廃線レポート 千頭森林鉄道 奥地攻略作戦 第14回

公開日 2018.06.04
探索日 2010.05.05
所在地 静岡県川根本町

33.6km地点 大根沢分岐点より、栃沢への本線へ


【全体図】

大根沢支線の探索を終え、千頭林鉄本線上の大根沢分岐点へ戻ってきた。
ひき続いて、本線のさらに奥へ駒を進めようと思う。

右図は、私が探索に持って行っていた(当時最新版であった)平成17年版地形図の画像だ。
これを見ると、「現在地」より上流の寸又川沿いには、破線の「徒歩道」が描かれている。
その徒歩道は「栃沢」というところまで川沿いに続いているのだが、おそらくこれが昭和40年代まで存在していた林鉄の跡だと考え、それを辿るつもりであった。
小根沢から大根沢分岐(現在地)の間は徒歩道さえ描かれていなかったので、ここから先、いくらか路盤の状況がマシになることを期待しないではなかったが、あまりあてにならないとも思っていた。
(比較用に最新の地理院地図も掲載したが、こちらはもう、地形のほかはほとんど何も描かれていない。かつて人の残したものは、ことごとく“廃”に落ちた。この地図では、そもそも探索の計画を立てる気にさえならなさそうだ…。)

なお、地図上から読み取れる現在地から栃沢までの軌道跡(破線の道)の長さは、1.8kmである。


そして、こちらの画像は既にお馴染みだと思うが、探索前に入手していた貴重な「路線図」の一部である。
この資料の正確な来歴は不明だが、昭和30年代の状況を表わしていると内容から推定されるもので、当時の各停車場の名前や停車場間の距離を知ることが出来る(これを書いている現時点においても)唯一の資料だ。

現在地は起点(千頭)から33.6km地点の「大根沢分岐点」で、次に向おうとしているのは、36.0km地点の「栃沢」である。
この2地点間の距離は単純計算では2.4kmと判断できるが、この数字では上記した地図上の距離と合わない(0.6kmほど長すぎる)。
なぜそうなっているのか探索前から気になっていたのだが、大根沢の状況を見た時点で、その原因は当時の次のような運行状況にあったのではないかと推定するようになった。

大根沢分岐点から栃沢へ列車を運行させる場合、まず一旦は大根沢支線に入り、0.3km先にある大根沢複線でスイッチバックしてから栃沢へ進んでいた。逆方向も同様。

そう考えることで、路線図では大根沢複線と栃沢が隣り合うように描かれている不自然さも、前述した地図との距離の矛盾も解消される。
大根沢分岐点から栃沢の間は、直接行けば1.8kmだが、必ず片道0.3kmの大根沢支線を往復するため、大根沢分岐点と栃沢間の路線図上の距離は、1.8+(0.3×2)=2.4kmになっているのだ。

この自説を裏付ける資料は未発見だが、『全国森林鉄道』にも「本線奥も昭和26(1951)年頃までに柴沢奥からの木材輸送が終了し、新たに大根沢方向から伐出することにして側線の敷設と索道の建設および上部作業軌道によって大根沢上流域の木材搬出を行った」とあるので、この路線図が書かれたとみられる昭和30年代には、利用頻度における実質的な本線は大根沢支線側にあり、栃沢へ向う本線は支線的な扱いに転落していた可能性が高いと思う。

……というわけだから、これまでレポート各回の最後に掲載していた「残距離」表示も、大根沢分岐点に到達した第11回最後の段階からは、次のように変更となります。楽に歩ける大根沢支線を1往復したことで、本線の残距離が0.6km減っていたぜ〜! これは地味に嬉しいッ! (なお、2往復以上しても距離は縮まらない模様…笑)


なお、路線図と『全国森林鉄道』ともに、千頭森林鉄道の終点を栃沢としており、全長36.0kmと記していることも共通している。

したがって、これから探索する区間は、確実にレールが敷かれていたことが探索時点で明らかだった“最奥”ということになる。


千頭林鉄の“終点”栃沢へ、いざ参る!






