塩那道路 (県道中塩原板室那須線)  その4 

公開日 2005.12.07
探索日 2005.10.09



空に届け! 塩那街道!

4−1  3号橋

8:51
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 塩那道路51kmにおける、ただ一つだけの橋。

それがこの、「3号橋」である。


意外であろう?
これだけ山中を長々と走っているのに、まともな橋がただ一つしかないなんて。
私も、厳密に設計書を見て「一つだけ」と断じているわけではないのだが、少なくとも、こうして欄干があって、一目見て橋だと分かるようなものは、この一つしかない。

 … 3号 と、 そう呼ばれる、この橋しか、ない。





 3号橋には、まず親柱が一つも存在しない。
また、銘板も一つもない。
だから、今現在、この橋の名を「3号橋」と呼ぶ根拠は、各地に設置された「塩那標識」による他はない。
また、わずか1年前にはここにも塩那標識が立っていたが、今回は幾ら探しても支柱すら見当たらなかった。
この一年で、撤去されたのか?

 ともかく、谷をU字型に跨ごうとする道の一部となっている本橋は、橋自体こそ直線なれど、両方の取り付け部分の路面が谷側に拡張され、全体では蛇行しているようなイメージを持たせる。
将来は、この上にセンターラインが敷かれ、2車線の観光道路の一部となった筈のものが、こうして前後の道がまともに完成しないまま、ここに取り残されているのだ。




 おそらく、塩那道路が廃止され、現在始まったばかりの「廃道化工事」が進められたとしても、この橋が撤去される可能性は低い。

 ここいらで、塩那道路の廃道化工事について、少し詳しく書いておこうと思う。
私などは、結構行き当たりばったりで探索しているので、一口で廃道化といっても、どんな工事をするというのか、分かっていなかった。
その分からなさが、「もしや今を逃したら、全線を辿るチャンスは二度と無いかも知れない」という不安を執拗に駆り立てたのだった。

 読者の皆様についても、もしチャンスがあれば行ってみたいと思うなら、塩那道路の廃道化工事の正体を知っていて損はないだろう。

(写真は、橋の上からいま来た小蛇尾川の谷を見晴らす。道のラインがかすかに見える。)

 昭和57年に正式に工事の休止が決定された時、作りかけの塩那道路をどうするかという議論がなされた。

そして、ある程度の利用が見込めるとして(折角作ったんだからという意図が働かなかったわけもないだろう)、塩原側から7km、板室側から9km弱を県道として続行整備し、その中間部分36kmについては、廃止するか、議論を先延ばしにするかという選択を迫られた。
結局、平成15年に廃止の方針が固まるまで、中間部分については完成していたパイロット道路の維持だけが行われてきたのは、これまでも述べたとおりだ。
なぜ、昭和57年当時に中間部分の廃止を決定しなかったかと言えば、最大の理由は、廃道化工事にかかる経費の問題だった。
当時の試算では、36kmをもとの緑の森に戻すのに75億円あまりの予算が必要だとされた。
これは、われわれ素人が最も廃道化工事としてイメージしやすい工法、すなわち、客土(余所から持ってきた土)を道路上に盛り、さらに植栽を行うという方法だ。(この方法で廃道化された道の例→(国道289号甲子道路工事用道路))
これが、大変な予算を要するだろう事は、容易に想像が付く。
数百億をかけてそこまで作った矢先に、また75億をかけ廃道化というのも、あんまりだと言えばあんまりだ。
同じく当時の試算で、全線を2車線で完全整備するのに必要な予算がもう200億円、1車線に規模縮小すると120億円だと言われていたのだから、その差は必ずしも大きくない。

 なお、このような建設と廃道を両天秤にかけた試算は、最近の議論の中でも改めて行われている。
平成14年頃の試算によれば、「客土+植栽」による完全な廃道化工事に要するのは133億円。
一方、当初計画を縮小し1車線の舗装路としての整備だと、やはり同じ133億円が掛かると試算されている。(プラス年間維持費は1.3億円と試算)
これだったら、建設しちゃって活用した方が良いという議論も生まれそうだが、結局廃道化が決定された。
その理由は、はい ↓
2005/12/13追記



