2019/5/23 14:03 《現在地》
まっすぐな道が、行く手を阻む巨岩を断ち割りながら進んでいるように見える。
あるいは、巨岩自らが道を慮って、左に右に避けているように見えなくもない。
どちらにしても、この道の格は天地創造神に勝るというヒロイックな光景であるが…、
まあ現実としては、太古からここに並んでいた巨岩の配置を人が確かめて、
上手く直線でその隙間を通るように道を配置した……、ということだと思う。
ただそれでも岩角をいくらか削って道幅を確保するくらいはしていそうであり、
なんとも爽快な眺めであることに違いはない。素晴らしい!
この丸っこい大岩。形は可愛らしいが、アホみたく巨大な岩だ。
近くに沢山ある樹木の伐根の大きなものは幅50mよりっと大きい。
あるいは、背後の斜面に満水位の位置を示すラインが見えるが、
現在地はそこから数えて、30〜40mは深い位置(湖底)である。
これら大きさを比較できる対象と比べて貰えば、この丸い大岩が
本当に大きくて、3階建ての大きな住宅くらいもあることが分かると思う。
この大岩がどこから転げてきたかは定かではないが、おそらくは背後の山のてっぺん、
湖底から200mも高い位置に露出している露岩の峰から、バランスを崩して落ちてきたと思う。
この大岩だけでなく、周囲の湖底に沢山ある大岩はどれも、この山が出所だと思われる。
落石どころではない、山体崩壊というべき規模の崩壊が、遙か昔に起きたのだろう。
湖底にある地盤ではない孤立した1個の岩としては、おそらくこの左にある岩が一番容積が大きそう。
側面は全方向とも垂直に切り立っていて、高さは10mくらいあるが、上面はほとんど平らであるようだ。
チェンジ後の画像は、同じ岩を望遠で撮影している。その平らな上面に切り株が見えている。
それも若い小さな木ではなく、十分育った大木の切り株だ。わざわざ上って伐採したのか。
私にはどうやっても上面へ立つルートは見つけられなかったが、どうやって登ったんだろう。
その辺にあるコンビニの駐車場くらいの広さはある、この平らな上面には。
そこに建物を置いたりしたら、ゲームの世界のような風景になるだろうな。
うーーん、奇想天外すぎ!
地面に散らばったこんなデカイ巨岩の間を、あっけらかんと道が通り抜けていく感覚は、
ちょっと他で味わった覚えがない。これは湖底だからこういう道だというのでは決してないはずで、
陸上に存在していた現役の当時から、全く同じ岩の配置の中を道は通じていたに違いないが、
これは本当に珍しい、日本屈指の珍奇な道路風景だったのではないかと思う。
まあ、当時のこの道を利用した人なんて、ほぼ地元の人だけだろうから、
広く世に知られることはなかったのだろう。知られていればもっと記録もあっただろうに、惜しい。
チェンジ後の画像は、隣接する岩と岩の隙間に出来た、天然の大きな岩屋だ。
体育座りなら10人は雨宿りが出来そうな広さがある。起立なら20人は詰め込めよう。
「ここと似たような道を見たことがある人は、ぜひ教えて欲しい。」
そう書いて情報を集めたいと思っていた矢先、なんと先日の私の四国初探索で、思いがけずも、
「ああなるほど、この道が地上にあった時代はこんな風景だったのかもな」と思える場所に出会った。
(↑) ごろんとした大岩の脇をすり抜ける道の風景。
ここは、徳島県那賀町のある集落へ通じる、大正時代に作られた荷車道だが、
育ったスギよりも高い大岩が、道のすぐ脇に転がっていた。
しかもこの背後にも同じような岩がいくつもごろごろしていた。
もしも今日まで鳳来湖が誕生しなければ、道はわざわざつけ替えられずに、
今もこんな風景の中を愛知県道424号線が通じていたのだろうと思う。
しかも岩はここより遙かに大きく、きっと人気のスポットになっただろう。
大岩の隙間を通り抜けると、恐るべき巨石ゴロゴロ地帯は終わった。
明るい路傍に、60年以上前の水没時は小さすぎて伐採されなかった灌木が、立ち木の姿のまま残っていた。
ここは満水になると水深30〜40mの世界であるのに、小枝の先端まで生きた木のように残っているのに驚いた。
