当に500mも下の谷底に“着ける”かもしれない。
グロテスクで2度とは見られない姿になってはしまうだろうが、途中で止まらず着けそうなのが、怖い。

ギリギリで谷底の水面は見えないものの(渓声はよく聞こえる)、対岸の標高650m付近(つまり河床+150m)を横切っている右岸林道…つまり千頭林鉄の路盤は、気持ち悪いほどよく見えた!

この“俯瞰”を越えた“足元見下ろし”の眺めは、ほとんど空撮の域に入っていると言えるだろう。(ムササビになって舞い降りたら、爽快だろうなぁ…。) 現在、林道と軌道跡の比高は約300mもあるわけだが、やがて(数キロ先)我々はあの路盤の先へ降りって探索するつもりなのだなから、余計に恐ろしと思った。



そして、この尾根付近から遙かに見通せるのは、谷底ばかりではなかった。

我々がこの3日間を過ごそうとしている寸又川源流部の峻峭なる諸峰も、この場所からは遙々と見渡すことが出来た。



…果てしない。


果てしないよ!!

この眺めの“どこまで”が寸又川の流域かと問われるならば、答えよう。

今見える景色は全て、全てが寸又川の流域内か、その外郭を囲む分水の山々だ。

諸沢山、合地山、そして中ノ尾根山。
20万分の1地勢図にも記載がある、今見えるそれらの諸峰はみな、寸又川界隈の住人なのである。

次に、このことを分かり易く図示してみよう。↓


「現在地」から見える、諸沢山、合地(がっち)山、中ノ尾根山などへの直線距離を図示したのが左図だ。

諸沢山(標高1750m)へは、約6km。
合地山(〃 2149m)へは、約10km。
中ノ尾根山(〃 2296m)へは、約12kmの距離である。

そしてこのことが最も重要なのだが、私が最終的に目指そうとしている「柴沢」の地は、中ノ尾根山の山頂とほぼ同緯度にある。
そこは諸沢山や合地山の裏側に当たる位置である。寸又川は、あんな霞むほど遠くから滾々と流れ出て、林鉄の廃鉄橋を潜ったり、ダムに堰き止められたりしながら、今は脚下500mを流れているということだ。

なお、諸沢山よりもっと手前の山腹に、上下二筋の鮮明な道形が見て取れる(→)。

これらは、上段が左岸林道、下段が日向林道であるようだ。
彼我の距離は、最大で約2km。

これから私は彼我の間に横たわる日向沢を大きく迂回して越え、あの下段に見える日向林道へ“登場”することを目指す。
(そして明後日の昼頃には、今度は上段の左岸林道を歩いて帰ってくる予定である。)
直線距離なら2kmにも満たない距離なのに、道なりに行こうとすれば5〜6kmの遠方だ。
まだまだ“歩くべき軌道跡”ほんぺんは遠い。
だがそれでも着実に近付いている。はじめは霞んでも見えなかった世界が、次々と明らかになっている。



8:02
9kmのキロポストを見つけて更に進むと、道はまた本流を外れ、支流日向沢の楔谷に入っていく。その辺りに写真の場所はあった。

なんと雄大で、そして美しい林道だろう!

これを見てしまうと、普段見ている林道というものが、急に貧相で惨めに思えてくる。まるでどこかのお偉方に、「木を伐るのにはこのくらいの道があれば十分でしょ?」と軽く値踏みされてるかのような、一般道に較べたら貧相な普段の林道。
だが、東京営林局が国内林業の新時代を築くトラック林道の見本を作るべく、その威信をかけて(そして全国350営林署でトップの予算規模を使って)整備した左岸林道が、その随所に見せるこうした壮大さは、別格だ。
後の世で一世を風靡することなく、むしろ後ろ指を指されることの方が多かったアノ“大規模林道”事業を先取りにしたようにも見えるが、実態は全く違っている。大規模林道は公道としても活用出来る林道作りが根本だったが、この左岸林道はどこまで行っても営林署の専用林道として作られており、公道としての活用は考えられていないと思う。すなわち、純粋な林業(治山治水などの林野事業を含む)のために、これほどの道を整備しようとしたところに興奮を憶える。(もっとも、この場所が極端に広いのは、おそらく木材の積み込み場などとして使われていたからだろう。だが、ただの広場のような短い距離ではない。)



?!!!

や、やめてよ… 勘弁してよ…!