 では、なぜ平成15年からの議論では、遂に廃道化が決定されたのか。
その答えは、当時試算に用いた工法ではなく、もっと低コストな廃道化工事が考案されたためだ。
その方法とは、「森の自然治癒力」にかなりの部分を任せる方法。
つまり、人が一切立ち入らなくなれば、あとは長い年月をかけ道は廃道化するだろうというのだ。
たしかに、それが事実であることは、われわれオブローダーなら痛いほど知っている。
どんな立派な道も、最後は激藪…森に帰っていくことを知っている。
まして、未舗装の塩那道路ならば、おそらく50年も完全に放置すれば、おそらく大半が森と区別が付かないようになるだろう。

 こうした考え方で試算された廃道化費用は、約20億円。
従来の現状維持ですら、年間3000万からの費用がかかっている事を踏まえれば、延々とそれを続けているわけにも行かないのだろう。
結局、自然の回復力に期待する廃道化工事が決定され、今始められたばかりである。



 さて、森の自然回復力に任せるといっても、まるっきり放任ではない。
それだったら、20億円の予算も必要ないだろう。
この予算の大部分が、放っておいては元に戻れないほどに破壊されてしまった自然を、人為的に復旧することに用いられるという。
そんな「自然が破壊された区間」というのも、「ここからここまでがそうだ」と、公開されている。
それはもっぱら、これから進もうとしている最高高度の稜線方面に集中している。
それ以外の部分では、所々に小規模な対策工事を要する部分がある程度だ。
この3号橋は、いずれの対策工事にも予定されていない。

 そして最も重要なことは、この時間をかけて行われる廃道化工事では、その経過を見守るために、引き続きパイロット道路を最低限度維持していく必要があると決められていることだ。
この予算も込みの、20億円という試算である。

 つまり、我々本意の穿った見方をすれば…
塩那道路はまだ暫く、存続する。

ただ…、あくまでも人の手を出来るだけ入れないことを目的とした事業になるので、本当に今までよりも厳しい入山規制が敷かれる可能性はあるが…。


 さてこの3号橋、その全容を見ることができる展望所がなかなか見つけられなかった。
木々も生えない崩壊地の瓦礫の山をよじ登り、なんとか全容を捉えたのは、折角来たんだからと言う私の意地だった。
この写真は、そうして撮影されたものだ。

 真っ直ぐに谷を跨ぐ「方杖ラーメン」3号橋の勇姿。
小蛇尾川源流が楓の葉っぱのように四方に広げた支谷の一つを、こうして跨いでいる。
前後には、やはり同じ様な谷を跨ぐ箇所があるものの、そこには橋が無く、斜面に沿って谷を迂回し暗渠や洗い越しで水流を跨いでいる。
建設されなかった1・2号橋は、おそらくそうした谷に架けられる予定だったのではあるまいか。
そのなかでも、一番険しく、迂回の困難だったこの谷だけに、パイロット道路としてではなく、本用の橋を設置したのだと考えられる。

 もし、無事に全線が開通していたなら…。
この橋は、絵葉書に登場しただろうか?
銘板の一つも、取り付けられただろうか?
もっと、粋な名前が与えられただろうか?
 



 私は、銘板すらないこの橋で、どうしても見つけたいものがあった。

そして、それを発見するために、橋の欄干と土台の隙間から、猫のように身を伸ばし乗り出すと、ヒューヒューと風に吹かれながら、一杯に伸ばした手の先に持ったカメラで、 それ を探した。

肉眼ではどうしても見れない場所だけに、何枚も写真を撮り、橋の右も左も、何度も何度も身を乗り出しては、手探り… いや、カメラ探りの捜索を行った。

そのなかでは、こんな失敗写真が沢山生産された。

おにぎりを頬張るゆーじ氏も、なんだかあきれ顔だった。





 やった! 遂に見つけたぞ!

名札無き橋の、隠されし名札。

橋の上からは決して見えない、鋼鉄の桁の側面に取り付けられた建造銘板だ。

そこには、いままで橋の上からでは決して知り得なかった、橋の諸元が明かされていた。

1971年3月
栃木県建造
建示(1964)一等橋
製作 川田工業株式会社
(以下略)

 橋は、昭和46年3月に完成したようだ。
これは、パイロット道路の開通した年。この年の10月に、初めて塩那道路が一本に繋がったのだった。
施工主は、栃木県。当初から県営の有料道路を想定していたのか。この道が県道に指定されるのは、翌昭和47年である。
「一等橋」というのは、昭和31年から平成5年まで使われていた橋の強度に関する規定によるもので、二等に比べてより頻繁な交通量に対応するように定められていた。
つまりは、この橋が「幹線道路並みの交通量を見込んでいた」ことの左証となる、貴重な表記である。
いまでは、工事車両がときおり通ったり、あとは冬の間常に大雪が大加重になっている程度か。
完全に、一等橋はオーバースペックだろう。




