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道路レポート 北見峠旧道 “囚人道路” 第3回

所在地 北海道遠軽町〜上川町
探索日 2023.10.27
公開日 2025.09.13

 イージーモードでもクリアできないよりは良い


2023/10/27 10:10 

見事な枯れ色となった道が、山の斜面を斜めに横切りながら登っていく。
既に谷の気配は遠くなり、空が近くに感じられる。
とても爽快で気持ちが良い。

「囚人のうめきと血に染まった死の道路」(山と溪谷社『北の分水嶺を歩く』)という言葉には言い知れぬ迫力があったし、駆り立てられるものがあった。
その現場が旧道となり、ついに廃道へ成り果てた状況とは、どれほど鬱々とした、或いは険悪さを感じる道であろうかと身構えていた。
だが、偶然にも鍵が開いていた“緑の監獄”の甘さにも助けられつつ、私は予期を大きく覆すとても爽快な気分で歩けている。



高度が上がったことと、谷の出口近くへ戻ってきたことで、遠くの視界が開けてきた。
いま見えているのは、目指す峠とは反対の湧別川下流方向、北見方面の風景だ。
内地であれば、青々としたスギの植林地であったり、道路のライン、鉄塔、電波塔など、いろいろな人工物が見えそうななだらかな山々だが、見える人工物は、山腹を横切る走る旭川紋別自動車道だけだった。今朝利用したばかりの奥白滝ICの案内標識が見えていた。

この道の建設に従事した囚人たちの見た風景も、大差はなかっただろう。
しかし、彼等が収監されている網走集治監からこの場所は、150km以上も離れている。
そしてこの隔絶は全て、彼等自身が切り開いた中央道路の道のりであった。
自身とその同胞の血と汗で開いた道を辿って、新たな現場へ入り、そこに道を造る。
その営々とした繰り返しによって、網走からこの峠の麓へ至る道も、峠を超える道も、僅か1か年のうちに造られた。



10:14

谷底からずっと上に【見えていた】のは、この辺りだろう。
尾根が近づき、視界の中から自分より高度のある土地が減ってきた。
とはいえ、この優越感はかりそめで、まだ越えるべき峠の方を向いていないがためである。
間もなくこの尾根を回り込む場面が来て、新たなステージへと私を導くであろう。



10:15 《現在地》 海抜670m

最後の切り返しから、やや長々とした約400mのトラバースを脱し、取付いていた尾根の先端を回り込む場面となった。
入口から約1.7km、海抜670mの地点である。
これで完全にスプリコヤンベツ川を離れ、道は次なる峠よりの使者、右ノ沢川に面する斜面に入っていく。

峠まで、残すところ推定3.0km。
高度差は、おおよそ200mである。
距離についてはまだ残り3分の2だが、高度は残り半分ほど。

したがって、残りは比較的に緩やかな勾配で淡々と山腹を横断する道路であり、ゴールの峠まで九十九折りなど主張のある線形は一切なく、地図上においてはほとんど等高線そのものだ。語弊を恐れずいえば、単調そうな道である。崩壊の多発など、難しい地形ということも取り立ててはなさそう。



尾根の先端を回っていく長いカーブも、枯れ笹が作り出す金色の野と化していた。
探索にあたる難度としては、これは本当に恵まれた「イージーモード」を引き当てたと思う。
しかも、数十年に一度という頻度でしか生ぜぬ貴重なイージーモードだ。
もしここまでの枯れ笹の場面、直近おおよそ1kmが、全てバリバリの青笹であったとすると、体力的にも時間的にも、心境の点からも、さらには見通し不良による熊との不測遭遇の危険性という点からも、全てにおいてもっと大変であったはず。

もしかしたら、この大きな優遇があるおかげで、私は先行探索者が踏破に失敗したとされる北見峠の旧道を意外に容易く踏破出来てしまうかもしれない。
それはそれでどうなんだろうという気持ちがゼロではなかったが、とはいえ藪は好きではないし、ここまで来て踏破出来ずに引き返すのが非常にキツイ展開なのは間違いないから、イージーモードが許されるのは小学生までだとしても、私も許されたいというのが気持ちの大部分であった。



10:18

尾根を回り込んだ途端、一気に展開が悪化して「グエーッ!」となるのが定番だが(?)、今度ばかりはそういう悪運を引くこともなく、相変わらず笹は枯れていたし、その枯れ笹すらない本当に綺麗に原型を止めた道が現われて私をさらに喜ばせた。
車道としては相も変わらず構造物は僅少で、明治道のイメージのまま淡々と山を削っているだけだから、遺構発見的な面白みは乏しいが、とにかく歩き易いし、景色も良いしで、本当に快調だ。

