道路レポート 房総東往還 大風沢旧道 第2回

公開日 2022.07.01
探索日 2021.01.20
所在地 千葉県鴨川市

 外房線との並走から、百年以上続く地図の終点へ


2021/1/20 7:25 《現在地》

自転車をデポした「天津踏切」から約200m来た。謎の水利遺構があった「小関橋」からだと7〜80m先である。
いかにも峠を越える道らしく、谷底を離れて少し登ってきている。

その道幅は案外に広く、要所にある踏切や小関橋がいずれも1.5mくらいの狭い幅しか用意していないにも拘わらず、もっと古びた部分の道幅が全体に広いことには意味があるだろう。すなわち、古い時代には重要な県道であった証しだと思う。次第に重要度を失った道だから、後年の構造物は幅が狭いのだろう。

チェンジ後の画像は、道路から見下ろした外房線。
踏切では同じ高さだったのに、今は道路がこれだけ高い。
この後もうすぐ線路はトンネルになるはず。そうしたら道路と峠の一騎打ちが始まるはず。その成り行きを見届けようと思う。

なお、写真だとほとんど分からないが、依然として路面には舗装が隠されていた。
ただし路面全体ではなく、中央の幅1.5m程度くらいにだけ敷かれていた。



右手に線路を見下ろしながら次のカーブへ進んでいくと、予想外のガードレールが見えてきた。しかも、妙に新しげで、反射材(デリニエータ)まであるぞ。
現状、デリニエータを必要とするような車両交通がこの道に戻ってくる可能性はまずないだろうに、まるで明治廃道に忽然と現われたオーパーツみたい。場違い感が凄い。

それもこれも、下に線路があるから仕方なく整備されたものだと思う。
JRと鴨川市の力関係は知らないが、鉄道から見たら沿線にあたる“荒れた市道”から、土や石が頻繁に落ちてくるなんてことは困るだろう。ましてや、崩れかけた道路を誰かが通ったことで線路に落石が…! なんて絶対に許されまい。
だから、一応は今も市道であるらしきこの道の管理者(鴨川市)が、道路整備の作法に則って線路に影響を及ぼしそうな部分だけを整備したのだと、そのように推測できる状況だ。

整備の理由が道路そのものへの愛情でないと思ってしまうと、同じ景色でも随分と寂しく見える気がするよ(涙)。
線路を守るという大義は十分理解するけどね。




あれが大風沢トンネル!

大正の頃から房総半島一周鉄道の実現を期すべく建設が進められていた房総線(現、外房線)。
ここはその最後の工事区間に属する部分で、昭和4(1929)年に開業している。
トンネルの全長は696mあり、工事中3回も崩落事故が起きた軟弱地盤の難工事であった。

現在の坑門は、四角いコンクリートの覆道になっており、
開通当初の坑門は隠されて見えない位置にあるはずだ。
唯一の“沿道”との高低差も大きく、近づくことは困難だ。



これは…!

ちょっと珍しい状況になっている。

道路から見下ろしたトンネル前の線路だが、深い掘り割りの底にあるように見えると思う。
だが実はこれ、河口からここまでずっと一緒にいる宮川(人の名前じゃないよ)が作り出した谷を改造したものである。
少し前までは狭い谷底に水の流れる部分があったのに、今はそれが全くない。谷底は完全に鉄道に占拠されている。

で、眼下には塵一つなく整えられた線路があるのに、ガードレールだけは立派な我らが大風沢旧道の状況は……




ぐにゃあぁ…!

と思わず猛省したくなるほど、強烈な灌木藪に包まれていたのだった。

イタイ! 痛いイタイ!! なんかトゲがあるよ! イタイッ!

くそーー。列車に乗ってないときの線路って、大体ろくなことをしない。

モソモソモソモソ地味にやって灌木地帯を進んでいくと、真下に坑口が来た。
ここさえ越えれば、もう邪魔は入らないはず。少なくとも峠を完全に越えるまでは。



7:35 《現在地》

谷を我が物顔に支配した線路は消えた。
俺と道だけがいる、次のステージへ!

線路が消えると同時に、路上からはガードレールと、なぜか舗装も消えた。
これでいよいよ、素の姿の明治道とのご対面となるかも知れない。
素掘りの岩肌が露出している山側の法面が、さっそく良い雰囲気だ。
長い年月の間に角が風化したような柔らかい凹凸を見せている。古い感じ。

道幅も一気に狭くなったが、よく見ると谷側に崩れた石垣の残骸が少しだけ残っていた。
その位置は現在の路肩より1m近く外側で、つまりかつての道幅は今より広かったと分かる。これも明治の名残に違いない。




こういうことか!

思わず膝ポンの発見だった。

唐突な私の盛り上がりに一同付いて来られていないかも知れないが、これが“さっき私が感じた疑問”に対する答えであった。
疑問というのは、【この場面】で、本来の宮川を流れていた水はどこに行ったのかというもので、答えは、バイパス用の水路隧道を掘って迂回させていた。

昭和初期の鉄道土木工事の手法を伝える、なかなか珍しい遺構ではないだろうか。
いや、現役施設だろうから、遺構とはいわないか。
現代に比べれば土木技術的にも工費的にも制約が遙かに多かった時代、天然の地形を上手く利用しながら効率的に鉄道を開通させるための工夫がここにはあったのだろう。穴が結構気軽に掘られる房総らしい風景でもある。




これが水路隧道の上流側坑口を撮した望遠写真だ。
道からは結構な落差があることと、そもそも現役水路隧道が確定しているので探索は省略した。でももし再訪する機会があったらチェックしたい(ちょっと内部が気になる)。




地理院地図にも、外房線による谷底の占領が表現されていた。
谷底にある水線の記号が、線路に重なるような感じで一部途切れているのが分かるだろう。

実際には、チェンジ後の画像に表示した位置に水路隧道が存在していたのである。(西口の位置は未確認だがおそらくここだ)
外房線の利用者で、このことに気づいていた人はほとんどいないだろう。




ああ! 始まってるな、これぞ明治道!

