六厩川橋攻略作戦 第3回

公開日 2009.12.19
探索日 2009.11.24

森茂橋。 村の入口の橋



8:48 【現在地:三の谷林道分岐】

大谷(出発地)→六厩川橋(目的地)のほぼ中間。
6.5km地点の「三の谷林道」分岐地点へたどり着いた。
本線は左だが、少しだけ寄り道して「森茂集落跡」へ行ってみることにした。




分岐地点の間近に架かる大きな橋は、「森茂橋」という。
下を流れる川の名前は「森茂谷川」である。
1.5km手前で渡ったときには「森茂筋谷」だったはずだが、沢山の沢が集まって名前が変わったのか。

この橋は、なんとなく今までの橋に較べて、人の匂いが強い気がする。

いかにも、集落のそばにありそうな橋。



多数の丸窓が歴史を感じさせる欄干には、激務の痕が刻まれていた。
表面に凸凹のある異形鉄筋が建材に使われるようになるのは昭和30年代だが、欄干の欠けた部分から露出していたのはより古い丸形鉄筋だった。

対岸の銘板に記されていた竣功年は「昭和三十六年十一月」と意外に新しかったが、それ以上に年老いて見える。



右図は、まだ森茂集落が存続していた昭和28年の地形図である。

ここには、森茂を終点とする3本の道が描かれている。
それは六厩へ下る細い歩道と林用軌道、森茂峠を経て大谷へ続く車道(林道)だ。

そしてこの車道上には、恐らく木橋だったろう先代の森茂橋が描かれている一方で、左岸を通る現在の林道(本線)はまだ無い。
つまり、かつてはこの「三の谷林道」の方が本線だったことになる。

これは、林道がはじめは森茂集落を目指して伸びてきた事を想像させるに十分な事実。





橋から集落跡までは1.3kmほど入る。

三の谷林道の轍は流石に本線よりは薄いが、まだ通行する用事のある人もいるらしい。

杉に唐松が混ざりはじめた林を、真っ直ぐ西へ進んでいく。




ひとしきり走ると、ご覧のような所に出た。

一瞬もう集落跡に着いたのかと思ったほど広がっているのは、川原。
源流に近い山中にありながら、ここだけはまるで大河の河口近くのよう。
すぐ下流に川をせき止める砂防ダムがあるわけでもない。
にもかかわらずこれだけの土砂が自然に溜まったのだとしたら、どのくらいの規模の土石流を想定すればよいのか。



この地形が暴力的な災害の結果だということは、無理な急坂で前後を上り下りする道にも感じることが出来る。
つまり元は川の縁を迂回していた道が、土石流で岸ごと100m以上も削り取られた。復旧に当たって強引に災害地を突っ切るようになったのは、予算の問題だろうか。
また土石流があれば不通になりそうだ。



災害現場を過ぎると登り坂が始まって、すぐに川原を離れる。

途中で小さな枝沢を渡るところには、また真新しい沢止工や松丸太を組んだ土留めを見た。

集落に人は消えても山から人が消えていないとしたら、それは喜ぶべき事だろう。
だが、それがもし過去の集落の存在とはまったく無縁の、ただ下流にあるというだけの御母衣ダムに、これ以上土砂を流下させないための工事だとしたら、それでも喜ぶべきなのだろうか。
そんな工事が、ゲートを何枚も突破した各地の山奥で人知れずに行われ続けているのだとしたら…

善悪とは別の次元で、何かが“歪んで”いる。

そんな感じを受けるのは私だけか。





森茂集落跡。 暮らしの跡



9:00 《現在地》

12分ほど漕ぎ進んだところで、ついに集落跡と思われる景色が出て来た。



集落跡と気付かせたのは、路傍に一本だけ立つ廃レールの電柱。
森茂には電気が来ていたのだろうか。
林鉄の終点があったくらいなので営林署の電話は引かれていたはずだが、他に電柱は見なかった。




間違いない、 村の跡だ。

そこには一本の梅の木が、もう11月も終わりだというのに桃色の花を満開に咲かせていた。

一帯の路の外には杉・笹・ススキが多く茂り廃屋そのものを見ることは無かったが(残ってはいないらしい)、自生とは考えにくい梅の発見は決定的だった。

それにしてもこの時期に梅花を見られるとは予想外で、しんみりと有り難かった。(100円の効果出た?)


俺の感動を返せ!
「集落跡の「梅」は梅ではなく、マユミの「実」ですね。一見花のように見えますが、近づけば実であることはわかると思います。マユミなら自生していてもおかしくありません。」…という読者様からのツッコミをいただきました…。
読者様のご指摘


梅のそばにこんな標柱が立っていた。

岐阜県天然記念物
森茂白山神社社叢
         岐阜県教育委員会

当時の地形図を見ると確かに集落内に神社がある(【地図】)が、天然記念物に指定されるほど規模の大きな社叢(しゃそう、神社所有の杜(森))があるのだろうか。
標柱の背後にある杉林は如何にも貧弱で、神社がありそうな様子でもなかった。

何か梅の他にも集落跡の証しが欲しくて、限られた時間で白山神社&社叢探しをすることにした。

(余談だが、現在の地形図には集落跡にポツンと「墓」の記号が描かれている(【地図】)。位置的にこの標柱の事かとも思ったが、道路の左右が逆である。そもそも、墓ではない。他に墓があるか探したのだが、発見できなかった。)





 道向かいの藪の奥に、石段がある!