チェンジ後の画像は、この道が手にした新たな眺めだ。
眼下に広がる巨大な谷が右ノ沢川で、奥に見える石北国境線から流れ来ている。
越えるべき峠もその線にあるが、地形に隠され見えてはいない。
正面中央のどっしりとした山も、国境線に聳える山で、海抜1445mのチトカニウシ山である。固定の登山道はなく、主にスキー登山の対象であるらしい。



10:30 《現在地》 海抜690m

尾根を回り込んでさらに10分後、入口から約2km地点。
依然として極めて順調。
笹の藪も所々にはあるが、全体的に低背で、密度も低く、かつ枯れているものが大半だった。
路面は土道だが乾いており、仮ににここまで自転車を持ち込めていたら、走行も可能であっただろう。

ただし、この10分間の前進で、私は以下の二つのものを見ていた。



う〜〜ん。
荒けてらっしゃる!
木に登りたかったのかな…?
爪が痒かっただけ?
こんなに歩き易い道、ケモノたちだって利用しない道理がないよね。



あ〜〜ら、大きなお足跡。
俺より大きい裸足の五本指は、誰かしらねぇ……。

……

…………

賢いAIに質問すると、必ずこう言う。
熊の足跡を見たら、近くに居る証拠だから、すぐに引き返せと。
いや、分かるよ。熊に遭わないことが目的なら、その通りだろう。
だが私の目的は、「熊に遭わない」という体験をするために山に入っているわけではない。

熊がいる山に入らないと探索にならない。
そしてこれは違法でもなんでもない。私は探索がしたいんだ。
人間の存在を知らせる鳴り物は全て使っている。
もしこれで積極的に襲ってくる個体がいたら、あとはもう腰に付けたスプレーで渡り合うしかない。納得してやっている。
足跡があろうが、実物が現われようが、追い立てて進むぞ。(今回はまだないが、現にこれまでもずっとそうやってきた)



10:32

変化だ。

変化がある。

何が変化したか、分かります?



この先、道の周囲にある笹は、枯れていないようだ。
幸い、路上には繁茂していないが……。



チトカニウシ山の見え方が、また少し変わった。
手前の山との取り合わせが変わったせいもあるが、山脈の中に際立つ主峰の感じがより強くなった。
しかし、この北の大地においては既に晩秋も終わりかけだというのに、頂の周りが季節感の乏しい青さに満ちているのは、そこが一面の笹原だからだろう。それゆえ、夏山登山の記録がないのだとも思う。



10:36 《現在地》 海抜730m

あ…

私に与えられた優遇ボーナス、遂に使い切ったかも……。

入口から約2.3kmの地点だった。



私の藪アンテナ、即座に察する。

これはヤバいかも…。

(最近レポートしたばかりの、未だ忘れることができない敗地を思い出した…)



くッ!



 立ちはだかる前人未踏(?)の藪に、心を失う


2023/10/27  《現在地》 海抜730m

前回最後の場面から。

遂に枯れていない笹藪が行く手を高く遮った。
見通せないので奥行きは分からないが、近づく過程で見えた範囲だけでも100m以上はありそうだった。
おそらく、私の前に探索した人を多いに苦しめ、踏破を断念させたとされる北見峠旧道最大の障害が、私にも牙を剥き始めたものと思う。

藪など、所詮は進路を妨害し進行を遅延させるだけの障害物でしかないだろう。
時間をかければ誰にでも越えられるものであるから、これがために未踏破というのは、些か真剣味を欠いているのではないか。
それは、雪があるからエベレストは登頂できないと言っているようなものではないのか。

もしかしたら、そのように考える人は多いかも知れない。藪漕ぎの経験がなければ、なおさらそうだろう。
かくいう私も、基本的にはそのような考え方である。
これまでいろいろな廃道で藪に敗北して撤退している私だが、藪のために引き返すのは、他の原因の場合よりも悩ましく、悔しく、腑に落ちていないことが多い。この選択は、本当に自身の限界であったのだろうかと回顧し、後悔を含みがちである。

ただし、北海道における藪は、他の地域の藪よりも格段に危険が大きいと私は考えている。
その理由は、見通しの利かない藪の中で、ヒグマと近接距離で遭遇するリスクである。
もちろん、私が藪の中を静かに歩くことは出来ないから、盛んに移動している限りは、相手の方から避けてくれる可能性が高いと思っているが、それでも周囲を見通せないうえに、まともに身動きもとれない藪の中で猛獣に襲われる想像をするのは非常に苦痛であるし、現にいま藪へ突入しようとしている私の足元に大きなヒグマの足跡を見つけたことで、動揺をしているのである。