2010/5/5 9:22 

55分ぶりに戻ってきた本線分岐地点。
少しでも楽をしようと置き去りにしていたデカリュックが目に入るなり、私の気持ちを重くさせた。
休息にも近い癒しと収穫の支線探索が終わり、危険な場面をこれまで連発させてきた本線へ戻るのかと思うと、興奮と不安が綯い交ぜになった複雑な気分だった。

分岐の本線側には、大根沢を渡る大型のPG橋がさっそく待ち受けている。
この先へ進むには、いの一番にこれを渡らなければならない。慣れたつもりでも、怖いことに変わりはない。
橋の袂には、通行止めを告げる古い看板があるが、その内容は既に見たので繰り返さない。

ところで、現役当時の路線図から、運材列車は栃沢方向への本線へ出入りする際に必ず大根沢支線を経由したと推定したが、実際の大根沢支線と本線栃沢方向の行き来は、スイッチバックで行っていたようだ。図中の破線の位置に渡り線を敷設する余地がないので、そう考えるしかない。



渡る前に橋のチェックをしよう。

まるで鉄道橋のお手本のようにシンプルな上路PGだ。名付けるならば、大根沢橋梁
これまで見てきた4本の本流渡河橋には敵わないが、支流を渡る橋の中では最大の規模であろう。

全長25mほどの単径間の橋の中間付近の河中に、橋の半分くらいの高さを持つ使われていないコンクリート橋脚が立っているのが目を引いた。
これまでのいくつかの橋でも同様の光景を見ているが、これは木橋であった時代の名残であろう。

また、矢印の位置にPGの製造銘板が取り付けられていた。




1958年3月
東京営林局建造
活荷重 FRS−10
製作 株式会社横河橋梁製作所
材質 SS41

内容は上記の通りで、これまで目にしてきたいくつかの橋の銘板と大きく違う所はない。
昭和33(1958)年3月完成とのことだから、大根沢に事業の中心地が移って数年経ってから架け替えられていることになる。
本線とはいいながら利用量が激減した後に誕生し、それから10年も経たないうちに廃止され、挙げ句は廃止直後に上部で並行する林道の工事が進められたため、登山道としての余生さえ許されなかった、哀れなPGである。
使用による消耗が少ないだけでなく、単純に日本中の林鉄用PGの中でも遅い時期の製造であったせいか、赤色の塗装を含め全体的に保存状態がすばらしく良好だ。腐食しやすい銘板はもちろん、それを固定するネジ山までが綺麗に残っていた。



大根沢橋梁、渡橋中。


これまでの橋と同じく、本橋も枕木とレールが意図的に残されていた。
当初はこれらがあるお陰で歩いても渡りやすかったのだろうが、枕木が腐朽してグズグズになってしまった現状では、それを踏むことは厳に慎まねばならず、枕木と枕木の間に露出している橋桁を選んで足を運ぶ必要がある。
この腐った枕木群は凶悪な障害物と化しており、スタスタと渡らせてくれない元凶であった。




デカリュックを背負い、途中で拾ってきた木の棒(“ともだち”)を3本目の足代わりとすることでバランスを維持しながら、慎重に渡った。
橋の上からは、轟々とぶつかり合う寸又川と大根沢の合流地点を間近に見下ろすことが出来た。

橋の先は豊かな緑に隠されていて、実際に渡りきるまでブラインドが下ろされた状態だった。ここから先は、登山者も釣り人も、これまでの区間以上にあまり分け入らなかった領域だと思う。果たしてどんな景色が待ち受けているのか、怖かった。

渡り終えて振り返ってみると(→)、もはや見覚えのある景色はそこになかった。
閉ざされたのだと理解した。
新ステージの初っ端から、気軽に引き返させないためのこんな重い業(“橋”)を背負わせる辺り、どこまでもハードモードに徹している。憎たらしいというよりない。



9:24
渡り終えてみると、目隠しになっていた緑の帳の中にも、見慣れた路盤が現われた。
まずは一安心と言いたいところだが、渡橋の緊張と、これまで蓄積し続けている疲労のためか、ストンと腰が地面についてしまった。
成り行きのまま息が整うまで休み、3分後に再出発した。


