塩那道路 (県道中塩原板室那須線)  その6 

公開日 2005.12.14
探索日 2005.10.09



続 塩那“天空”街道

6−1  日留賀峠 〜 鹿の又坂

11:41

 海抜1720m。
塩原の入口から1200mも登ったことになる。
26kmも走って我々はやっと、塩那道路の核心部にある「5kmの特異な道」に、辿り着いた。

この、日留賀峠から先の5kmを、私は「天空街道」と呼んでいる。
もはや、この名前の他には思いつかない。

それは、東北には比肩するもの無く、関東地方でも有数と言える高所の道。
観光道路に宿命づけられ生まれた道の、成れの果て。


今や、廃なるを宿運とす、天空の道である。




 上の全体図はかなりの低縮尺だが、その中でも一際存在感のあるカーブ…

そう言って良いだろう、この日留賀峠のターンカーブ。

これまで稜線を目指し登ってきた道が、遂にその目的を果たし、ここから先は稜線の西側に進路を取る。
“天空街道”区間は、黒磯市と藤原町の境界線に掛かっていて、その前半の半分はギリギリ藤原町に含まれている。
全長51km中、20分の一だけの藤原町内の道中だが、そこにこれといった案内はない。
藤原町では、自分たちの町域の屋根だけをかすめるこの道をどう、思っているのか…?


 日留賀峠から、日留賀岳に続く稜線を望む。
くの字に曲がった稜線の突端の出っ張りが日留賀岳で、海抜は1848mある。
これは、塩那道路の掛かる稜線にあっては最も高い。
見たところ稜線は穏やかで、歩いて山頂に立つことは比較的容易に見える。
また、山歩きのサイトを見たところ、日留賀岳には塩原町から登山道が山頂に達しているという。

つまり、この稜線と登山道を経由すれば、塩那道路のこの地点に、ノーゲートでたどり着けると言うことになるが。
歩くなら、そっちの方が楽だろう。26kmも車道を歩くよりは。
ただ、稜線上に踏み跡は見られない。
そこを冒して歩くというのは、どうも…気が引けるな〜。



 これまで、決してみることが出来なかった藤原町側の眺め。
足元からすらりと落ちる山襞の先は、薄緑色が帯状に広がる谷がある。
男鹿川やその上流の横川に沿った集落や田畑だろう。
目をこらせば、建物の一つ一つも見える。

 その先に目を遣れば、あとはもう、見える限り延々に山である。
地図で確認すると、この山並みは栃木と福島とを隔てる県境の山々だ。
そして、おそらく視界の果てに見える一際高い山脈が、尾瀬だ。

いままで、山行がとは全く接点の無かった、日本一の観光地、尾瀬沼。
塩那のこの地点からの直線距離は、わずか43kmだ。
 


 日留賀峠を越えても、峠を越えたという景色ではない。
実際、まだ少し登りは続く。
本当の塩那の頂点は1km先の「鹿の又坂」を登った先のピークだ。

 それにしても、こんな場所にも重機が数台止められていた。
平日は、ここまで車で作業員が登ってきて、工事が続けられているのだろう。
フトン籠に採石を詰めて、これを設置する工事のようだ。
塩那廃道化工事(正式名「塩那道路対策工事」)の一部である。


 初めて塩那道路の本当の頂上が見えた。
今見える果ての、あのカーブこそが、塩那道路の最も高い場所。
海抜1805m地点だ。
ここから1kmの緩い登り。
稜線直下の西向き斜面に築かれた、
いや、穿たれたと言った方がしっくり来そうな、強引な道である。

 そして、
読者の皆様、お待たせしました!!
 こっから、塩那のハイライトシーン。いきます。



 荒々しい道の周囲の施工状況。

岩肌も露わなそそり立つ稜線に、へばり付く様に作られた道だから、右を見ても左を見ても、平坦な場所はない。
特に、谷底方向の眺めは絶景である。
なにせ、足元の谷までの比高は900mもある。
東京タワーの3倍の高さ、セリオンの6倍(何だと、セリオンを知らんだと? 田舎者め!)、うちのネコの背丈の2700倍の高さから見る下界の景色は、もうそれだけで、一級の展望台に立っているようだ。

 



 ちょっと、奥さん!


