道路レポート 林道樫山小匠線  (山手川への脇道編2)

公開日 2015.3.07
探索日 2014.3.27
所在地 和歌山県那智勝浦町〜古座川町

山手川廃村への接近


2014/3/27 9:48 《現在地》

山手川支線の探索は、約30分で入口から1.5km地点の「クジヤ平」に到達した。
ここから目指す山手川までは残り1kmほどになっており、いよいよ後半戦である。

なお、左図(明治44(1911)年版地形図)の通り、クジヤ平には明治頃までは集落があったようだ。
道沿いに4〜5軒の家が描かれている。
だがいざ現場に立ってみると、家などどこにあったのかと思うような狭い谷間だった。
絵になる二段の滝が爽快な水音を響かせており、滝を眺める茶屋ならばとも思ったが、それにしても狭い。
(集落があったのは、谷底の道沿いではなく、少しだけ山を上った山腹だったのかも知れない)

また、明治当時の里道(地図中の二重線の道)は、「高野〜(峠)〜山手川〜クジヤ平〜(峠)〜樫山」のルートであり、現在の川沿いの道は未完成だった。
クジヤ平には里道が山手川を渡る橋が架かっていたように描かれているが、その痕跡も見あたらなかった。 車道ではない簡易な橋だったろうから、完全に失われたのだろう。



橋を渡ると、これまでとは打って変わって道幅が広くなった。
しかも、単に地形が緩やかだから道が広いわけではなく、川縁には長い石垣を設けてある。
何か道幅を広くする必要があったのだろうが、理由は分からない。
もちろん、現在では広い道幅も全く活用されてはおらず、中央に薄いシングルトラックだけが残っていた。

また、現在の地形図にはこのあたり右の尾根筋を上る破線の道が描かれているが、これまた一切痕跡を認めなかった。
王子製紙の山林管理用作業道だったのかな。




9:55 《現在地》
1.9km地点に架かる4番目の橋に到達。
今度はまた床版が見えない土橋で、横に回って確かめないと暗渠に見間違えそうだった。
そしてたぶん、これが目的地までに渡る最後の橋だと思う。

ところで、現在の地形図には、橋の袂から右の尾根筋を上る道が描かれており、先の山頂部に「神社」がポツンと描かれている。
前回もこの神社について触れたが、もし簡単に辿り着ける様ならば寄り道しても良いと思う程度には興味があった。
しかし、どう見ても簡単では無さそうだった。

まず、その入口が分からなかった。鳥居でもあればと思ったがあるはずもなく、この右の岩場のどこに取り付き、どこをどう上ればいいのか見当も付かなかった。
しかも、神社がある山頂までの高低差は150m近くもあって、距離も500m以上ある。
秘境中の秘境というべき立地であり、もし本当に神が地に降りるならばこんな場所だろうとも思うが、今回は自転車での林道探索が目的であることと、あくまでもこの山手川は“寄り道”である。
後ろ髪を強くひかれつつも、時間切れで最終目的を果たせずに終わる事態だけは絶対に避けたいという思いから、ここは涙をのんで通過した。
(でも、この神社は再チャレンジしてみたいなぁ…)



これまた綺麗なところだ…。

狭い谷底一杯に色とりどりの玉石が敷き詰められ、そこを透き通った水がさらさらと流れていた。
ここは谷の険しさの表現としては最上級に属する“回廊状”の峡谷ではあったが、険しさよりも美しさが優越していた。
しかも、こんな深い谷に燦々と日が射し込んでいるのは、一日のあいだでもごく短い時間だろうに、今がその時に恵まれた。

道はこの宝石のように美しい渓流を見下ろしながら、これまでにはないペースで上り始めている。
どうやら、山手川集落跡へ私を送り届けるために必要な登攀に入ったようだった。

いよいよ…、 来 る か。



4本目の橋から500mほど前進するあいだに、河床に対するこれだけの高低差を稼ぎ出していた。

非力だった(三菱360のような)古い自動車や、探索4日目の自転車を漕ぐ私にとっては、とても息の切れる坂道である。

そもそも、小匠からここに至る道がもう飽くるほどに長く、狭く、蜿蜒と続いてきたのである。
そのうえに、まだ最後の試練を課そうというのが泣かせる。
こんな奥によく人が住んでいたものだと考えてしまうのは、自動車社会に毒された見方なのかもしれないが、どんなに交通手段を限定し、或いは拡張しようとも、ここは「辺鄙」としか表現しようがないと思う。




これは…

随分と大きな、(カメ)だ。

坂道の途中で唐突に現れたのだが、辺りにはバケツや缶の残骸らしき物も散らかっており、水場であったようだ。
しかし、雨の直後なのに湧水はない。ということは、雨水を溜めておいて使う水場…?


……
………!

これはもしや、坂道で自動車がオーバーヒートしないように、エンジンのラジエータに水をぶっかけるための水場か!