10:38 …………突入。



顔面の前に次から次へと掛かってくる笹の大葉を、両手を使って払い続けなければならない、ガサゴソの忙しい藪だ。
藪の丈は背を遙かに超えており、手を上に伸ばしても外からは見えないであろう。
こんな場所で四つん這いの猛獣が突進してきたら、確実にアウトだ。スプレーを噴射する暇も与えては貰えなそう。
そんな恐怖があるだけに、出せる音は全部出しながら、相手にも考える時間を与えるイメージで、急がず慌てず進んでいく。

幸いにして(?)、笹藪としては、これはまだまだ序の口だ。
高さがあるから一見派手に見えるが、地表近くには明瞭にケモノが身体を通せるだけのスペースがあり、人間も下半身にはあまり抵抗を感じずに前進できる。忙しいのは主に上半身だ。
ただ、このことが余計にケモノとの鉢合わせの恐怖を助長している部分があった。誰もがこのケモノ道を通るだろうからな。



10:41

3分ほどで路上の藪は突然消失し、また歩き易い土道が始まった。
一度は覚悟を決めたつもりであっただけに、多少の拍子抜けはあったが、もちろん嬉しい気持ちが大きかった。

また、【大正13(1924)年地形図】には、ちょうどこの辺りに水準点(標高721.66m)が描かれていた。
旧道入口にも水準点が描かれていたから、そこから約2km進んでいるわけだ。
そのことを意識して標石がないか探しながら歩いたが、やはり見つからなかった。路上はともかく路肩は笹が繁茂している場所が多かったから、単に見逃している可能性は十分あるが。



10:43

そして、またすぐに次の笹藪は降りてきた。

しかも……



10:45

先ほどよりも格段に濃い!!

前との大きな違いは、足元までみっちり藪が詰まっていて、ケモノ道となりそうな空間が存在しないことだ。

この場面で遂に、“囚人道路”は完全に“ミチ”としての機能を喪失し、周囲の山野と変わらぬ空間になったことを感じた。

もちろん、なおも平坦であるという点において、ただの山野よりは遙かに救いがあるのであるが……。



10:52

これはキツイ!!!

これは前の写真のシーンから7分後の風景だが、この間一度も藪が明けることはなく、それどころか、過去経験した中でも最凶レベルの凶悪な藪へ変化してしまった。

非道い!



文明社会を生息域とする人類は、こういう場所に適応した進化は遂げていない。
当然のことながら、私の進行する速度は無残としか言い様がないほど遅くなった。
GPSでリアルタイムに現在地を知ることが出来るのだが、2度目に藪に突入した地点から約7分を費やして、100mしか進めていない!
分速14mの世界だ。あまり考えたくないが、峠まで残り2kmが全てこの藪だとしたら、休憩なしでも到達に140分を要する計算である。

……いや、まあ、残りの距離がこのくらいだから、他人事なら「行けよ」と言われそうな時間ではあるんだが、きついぜ、2時間以上これを続けるのは……。
ここが簡単に迂回できる場所であったり、入山の直後であったなら、たぶん撤退を選択しただろう。
こういう藪が2kmではなく5kmも続く危険があるとしたら、私なら絶対に撤退した。
最大でも2kmだという状況が、撤退より前進を決断する最大の根拠となっていた。

これはもう心を無に、楽しいとかツマラナイとか考えるのをヤメテ、ただただ2時間作動する藪伐開マシーンの動作を続けるという覚悟を決める。(覚悟=心は無ではないというツッコミはヤメテ。意志無くこの藪に入れるのは、ケモノでさえないマシーンだけだよ…)



10:58

唐突に藪が明けることを夢見ながら歩いているが、あれから何分か経っても藪は全く明けない。
ただ、ここに僅かに上半身を出せる場所があったから、息継ぎをするように休止をしているところだ。
四方八方の全てが高さ3mの笹藪で見通せないから、自分以外の誰かの立てる音に敏感になっている。今のところは他のケモノが近くにいる気配はないが。

というか、これは全く学術的に根拠のある話ではなく私の勝手な願望込みの予想なのだが、このくらいの激藪の中は、ヒグマ避けのシェルターとして機能するのではないか。
彼等はいくら力が強いと言っても人間以上に太いし、地表近くにこれだけ笹の稈が密生していれば、タケノコの生える時期でもない限り、敢えて中に入ろうとは考えないのではないだろうか。
これが私の提唱する、極端に密生した笹藪の中は熊避けになるのではないかという仮説だ。
皆さまはどう思います?