 大変な物を発見してしまいました。
滅茶苦茶大きな、不法投棄物… じゃないよな。

50mも下の斜面に、この道路から転落したものと思われる、水色の塗装が残る鉄のカタマリが。
よ〜く目をこらすと、なんとこれ、ミキサー車だよ。
滅茶苦茶ひしゃげている上に、接近する術が無く、詳細は不明ながら、明らかに工事車両。
しかも、かなり古い型のような予感。

この塩那道路から、落ちたんだ…。

ま、新しい物だったらそれはそれで、大きな問題だと思う。
それにしても、運転者は無事だったのだろうか…。
今更そんなことを想像しても何の意味もないのは分かっているが、それが気がかりだ。


 日留賀峠から鹿の又坂までは、非常に険しい場所を通っている事もあり、大半の道が当初から幅広に作られている。
パイロット道路として中途半端な道を作り、後からまた大規模な土木工事を含む改良をするよりは、最初から本用路に近い規格で道を作ったのだろう。
とくに、このような険しい場所では。

 そんな配慮が、廃道化が決定された塩那道路には、堪らなく、痛い。

写真の場所は、珍しく狭い。
カーブの突端には、「つらら岩」の塩那標識が取り付けられていた。
空に臨むカーブだ。
 


 これで、長かった、長すぎた登りも、最後だ。

そう言い聞かせても、活力は湧かない。

むしろ、何か寂しい。

むろん、一生登っていたいと願ったわけでも、登りが楽だったわけでもない。

しかし、登りに慣れ、登ることで新しい景色を開拓し、その度に感動を得てきた、塩那道路二十数キロの「成功体験」は、私の中に擦り込まれ、遂に下りに転じてしまう事実を目前に、足元を失ったような不安を覚えたのは事実だ。

もう、二度と来れないかも知れない塩那。

もっと、味わいたい気持ちは、確かにあった。



 無名峰(海抜1846m)山頂の基部を削り取り、代わりに城壁のようなコンクリートの壁をあてがった、塩那最後の登り。

その、偉容。


よくもまあ、こんな場所に道を作ったものだ。

ありふれたそんな感想が、ここを訪れた全ての者に共通するものだろう。

正気の沙汰ではない。



 山頂が、手の届きそうな場所にある。
下界から見れば、ここはもう雲の中の世界だ。

あとはもう、鋪装を待つだけの状態で、幅広の砂利道が直線的に続く。
もう、登りは殆ど感じられぬほどに緩く、走りながら色々なことを思い出す酸素量的余裕を、私の脳に与えた。

まるで、走馬燈のように、ここまでの塩那の半分の道のりが思い出された。
思えば、最初の連続九十九折りなど、遠い遠い話のようだ。
実際、もう既にあの辺を走っていた頃からは4時間を経過している。
こんな調子で塩那道路を走り終えた頃には、もう記憶なんて殆ど残っていないんじゃ?

そんな気がして、いつも以上に頻繁にデジカメのシャッターを切った。


 一帯は急速に霧に隠され始めた。
最高所からの景色だけは、我々に見せまいと言う魂胆か。
だが、いずれ私はまたここに来るような気がしていた。
願わくば、一面の快晴の日に、富士山をこの道から見てみたい。
見えるか知らないが、見える可能性のある富士山を。そして、遠く上越、信越の山々も。
関東の首都の姿も。
…見えないのかも知れないけど…
この厚いベールが、次への活力になったといえば、言い過ぎか。

 26kmポストが出現。
ここから峠までは、驚異の道幅がある。
 


 綺麗に整地された、幅20mの道。

塩那道路初まって以来、最大の道幅だ。

コンクリの壁に挟まれた、無機質的な道と、無駄に広い路肩。


 ゆーじ氏は、閃いたように言った。

「おそらく、ここは駐車場にしようとしたのだろう」と。

なるほど、合点した。



 正午を回って12時12分。
入山から6時間40分。

 26km地点
  塩那道路最高所
    鹿の又坂

      制覇


 標高1805m。

 


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6−2  日本版 「万里の長城」 

12:12
←地図を表示する。
 景色は良いが、とにかく寒い。
福島県や新潟県の方から、冷たい風がばんばんぶつかってくる。
着用している雨合羽(雨は止んで久しいが)の裾が、ばたばたとはためくほどだ。

 垂直に落ちるコンクリートの路肩に座り、寒さを我慢して昼食。
ちょうど、良い昼時に峠にたどり着いた。
残りの道は、初めのうちこそ平坦に近いが、いずれは嫌になるほど下るだけだ。

 塩那道路を半分制覇したというのに、この寂しさは何だろう。
終わらない道など無いのは分かっているが、どうやら、私はこの道に…

 恋 をしてしまったようだ。
 


 ちょうど雲が薄くなった一瞬を見計らって、やっと撮れた一枚。

いま走ってきた稜線を見通している。

奥の高い部分が、稜線の最高峰日留賀岳。
その手前の鞍部に見える白いのが、日留賀峠の道。
そこからずっとここまで、稜線に沿って道が写っている。

この眺めは、塩那道路に沢山ある好きな景色の中でも、特に好きなものの一つだ。





 20分ほど休憩し、寒さに耐えられなくなり12時33分、再出発。
道中最高所は、ご覧の通り、全くもって穏やかな峠だった。
最高所だというのに、何の標識も案内もない。