深い湖底という環境は、低酸素と低温度のため菌類の活動は活発でなく、流れもほとんどないために、生物の遺体は長く保存されることになるのだろう。理屈では分かっていても、実際に目の前にすると奇妙に見える。
そしてこの数日後には再び水没し、次に地上に現われる(貯水率が10%台まで低下する必要がある)のは何十年後になるかもしれない場所なのである。一人の人間にとって、本当の意味で一期一会となる可能性が十分ある、そんな深湖底の出会いだった。
楽しかったこの湖底探索も、年貢の納め時が、来たようだ。
前回間近に見たときと比べて、道と湖面の高さの差が、ハッとするほど小さくなっていた。
かれこれ鳳来湖のバックウォーターから2km近く湖底の旧道を下流へ向けて進んで来た。
2km分も川下へ向かって進んで来たのだ。そして40m近く高度を下げている。いくら今日の貯水率が10%台だとしても、いい加減、限界だろう。
このまま水面に突っ込んで終わりかと覚悟したが、直前で右に曲がって、水没を回避していた。
しかし、どっちにしても船だったら沈没間際の喫水レベルで、危機的状況だ。
それでも地面は完全に干上がっていた。全然泥濘んでいなかった。
私が来るまでずいぶん長いこと渇水が続いていたんだろう。
貯水率がゼロになったと全国ニュースで報道されたのは数日前だが、春からじわじわと水位が下がり続けた末の極限状態が、ここ数日だったのだろう。
右カーブの地点から振り返った、巨石群の隙間を貫く道路風景。
何度見ても、凄いインパクトだ。落石で転がってきた石サイズ選手権があったら、
上位入賞できるはずだ。たぶん誰も日本一がどこかなんて知らないだろうけど。
終わったー。
最後に右に曲がっても、それで水面から逃れられるわけもなく、
緩やかに、しかし確かに下り続けてきた道は、遂にこの日の貯水位に追いつかれて、
夢のように楽しかった湖底探索に、終止符を記した。
14:07 《現在地》
湖底の旧道を約2km進んだ地点で、とうとう道はコロラド色の水面に呑み込まれて消えた。
普段の水位からはあり得ないほど奥深くまで湖底を進んで来たが、それでもダム湖の長さのちょうど真ん中くらいの地点である。残り半分は、貯水率10%台でも水の底なのだった。
ただ、この探索のたった4日前までは、貯水率はゼロであり、もっと先まで干上がっていた。
その時の貴重な写真を読者さまよりご提供いただいたので、このレポートの終わりに紹介したいと思う。もっと先を見たいという方は楽しみにしていてほしい。
また、本日においても、引き続き湖畔を歩けば下流へ進める余地はあったが、地形的にこの先で再び旧道が湖上に現われる可能性はないと思うので、私はここで撤収する。
貯水率ゼロ時に衆人環視の湖底を歩くのには、いろいろ問題がありそうだったので、この日の水位は私なりの妥協点だった。結果的には、期待以上に凄い景色を沢山見られて大満足だった。
そしてこの日の旧道水没地点は、ちょうど第2岩脈と交差する位置だった。
鳳来湖の右岸に露出していて名前が付いている大規模な岩脈は、第10(穴滝)岩脈からこの第2岩脈までだが、その全てを間近に見ることが出来た。
道はこれらの全てと交差していて、中でも第5第6岩脈や第3(蝉滝)岩脈などは、大きな切り通しとして、路上に存在感を誇示していた。
もし水没していなければ、ジオパークとは行かなくても、案内板くらいは立っていたことだろう。
まあ地上にある限り、樹木や表土にカムフラージュされ、湖底のように岩脈は目立っていなかったとも思うが。
最終到達地点より振り返る、来た道の風景。
辺りは緩やかな谷底平野になっていて、水没前の道の周囲は鬱蒼たる大森林だったことが、膨大な数の切り株から伺える。もっと人口が多い地域だったら真っ先に開墾されていそうな地形だし、集落を作って住むことも出来そうだと思ったが……
うん、住むのは止した方が良さそうだ。
マンションくらいの大きさの巨岩がゴロゴロと落ちてきた過去がありありと見える場所に住むのは、精神衛生上きっとよろしくないと思うのだ。この場所に田畑や人家がなかった理由として、巨岩の存在は昔の人たちにも意識されていたと思っている。
14:08 最終到達地点より、撤収開始!