“道路名探偵”にでもなった気分で大胆に推理してみたが、真相は不明。
ここは自動車に拘らず、単に牛馬の水飲み場という方が可能性は高そうだが…。



カメの次はネコが現れた。 ネコはネコでも、猫車(手押し一輪車)の残骸だが。

しかし、ここに来て急激に濃厚になってきた。

人家の気配が。

本当に集落が近いと感じる。これならば、次の曲の先からひょっこりと散歩中の老婆が現れても驚かない。(←いや、腰抜かすダロ!)
カメとネコを見るまでは、場所があまりにも山深いので、江戸時代ならばともかく本当に地形図の集落が実在したのかと半信半疑であったが、これはもう間違いないといえる。

しかし、ここで唐突に気付いたのだが、沿道には電柱も全く設置されていないし、電線も見あたらない。もちろん、跡を含めてだ。
つまりここは最後まで……。



キター!!

2台目の廃車体が現れたぞ。

かつて、こんな奥まで車が入っていたことが確定。

これはもう、山手川集落まで車が入っていたと判断して良い。

しかし、広くもない道路の端に、なんとも無造作な感じで置かれている。



あまり原形を留めていない廃車体。タイプは軽トラだが、私には車種が特定出来なかった。

路上駐車状態のまま朽ちたのか、邪魔だと押しやられた結果なのかの判断に苦しむ位置に駐まっている。


もう止まらない。集落跡の出現は止まらない。

前方に石垣。しかも道の下だけでなく、上にも出現。

河床から30mくらいも高い位置に、谷底にいてはきっと存在に気付かないだろう広い植林地があった。
鬱蒼とした杉林だが、石垣の上に杉林がある状況が既に不自然なのだ。 これは、着いたな…。



10:08 《現在地》

入口から2.5kmを45分ほどで攻略し、現行地形図上では特に何もない山林としてしか描かれていない目標地点に到達した。
旧版地形図との比較から、山手川集落跡地と割り出した目標地点。

果たして、そこには広大な植林地だけが広がっていたのであるが、その林床にひとたび目を転じれば、おびただしい数の苔生した石垣達があった。

道はここに至り、集落の正面玄関に辿りついたらしい。
これまで辿ってきた自動車道は、なおも水平に近い勾配で川上へと続いていたが、石垣上に登ろうとする急な坂道がここに分岐していた。
坂道は明らかに車道ではなく、もっと古い、集落道らしい姿である。
沈鬱とした杉林が辺りを支配し尽くした今でもなお、この坂道の日に照らされた辺りだけは、タンポポの野花こそが似合いそうな長閑さがあった。

はい、山手川集落跡に到着です。



電光型に折れ曲がった狭い坂道から、石垣の上へ登ってみた。
写真は下を通る車道を見下ろして撮影。
私の自転車が真ん中に見える。
更に奥は山手川の渓流だが、河床からの高低差は30m以上あろうかと思われる。
川の音は常に聞こえているものの、集落跡地の印象は川沿いというより、山腹といったほうがしっくり来る。

なお、これだけ山の奥に入った感じがありつつも、実際の標高は僅か130mほどでしかない。
山手川の入口は80mだったから、それよりは50mばかり上った計算になるが、いずれにせよ低山だ。
また、山奥というのもある種の錯覚で、直線距離ならば海までは10kmと離れていない。

至便な道が存在しないということが、これほどまで旅路を延ばすという好例(悪例)だ。



これが、集落跡の中心部と目される広場だ。

50m四方ではきかない想像以上に大きな平場で、しかも綺麗に均されている。
家屋敷の痕跡は完全に失われており、植林地によって上書きされていたが、
その植えられた杉の中には、相当に太いものもあった。おそらく全ての杉が、
廃村になってから植えられたものだろうから、半世紀以上は経過していると思う。


そして目が馴れてきて初めて、その本当の広がりに驚く。



足元の平場だけでなく、
斜面の見える範囲の全てが、集落の範疇だったようなのだ!



先ほどの写真は川上方向(北)を向いて撮影したが、今度は山肌に直面する東を向いて撮影した。
この景色の中にも、やはり城塞のような累々たる石垣が見えている。

なお、この山を上り詰めたところには、例の神社があるはずだ。
しかしここからでも比高は100m以上ある。勾配もきつく、時間がかかりそうだ。



石垣部分のズーム写真。例によって石垣をハイライト表示した。

ここにいつごろ、どれくらいの人が住んだのかは、分からない。
だが、先人達が刻み付けた地形改造の手間は、一朝一夕のものではあり得なかった。
石垣を構成する膨大な量の自然石は、おそらく川から運び上げたでのであろうが、直近の山手川だけで賄い切れたであろうか。
それほどの量である。集落跡というよりも、砦か館か城跡か、そんな雰囲気さえ持った豪壮な地割りであった。
樫山の枝村でこれだったというのなら、案外に樫山というのは小都邑を展開していたのかとさえ思わせる。