11:00

おおっ! 久々に見る、日本電信電話公社の標石だ。
前回見つけたのは踏切跡を過ぎたばかりの9:31の地点であったが、同じものがまたあった。
ただ少しだけ表示内容は変わっており、前回は「N22」であった正面の表示は「N20 A1」と2行に増えていた。意味するところは依然として分からない。



11:11 《現在地》 海抜750m

マジでキツイです。
最凶レベルに濃い笹藪が、何度も何度も波状攻撃のように押し寄せてくる。
波と波の間も笹藪なのは変わらずで、もうかれこれ30分近くは路面を見ていない。

地形図を見ても、峠の最後まで変わらない淡々としたトラバースである。
地形に沿って道にカーブはあるが、尾根も沢も変わらずの笹藪で、見える景色にも変化が全く感じられない。
GPSで現在地を知ることが出来ているから、変化がない中でも一応前進していることが分かるが、これがなければ耐えられないだろう。



11:12

ここからしばらく、私はYABUマシーンに専念するために、ものを考えることをやめるので、レポートの本文では、我が国の土木史上でも稀有な例である“囚人道路”の工事に関し、おそらく多くの読者も疑問や興味を感じるであろう事柄について、私の知る文献を拠り所に語ってみたいと思う。
探索についてはしばらく、時刻と画像だけを表示するのでね……。

<“囚人道路”のここが気になる(1) 工事中に逃亡した囚人はいないのか?>

広大な屋外、それも物陰が多い山野での土木作業中、逃亡(脱獄)を考える囚人がいても不思議ではないと思うが、どうだったんだろうか。
以下に紹介するのは、この工事に看守部長として携わった丸田俊夫氏の回想『網走監獄沿革史』からの引用だ。

逃走する者も相当おりました。しかし、山の中に入り込んでも方角を失って食物もないところをさまようばかりですから、結局大部分は舞い戻ってきて捕まりました。一組から毎日一人くらいは逃走者が出ました。

『網走監獄沿革史』(『オホーツクへの道』引用)より

やはり、逃走を企てる囚人は少なくなかったそうだ。
しかし、大部分は現場から大きく離れることが出来なかったという。当時この地方は数十里圏内に他の道が全くないような状況で、土地鑑がない人間が道から外れてどこか他の人里まで逃走することは、まず難しかったのであろう。逃亡を企てることは容易くとも、成し遂げるためには体力も気力も幸運(悪運?)も必要だった。
だが当然、監獄側もみすみすそのようなチャンスを与える意図はなく……。

野を這うごとく移動してゆく北辺の“動く監獄”外役の規律は厳存して緩むことがなかった。やる方もない悲痛な囚徒の心情も充分に察しうる。しかし絶望自棄の極に追い込まれた凶悪囚が一度逃走を為した場合の、善良な周辺住民はどうなることか。(中略) 無理は承知、あくまでも突貫工事の反復で終始したのである。

『北海道行刑史』(『オホーツクへの道』引用)より

このように、突貫工事の連続によって極限まで囚人を疲労させることで逃亡の力を奪うことが企図された。単純に工事を速成することだけが過酷な工事の目的ではなかった。
さらには、逃亡を難しくするための物理的対策も行われていた。
これは、中央道路の建設を物語のモチーフにしている高倉健主演の人気映画『網走番外地』(第1作)にも描かれているので、ご存知の方もおられると思うが……。



11:20

当時の監獄則は、「若し、やむをえず外役に服せしむるときは鉄鎖を用いて囚人二人を連判し……」とあり、2人の囚人がおのおのの腰に巻いた鎖を足首まで垂らし、それを連結したもので連鎖と呼ばれるものであった。

『オホーツクへの道』より

さらに……

看守は銃撃で(逃走した)囚人の足をとめ、連鎖でつながれた2人を追いつめ抵抗者を斬殺する。これを「拒捕斬殺」といい、看守の権限とされていた。拒捕斬殺された者は足に鎖をつけたまま埋葬されたが、これは官吏に抵抗し、社会に迷惑をかけたことに対する一般への見せしめのためであった、とされている。

『オホーツクへの道』より

このような事情もあって、後年に鎖が付いたままの囚人の亡骸が路傍に発掘されることがあったし、そうでなくても鎖を身につけたまま過酷な労働を行った末に死亡した囚人たちを弔うために、中央道路の沿線には「鎖塚」と呼ばれる埋葬地が複数あった。

このような対策があったうえで、いったいどれくらいの囚人が生きて逃亡に成功したのであろうか。
当時の監獄側の記録として、工事に従事した囚人の総数や、工事中の遭難死者、或いは拒捕斬殺に処された人数などを知る手掛りはあるが、外役中の行方不明者として計上された者はいない。