ここでは、同日に湖畔の現県道上から俯瞰で撮影した、旧道の最終到達地点を見ていただく。
これは下流側からのアングル。
第3岩脈の深い切り通しから、散らばった巨岩の隙間をすり抜けて、手前の第2岩脈の水没地点に達する。
現代の道路と遜色がないくらいの線形と、勾配と、道幅を持っていた旧道が、緩急ある地形を上手くいなしながら、
宇連川沿いに上流と下流を結んでいた、その力強く巧みなさまが見て取れるのである。
撮影地点が変わって、今度は巨岩ゴロゴロ地帯を観察ちう。
右上の山のてっぺんにゴツゴツした黒い露岩がそそり立っているけど、
あの辺が湖底巨岩群の出所と思われる。相当量が散らばっているな。
小石のような無造作さで、広い湖底に散らばる巨岩群。
旧道は、その間をカーブもせずにすり抜けているのが、超然としていて笑える。
望遠で覗くとこんな感じだ。落ちてきた衝撃でパカッと割れて2つになった岩が、
手前の湖上にあるやつと、道路脇に鎮座する“湖底最大の岩?”だと思う。
割れて出て来た面は平らで白く見えるが、そこにも太い樹木の切り株が生えていて、
岩が落ちてきたのはどれほど昔なのかと想像を絶している。
また、水没前は水没前でもの凄い美景だったんじゃないだろうか。
最後、この1枚だけは、2013年3月の満水に近いときの風景だ。
湖底がどんな状況なのか、全く計り知れない水位である。
このとき、私が湖底で目にした全てのものは、最大水深40m近い湖底にあって、
ほとんど光も届かない止った水の中に息を潜めていたのである。
ダムは、美しくも残酷だな。
14:26 《現在地》
“最終到達地点”から引き返して18分後、宇連川を渡る湖底の大橋跡まで戻ってきた。
写真は、往路では撮影していない下流側から見た橋の全景だ。
今日出会ったばかりの橋だったが、ほんとこの橋の風景が好き過ぎて、あらゆる角度から眺めたくなったがゆえに、敢えて往路とは違うルートで谷を横断しようとしていた。
往路では通らなかったが左岸の橋台へ向かう。
向かうというか、直接そこへよじ登る。
ピラミッドのようにゼロから石を積み上げてある右岸の橋台とは対照的に、左岸の橋台はほとんどが天然の地形である。
自然の岩盤に最小限の石垣やコンクリートの土台を配置して、上手く橋台を完成させている。
したがって、ここへよじ登るというのはほとんど岩登りだったが、良い具合に手掛かりがあってくれて、この手は“てっぺん”を取った。
とんびも低空飛行で私を祝福している。
祝福されながら、左岸橋台から見る廃道風景も格別だった。
どの方向から見ても絵になるのが凄い。
14:30 《現在地》
この橋台から先の少しの区間は、往路では“旧々道”探しをしたせいで通らなかった。
橋台を背にして旧道の行く手を見ると、道はすぐ先で丁字路になって左右に分かれていた。
宇連川沿いを進む本線とみられる道は、丁字路を左折する。
右の道は支線とみられ、支流である砥沢(栃ノ木沢)の上流へ向かう。
右折した直後に砥沢ではない別の谷(小屋ノ沢)を渡っており、おそらく単径間の方杖木橋と思われる橋の橋台だけが残っていた。
丁字路より支線方向を見ている。
色合いが乏しい風景なので分かりづらいが、目と鼻の先に深い小屋ノ沢の谷が横たわっており、そこを渡るとあとは正面ずっと奥に見える砥沢(栃ノ木沢)の入口まで真っ直ぐに平らな湖底を進んでいる。
この支線の大きな遺構はおそらくこの橋の跡だけで、あとは平坦な道である。砥沢に入ってからの道の姿は、現県道の八石橋から見渡せた(本編初回で言及済)。
今度は同じ丁字路から本線方向を撮影。私はこちらへ行く。
見ての通り、この先はなだらかさが印象的な長い掘割りになっている。
これは面白い風景で、わざわざ掘り下げなくても乗り越えて行けそうな地形を律儀に掘り下げて、道に一定の上り勾配を保とうとした感じがある。
そこだけ見れば鉄道的な勾配設計だが、さすがにそんな記録のないどんでん返しはないだろうから、“鉄道並に緩やかな勾配を意識した規格が高い道路だった”というのが実態かと思う。
しかし、未だに峠越えが果たせず行き止まりのままの県道の旧道で、今は無住に帰した宇連集落へ通じる道が、なぜこれほど立派に作られていたのか。その理由が不明である。
戦時中に重要視された鉱山へと通じる資源開発道路であったとか、何か軍の施設や根拠地を結ぶ軍事道路であったとか、そういった可能性が考えられるものの、どちらもそれらしい記録は見つかっていないし、後者については特に考えにくいような辺鄙な山奥だ。
あるいは単に私の考えすぎで、別に不自然というほど高規格な道ではなかったのか。