奥に見えるのが鹿の又岳(1817m)で、この先3.5kmは引き続き稜線に沿って、海抜1700m以上の高所を進む。
ここから先、塩那道路の景色はまた大きく変容を遂げるが、ハイライトシーンは続く。



 峠を振り返る。

左奥は無名峰(海抜1846m)。
歩いていっても簡単に山頂に立てそうだったが、やはり踏み跡らしいものは見当たらない。
この山や鹿の又岳などは、塩那道路を使わねば現実的な登山は出来ないだろう。
だがもし、塩那道路が観光道路として完成していれば、山頂を気軽に楽しむ観光客でかなり賑わったことだろう。
麓から電気も引かれ、自動販売機が稼働し、売店さえ出来ていたかも知れない。

 いま、「緑の回廊」に林野庁が指定しようとしている一帯の自然環境は、間一髪で壊滅を間逃れたのかもしれない。



 稜線から黒磯市側(東側)の山容を臨む。

深く切り込まれた谷は、大蛇尾沢(おおさび)だ。
我々が半日近くその周囲を巡り続けた小蛇尾沢と共に、この山域の主要な谷である。
そして、左奥の高い山が、稜線からは離れた独峰でありながら、海抜1908mで一帯の最高峰たる大佐飛山(おおさび)だ。
あの山を中心とし、塩那道路の走る稜線を含む一帯が「大佐飛山自然環境保全地域」に指定されており、基本的に人間の介在しない純粋な自然環境が保持されている。

 いま、我々が目前にしている山並み、塩那道路無くしてはまず目にすることの出来なかった、里からは遠く離れた深山だ。


 やや下り基調となりながらも、しばらくは殆ど現状の高さを維持しながら、稜線を辿って進む。

先ほどまでの厳ついイメージからは一転し、笹が茂る穏やかな稜線。
道がかすめている小高い丘が鹿の又岳(1817m)の山頂であるが、あんまり道に近く、山頂という印象はない。
あそこだけだったら、それこそ塩那道路から1分で登山できそうだが、ま、道の外に出ることは謹んでおいた。

 なんというか、この道はちょっと申し訳ない気持ちになってくるのだよ。

自然に対し。


 自然が牙を剥いて人間の成そうとする事に対峙しているうちは、そこを辿る私も、まるで応戦するかのように、人の所作を応援したくなる。
そんな気持ちに自然となる。
険しい山河を蹂躙し、岩場を破壊し切り開かれた道に、ある種の快感を覚えもする。
 だが、それが行き過ぎ、自然環境との調和や復元力を無視した道を目の当たりとしたとき、そこを辿る私の気持ちが変化した。
そんな殊勝な気持ちが私にあったのかと、自分でも驚くほど、私は「借りてきたネコのように」行儀良く、この道を辿った。
声さえあまり立てず、砂利をまき散らさぬよう注意までして。

 塩那道路は、ちょっとやり過ぎだと思う。
いくら何でも、観光用の景色を得るためだけに、無遠慮な場所に道を作りすぎでは。
本当に、ここに2車線の舗装路が出来ていたら、深刻な生態系の分断など問題が起きていただろう。


 そこまで考えが至ったとき、

「ああ、三島とは根本的に違うんだな。」

そう思った。

 県民の理解を超えて道路行政に邁進し、半ば強制的に労働力を搾取して、各地の峠に道を拓いた三島通庸(明治の人)は、赴任先の山形や福島で鬼県令と恐れられた。
彼は晩年(明治18年〜)、この栃木県の第4代県令(県知事)にも赴任し、その手腕を発揮している。
だが、当時彼の議事録に、塩那の言葉はひと言も出ていない。
彼が執拗に作ろうとしていた道は、県土の発展のためにどうしても必要な道だった。
その証拠に、彼の作った道は、いまも全てが活用され続けている。
彼の最終的な目的が国力の増強の一点にあったとしても、県民の生活向上にとってこそ最大の意義があったことは間違いない。
 塩那に道を通そうと初めて構想したのは、第40代知事の横川信夫に他ならないだろう。
彼の代(昭和34年〜)になると、道は観光の道具としても重要になっていた。
そして、街道としては何ら価値のない塩那の峰に、斯様に遠回りで遠大な道が築かれたのである。



万里の長城

私には、そのイメージに見える。

本場の万里の長城のように万里はおろか、一里もないけど。
人工的な城塞も石垣もないけれど。

だが、天然の要害たる稜線を丁寧に辿り、その天辺にグネリグネリと蛇行する道がある。

その姿は、日本版の、万里の長城。

そう見えないか。


  天空街道、ここに極まれリ。





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