4−2  3号橋 〜 ヘリポート入口

9:09
 橋の袂で、自分たちの成し遂げた道程の長さと、塩那道路の主要な構造物である3号橋を得た感慨と一緒に、握り飯を頬張った我々は、午前9時をいささか回ってから、再度出発した。
塩那道路入口からは、すでに15kmほど入っている。
普通の道なら、いい加減終盤戦にさしかかっても良い頃だろう、標高も1200mを越えている。
だが、ことこの塩那道路に関しては、まだ中盤が始まったばかりだ。
なお登りは600mも高度差を有し、延長に至っては35kmも残っている。
やっと、三分の一かと言ったところ。

 写真は、橋を過ぎて間もなくの「上滝沢」付近。
平日は盛んに工事が行われているらしく、資材などが路傍に置き去りのままになっていた。

 


 キャタピラの跡だけが目立つ路面。
未舗装路になってから6kmほど走ったが、この路面状況には全く変化がない。
山側には、草むらでやや隔てられた場所に立派な六角コンクリートブロックの法面。
もうすでに、塩那道路では見飽きた景色となりつつあった。
六角コンクリートブロックも、新しいものもあれば古いものも見られる。
他の道路では見たとがないが、塩那用に必要があれば随時作っているのだろうか。

 おそらく、このようにコンクリートの法面がある場所は、パイロット道路が、将来予定された本用路と重なっている場所なのだろう。
逆に、荒々しい法面のままの場所は、本用路は別に切り開くとか、大規模な改修を予定していたのだろう。

 あまりに長い道中は、こうしてレポを書くためにモニタの前で写真を見ながら思い出し、考えることの大半を、すでに路上で経験させていた。




 複雑に凹凸を繰り返す山襞を、緩急を付けつつも一方的に登り続ける道。
その途中、なんてことはないような路肩に、弔いの跡があった。

 自然石の祭壇の周囲に、風雪で倒れてしまったらしい香炉や、お供え物の空き缶、タバコの吸い殻やらが散乱している。
綺麗に整えようかと咄嗟に思ったが、なにか、手を付けるのが申し訳ない気持ちになり、両手を合わせ軽く黙祷しただけで、すぐに立ち去った。

 塩那道路が、現在のように厳しく入山を制限されるようになった経緯には、通行止めを突破して通ったライダーが事故死した一件があると言われている。
この祭壇との関連性は不明だが、一気に気持ちが引き締まる気がした。



 相棒ゆーじ氏。
彼は、私より年上だが、普段からチャリで廃道を探索する活動をもっぱら千葉で続けており、なかなかに健脚である。
二度目の塩那という余裕もあっただろう。
ただ、塩那道路を出来るだけ疲れないで走りたいのならば、やはりチャリの変速の段数が重要だと感じた。
とにかく軽い段があった方がいい。
私は24段、彼の愛車は21段、昨年彼と同行したご友人は18段だったというから、この段数に逆比例して疲労したのではないかと思われる。
我々はこの塩那で、疲労でどうにもならなくなるような場面はなかったが、気温などの条件に恵まれていたことと、十二分に水分を持っていたこと、普段からチャリを使っていたことなど、最低限の条件はある。
ただ長いだけの道だと思って立ち入れば、本当に長い苦しみを味わうことになると思うので、注意していただきたい。


 ごく最近まで工事が行われていた感じの場所が、断続的に現れる。
いまにも、カーブを曲がった先には稼働中の重機が唸っていたり、現場があるのではないかと、どきどきしながら進んだ。
しかし、休日だったことが幸いしたのか、それらは杞憂に終わった。

 それにしても、ガードレールは本当に真新しく、落石の傷一つ無い。
これを本当に、廃道にしてしまうつもりなのかと訝しく思った。
また、路肩の段々になった施工は、「フトン籠」と呼ばれるもので、金属の網に砕石を詰めたものをブロック状に配置してある。
この施工では、長い年月を経て植生が復活すると言う。
塩那の廃道化工事の主たる施工のひとつが、このフトン籠で法面や路肩の裸地を覆うことにあるようだ。
一年前よりも、設置された数は増えてるようだ。



 特に塩那標識にも名前が無く、何という沢なのかは分からないが、二本の小蛇尾川の支沢を連続する暗渠で跨ぐ場所。
周囲は、荒々しい赤茶けた岩盤が点在しており、難工事であったことを感じさせる。
写真に写るゆーじ氏の体と比較しても、その規模の大きさが分かるだろう。
 また、この二本の沢は、いずれも連続した砂防ダムが、段々に連なっており、地形を大幅に変容させるに至っている。
林道工事で最も環境を破壊する場面は、山奥の砂防ダムにあると聞いたことがある。





画像にカーソルを合わせると変化します。

 しでー!!!!!