1kmほど先だと思うが、白い巨大なガレ場斜面(いわゆる“なぎ”)が、道を呑み込んでいる畏れを強く感じさせる位置に見えてきた。

仮に道が呑み込まれていたとしても、自転車を持ったまま横断出来るなら、いいのだ。
だが、万が一この辺りで自転車を乗り捨てるハメになったら、左岸林道をアプローチに選んだ意義は完全に瓦解し、負担だけを強いた糞選択が確定する! 無論その場合、スケジュール的な意味で、計画全体への影響も避けられないと思われる…。




畏れにビクビクしながら、何度か角度を変えて崩壊現場の周辺を事前に観察しようと頑張った。早く安心したくて行った行動だが、今のところまだはっきりとは分からない。
だが、とりあえず巨大崩壊は、だいたい道がある高さで受け止められていて、谷底を埋めるまでは至っていないのではないかと思われた。
であるならば、自転車同伴の通行ができないほどの崩れではないと期待出来る。

なお、崩壊地のすぐ先が日向沢の架橋地点で、その先も全体的に崩壊が多そうな、ガレた雰囲気を感じさせる山容だ。
しばらくは、要注意かもしれない。(どうにもならない事態が起きないことは、注意ではなく、祈るしかないが…)



8:14 《現在地》

大丈夫でした〜!(^^)

だいたいこういうパターンだと、現地へ行くと期待に反して(或いは悪い予感通り)「駄目でした…orz」ってなることが大半なので、今回は嬉しい誤算だ!
これにはヨッキれんもニッコリ。(一方はじめさん、ペースは順調だが、表情はまだ少し疲れ気味です)

附近の立て札によれば、この“なぎ”には“五枚なぎ”という名前が付いているらしい。きっと歴史ある“なぎ”なのだろう。
また、ここには11kmのキロポストもあった。ようやく、ふた桁だ。

(右の写真は、日向沢を渡った少し先から“五枚なぎ”を振り返って撮影したもの。レポートの順序と前後するが先に公開)

東京営林局の千頭営林署ではなく、現在は関東森林管理局の静岡森林管理署が、林道の維持管理に当たっている。
彼らは、千頭営林署の意志(遺志かも)を受け継いで、この厳しい難場の交通を確保してくれていた。
その処方は、完全なる力技(=対処療法)だ。
見馴れた落石防護柵などは、相手が大きすぎて無駄である。トンネルを掘るくらいしか根本的な対処法がない。
ここでは予め道幅を大きく広く取っておき、落石時にも直ちに通行不能にならないようにしたうえで、ある程度の規模の落石があった場合は、重機を使って谷底へ排土している。
一度落ちた石は決して山へは上らないから、いつかは谷は埋め立てられてしまうはずだが、その時が来るまでこの単純だが労力の掛かる排土作業は続けられるのだろう。
そして、もしやめてしまえば、おそらく数年を持たずに、二度と回復不能なほど道は埋め立てられてしまうと思う。

我々がここを通過した直後にも、ガラガラパカンと小規模な落石が起こり、土煙が路上に広がった。これは2週間前の逆河内川沿い日向林道でも散々経験した、この谷の“日常風景”であり、直撃さえなければ笑って過ごすしかない。こんなでも直撃率は天文学的数字であるはずだから。



8:18
日向沢を渡る橋も無事。
親柱も4本中3本までは健在で、「日向沢橋」「ひなたさわばし」「日向沢」の記述を認めた。一番興味深い竣工年の親柱だけ、行方不明(涙)。

右の写真は、まもなく橋に差し掛かろうとするはじめ氏を振り返って撮影。
何気なくそこにある崖の規模の大きさ。それは大概の林道ならその道一番の規模になると思う。
この道では“小崖”だ。

橋を越えてすぐに11.5kmのキロポストを通過。
遂に標高は1000mを越える。
そして上りはラスト1kmとなるが、この1kmがまた“しごき”のラストスパートとでもいうかのように急坂だった。
憎い野郎だ。


8:23
厳しいラスト上りの途中、道が本流沿いに復帰した辺りで突如現れた、“謎のお立ち台” アーンド 超開放的放尿&放便台。

間違いなく景色の良い場所ではあるので、お立ち台(展望台)があるのは納得だし、展望台があるならばトイレもあって良いかもしれないが、それにしても開放的すぎる。
建て付けも良くなさそうなので、万が一便座ごとコロッといったら、そのまま450m下の寸又川に水洗されるかもしれない。

ここでも我々は10分弱休息し、そして再び漕ぎ出して10分後、12.5kmのキロポストのすぐ先で、遂に…… いや、

これは、「ようやく」と言うべきだ――




8:43 《現在地》

大間の駐車場を出発してから4時間と7分、

2人は、ようやくアプローチ中の最高地点(海抜1050m)である

日向林道分岐地点に到達!!!

ここまで12.6kmほども続いた左岸林道の上り坂とも、これでやっとおさらば出来る。
次にこの地点へ戻ってくるのは、明後日5月6日(木)の昼前を予定している。
その時は、歩いて右の道を下ってくることになるだろう。

我々はこれより日向林道へ進行し、軌道跡(大樽沢)への進入を目指す。



分岐より眼下に見ゆるは、寸又川最奥の大規模建造物である千頭堰堤が作り出した、峻厳の青。

これより次第に我々を取り巻く世界は反転する。

雄峰より幽谷へと、反転す。




栃沢(軌道終点)まで あと17.0km

柴沢(牛馬道終点)まで あと25.4km