静岡県道77号川根寸又峡線 朝日トンネル旧道 後編

公開日 2012.03.28
探索日 2010.04.19

櫛比する殺人銃地帯


《現在地》

それでは、おそるおそる挑戦を開始する。

実際に踏み込んで土質を確かめてからじゃないと、
果して上のラインの様に(自転車同伴で)トラバース出来るか分からない。
最初の辺りが、踏破全体の成否を占う意味では最も重要。



さやうなら、平穏だったこれまでよ。

今からしばし、私は“修羅”になる!

10:25 挑戦開始!




ゴクリ…。
思っていたより、高いな…。

眼下には、ゴツゴツした岩が散乱する寸又川の川原があり、私がいまいる場所とは垂直に近い路肩擁壁(=護岸擁壁)によって画されている。
擁壁は高さが8m前後(目測)あって、落ちたらひとたまりもない。
また、写真に“縁”として見えている部分だが、実はこれは擁壁上に立つ高さ70cmくらいの転落防止用出っぱり(欄干)である。
今はまだ耐えているが、いつかは横からの圧力に屈し、へし折られてしまうだろう。
そうなると、“松の木”の路肩がそうであったように、斜面の縁は撫で肩の急斜面に変じ、私がいま通行している比較的平坦な部分も、消滅してしまうのではないだろうか。




崩壊地に進入してから20mほど前進すると、今まで辛うじて頭を出していた路肩も斜面に呑み込まれ、遂に行く手から“道”の全てが消え去った。
ここから先は、“廃道探索の一部”には違いないが、“廃道”を辿るわけではない。

この風景から、地中に消え去った道を想像する事は難しい。
いったいどのような姿で道は埋もれているのか。
ロックシェッドなど、何か土砂崩落の脅威から身を守る糧を持っていたのだろうか。

地中への想像を補うため、この寄る辺ない灰白色の斜面に、幾つかのラインを引いてみた。
赤矢印は、もともとの地山の一部で、この下に法面(人工的に地山を切り取った斜面)があったと想像される。そしてそこから2本のラインを引いた。は現在の斜面に沿ったもので、は地中に想像される横断線、の部分が地中の路面である。

こうして見てみると、道路はその全幅が見事な手際でもって、地中へ“収納”されてしまった事が分かる。
もう2度と地表に現れることはないだろう。




ぞくぞくするよ。

完全に道が消えた今、頼りになるのは爪先の踏ん張りや、身体に備わるバランス感覚だけである。
松の木の苦難を幾重にも思い出させる自転車の重みに、顔が引きつった。

身体を幾らか崖の側に傾かせ、出来るだけ両足と左手、そして自転車の後輪という4点のうち、3点以上が常に地面に着いているという“変則三点支持”を意識した。

当初想像していたよりも土質は密で、体重を支えるグリップが弱かった。
爪先が思うように地面に食い込まないから、バランスを取りにくい。
前回の最後も書いたように、万が一転落と相成っても命を取られることはないだろうけれど、負傷するかも。
それに、変に失敗を体験してしまうと、今後同じような挑戦をしたくなくなるかも知れない。




序盤のエリアを振り返って撮影。

これだけでも中々お目にかかれない規模の大崩壊だが、まったく前哨戦に過ぎなかった。




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トラバース進行中。

この辺りは序盤に較べて砂利の目が荒く、
また斜面の傾斜も幾分緩やかなので、
転落への恐怖というのは薄らいでいる。

しかし、安堵する場面ではない。

なぜならこの斜面にいる限り、私の命は常に狙われている。


この無限の数の銃口によって。


平成3年以降のいつから崩壊が始まったのかは知らないが、
まだまだ若い崩壊地であり、現在も進行している最中なのだろう。

僅かな風雨でも落ちてきそうな、見るからに不安定な岩塊が、
多数、上空から我が方を窺っていた。

拳大の石くれだって、墜落する距離が大きければ、ヘルメットを貫通する破壊力を持ちうる。
その時私は、何が起きたかを理解する間もなく死ぬ事になる。

この場所に自らの意志で立ち入った以上、多少の運否天賦は覚悟のうちだが、
少しでも危険を回避出来るよう、ここにいるうちは常に、全力で耳をそばだてている必要があった。
落石のどんな小さな前兆も見逃さず、いざとなったら自転車を置いて逃げる覚悟だった。





さらに前進し、残りはいよいよ半分くらいになった。

と、書いてみても、さっきの写真との違いは、分からないかも知れない。

スケールが大きすぎるうえ、崩壊斜面内に比較する対象物も無いので、
距離感とかおかしくなってくる。 まるで、砂浜にいるみたいだ。

しかし、振り返って撮った写真には、欲しかった“比較対象物”が、自動的に映り込んでいた。




それは、自らの足跡。

まるで新雪のように柔らかな斜面には、隠し難い足跡が、点々と残っていた。

何だか、怖楽しくなってきた。






ここは滞在の時間に比例して事故の確率が増えるので、私は写真を撮るのも最小限に、着実な前進を続けた。
幸い、終盤に近付いても斜面は緩やかであったため、自転車同伴であることは、さほどの障害にはならなかった。
ただ、前進の速度を幾分か鈍らせただけである。