 あ、おもわず秋田弁が…。

すんごいなー。

ほんと、しでー所にきちまッたよ。

足元から、向かいの山肌までの広い谷間が小蛇尾川。
向かいの山肌を淡々と登る、1時間前に通った道が横断しており、その天辺のとんがりは、黒磯市と塩原町、それに藤原町とが接する、日留賀(ひるが)岳。
そして、一番の驚きは、小蛇尾の谷底から見上げて絶叫した稜線近くの道が、ここからもくっきりはっきりと眺められたこと。
いよいよ稜線に至ろうとする、海抜1700m超級の行く手の塩那道路が、見えるのだ。

 本当に、この山、地形全体が、塩那道路の巨大なキャンバスのようだった。




 主稜線上の「立岩」付近の拡大写真。

木も疎らな高所を、痛々しい傷跡を山肌に穿ちながら通っているのが見える。

この先、約5km先に自分自身があるべき場所だ。

しかし、本当にあんな場所まで登っていけるのか、漠然とした不安を感じさせさえする寒々とした景色である。

こりゃ、通行止めにもなるよな…。

自然が、泣いてるもん。




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4−3  ヘリポート入口 〜 長者平

10:07
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 現地にこそ塩那標識は立っていないが、大体「ヘリポート入口」というのは、小蛇尾沢を延々と迂回しながら高度を稼いできた道が、進路を180°切り替えて、今度は目指すべき主稜線へと向き直る地点である。
起点からは、約20kmの地点だ。
その標高は、いつのまにやら1500mを越えており、これはもう、山行ががかつて体験した最高高度を大幅に更新している。
小蛇尾の谷底からは、ずうっと2kmで100mというペースをコンスタントに守りながら、その内訳には多少の緩急はあれども、道は上り一辺倒で続いていた。
平均勾配5%と言ったところだ。

 進路が変化したことは、景色を見ても明らかで、今までずっと道の傍らのどちらかにはあり続けた小蛇尾谷が視界から消えた。
代わりに、正面には小高い丘。
丘と言っても、道が比肩しうるほど高くなってしまっただけで、れっきとした長者岳(海抜1640m)山頂である。



  嗚呼 惜しい!

 もし、もしも。
今日が快晴だったなら、この“天空の窓”からは、どんな景色が見えたのだろう。

小蛇尾谷の開けたその向こうには確かに、見たこともない広大な平野が、日光を斑に反射しながら広がっていた。
その方向には、見渡す限り山は見えなかった。
あれが、あれこそが、20年近く帰っていない、かつて私の住んでいた地。
関東平野の姿なのだろう。
そこから来たゆーじ氏が隣にいる。
でも、私は遙か遙か背後の山また山の向こう、秋田に住んでいる。
後悔なんて無くて、秋田は大好きだが、感慨は深かった。
遂に、私もここまで来たんだと。
関東へ凱旋する(住むという意味ではなく)ことがあったら、その時は必ず、チャリで峠を越えてから関東平野に入りたい。

 話が脱線したな。
ともかく、秋田平野なんかとは比べものにならないような平野が、はっきりいって目では見えないんだけど、曇っているからね。
でも、気持ちの中では見えていた。
雲に、靄に覆われて、見えないが。 見えていた。



 そんなに私に見られたくないか!
関東地方よ!!