丁寧に組まれた石垣と、それを登る短い石段。
地形的には別に石垣が無くても良さそうな所だが、石段を設けたいがためにわざわざ積み上げたような感じさえある。
そして、石段を中心にして地割りは左右対称である。

ここが神社跡に違いない!




石段の上は20m四方くらいの平場になっていたが、その中央付近に無用となったコンクリートの階段があった。
今は4段上った所で空に放たれ終わっているが、その先に失われた本殿を想像することが出来るだろう。



また肝心の社叢については、神社の敷地を取り囲むように、右写真のような杉の枯れ株に蘖(ひこばえ)が育ちつつあるものが幾つも見られた。
これが社叢の枯れた名残りと思われるが、その朽ち方を見る限りは数十年も経っていそうだった。
或いは別に天然記念物になるような杜が残っていたのか。
(なお、ここから離れていない山中には、「神代杉」と呼ばれる天然杉の巨木があるそうだ。(参考サイト『時間の輪』)




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神社跡の前の林道をさらに100mほど進むと広場が現れ、頂上の辺りに新雪を頂いた北側の山々を見晴らすことが出来た。

ここを訪れた人の大半はこの眺めに満足して引き返すようで、奥へ続く林道は余り使われていなさそうだった。
私もこれ以上深入りするつもりはなかった。
集落もちょうどこのあたりが上の端だったようだ。

それはそうと、この広場の一角には真新しいブルーシートに屋根された一軒の小屋が建っていた。
集落内にある唯一の建築物である。

あったのはそれだけじゃなく…




ナンバープレートのない、しかしよく手入れされた車が一台。
奥には重機も一台見えた。

前に林道本線を塞いでいた「私有地云々」の掲示は本当だったらしい。
とある新興宗教が関わっている…という未確認情報も得ているが、立場的に自重する。

ともかく、土地の現在の所有者の目的は、ここで何かの作物を栽培することであるようだ。
小屋の隣には柵された畑があった。




「ぜんぜん自重してねーじゃねーか!」とお叱りを受けそうだが、一応チェックを…。

栽培されていたのはヤマブドウっぽいツタのある植物で、きっとヤマブドウだと思うが、植物はてんで駄目なので間違っているかも知れない。

小屋の規模を見る限りは定住せず通いで耕作しているようだが、土地の“土”はきっと喜んでいることだろう。





集落跡の探索はこれで終了しようと思うが、森茂は地形的に合理性のある集落だったという印象を受けた。
南西向きの緩斜面に塊状に広がっており、比較的日当たりが良く、水場も複数が近くにある。
末期には交通手段として林鉄と自動車道を選ぶことも出来た。(それぞれ行き先は別々なうえ、公共交通機関は最後まで開通しなかったが)

あなたは、集落が無人になった時期を、いつ頃と予想しますか?

私は現地を見た段階で、昭和30年代よりも前だろうと思った。
いくら南向き斜面で日当たり良好といっても、この孤立は耐え難かろう。
仮に昭和30年代をこの地に過ごす事を想像すれば、下流に御母衣ダムの建設が着々と進んでいく時期である。
完成すれば、集落自体は沈まずとも一方を塞がれることになる。私なら気が滅入りそうだ。
実際御母衣ダムについての資料を読んでみても、森茂の住人に何らかの補償が行われた記録は見られないから、それ以前に離村が済んでいたのだと思っていた。

だが、山の住人は私が考えるより遙かに強かったようだ。
村影弥太郎氏の調査によると((参考サイト『村影弥太郎の集落紀行』))、森茂が最終的に無人化したのは昭和50年代くらいではないかとのことである。『角川日本地名大辞典』は昭和48年廃村としているそうだ。

いずれにしても、随分最近まで人が住んでいたことになる。
もちろん末期は家数も相当減っていただろうが、全盛期は15戸くらいあって、多くが山持ちでかなり裕福だったそうだ。
離村の経緯も、ある団体がスキー場を造成する目的で周辺の土地を大規模に買い上げた事がきっかけになったといい、結局スキー場が作られることはなかったが、単純な人口の自然減による廃村ではなかった事も分かった。


正直それでも私には信じがたい気持ちがあって、新たに手に入れた昭和44年測量の2万5千分の1地形図「御母衣」を見たが、そこには神社と学校のある森茂が健在だった。
それどころか、前回私が「無人の上高地」だと言った辺りにも2戸ほどの家が描かれ、「新田」という地名が付されていた。

つまり一部の森茂住人は、御母衣ダムの建設を契機にそれまでの林鉄網が全て廃止され、全長29kmもの林道網に置き換えられた(『白川村誌』)大変革を受け止めたことになる。
私がこれから向かおうとしている「六厩川橋」などは、この時に一斉に作られた林道の最たるものだ。
森茂住人はそれを、新たな「森茂橋」のように受け止めていたかも知れないのである。
六厩川橋を渡るにこれほど適当な人は他にいない。

なんか燃える。




9:21 【現在地:三の谷林道分岐】

正味35分ほどの充実した寄り道を終え、元の分岐へ戻ってきた。

本当はもっと集落付近を散策したかった(林鉄の終点を確かめたかった)が、悩んだ末に後ろ髪を引かれながら駆け出してきた。
その気になれば、ここまではそう苦労せずまた来れるだろう。
しかし、この先の探索を出来るのは、朝早く出て来た今日しかないかも知れない。


次回はもちろん先へ進む!





目指す六厩川橋まで、あと6.km。
日没まで、あと7.時間。