それが一人として逃走に成功しなかったことを意味しているのか、監獄側で遺体を確認しないまま死亡と計上したのかは定かでないが、おそらく囚人の一部は確かに現場から逃げ果せ、そのまま官吏の追跡も逃れたが、しかし山野のどこかで人知れずに遭難死したものであろう。それほどまでに当時の北見・網走地方は、人煙のまれなワイルドエリアであった。



11:29

<“囚人道路”のここが気になる(2) なぜかくも多くの囚人が亡くなったのか?>

中央道路の建設に携わった囚人の死者数とされるものには、いくつかの資料がある。
これは中央道路の工事が、明治22年から24年にかけて順次、空知集治監、釧路集治監、網走集治監という複数の監獄からの外役によって区間ごとに行われ、また同時期に中央道路以外の炭鉱作業などの外役に関わる死者もあったために、死亡地や原因に複雑な部分があるためだ。
だが、このうち最大の工事規模を以て明治24年の4月から12月にかけて行われた網走集治監の外役による網走〜北見峠〜中越の工事(現在探索地を含む)については、211人が囚人の死者数として伝えられている。またこの工事を監督した看守も6名が亡くなっている。(『丸瀬布町史』ほか)

中でもとりわけ犠牲者が多かったのは、明治24(1891)年9月から12月の期間に進められた、安国〜北見峠〜中越(現在探索地を含む)18里1町(70.8km)の工事であった。
この工事には1115人が出役したが、うち186人が死亡しているから、6人に1人は生きて帰れなかった。
工事距離1q当り2.7人、すなわち380mに1人の割合である。
おそらく我が国の道路では最多ワーストの殉職者数ではないかと思う。(この不名誉な記録を競いたがる道を他に聞いたことがないが…)

では、なぜこれほど多くの死者が出たのか。
この理由ははっきりしている。

この年(明治24年)10月21日空知教誨師の留岡幸助は、病監に当てられていた瀬戸瀬の九の小屋に至ったが、その著『羈旅漫録』のなかで、「此小屋、水腫病ノ為ニ罹病セル囚徒凡ソ七十二名、同ジ病ノ為ニ悩メリ。苦悶ノ声尤モ憐レナリ。覚ヘズ一片ノ熱祷ヲ囚徒ノ為ニ天父ニ捧ゲタリ」と、凄惨な一端がうかがわれ……

『オホーツクへの道』より

網走集治監の公式な記録においても、8月17日から11月30日の間に1916人が水腫性脚気に冒され、うち156人の死亡が記録されている。
工事中の不慮の事故死や、前出の拒捕斬殺、自殺、さらには同囚による殺害などがあったが、圧倒的多数は、この水腫性脚気による病死であった。
これはビタミンBの欠乏によって生じる病で、衛生環境の悪さもあるが、最大の原因は食糧供給の不備にあった。

9ヶ月の工事期間中、平均出役1000人とすれば延べ27万人日に達するが、明治23年の網走郡全体の耕地は僅か34町5反に過ぎず、ここから27万人日分の食糧を供給することは不可能で、内地から船で運び込んだ主食や野菜を山中の現場まで荷馬車などで運び込んだが、この間に野菜の鮮度が落ち、圧倒的なビタミン不足となったものである。もしも周辺の山野に目を向ければ山菜の宝庫であり、コゴミなどいくらでもビタミン類を補給する食糧はあったが、規則のため一切利用することはなかったとされる。
このために、看守も含む多数が犠牲となった。



11:30

YABUマシーンに言語コア再接続。

また見つけた、電話線の標柱。
「N19 A2」とあり、番号的に前回見つけたものの次の番だろう。
また、これまで見つけた標柱では苔のために気付かなかったが、側面に「昭28.12」という文字が2行に分けて刻まれていた。
昭和28(1953)年12月の設置ということであろうか。だとすれば、この峠道が一級国道39号に認定されて間もない頃である。



11:31

おおおっ?! 連続して発見があった。
今度は、管渠だ。
ごく小さな渓流(藪で全く見通せないが)が、苔生したヒューム管によって道の直下の浅い場所を潜っていた。
年代的には、一級国道時代のものだろうか。

このヒューム管の辺りから、藪の中に道らしき空隙が、おおよそ45分ぶりに見て取れるようになり……1分後、



11:32 《現在地》 海抜790m

うっひょぉぉぉおおおおおお!!!!!
アクムノヨウナヤブガアケタ?!

