静岡県道77号川根寸又峡線 朝日トンネル旧道 前編

公開日 2012.03.23
探索日 2010.04.19


千頭林鉄の大日山隧道東口から見下ろした、寸又川谷。
今回の舞台は、白っぽく見えるあの谷底に他ならない。

このレポートの元となった探索は、時系列で言うと「廃線レポ46千頭森林鉄道(沢間〜大間)最終回」の直後に行われた。
よって、先に前記レポをご覧頂いた方が、展開が分かり易いと思う(だから、自転車での探索だ)。

それはそうと、実はこの探索、当初の計画には無かった。
しかし、周辺の地形を直に感じているうちに妙に気になり出し、急遽“寄り道”した内容である。

→【周辺図(マピオン)】

それでは恒例通り、次に現在の地形図を見て貰おう。




今回のターゲットは図に赤く示した部分で、県道77号「川根寸又峡線」の朝日トンネルに対応する旧道である。

距離はちょうど1kmくらいであろうか。
元の地形図には全くこの部分の道は描かれていないものの、法面と路肩がそれぞれ「崖(岩)」と「崖(土)」の記号として残っているため、「消したんだな」と明らかに分かる状態になっている。
消した=廃道 と見て、ほぼ間違いないだろう。

こんなに分かり易いのに当初の計画に入ってなかった理由は、朝日トンネルの線形(長さ)を見る限り、まだ新しい廃道だと思ったので、熟成が足りないと予測していたためだ。

続いて、前のレポ(廃線レポね)で書いたことと一部重なるが、県道77号の歴史について『寸又峡開湯三十周年記念誌』(以下『開湯記念誌』)を参考に、まとめてみたい。

現在の県道77号のベースとなったのは、東京営林局が昭和37年に建設・開通させた「林道大間線」である。
「(この道の開通によって)千頭より初めて寸又への自動車の乗り入れがあり、寸又峡にとっては文明開化の年でありました」(『開湯記念誌』)との記述からも、それが果した意義の大きさが分かる。
昭和38年からは、この林道に19人乗りのバスが寸又峡温泉まで運行された。

なお、大間林道が開通した昭和37年は、寸又峡温泉開湯の年でもある。
この年に湯元より大間集落まで3796mの引湯管が敷設されたことで、それまで山間の一集落に過ぎなかった大間が“秘湯”の温泉場として、南アルプス観光拠点への第一歩を踏み出したのである。(なお、大間川上流の湯元集落は現在廃村)



昭和37年の地形図には、前の版まではなかった大間への
車道が描かれている。これが大間林道だ。

昭和43年、寸又峡温泉の一帯が奥大井県立自然公園に指定されて観光の整備に拍車がかかる一方、同年4月に千頭森林鉄道が全線廃止される。昭和44〜45年には林鉄廃線跡を改築した寸又右岸林道が開通し、千頭〜大間間の第二のルートとなる。(昭和43年2月、全国の茶の間に寸又峡温泉を一躍有名にした「金嬉老事件」が発生した)

昭和46年、林道大間線が県道「千頭停車場寸又峡線」に昇格した。

平成3年、「県道の冠水区間であった粟代橋、大間橋間に朝日トンネルが完成」(『開湯記念誌』)

平成5年、県道千頭停車場寸又峡線および県道川根本川根線が一本化され、新たに主要地方道「川根寸又峡線」に指定される。



以上が概要であるが、『開湯記念誌』には朝日トンネルの開通が平成3年の出来事であったことが書かれていた。
それにしても、「冠水区間」というのは、いったいどんな旧道なのだろう。
よほど水面に近い所を通っていたのだろうか?