あともう少しで突破出来る。




突破完了直前になって、ようやく本来の法面が立ち上がり、不意の落石から私を守る壁となってくれたので、ここで再び振り返り、自らがくぐってきた一大崩壊斜面を、少しだけゆっくりと眺めてみた。

私は専門家ではないので誤っているかもしれないが、これはいわゆる落石や土砂崩れではなく、地滑り災害の跡であろう。
ここから見える尾根は60mほど上にあるが、その尾根線からこちら側が、スプーンで削り取ったようにえぐれてしまっている。
この範囲内が、大量の降雨などの影響による地盤の緩みに従って、一挙に滑り落ちたのだろう。

ただ、不可思議なのは、地表にあっただろう木々が跡形も無い事だ。
一挙に全て寸又川まで流出したにしては、渓相に荒れた様子が見られないのも不自然な気がする。
いったいどのようなことが起きたのか、地面に詳しい方の見解を伺いたいものである。

ところで、この崩壊地は地図で見ると、ちょうど地中にある朝日トンネルが地表に最も接近している箇所に当っている(地表とトンネルの距離は約60m)。
もちろん、地上への悪影響が起きないよう最深の注意を払って朝日トンネルの建設が行われたと思うが、トンネル建設に伴う地盤改良によって地表の水捌けが悪化し、それが大規模な山崩れの原因になった可能性は、科学的に検証されても良いかもしれない。
折角、アクセスが比較的容易な場所で起きた大規模な土砂災害であるから、ただ「廃道でラッキー」で終わらせず、何かの役に立てたら、道路冥利に尽きる…のではないだろうか。





隔絶された旧道 残りすべて


10:35 《現在地》

やったった!!

10分かかった。

でも、無傷でクリア。 OKだよ!

まるで、何事もなかったかのように、道は復活しやがった。(本当にイジワルナ顔してるな…笑…ワルニャンめ)


さて、〆の振り返り、参りますよ!




頑張ったのは絶対的になのに、

自転車のヤツが妙に誇らしげだな。ヤツをどうにかしてくれ。



今回の一連の旧道探索で撮影した写真中、一番のお気に入りの一枚がこれ。

雪上以外の廃道探索で、こんなに自らの足跡を振り返ることが出来る場面って、なかなか無いと思う。

ちなみに、この景色を見て真っ先に思い浮かんだのは、月面探索だった。

いつかはこの斜面にも草木が根づき、再び悠久の山河に帰るであろうが、
未来のオブローダーは、ここだけ道が「開通しなかった」と誤認するかも知れないな。
その頃には、もう「山行が」は無いから、彼らはまた一から冒険を堪能出来る。




予想外に大きな足止めをくらったが、その分印象深い景色を目とカメラに焼き付けて、前進を再開。

少し進んでは振り返り、滅多に見れない大崩壊を揚々たる気分で反芻したのだが、それも100mほど進んで新しいカーブが現れると、不可能になった。




そんな過去を断ち切るカーブ(大袈裟)もまた、相変わらずのコンクリート舗装路であり、こんなに長いコンクリート舗装路を山中で見るのは珍しい気がする。
相変わらずスパルタな路肩にガードレールはひとかけらも無く、それを差し込むための穴だけが残っている。
さらに、路上には山手から転がってきたようには見えない岩塊が、ぽつりぽつりと散乱しているわけで、その出所を考えると、ひとつしかないわけで…。

改めて、増水時には道路が完全に冠水し、さらにはこんな大きな岩塊を動かすほどの水勢であることを、教えているのである。




10:36 《現在地》

見えたッ!

前方に久方ぶりの現道を確認!
再合流まで、残す距離は300m前後と思われる。

ここでの注目は、路肩に生えた木の根元だ。
すっかり土が洗われて根の一部が露出してしまっているが、これもまた、凄まじい増水のなせる業なのだろう。
しかし何度も繰りかえすが、この普段の水量からは、ちょっとその光景は想像出来ない…。

また、ここには他にも意外な発見があった。
何気なく路肩から水面を覗いてみると…。




なにやら、橋脚の根元のようなものが、

川岸の固い岩盤に埋め込まれているではないか。

なんだこれは?



いま来た方向(上流)に目をやると、こうした橋脚の土台と思われるものが、何基も川べりに連なっていた。
そしてその終端は、先ほど通り過ぎたカーブの先端であった。
地上には特に遺構は無かったのに、川原や川岸の岩場には、こんな遺構が鮮明に残っていたのである。

これら橋脚の土台からは、橋脚と思われるH鋼が各々3本ずつ出ていたが、何れも根元附近で切断されている。
また、水面にも(一瞬廃レールかと興奮した)別のやや細いH鋼が洗われていた。
こうしたH鋼の多用を鑑みるに、この一連の橋梁遺構は仮設道路のものと考えて良いのではないかと思う。
何らかの事情により現道を長期間通行止めにする際、他に迂回出来る場所も無いことから、やむなく寸又川の水面上に進路を取ったのであろう。