9:27
再出発直後の路盤の状況は、こんな感じであった(→)。

地形的には比較的平穏だったが、大小の岩がゴロゴロと散乱していて、足の踏み場もない。
これが自然の落石によるものなのか、上部の林道工事によるものなのかは分からないが、わざわざ登山道としても使えないと営林署が看板を建てていたほどだから、ろくな状況ではないのだろう。

とは言え、これまでも十二分に散々だったから、ことさら悪化したという感じはない。「相変わらず」というのが最も相応しい表現になるだろう。



9:29
また少し進むと、息を呑む景色が現われた。
見事な切り通しだ!
岩場から削り出された単線の幅の切り通しが、まっすぐ50m以上も続いていた。

このような場所では珍しい長い直線であることと、山側だけでなく谷側にも壁があることで、特異な景観を生み出していた。
しかもここは落石の被害もあまり受けておらず、枕木やレールを敷けばすぐに運行再開できそうな綺麗さであった。見事だ。




美しい切り通し区間内で見つけた、林道標識の「屈曲標」。
この区間は、森林鉄道の廃止後に「車道」化した時期はないはずなので、林鉄の現役当時に掲示されていた標識とみて間違いないだろう。

脇に見える積み上げられた木材は、枕木の山だ。
レールの撤去列車が走った後は、枕木の回収はなされず、ずっと放置されているのだろう。



9:34
橋から200mほど進むと、始まってしまった。

崖を削って切り開かれた路盤が、ここから見える範囲のおおそよ50mほどにわたって、大量の崩土に埋もれて巨大なガレ場と化していた。
これまでの区間でも度々目にした“新しくない”場面だが、その都度、熱い汗と冷や汗を垂らしながら突破してきたのである。
また始まってしまったのかという、諦めに似たような気分になった。

正面突破だ。




9:38
難所をひとつ乗り越えると、今度は一転して穏やかな場面になった。
これまた100mはあろうかという長い石垣が山側を抑えており、路盤は複線を思わせる広さになった。
雰囲気としては、昨日通過した諸之沢停車場や、その手前で見た名前のない複線区間によく似ている。

例の路線図では、ここに停車場などは描かれていないが、あれが調製される以前、つまり大根沢に支線が作られて事業の拠点が移るまでは、それに替る拠点がこの辺りに置かれていたのではないかという妄想は可能である。



9:54〜10:04 《現在地》 

それからしばらくは、楽だった。
常に上や左の写真ほど平穏だったわけではないが、長い石垣が仕事をしている無事な場所が多く、それらの間にある悪場も簡単に越えられるものばかりだった。
この辺りで撮ったボイスメモ代わりの動画には、次のような肉声を吹き込んでいた。

「大根沢以降は比較的渓相が穏やかで、路盤の状況も前よりは大分安心感がある状態です。沢沿いに常に涼しい風が吹いており、気温は高いですが、非常に気持ちの良い探索となっています。」

しかし、そんな楽な区間でも私の疲労は着実に蓄積していたようで、10分間という決して短くない休憩をした記録も残っている。
なにはともあれ、大根沢分岐〜栃沢区間の最初の3分の1にあたる約600mは、順調であった。




10:12
さらに10分ほど前進し、おそらく大根沢〜栃沢の中間と思われる辺りに差し掛かると、急に険しさが戻ってきた。
両岸とも極めて切り立っており、寸又川本流の流れは目の眩むような高さだ。
路盤からは高巻きも下巻きも全く難しい逃げ場のない状態になっているのだが、肝心の路盤はまんべんなく土砂に埋もれて、いらやしい“なで肩”だった。

このような難所は、これまでも飽きるほど越えてきたのである。
ここも慎重に正面突破だ。




10:16
いやらしい斜面に耐えながら進んでいくと、渓相の険しさがいよいよ極まってきた。
こうして見下ろして眺めるだけなら美しいという感想が一番に出て来そうな深潭の流れ、いわゆるゴルジュだ。

泳いでみたら気持ちいいなどと考える人もいるかも知れないが、私などには絶望的な場面に見える。
路盤が通過できるうちはいいが、万が一こんなところに落ちた橋でもあって、川に降りて進めと言われたら、その時点でゲームセットである。
それが分かっているだけに、気が気でなかった。