北見峠“囚人道路”の鎖されし激藪区間を、遂にヨッキれん作YABUマシーンが乗り越えた可能性があるぞ。



 私を呼んでいたような、そんな感覚のする場所で…


2023/10/27 11:32 海抜790m

10:43に【このヤブ】へ突入してから49分後の11:32、この間一度も明けることがなかった笹藪がついに明けた。
GPSで確認した現在地は上の図の通りで、麓の入口から3.2km、そして北見峠頂上まで残り1.3kmの地点であった。
約50分間続いたヤブの区間は約600mあり、所要時間から計算する平均移動速度は分速12mであった。

これまで経験したことがある廃道のヤブと比較しても相当に凶悪な部類ではあったが、4時間以上も囚われ続けた塩那道路工事用道路と比べれば、距離が短いことや、アップダウンが少ないこと、そして根本的に道形が綺麗に現存していて崩れていないことなど、遙かに救いはあったといえる。
攻略後だから言うわけではないが、ヤブには散々鍛えられてきた私が今回は根気勝ちしたというところだろう。マシーンになって心を棄てるのは強い。
少しネタバレになってしまうかもしれないが、北見峠旧道における最大の激藪区間は、ここまでである。

なお、私より遙かに早く平成22(2010)年にこの旧道へ単身挑んだ先駆者として、今はサイトを閉じてしまわれたが、『廃報アーカイブ』のひろみず氏がいる。私の探索のきっかけになったキュア梅盛氏による掲示板への書き込みも、彼のレポートを下地にしたものだったかもしれない。

そのひろみず氏が、レポートの中で、「進みにくい笹薮を苦労して越えていった結果、そこに何かしらの遺構があるのならばまだ良い。これまでの道の残存状況やこの先の地形を考えて、おそらくそういうものに巡り合うことは無さそう。打算的で邪な考えがよぎった途端、目の前の困難に突入する気力は・・・尽きました」と書いて、踏破を断念された区間の長さも600mであったと記録されている。

今回(途中までの“イージーモード”展開にも大いに助けられて)、こうしてヤブを通り抜けてみたが、ひろみず氏が予測されたとおり、そして私も内心で予想していたとおり、この激藪区間内に特筆するような遺構はなかった。ただ淡々とした道形があるだけだった。
とはいえ、そのことをはっきり確定出来たことには、一定の意味があったと思う。



激藪の600m区間内に見るべき遺構や風景はなかったが、そのヤブが明けた先には何かそういうものがあるかというと……、実はある。

というか、それはまさにこの場所であった。 囚人道路の貴重な“遺跡”の在処は!

残念ながら、大した資料を読み込む前に(いつものように)現地を訪れた私だったから、現地ではそのことにほとんど気付かず、単に……



道の谷側にやや広い小屋掛けの出来そうな平場があることに気づき、
そこにひときわ目立つ大きな樅が生えているのを見て、なんとなく、これは育ちすぎた庭木だろうかと、漠然と思った。
もとは営林署の事業所跡とか、そんな感じの場所だったのかなと想像した。

だが、おそらくこの場所には、この地にありうる人工物として最も古い、この道を造った囚人たちとの関わりの深い施設があった。
少し長くなるが、文献を引用しながら語りたい。
話は、中央道路建設工事の始まりにまで遡る。


さて、翌24年からいよいよ網走〜北見峠間約40里の開削に着手することになるが、のち中興部駅逓取扱人となる看守長岩越雄介履歴には、「四月五日、忠別網走間道路小屋掛ケ出役囚戒護ノ為メ出張ヲ命ゼラル」と見え、この日が着工期日であることを示している。この工事は、「是非本年度内ニ竣工ヲ要スル」旨令達されていたので、小屋掛け、道路開削、橋梁架設の3隊に分け、小屋掛けは25名を1隊として先発し、3里ないし4里ごとに仮監(飯場)を建設した。主力の土工隊は、800名を200名ずつ4組に分け……(中略)……そして工区を13に分け……

『オホーツクへの道』より

網走集治監(着工時点では釧路集治監釧路分監)による網走〜北見峠〜中越の中央道路工事は、全体を13の工区に分けて行われたが、これに先駆けて各工区に囚人の宿泊所となる「仮監(かかん)」という小屋が設置された。仮監は網走側から順に一号〜十四号という命名がなされ、ほかに橋掛小屋と呼ばれる橋梁架設部隊の飯場が1ヶ所の合計15ヶ所があったという。

前回引用した『羈旅漫録』に登場した「九の小屋」は、九号仮監の別名であった。瀬戸瀬にあったこの仮監は、飯場としての利用が終わった後も病囚を収容する病監として工事終了まで利用された場所であった(そして多数がここで亡くなった)。