これまでいろいろな場所で目にしてきた、百余年を経過した古き廃道特有の気配が濃い。

谷底から10mほどの高さに、緩やかに上流へ続いていく幅3mほどの道形が鮮明に残っていた。

周囲は房総ではやや珍しいスギの植林地だが、手入れは行き届いておらず荒れ放題に見える。



房総での探索は大体、決着が早い。
例えば峠越えをするときも、麓からアプローチを経て峠に至る過程が飽きるほど長いことはない。今回の大風沢の峠も同様で、麓の集落から峠のエリアまで直線距離なら1kmにも満たず、反対側も同様だ。
かつての房総路は、こんな峠を数え切れないほどくり返す道であり、今ではその大半がトンネルや切り通しになっている。

早くも核心部に近づいている気配があった。
傍らにある宮川源流の小さな谷の対岸に、見上げられるくらいの高さの稜線が存在する。それこそが越えていくべき稜線だった。
地形的に実際に越える地点(それが隧道なのか切り通しなのかはまだ分からない)はまだ少し先だろうが、そう遠くもないだろう。

ん? なんだあれは?!




これは対岸、越えていくべき稜線の山腹であるが、分かるだろうか?

枠で囲った位置に、二つ並んだ穴が見える。

サイズが小さすぎるので道路の隧道ではないはずだが、明らかに人工的な穴だ。

道との位置関係も謎で、正体が全く分からない。面倒でも確認に行くべきだと思ったが、

この直後に見つけたものの衝撃のあまり、それはだいぶ後回しになった。



それにしても、対岸の斜面の険しさにも驚いている。

対岸の斜面だが、土は薄く乗っているだけで、実はほとんど岩山だぞこれは!

表土が薄いのは隧道を掘るには有利な地質だが、もしもその隧道が失われているとしたら、

直接この稜線を越えて進むのは大変そうだ。目の前のあの斜面をよじ登れといわれても、それは無理だ。



7:41 《現在地》

踏切から約460m、地理院地図に描かれている「徒歩道」の終点の辺りまで到達した。
(対岸に小さな二つの穴を見つけた数秒後に到達している)

で、

また対岸に、何かを、見つけてしまった。



巨大石造橋台!!!

これを見つけた瞬間、私は3重の意味で驚いた。

まず一つ、その 巨大(から推測される橋の立派さ)。
二つ、その 位置(から推測される橋の長大さ)。
三つ、その 傾斜(から推測される橋自体の傾斜)。

予想していなかった大型橋梁遺構の出現に私は叫んだ。うおー!!

予想外という意味では、我が目を疑う発見とか書きたいところだが、

疑いを容れる余地がない鮮明さで、幻の明治県道の巨大遺構が私を待ち構えていたのである!



確かに!

確かに明治16(1883)年の迅速測図だと、この位置から対岸へ道は渡っている!
ここまで迅速測図の表記が正確であったことに、正直驚きを隠せない。
さすがは2万分の1の大縮尺。その分制作が大変で、仕方なく全国の地形図は5万分の1にしたという逸話がある。

一方、明治36(1903)年の地形図だと、道はここで終わり。
対岸へ行く部分から先は完全に道が消えてしまっていた。まさしく古き廃道の証明。
しかもこの部分の表現は、一番最初のこの地形図から地理院地図まで百年以上変わっていない。



マジでこれ、山中で予期せず出会った明治廃道としては出色の巨大橋梁跡だ。

目測および地図読みで40mを超える長さがある。
でも一番の驚きは、両岸の高さが目測で5mくらいも食い違っていることだ。

当然構造は木橋だったろうが、古い木橋でこんなに傾斜したものは古写真とかでも見覚えがない。
強いて言えば、林鉄のインクライン途中に架かっている橋が思いつくくらいだ…。
廃止から百年以上が経過しているだろうから、橋台以外何も残っていないが、それがまた想像を駆り立てる!



即席で描いた想像図。

この長さになると、長い木橋では一番オーソドックスな方杖橋でもちょっとキツイな。
それでトラス補剛の高欄を兼ねた部材を上部構造に加えてみたが、堪えられるかどうか。
全体を木造トラスとした方が自然だったかも知れないな。

……考えてみれば、この橋が長く保たなくて道が廃止された可能性も零ではない。
この新道がなぜ極端に短命だったかという謎の答えは、どこに潜んでいるか分からないのだ。



橋を渡った先には高い尾根が間を置かずに聳えている。隧道しか考えられないような地形だ。

房総といえば隧道だと誰もが思う。

だが今回はそんな先入観を軽く超える発見がぶち込まれた。

大風沢旧道への期待感は今や、出発時の50倍にも膨れ上がっている!