10:19
中盤から急に険しくなりはしたが、その険しさは小根沢〜大根沢の平均を10とした場合、せいぜい6くらいだろう。5を越えれば険しい林鉄だ。
現場の私が吹き込んだ生声を追う限りでも、恐々とした感じはなく、爽快な気分で林鉄探索に興じていたようである。

2週間前に初めてやった千頭林鉄第一次探索以前は、本当に果てしない長さとしか思えなかったこの林鉄も、全長36kmといわれるうちのラスト1kmに入っている。本線と支線(大間川、逆河内、大根沢の3本)を全て合わせても、これが最後の探索区間である。
どんな盛大なフィナーレが待っているのか、楽しみで仕方なかった!

そんななか、新たな一波乱の予感させる“明るく白い場面”が、行く手に現われた。
ただ白いだけでなく、なんか煙っているように見えるが…。




10:20 《現在地》

きやがった! 巨大ガレ場!

終点栃沢まで、推定残り600mの地点である。

位置的に、これが最後の難関か。これは、そうであって欲しいと思う私の願望込みの展望だが…。

現在も盛んに崩落が続いている色がありありと見える、巨大なガレ場。奥行き50mはありそうだ。



正面突破だ!

今回のガレ場は、昨日からこれまでの行程で出会ったものの中でも3本の指に入る規模と思われたが、足は止らなかった。
というか、特に感情が起伏することもなく、ロボットのように無表情のまま行けるか行けないか判断して、粛々と(あるいはぼんやりと)足を進めていた。

次の写真は、この巨大ガレ場の中ほどで、一度立ち止まって見上げた景色である。




高いな〜!

空撮写真でもはっきり見える、緑の山を分断する巨大な地割れだ。
このガレ場は、おおよそ200m高い位置を横断する左岸林道の辺りから始まっており(肉眼で林道は見えない)、状況的に見ても、半世紀前に行われた林道工事が引き金となったものと考えられる。
【大根沢分岐の看板】は、こうした出来事を予見したものだったのだろう。

こうした林道に限らない山岳道路の建設が、地形と環境を取り返しのつかないレベルまで著しく荒廃させる事が社会問題化したのは、ちょうどこの左岸林道の工事が終盤にさしかかっている昭和40年代であった。以後は市民の厳しい監視の目が様々な場所に向けられるようになり、環境保護行政も本格化した結果、それまでのように無造作に残土を谷へ捨てるような工事はできなくなった。環境に優しい様々な工法が開発される一方で、山岳道路の建設自体も低調になっていくのだっ――バンッ!



らッ、ラクーーッ!



ここは、立ち止まって上部をのんびりと観察していいような場所ではなかった。

砂煙が立ち上っているように見えたのは、光の加減でも春の麗らかの表現でもなく、本当にそうだったのだ。
ひっきりなしに落石が起きているがゆえの砂煙。こんなところは、素早く通過してしまうのが正解だった。



10:24
危険なガレ場から逃げるように外へ出た私を出迎えてくれたのは、続発する落石音と
砂煙を背負って突然現われた私の前で、怯えるように小さく丸まった1匹のハクビシンだった。
倒木の隙間に身を縮こまらせて、これ以上ないほど目をまん丸くして私を見ていた。
ハクビシンといえば、私の中では“隧道ぬこ”である。大抵は薄暗い地中での遭遇だけに、
明るい日の光の下での遭遇は新鮮に感じられた。隧道なくても、“隧道ぬこ”はいるんだね!
(ちなみに、秋田の家で飼ってるぬこの名が、ラクである)



隧道あった〜!

大樽沢以奥では3本目、本日としては初の隧道だッ!

“隧道ぬこ”は、ちょッとひなたぼっこに出て来てただけだったのか〜(笑)

千頭林鉄最奥かも知れないこの隧道、私を無事に抜けさせてくれるだろうか。

そして、その先に待ち受ける終点の姿や、いかに……!



栃沢(軌道終点)まで あと0.5km

柴沢(牛馬道終点)まで あと8.9km