そしてこの桟橋の終わりはというと、旧道に沿って意外に長く100mほども続いた後、再び旧道に合流してきた。

で、ここまで来ると現道がすぐ傍まで迫っており、ここはもう旧道と現道が立体的に再合流する栗代川河口なのであった。

写真では、右へカーブして流れていく寸又川本流に左から栗代川が合流しており、その上に現道の栗代橋が架かっている。



旧道と仮設橋の再合流地点まで橋脚の遺構は点々と残っていたが、橋台は見あたらない。
また、仮設橋は道幅は1車線分しかなかったと見え、片側交互通行で利用されていたのではないだろうか。

では、この大規模な仮設道路は、いつ頃用いられたものだったのか。
現地で判断する材料には恵まれなかったが、これについても『記念誌』に附属している年表に該当すると思われる記述があった。

昭和40年10月 栗代橋 下流道路決潰 寸又川に仮道付ける

上記がその記述の全てだが、「栗代橋」と「寸又川に仮道」という部分が合致する。ただし、「下流道路決潰」については、厳密に言えばここは栗代川寸又川合流地点のやや上流にあたり合致しないが、下流側にはそれらしい場所も無いし、「寸又川に仮道」というのは特徴的であり、この場所を指していると断言出来ると思う。

昭和40年当時は、この道が営林署の大間林道だった頃で、開通から3年しか経っていない。まだ並行して千頭森林鉄道が、末期の輸送を懸命にこなしていた時代だ。
仮設橋に並行する現在の旧道は、この昭和40年の水害時に一旦流出し、仮設橋を設けて復旧を行ったのであろう。
役目を終えた旧道にも、少し調べればこうした“年輪”が見えてくる。



10:38 《現在地》

現道の朝日トンネル(全長592m)の南口から、直に2径間の栗代橋が接続している。

旧道はこの粟代橋の下を一旦くぐり、栗代川に沿って50mほど進んでから右に曲がって同川に架橋。
切り返して現道の山側に取り付くようになっている。
ここからはその全貌が見て取れた。



朝日トンネルの湧水は、容赦なく旧道の路面へ排水されていた。

おかげで平坦な旧道の路面は、小さな浅いプールの様になっており、今はまだ時期が早かったようだが、もう少しすればオタマジャクシとカエルの一大楽園現出セリの予感である。

こんな排水がなされている時点で、現道開通後に旧道を利用する意図はもともと無かったと判断出来ると思うが、この直後、それをより象徴する光景が、私にとっては一種のトラブルとして、出現したのである。




ヤラレター!

第一声がまさしくそれ!

この結果は予想外であった。
1度でも現道を通ったことがあれば、自然と目に入っていたかも知れないが、生憎私はここへ初めて来ている。

そうか…、 そうだったのか……。

旧道は、上流側の寸又橋が寸断され、下流側の栗代橋も寸断されていたのである。

平成3年に発生したまだ新しい約1kmの旧道は、上下両側とも、現道や他のあらゆる交通路から寸断された存在だった。
これはもう、将来にわたっても全く手を入れる気は無さそうだ。

何気なく下流側は現道に接続していると考えていただけに、この結末は意外で、またこれまで見てきた旧道風景全体の“格”を、私の中でグレードアップさせた。
よりプレミアムな風景になった感じがある。




また、もし仮に旧栗代橋が健在で先へ進めたとしても、やはり現道へスンナリ合流することは出来なかった。

旧道は対岸を右折した直後、現道の栗代橋の橋台にぶつかり、消え去っていたのだ。
両路面の高低差は目測で5mほどもあり、しかも藪が深い。

さあて、行き止まった。

まさか、またあそこを戻るのか?




心配はご無用!

いやはや、本当に助かった。

まさに、現道からの最後の施し(良心?)である。

先ほど通り過ぎた“沼地帯”の栗代橋橋下には、おそらくここを自転車で通ったのは私が初めてであろう、小さな階段がこしらえられていた。
この階段を上ってもなお、橋台の高さの分だけは草藪を掻き分けなければ無かったが、ともかくこのおかげで私は現道の朝日トンネル坑口脇へと、生還することが出来たのである。




10:42 現道復帰!

長さの割に風景の変化に富んでいた今回の旧道探索は、約40分で完了した。

なお、旧道は一旦現道に分断された後、栗代橋の次のカーブにも少し存在している。
その小さな全貌は、この写真と最後の写真で網羅されるので、レポートは省略したい。



栗代橋から朝日トンネルへ続く現道は、まさに非の打ち所のない感じである。

現役当時から度々洪水による冠水に悩まされ、
決潰のため大規模な仮設橋を用いたりもし、
挙げ句の果てには、廃止からすぐに超絶な大崩壊に見舞われた、

お世辞にも出来の良くない旧道を、

その苛烈過ぎる任務から解放した、偉大な存在である。




孤立した最後のプチ旧道も、やはり廃道化の措置を受けていた。
約50mの“三日月路”は、その全線が残土置き場に変わっていたのである。

その一角には、新たに現道を見守る巨大な観光用案内板(茶看?)が立てられ、
壮大な寸又の山河を背負っていた。

ところで、この画像に私がした“いたずら”に気付きました?(笑)

→【答え:元画像を見る