これら仮監の位置は、戦後様々な文献をもとに再調査がなされ、多くの仮監の周辺に、工事中亡くなった囚人を弔った“囚人墓地”が発見された。
しかし、北見峠の周辺に存在した十三号仮監については、次に述べるように位置を明確にする文献が乏しく、充分な調査は行われていない模様だ。

十三号仮監 (旧道の峠から1.5kmほど白滝寄り)

「七時過ギ第十二ノ小屋出テ……十三ノ小屋ニ往ク迄ハ実ニ三里ノ間殊外ニ道悪シク、名状ス可ラズ。十三ノ小屋ニ着セシハ十二時三十分」(『羈旅漫録』)

橋掛小屋、十三号仮監の位置に関する文献口碑は今のところ上記以外になく、峠路はまだ仮道路のままだったらしいことが分かる。
昭和47年6月4日北見市の鈴木三郎氏、小池喜孝氏と秋葉が現地踏査を行い、白滝から向かって峠頂の手前1キロ半位の右手に水が湧いていて、やや平坦になっており、幅20cm、長さ5mの用水溝の樋が確認されたことから、ここを十三号仮監跡、明治33年からの北見峠駅逓の跡と推定した。『渡辺典獄日記』によれば、十三号仮監は明治22年空知監が建築した。

『オホーツクへの道』より

『羈旅漫録』の記述は明治24(1891)年10月下旬の通行記録で、「殊外ニ道悪シク、名状ス可ラズ」というのは今回歩いた区間を評しているが、この時点では網走監の土工隊は峠区間には達しておらず、本工事に先駆けて明治22年に空知集治監の囚人によって建設された仮道路を通ったらしい。十三号仮監もこの仮道路と一緒に建設されたものという。(したがって、峠の本工事は11月と12月のふた月に行われたことになる。既に寒気は厳しく多量の積雪もあり得る時期だ)

昭和47(1972)年(この旧道が旧道になった年だ)に行われた現地踏査で、平坦地や用水溝が発見されたことから、『羈旅漫録』の記述に照らして十三号仮監跡地と推定された場所が、いまいるこの場所だった。ただ、その後さらに詳細な調査が行われたという記録は見当らず、他の仮監跡地のように地元住民の聞き取りなども行われていないようである(というか周辺に人家がない)。

したがって、(こういうことを興味本位で書くのは良くないかもしれないが)他の仮監跡地の調査結果を鑑みれば、この周辺には未だ発見されていない犠牲者の亡骸が埋れている可能性があるかもしれない。


さて、明治24(1891)年12月27日に一応は中央道路が落成した時点で、この十三号仮監は不要になったが、それから9年後、跡地は(或いは建物もそのまま)別の用途で用いられることになったようだ。
それは、北海道独自の官設道路施設、駅逓所(えきていじょ)としての利用であった。

北海道東部開拓の生命線として、囚人たちの多大な犠牲のもとに建設された中央道路が開通すると、北海道庁はすぐに旭川から網走までの沿線に一号から十二号の名称を持つ「駅舎」を設置して取扱人を配置した。道内に延べ数百箇所が設置された駅逓所のうち、地名ではなく番号が付された例は中央道路だけに見られたが、これは開墾前の沿道がほぼ無人で地名が乏しかったためとされる。当初は人馬車取扱所と称され、各駅舎には旅人の宿泊や郵便などの機能があてられた。

だが、明治27年から28年は日清戦争の影響などで北見地方への屯田兵の入植が延期され、そのため中央道路の利用者は乏しく駅逓所も大半が無人となった。28年に官設駅逓諸規定が公布され、官設駅逓所の名称が正式に定められた。そして31年頃からようやく入植が本格化し、中央道路は一転して賑わいをみせるようになる。
そんな中、中越から奥白滝まで長い国境の無人界をゆく北見峠に新たな駅逓所が設置されることになった。
明治33(1900)年5月25日開設、北見峠駅逓所である。


『オホーツクへの道』より

『オホーツクへの道』は、北見峠駅逓所の位置について、開設当時の記録「紋別郡湧別村字滝ノ上」を挙げ、前述の十三号仮監の位置・建物を再利用したものと想定している。
機能は休泊のみで、石川県鳳至郡から入植した石上藤蔵という人物が取扱人を務めた。

そして2年後の明治35年3月18日に取扱人が中沢兼三郎に代わり、1週間後の3月25日に峠から200mほど旭川寄りの「上川郡愛別村字チカルベツ」へ移築、5月15日竣工し、以降は人馬者継立業務も行った。同37年4月21日に一旦廃止の告示が出されるが、同38年2月26日に名称を北見峠駅逓から峠駅逓へ変更する告示が出されているので営業は継続した模様で、最終的には昭和10年12月10日の廃止告示まで官設駅逓所として営業を続けたという。