14:32 《現在地》
長く緩やかな掘割りを抜けたところは見覚えがある場所で、
そこでは無造作に乗り捨てられた相棒が、約1時間ぶりの私の帰還を待っていた。
ここは湖底で【3番目に出会った暗渠】であり、この先の旧道は往路で忠実に辿っている。
私の湖底探索レポートは、これで終了したい。
このあと、現県道へ戻る行程があるが、レポートは省略だ。
たぶん皆様のお待ちかねは、それより前回ちょっとだけ予告した、
貯水率ゼロ時に見ることが出来た“特別な風景”だと思うので。
“特別編”へ続く。
今回紹介した探索は、令和元(2019)年5月23日に行った。
探索当日の宇連ダムの貯水率は10%台であったが、これでも5月20〜21日の降雨によって貯水量をいくらか回復した状況だった。
同ダムは豊川用水の水源として灌漑用水、工業用水、水道など多方面で利用されているため、取水制限を行わなければ、雨が降らない限りどんどん水位は下がっていく。
各種報道によると、この年は春から続いた長い渇水で貯水率がどんどん下がり、5月中旬からは10%という極めて厳しい取水制限(=90%カット)を行ったが、5月19日には遂に、昭和60(1985)年以来34年ぶりに貯水率はゼロになった。
結果的に、5月20日から雨が降ったので、貯水率ゼロは1日だけの出来事であったが、その前日までも貯水率10%以下の極めて低い水位が続いていたため、干上がった湖底をひと目見ようと多くの人が訪れ、周辺の道路が渋滞したほか、禁止されている湖底への立ち入りにダム管理者が注意を呼びかた報道もあった。
このレポートの初回を公開した直後、湖畔の県道から5月18日に撮影した湖底の写真のご提供を頂いた。
撮影者は読者のみっちょ氏である。
写真の公開OKとの快諾をいただいたので、極めて貴重な写真の数々を、私の解説付きで紹介したい。
本コーナー内の写真は、注記のない限り、みっちょ氏撮影のものです。
みっちょ氏presents。
まずはこの日の宇連ダムの様子をご覧いただく。
ぎょっ!とする水位である。
こんなにダムの壁の上流側が露出しているのは、見慣れなくてギョッとする。なんだか壁が薄っぺらなものに思えて、さすがにバタンと倒れたりしないのは分かるのだが、普段こんなぺらっとした壁で膨大な水を支えているのかと本能的な不安を感じるレベルだ。
よく見ると堤上路にも大勢の人影が見える。おそらく見物人たちだろう。ちなみにチェンジ後の画像は、私が撮影した23日の様子で、これでも水位はとても低いのだが、18日より10mは高そうだ。
ちなみに、宇連ダムの設計上の貯水総容量は2911万㎥(東京ドーム約23.5杯分)だが、実際に利用できる容量(利水容量)は2842万㎥である。また、ダム湖の貯水率は現在の貯水量を利水容量で割った数字である。つまりこれがゼロであるということは、利水に使える水が全くないということを意味する。
写真を見ての通り、貯水率がゼロであっても、湖が完全に干上がっているとは限らないのである。
この2枚の写真は、いずれも私が5月23日に撮影したものだが、珍しいものが写っている。
「ダムの水がピンチです!」
「節水に御協力下さい。」
「(独)水資源機構 豊川用水総合事業部」
「豊川用水の節水状況 令和元年5月23日より 第4回節水
農業用水10% 水道用水10% 工業用水10%」
ダムの水がピンチであることを訴えるこの大きな案内板。あらかじめ用意されているものらしく、平時はこのように、豊川用水の可愛らしいイラストマップが表示されているのである。ピンチになると表示が(手動で)変わるのはちょっと戦時感があると思った。
それに、明らかに使用感が豊富なこの「ピンチパネル」は、当ダムがしばしば深刻な渇水に見舞われていることを伺わせた。
おそらく昭和60年の貯水率ゼロ時にも登場していて、その後も何度も登場しているのだと思う。
さて、次の写真からが本番だ。
いよいよ、私が引き返した地点より下流の旧道が写っている写真をご覧いただく。
これがどの場面であるか、本編をここまでお読みの方はもうお分かりだろう。
私が“湖底最大の岩”と呼んだロックガーデンのすぐ下流、まさに“最終到達地点”付近の様子である。
5月23日時点では、湖底の旧道はバックウォーターから約2kmのこの位置で水没していたのであるが、
5月18日の貯水率ほぼゼロ時には、当然ながらこの辺りの湖水は完全に干上がっていた。
したがって、これより下流を撮影した写真に写っている旧道は全て、
私には探索出来なかった領域となる。 刮目せよ俺!