 私が、少しでも多くのものを見てやろうと、見えざる平野に目をこらしていると、まるで「駄目だ駄目だ」と言わんばかりに、厚い雲が下界からも上空からもこちらに押し寄せてきて、あっという間に視野を奪ってしまった。
嗚呼、もっと見せてよ関東平野。 (ヨッキ心の句)

 ところで、塩那道路から富士山は見えるのだろうか?
この地点と富士山を結ぶ直線上、ここから11kmほど富士山寄りには高原山という海抜1800m弱の山が聳えているが、そのやや西よりの「ハンターマウンテン塩原」にあるロープウェイの終点、「明神岳山頂駅」からは、物理的には見えるらしい。(そしてそれが、殆ど日本最北の富士山ビューポイントでもあるらしい)
実際には、そこから見えたという話は聞かないが…。
 で、この塩那道路からは見えるのか…?
どうなんでしょうねぇ?
見える可能性はあると思うけどねー。
少なくとも、富士山には高原山自体は被らないはず。
その富士山までは、約210kmと言ったところ。



10:22

 ヘリポート入口からさらに500mほど緩い登りを進むと、峠と言うほど峠らしくはないが、ちょっとしたピークになる。
ここで、いままでずっと右側にあった谷が、今度は両方になる。
つまりは、稜線に達したのだ。
塩那道路の最高所がある主稜線から分かれ、すぐ傍の長者岳に繋がる枝の稜線の上を、暫く走ることになる。
以後、この稜線を利用しながら、主稜線まで高低差200m、距離4km弱の道となる。
やっと、塩那道路の本当のピークが、感じの上では見えてきたと言ったところか。

 我々は、このちょっと広くなったピークでも、一休みした。
ここまで来れば、登りのピークは過ぎている。




 一瞬道は下るが、すぐに稜線に従い、またも登りが始まる。
長者岳直下にある「長者平」の塩那標識を目指して。

 いよいよ風は本当に冷たく、そして強い。
立ち止まっていると、すぐに手足が凍えてくる。
震えさえ走る。

 今年の紅葉は、例年より数週間も遅れていると、途中で何度も追い越し追い越されたあのオヤジさんが言っていた。
いつもの年なら、今頃が紅葉の見頃だと言うが…。

見たかったな〜〜。





 稜線の景色は幾らも続かず、やや稜線を西に下った斜面の急な部分を、岩肌を削りながら進む道となる。
この辺は、殆どコンクリの施工はなく、ガードレールも少ない。
道幅も林道に毛が生えた程度の4mほどで、非常に轍が薄いことを除けば、現役の林道のようだ。

 そして、驚きの景色がまたも我々の前に現れる。









 ゴウカイザー!

って、ネタが古すぎる上に、オタクっぽい?
いや、このネタ分かるアンタもオタクだし。
とりあえず、それはさておき、かなり豪快な道が刻まれている。
おそらくこれらは、だいぶ前に下界から見上げて、「うひょー」とか「むひょー」とか言っていた岩場の一つだろう。

 写真では、その大きさを明らかにするために、ゆーじ氏に立っていただいておりまする。
ゆーじさんちっちぇー!
…んではなく、崖がでかいのだ。



10:30

 うむ、近づいてみると、かなり熱い場所である。

秋田市内の「畑の沢林道」にとてもよく似た景色があるが、あっちは海抜400m、こちらは1500m。
規模が違う。

 当然のように、チャリを止め、下を伺ってみたくなる。
チャリをスタンドを立てて止めたちょうどその時、強い風が吹き、私のチャリの前輪を少し谷側に流した。
相当に冷や汗をかいた。
あのままチャリが転倒して谷に落ちていったら、泣いただろうな。


 いやー、ロープが張ってあって、本当に安全ですねぇ。
安全対策、ばっちりですね!



 

 またしても、
 sikkin!!!



 大きく見えているのは、日留賀岳。
そのピークの右の鞍部を、塩那道路は越えていく。
あそこに至って、やっと塩那道路は半分。
25km地点となる。

小さく、道も写っているが、見えるだろうか?

 これぞまさに、スカイラインと呼ぶに相応しい景色だと思う。
秋田県のどこぞの「茂谷スカイライン」とか、全国各地の名前ばかりのスカイライン達よ、

見たか!
 これが俺の実力だ!

 (意味不明)


 明らかに、パイロット道路ならではの状態になっているこの場所。
将来は、どんな道に改良する予定だったのだろう。
もし、ここに2車線の道を作るとしたら長い桟橋になるのか、もし山側を削るとしたら、その土工量は想像を絶するものになりそうだ。

 塩那道路。

おまえは一体何を考えていた?!

あの三島だって、こんな道は、“ときどき”しか作らないぞ。

 




 次々に現れる絶景に、心のネジがあちこち緩み始めていた。

 そんな無防備な状態のまま、

 我々は、遂に、


 塩那道路の真骨頂。


 天空街道へと、近づいていたのだった!





塩那道路、 のこり29km。