その辺に注目しつつこれからの本編をご覧頂きたいが、今回「第1回」に限っては、“ある別の道”が主役である。


それでは、「寸又峡橋」附近よりレポートをスタート!
↓↓



“白い谷底”の正体は、こんな景色。


2010/4/19 10:02 《現在地》

寸又右岸林道と県道77号の分岐地点。
大間方面を背にして、千頭方向を見ている。

この2本の道は、どちらも千頭を目指している。
県道は寸又川左岸の、林道は寸又川右岸の道だ。
また、前者は昭和37年開通の大間林道に由来し、後者は昭和8年開通の軌道に由来している。
大間林道が開通してからは、そちらが大間や寸又峡温泉へのメインルートになり、林道の方は道幅も狭く、さほど利用されてはいないようだ。
この日も法面保護の工事中のため、通行止めになっていた。

さて、私は県道77号を矢印の方向へ進む。




すると50mほどで、この左急カーブが現れた。

そして急カーブの直進方向にも、ガードレールで半ばまで封鎖された道が続いていた。

これは明らかに旧道っぽいが、これは当初私が考えていた新旧道分岐の位置ではなかった。

ともかく、ここから旧道探索を開始しよう。




現在の県道は急カーブの先で寸又川を渡っていた。
橋はどこにでもありそうなトラス橋で、「寸又峡橋」というおあつらえ向きな名前を与えられている。

アユとササの風流をレリーフに持つ親柱は、平成2年5月の竣工を教えており、橋を渡った先はほとんど“直”と言っても良い近さで、朝日トンネルに続いている。
なるほど、確かにこの橋も朝日トンネルと共に、昭和37年の大間林道開通当初のものではありえない訳だ。
どうやら旧道の先には、旧橋がありそうだ。

とりあえず、川の様子を見るべく橋の上へ行き、下流を見てみる。




これが、谷底が“白っぽく見えた”原因だな…。

寸又川は寸又峡橋の15mほど下方をさらさらと流れていたが、
その河床のほとんどは灰白色の川石に占められており、
峡谷らしい急峻さを見せる両岸とは、奇妙な対照を見せている。
これは河川の流れが悪くなっている事を示す景観だと思う。

また、肝心の旧道についてだが、写真中央付近を拡大して見よう。

↓↓


橋は無い。

しかし、両岸にはしっかりと道が残っているな。

そりゃそうだ。十数年前までは、あそこを観光バスも通っていたのだ。
まだ全てが消えるには早すぎる。

黄色く描いたのが旧県道のラインだが、無くなった旧橋の袂で分かれて、
こちら(上流)へ向かってくる道(赤線)もあるようだ。
その正体についても容易に想像が付いた。

しかしとりあえず種明かしは後回しにして、旧橋へ行ってみよう。
まずは、右岸から。



その入口はこんな感じ。

道幅はさっそく1車線で、両岸から草が蔓延ってきているので余計に狭く感じられるが、舗装はしっかりしている。
ガードパイプを改造したような通行止めの門扉があり、中央は施錠したチェーンで塞いでいた。

なお、旧橋は現在の橋よりも低い位置に見えていたが、旧道は当然のようにここから下り坂だった。




150mほど前進すると、一箇所だけ道が広くなっていた。
そして、前方には左へ向かうブラインドカーブ。
その先は旧橋に違いない。

となると、この広場は自動車が離合を行うための待避所だったのだろう。
現役当時は谷側の木が無く、この場所から橋を渡る対向車が見通せたものと考えられる。
林道由来だった旧橋の狭隘さを想像させる遺構だ。




また、この広場の山側には、鉄製の覆いに守られた小さな石仏と、「スリップ防止 砂 島田土木事務所」と書かれた看板がある。
地蔵には現在も信奉者がいるようで、松の生枝がお供えされていた。
これまた、待避所とは別の意味で、旧道および旧橋の険しさを想像させる遺物である。
現道へ移さなかったのは、適所が無かったためだろうか。

看板については特に珍しいものではないが、色褪せぶりが廃道らしくて好ましい。




10:04 《現在地》

案の定、広場の先は橋だった。

先ほど、「旧橋の狭隘さを想像させる」などと書いたが、想像するまでもなかった。
橋台の部分まで道が残っているが、その幅が既に狭い。
マイクロバスならばいざ知らず、現在寸又峡温泉まで来ている大型の観光バスは、とても通れそうにない。
しかも、橋の前後共に直角のカーブである。