ポジション変わって、“最終到達地点”を下流側湖畔より撮影している。
この画像に写っている旧道の大半は、未探索の領域だ。
旧道上やその周辺に、これといって目立つものは見当らないが、
水没前はこの辺りも沿道一帯全て鬱蒼とした山林だったのだろう。
上流の湖底と同じく、平らな湖底にはおびただしい数の伐根が露出している。
次の画像は、このさらに下流側を撮影したものだ。
ずーっと奥まで干上がっていて、マジで凄いな…。
たかだか貯水率10%くらいの違いでも、こんなに劇的に違うか、実際の状況は。
これは下流方向を撮影しており、一番奥の辺りに微かに茶色い湖面が見えるが、
見切れている川の曲がりの奥は、もう500m足らずでダムの堤体である。
本当にダム湖の完全な干上がりに近い状況だということが分かる。
そして当然、注目すべきは旧道だ。
我らが旧道は、この写真の中ほどでもう一度、宇連川の本流を渡っているのである。
私が探索した【湖底の橋跡】と同様の遺構がもう一つ、ここにあるはずだ。
↓ ズームイン! ↓
橋が
架かっていた。
う そ だ ろ 。
現実かこれ……。
実はこれは現実の風景だ。
(↑反応が混乱しているぞ)
いや、実を言うとね、私も知ってはいた。
木橋が鳳来湖の湖底に架かったまま残っているという話は、確か山行がの掲示板でも
以前の渇水時に目撃談が上がっていた気がする。そうでなくても、報道映像などでも使われていたので、
たぶん画面越しでご覧になった方は少なくないと思う。本編冒頭で引用したニュース記事にも、
「約60年前に沈んだ橋などが出現して話題となった
」とあったくらいだ。
この湖底の木橋は、界隈で少しばかり有名な橋だったのであるが、しかし、
ちょっと今回は有名になりすぎてしまい、私は接近を躊躇ってしまった。
こんな鮮明な画像を撮影し提供して下さったみっちょ氏には本当に感謝だ。
本橋は、現役当時、おそらく 大島橋 と呼ばれていた。
土木の世界では脆弱なる構造物の代名詞的存在である“木橋”が、なんと水没(昭和33年)から探索時点(令和元年)で61年が経過しており、さらに木橋の建設時から数えれば推定70〜80年以上経過しているとみられるにも関わらず、ほぼ完全な形で湖底の宇連川に架かったまま存在していた。
腐食を促す菌類の活動が非活発な水深50m超級の水底における低酸素低気温環境に加えて、橋を流失させるような水の流れや流木の衝突などが全く起らない静水環境が、この奇跡的な木橋の保存状況を実現したものと考えられる。上流の橋跡も、おそらく水没時点では架かったままだったのだろうが、水深が浅くなった時に流失したものと推測している。
橋の全体の構造は、時代劇のワンシーンを思わせるような方杖木橋を主体とする2径間連続の木橋だ。方杖桁を支える中央の橋脚と両岸の橋台はコンクリートや石造りだが、他は全て木造である。
道幅は3.5〜4mくらいある。
木橋といえば、林鉄用の橋が私の中では強くイメージされるが、明らかにこの幅は道路用の橋だ。木橋なので耐荷重はあまり大きくないだろうが、自動車も通ったことだろう。
橋そのものもさることながら、高欄などの上部構造がこれだけ綺麗に残っているのは、いかに平穏な環境で保存されてきたかを窺わせる。凄すぎる。地上にある橋だと木の高欄が真っ先に壊れるのに。下手したら親柱に墨書きの橋名とか書かれていそうなんだが、望遠ではちょっと判別出来ない。
路面には泥が堆積しているが、掃除さえすれば板張りの橋面が出てくるんだろうな…。
本当に凄い奇蹟の木橋だが、2023年現在は、また深い湖底で“真空パック的”保管をされているはずだ。
なので、また30年くらい後かもしれないが、やむなく貯水率がゼロになる日が来たら、また同じ姿で出てくるかも知れないぞ…。
この“大島橋”は、地図上だとこの位置にある。