というわけで、明治33年に設置された北見峠駅逓は、移設まで約2年間、ここ十三号仮監跡にあったと考えられている。
短期間で移設が行われた経緯については、記録らしいものがなく不明であるが、大勢の囚人たちが起居しただけでなく亡くなった者も多くあったと推測できるので、そのことが移設の心情的理由になり得たと思う。
非科学的と思われるかも知れないが、『丸瀬布町史 下巻』は七号駅逓の取扱人であった佐藤多七氏の話として次のようなものを載せている。

南丸の七号駅逓にいた佐藤多七は、明治27年セトセ仮監跡を仮住居にして移住したが、かたわらに刑名と氏名を書いた67本の墓標があり、夜になると地の底から「助けてくれーッ」「苦しいー」といううめき声が聞こえてくる。そこで毎日米飯と酒をそなえて供養したところ、七日目から苦悶の声が聞かれなくなり、「ようやく成仏してくれたか」と安心した。その後も毎年供養をかかさず、孫の代に至った現在もつづけられている。その近くにある「山神」の石碑は、佐藤父子の発願により明治38年建立されたものだが、これは殉難者慰霊のためで「囚人の墓」としたのでは拝んでくれる人がいないだろうという、配慮によるものと伝えられている。その後太平洋戦争後においても、ここを通ると「悲鳴が聞こえた」「夜、人魂が飛んだ」などの噂がたえなかったのと、殉難者を路傍にそのまま埋もらせておくには忍びないとして、昭和33年5月2日瀬戸瀬青年団と婦人会が現場を発掘して、46体もの遺体を収容し、ねんごろに柏墓地へ移葬した。

『丸瀬布町史 下巻』より

ほかにも、現在も国道333号にある幽仙橋は、近くの囚人墓所で幽霊が出るという話から、明治時代に架け替えたときに慰霊の意味もあって「幽仙橋」と名付けたという話なども伝わっていて(『オホーツクへの道』)、明治期に中央道路の沿線に入植した人々にとっては、まだ最近の出来事として沢山の墓標が残っていた囚人たちの犠牲や、そこから連想される怨念の存在が、生活上無視できないものであったことがよく分かるのである。


……以上、私の興味の赴くままに探索の経過をそっちのけで長々と語ってしまったが、猛烈なヤブを脱したその場所が、まるで図ったように、北見峠“囚人道路”のあまり知られていない重要な遺跡地だったということは、私にも深い印象を残す出来事であった。非科学ではあるが、せっかく久々に歩いてきた人間に気付いて貰いたかったのかなとか、想像しちゃう。
亡霊が刈払いをしてくれた…… ワケはないけれど。



11:34

さて前進再開。(実際に十三号仮監跡にいた時間は1〜2分だ)
現地の私はもちろん未来を知らないから、峠までの残された距離も再び猛烈なヤブに隠されていることを覚悟していたが、とりあえずいま1メートルでもヤブのない場所を進めれば、後の苦労が減るのは確実であるから、目の前の明るさを喜んだ。

おそらく、この辺りの路上に笹が繁茂していない理由は、刈払いなど人為的なものではなく、路上全体が酷く泥濘んでいるせいだろう。
周囲の水が自然と集まる湾状の谷地であり、非常に湿気っている。わざわざ路肩に大きな側溝が掘られているのもその対策に違いない。
仮監や駅逓が置かれたのも、飲用水の確保が容易だったからだろう。



11:35

「案の定」(←現地ではまさしくそう思った)、沢地を離れ始めるとすぐに大波のような笹が押し寄せてきた。
この場所では道も少し崩れていて、崩壊と笹藪の複合というこれまでにない困難を予感させたのであったが、実際にはその笹藪の中に水の流れる(まるで樋のような)ケモノ道が一筋あり、それはそれで足が濡れて不快だったが、藪漕ぎに戻る必要はなかった。

そして……



11:37 《現在地》 海抜790m

初テープ!!!

旧道に突入してから約2時間半で初めて目にした、先行探索者の明確なる証しである。
路上の立木に執拗にテープを巻いているのは、(逆側から見て)この先はヤブが深く遭難の危険があるという注意だろうか。
とにかく見逃しづらいように取り付けられているのが印象的だった。

私にとってはこれでようやく一安心。
テープを持ち歩く文明人がここまで来ていることに、残りの道の安泰が想像できた。






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