また、この橋の袂には、直前に見たものよりもさらに錆が進んだ「非常用 砂 島田土木事務所」という看板が残っていた。
これまた険しい交通事情を窺わせる遺物である。




橋は長さが40mくらいだろうか。
現道の橋の半分強くらいだと思うが、中間の橋脚が無いので、現橋と同じトラス構造だった公算が高い。
現在残っているのは両岸の無表情な橋台だけで、親柱もない。

『記念誌』の記述から、竣工年が昭和37年だったのは間違いないと言えるが、名称もはっきりしない。
「寸又橋」と「大間橋」という、2つの表記が混在しているのだ。
個人的には、前者が正解だったのではないかと考えているが、証拠はない。

それはさておき、平成3年まで現役の県道だったせいか、橋の対岸に青看が残っているのが見えた。
表示内容については、後ほど近付いたときに改めて紹介しよう。




旧橋の橋台(右岸)から見る、上流の現橋(寸又峡橋)。

斜めに架かっている様に見えるが、実際その通りで、橋全体が坂道になっている。

右岸の旧道は上記の150mほどで終了なので、
一旦現道へ戻り、今度は左岸の旧道を目指そう。



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寸又左岸林道の旧起点遺構


10:09 《現在地》

寸又峡橋の左岸には、ご覧の朝日トンネルが口を開けている。

最近のトンネルらしく坑門に模造石を用いた化粧が施され、多少柔らかな印象を与えている。
しかし、特徴と呼べるほどのものは何も無く、名板に書かれた内容も特筆すべきことは何も無い。
とまれ、全長592.1mというのは決して短くはなく、これに対応する旧道が約1kmであることを踏まえれば、十分な距離短縮の効用が出ている。
また、竣工年は「1990年11月」、つまり平成2年11月ということで、寸又峡橋のちょうど半年後である。
もっとも、実際の供用開始は、共に平成3年(同時)だ。




冷たい空気がかなり勢いよく流れ出ている朝日トンネルに数メートル潜り込み、そこから寸又峡橋を振り返る。
橋とトンネルの僅かな隙間には、別の道が直交している。
この道こそ、ピストン林道としては類い希な長大延長を誇る「寸又左岸林道」であり、現在はこの交差点が起点と考えられる。

とはいえ、県道側には全く交差点の案内がなく、林道を通行する車両が多くないことを自明にしている。
いったいどのような道であるかを、いまここで述べるには余りにスペースが足りないが、とりあえず、ここを右折した最初の場面の写真をご覧頂こう。




意外に何の変哲もない風景であり、正直拍子抜けをしてしまった。

ここにあるのは、あらゆる自動車、自転車、登山者などの通行を阻む、高く、かつ道幅一杯に広がったゲートである。
道は最初から未舗装であるが、ゲートの向こう側には確かな轍が続いていて、鍵を開け正規に利用する人がちゃんといることを物語っている。

それでは、この道のいったい何が「何の変哲もなくない」のかについてだが、先ほども述べた通り、ピストン林道としては類い希な長大延長を誇るのである。




左の図が寸又左岸林道の全体図で、縮尺がないから分かりにくいと思うが、地図から測定した全長は少なくとも38kmに及ぶ。
そして、終点は長野県境からもさほど遠くない寸又川源流の柴沢奥地だが、行き止まりになっている。
つまり、ピストン林道である。

その入口はここしかないが、上記の通り封鎖されている。
そのため、我々鍵を持たない一般人が「無想吊橋」などの寸又川上流へ赴くためには、かなりの苦労を強いられることになる。(私が無想吊橋へ行ったときには、いくらか距離の短い林鉄跡を通った)
一応、柴沢は光岳(てかりだけ:標高2591m)の正規の登山口だが、日本有数の“遠い”登山口でもある。

