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この赤い矢印は、オブローダー専用の進路である。
くれぐれもドライバーの皆さんはこのルートを取らないよう注意して貰いたいのだが、路外には草むした下り坂が存在していた。
現道は旧道よりも5m以上高いところを通っているので、その比高を摺り合わせるためのスロープと思われる。
したがってこれ自体が旧道ではないと思うが、ともかくこれを通って旧道へ立つことが出来るようだ。
10月でこれだけ緑が深いのだから、真夏はその存在に気付けないくらいかもしれない。
これ以上付けられないくらい沢山の朝露を纏った下草を踏んでいくと、1分もしないうちに下半身がぐっしょりなった。
まあこれは“朝藪”の通過儀礼なので、仕方がない。
日射しさえ戻れば服も乾くだろうから、気にしないことにする。
スロープの下には、意外に広い平場があった。
だがこの平場も川の方へカーブするように少し続いた後、川を見るまでもなく深い藪に遮られて終わってしまっていた。
この不自然な線形を描く平場の正体も後で明らかになるが、この時点では謎だった。
私が目指す“お立ち台”は、まだもう少し下流にあるはずなので、平場に名残を感じつつも、【再び赤矢印】の位置に進路をとった。
最初の段階では腰より下だけだった濡れが、上半身にも拡大した。
スロープやその後の平場とは段違いに藪が深い。
藪から林に転じつつある段階のようだが、こういうのが一番質が悪いといえば悪い。
しかし恐れていたほど地形的な困難はなかった。
右は確かに切り立っていて、ときおり木の陰からチラチラ水面も見えるのだが、道幅はちゃんと確保されていた。
ちょうど車1台分くらいの道幅が。
さらに進むと下草は急に減ったが、かわりに“横なぐり”の木薮攻撃が始まった。
これを跨いだり持ち上げたりして進むわけだが、触れるたびに周囲の木が全力で水滴を落としてくる。
いつまで濡れに対してうだうだ未練を口にしているのかと思うかも知れないが、胸の前に構えたカメラまで濡れるのは我慢ならない。
さらにトラップは頭上だけに非ず。
足元も実は半分沼地のようになっていて、トレッキングシューズくらいでは浸水の危険有り。
それでも救われるのは、この廃道がとても短いということだ。
早くも終わりを予感させる、“進路を塞ぐ岩盤”が見えてきた。
この後に続く景色が、もう予想できる。
岩盤に遮られて右に進路を変えてから橋。 だよね。
私の予想は間違ってはいなかったが、その前に、一息つく場面があった。
滝が落ちていた。
森から沁みだした清澄な水が落ちる滝。
滝は小さな滝壺という泉を作っていた。
意外に深く、完璧に透き通った泉である。
そしてこの泉、まちがいなく道のうえにあった。
足元の地面に、古ぼけたヒューム管が露出していて、そのことを教えていた。
しかもよく辺りを見回すと、道の名残はそれだけではなかった。
ヒューム管の隣には、ごく低い石垣が備え付けられていた。
おそらくこれが本来の路肩であったのだろう。
しかし長い年月のうちにヒューム管が詰まり、暗渠としての役目を果たさなくなったために、滝の水は路盤を削って、或いはそのうえを乗り越える形で荒川に注ぐようになったのだ。
こうして文章にして語るのももどかしいような、ごく当然な自然の成り行きだが、その流れに身を任せている旧道の姿は美しく、そして愛おしい。
ジャングルに埋もれた古代遺跡のようなこの道だが、いったいいつ頃に出来た道なのだろう。
おそらくそれは、明治17年頃と思われる。
というのも、現在の国道113号の飯豊〜新潟県境間の原形となる道は、明治13年から17年にかけて、かの三島通庸が建設せしめた「小国新道」に由来しているからである。
この赤芝峡の道がどこに作られたかという明確な記録はないが、今回こうやってこの旧道を歩いてみて、ここが三島の道だろうと理解した。
これだけで分かるのかといわれそうだが、分かるといいたい。
そしてここ。
右には今しがた道を潤した流れが、一足先に谷へ落ちている。
もはや普通の森となんら区別の付かなくなったこの場所が、目指す“お立ち台”の一歩手前である。
すなわち、旧橋はここから対岸へむけて架かっていた。
人工的な橋台のようなものは見あたらないが、地形的に自然と突出しており、天然の橋台のようである。
今回の探索における旧道の探索はこれでほぼ仕舞いである。
次回はここから、先に予告した 特異な景観 をお目に掛けよう。