ぽーっとした気分のまま、おそらく少しふらふらした足どりで坂道を下り、車道で待つ自転車へ戻った。
私が集落跡にいた時間はほんの2,3分で、実を言うと坂道を上った地点からほとんど歩き回らず、四方にカメラを向けただけで帰ってきた。
これは普段の私のしつこさから見れば、妙にさっぱりとしていて不甲斐ないとも思うが、この行動の理由を思い出してみる。

目標の集落跡に辿りついたまでで満足してしまったというのは確かにあるが、それだけでは少し足りない。
集落跡に立った時、そこで何か新たな指針となるものが見つかれば、それを次の目的地にしたかもしれなかった。
だが、山側の全てを尋常でない石垣が取り囲んでいる植林地は、当て処がなさ過ぎた。

廃村に滞在した限られた時間の中で、私が重点的に意識を向けたのは、優先順位の上位から、次の3つであった。
集落移転記念碑、墓地や石仏などの古跡、建造物の跡(廃屋)である。
そして、その全てが最初の平場には見あたらず、そこから次に探すべき場所を決める指針にも恵まれなかった。
ただただ広大で、高低差が大きく、散乱物の多い、目的無く歩き回れば忽ち体力と時間を消耗することが明白な林床だけが、広がっていたのであった。
少なくとも私の目にはそう映った。だから私は、そっと降りた。




集落跡を広く歩き回ったわけではないものの、見通しのある植林地に残る広範な石垣の配置から、思いのほかに大規模だったと判明した山手川集落であるが、これまでも述べた通り、その歴史的な成り立ちや廃村の経緯時期など、資料的な事実はほとんど何も判明していない。
仕方がないので、旧版地形図と航空写真というマクロの目から、少しだけ振り返りたい。

右図は、昭和28(1953)年版と昭和40(1965)年版の地形図の比較である。
前者には、山手川左岸の山腹に、道を挟むように10軒ほどの家屋が描かれている。
ただし、現状では道の川側に家並みがあったようには見えないので、これは道の位置が変化したのか、地形図が不正確なのか。そして集落の高い所は、山頂の神社の近くにまで及んでいたようだ。現状の高低差の大きな景観と合致する。また、集落の周囲は山林ばかりで耕地はほとんど見られないのであるが、良く見ると、周囲の谷間に2箇所ほど「湿田」の記号が描かれており、稲作が全く行われなかった訳ではないようだ。それと、地名が「山手川」ではなく「山手平」となっているのも、明治44年版とは異なる点であるが、深くは追求しない(出来ない)。

同じ地図で道に目を向けると、山手川沿いを進んで来た二重線の里道は、集落の上手で川沿いを止め、高野方面への峠越えに進路を変えている。
この道沿いにも家が建っていたようで、古くからの生活道路と分かるが(おそらくは、高野川沿いで見た道標石の地点に通じるのだろう)、よく地図の記号を見ると集落以北は「荷車を通ぜざる」描き方をしており、車道としての終点は山手川集落であったと判断できる。それとは別に山手川の谷をさかのぼる道もあるが、こちらは破線だ。

以上は昭和28年版の話で、昭和40年版になると綺麗さっぱり「なにもない」。
とはいえ、昭和28年から40年の短期間でこの図の通りの変化があったとは限らない。
というのも、昭和28年版の集落内の様相は、地名を除き明治44年版と何ひとつ変わっていないという点で、単に古い表記が改描(つまり更新)されていなかっただけとも考えられるのだ。
実は昭和前半には既に廃村に近付いていたのかもしれない。

昭和28年以前に集落が相当衰退していたと考える根拠は、航空写真にもある。


左図は昭和23(1948)年と昭和51(1976)年の航空写真の比較である。
前者は白黒のうえ解像度が低いので、地表にあるものを十分に表現できていないが、集落跡の一帯が明るい草地のように見える。
これは植林されていないか、されていても幼木だったことを示しているが、そこに家屋らしいものが一軒も見えないのは気になる所だ。
右図は同じ昭和23年版の樫山集落部分だ。山手川と同じように明るく見えているだけでなく、南の方にぽつりぽつりと家らしきものが見える。

昭和51年版では集落跡の植林が進み、周囲の森と区別が付かなくなっている。しかしその一方で、近隣の山中に思いのほか多くの伐採地が広がっていることに驚く。
これとて今から40年近くも前の光景ではあるが、これだけ広範な伐採は、山手川沿いや小匠川沿いの林道を大いに活躍させたに違いない。(ただし運材ルートは、樫山小匠線ではなく、新しい樫山林道経由だったと思う。前者は運材トラックが通れそうにない)
集落は次々に廃れていっても、山林が今ほど無人になるまでには、まだ時間の猶予があった。


集落跡への植林は、

長く暮らした集落の景観を大きく変えてしまうという負い目を感じながらも精一杯に苗木を植えて、その後も手入れのために通い続けることで、

自らの新しい暮しと次代の礎にするという、村の最終章。 その尊き意義すらも社会の僻地へ追いやられ、翳りを見せる以前の物語だった。

いつの日か、再びこの道に活力の蘇る日を期待したい。最小限の保全が続けられているのは確かだから、希望はきっとあるのだ。