なお、このときの探索で寸又左岸林道へ立ち入る事はなかったが、2週間後に無想吊橋再撮影のため挑戦している。いずれレポートしたい。




さて、寸又左岸林道入口のゲートを背に、今度こそ本題である朝日トンネルの旧県道へのアプローチを試みたい。

…が、そこにあるはずの道は、ガードレールの無情な一文字書きにより、完全に封殺されていた。

平成3年まで、そこは寸又左岸林道の一部であり、現在は上流側から旧県道へアクセスしうる唯一の道であるはずだが、ご覧の有り様とは。

この廃道、もしかしたら結構マジかも…。

そんな予感は、この風景に始まった。




「立入禁止」の表示さえ無い完全黙殺の旧道へと、自転車ごと進入する。

入ってすぐにご覧の倒木があったのは、道路管理者の故意(カムフラージュのため)ではないかと疑ってしまうが、真相は不明である。

ともかく、崖沿いの廃道が下流へ向かって続いているので、私も実を低くしてそれに倣った。

何度も繰りかえすが、ここはまだ旧県道ではなく、寸又左岸林道の旧道である。




最初だけなぜか舗装されていたが、30mも行かずに視界が開けたときには、また砂利道に戻っていた。

そしてそこには大きな広場があり、その一角に小さなトタン壁の小屋が設えられていた。

扉は開け放たれており、中を覗いてみたが、もぬけの空。
後に寸又左岸林道を探索した際に、これと似た“避難小屋”を多く目撃するのだが、この時点では何なのか見当がつかなかった。
しかし、確かに私はこう感じた。

この広場の存在は、全長38kmもある長大林道の入口にこそ相応しいものであり、現在の入口は殺風景すぎて物足りない、と。
かくあるべし、と。



長大林道好きの私を興奮させる発見は、以上に留まらなかった。

小屋のすぐ先には、こんなに巨大な(比較のため自転車を下に置いてある)看板が立っていたのである。

残念ながら腐食が激しく、書かれている内容を全て解読することは出来ないが、「ここから先は千頭営林署の専用林道です」「…の通行を禁止し…」「万が一無断で…事故等が発生しても責任は負いません」「千頭営林署長」といった、専用林道の封鎖に使われる一般的な文言が読み取れた。

「一般的」なのだが、注目したいのはこの大きさである。
林道が長いから看板も大きいと考えるのは浅はかかも知れないが、やはり普通の大きさではないだろう。
これまた、かくあるべし、だ。




さて、広場の先には1.5車線くらいの幅の砂利道があり、寸又川の鋭い崖を切り取っていた。
路肩には何ら柵のようなものが設けられておらず、いかにも自己責任を重んじる林道らしかったが、寸又左岸林道の探索は次のカーブで終了となる。

そこには、見覚えのあるガードレールに囲まれた、旧橋の橋台が見えた。
あの橋の袂が、平成3年までの寸又左岸林道の起点であったわけだ。




上の写真にも後ろ姿が写っているが、林道の入口には県道側を向いて、この標識が立っていた。

先ほどの注意書きの看板と同様に酷く錆び付いているが、本標識が「通行止め」であることは、一目で理解された。
補助標識の方は、全く読み取れなかったが。

で、よく見るとこの標識は、子供が喜びそうなギミックを搭載していた。
標識盤面の上半分が2枚重ねになっており、上半分をめくって二つ折りにすると、その裏地と下地とによって別の標識が現れる仕組みである。

で、錆のため半分固着していたのだが、壊さぬよう慎重にめくってみると…

専用林道の通行の注意を促す内容が出て来た。

つまり、「注意すれば通行可能」というわけだが、これら2つの面の“傷み方”の差を見れば、実際にどのような運用がなされていたのかは明らかだった。




10:15 《現在地》

橋やガードレールによって、少なくとも上流側の現道から完全に隔離された旧県道へ、到着。

この先には、どんな「隠されるべき」風景が……。