バックウォーターから約2.5km、私の最終到達地点からだと約500mの下流だ。
反対にダム側から数えると、堤体から約1.5kmの深い湖底に、橋は眠っている。
チェンジ後の画像は昭和22年の航空写真で、道全体がとても鮮明に見える。
昭和22年当時に架かっていた橋が、そのまま昭和33年の水没まで存続した可能性は高いと思う。
ちなみに宇連ダムの着工は昭和24年である。
国全体が戦争の疲弊からまだ脱していなかった当時、資材不足などもあったのだろうが、この年代のダム工事としては着工から完成までずいぶんと時間がかかっている。
さて、貯水率ゼロの湖底の旅も、いよいよ最後の場面である。
ゼロを以てしても干上がらなかった最低位の“湖畔”は、昭和22年の航空写真で大島橋の下流に見える、明らかに耕作地と分かる模様の部分にあった。
これが大島橋のさらに下流、ダムサイトからわずか500mから1km付近の左岸一帯に広がっていた、大島開田地の跡地だ。
旧道の両側に短冊状の区画の模様が見えているが、これはおそらく石を積み上げて作った畝の起伏だ。ここに水田があった名残である。
記録によると、堤高65mの宇連ダムによって水没した面積は107.5haだったが、内訳は山林が大半の7割を占めており、2割ほどが道路や水路、残りの1割が採草地と耕地であったという。その少ない耕地が、この大島開田地と呼ばれていた土地だった。地名としては川合大島とも呼ばれていたらしい。
ちなみに集落の水没はなかったとされるが、それでも住宅6戸が水没補償の対象となっているので、開田地周辺に居住している住人がわずかながらいたようである。
水資源開発公団中部支社が昭和50年に発行した『豊川用水史』によると、水没したこの大島開田地は、明治26(1893)年頃に浜松の住人吉岡徳治郎が初めて開墾したところであるという。
彼ははじめ大島橋の位置に堰を作って水路を引き、鬱蒼とした山林だった左岸の平地を10haの山中では稀に見る美田に作り替えたという。
さらに太平洋戦争中には食糧増産の必要から一部が地元民に開放されて耕作が行われたらしく、それで川合から移住する人が現われたのだろう。
しかし戦後すぐにダムの建設が決まったことで、最終的に補償の対象にはなったが、二度と耕されることのない土地となった。
開田地の一帯には、61年も水没していたとは思えないほど綺麗に畝の模様が残っており、このダムの他の水没地がだいたい山林であったのとは一線を画して、人の生活を呑み込んだダム開発の愛惜を感じさせる場面となっている。
しかもこれが頻繁に出現するのではなく、水位がほぼゼロにまで下がらなければ現われないところにも、プレミアムな価値を感じる人は多いだろう。
ダム湖の水を全て抜いて、やっと呼吸を再開できた地面は、さすがに重苦しく見えた。
上流の湖底とは異なり、全体が湿った泥濘に覆われているので、仮に人目がなくても立ち入れる状況には見えない。
しかもここはダム堤体上の管理所から直接見えるほどの至近距離だ。
今回の探索の主題、宇連ダムに沈んだ旧道を地上から追いかけられたのは、ここまでだ。
この下流はさすがに泥沼のような水面下にあり、確認できなかった。
ダムの湖底は、境界線をたゆたう不思議な世界だ。
そこには、人が作ったとも、天の差配とも言い切れぬ、無造作の合作のような、予想の出来ない風景が隠されていることがある。
あんな木橋が60年も残ろうとは、誰が想像できただろう。
しかも、湖底の出会いは一期一会だ。
我々が確かめられる機会はとても限られていて、再開を確することはできない。
訪れれば繰返し見られるというものではない。
この道が整備された経緯など、まだ分からないことは沢山あるが、この湖底の旧道景色はとても面白く、探索は充実したものとなった。
引き続き机上調査は続けていくが、ひとまず完結としよう。