道路レポート 国道229号 雷電トンネル旧道 (ビンノ岬西口攻略) 机上調査編

所在地 北海道岩内町
探索日 2018.4.25
公開日 2019.10.5


今回は、ニセコ連峰が日本海へ落ち込むところにできた火山性の急崖である雷電海岸に眠る、国道229号雷電トンネルの旧道を取り上げた。

右図の通り、雷電海岸には今回探索したものの他にも多くの旧道があり、中でも雷電トンネル(3570m)に次いで長大な刀掛トンネル(2754m)の旧道は規模が大きい。そしてこの2本の大トンネルは、いずれも平成14(2002)年度に開通した双子の姉妹である。
平成14年度の2大トンネル開通によって、雷電海岸の国道229号は、ほとんど一新といえるほどの大変革を見たといえる。

一方、今回探索した旧道は昭和30年代に開通したもので、雷電海岸を初めて自動車で通り抜けられるようになった、記念すべき第1世代の車道だった。
この点でも、雷電と刀掛の2大トンネルの旧道は、同じストーリーを共有する。

さらに古い道は、雷電峠を越えた山道であり、高低差700mにも達する難道であったという。
雷電峠は北海道がまだ蝦夷地と呼ばれていた時代に開削された道であり、戦後も昭和30年代までは利用があったから、比較的に多くの記録があるが、今回詳細には取り上げない。

このように代々の道があるということは、北海道の道路網における雷電海岸が占める位置が、無視や迂回の難しい重要度を持ち続けたということである。それだけに、技術や時局の許す限り、優先して改良の手が加えられようとしたのである。だが、持ち前の地形の険しさで、最後まで抵抗を続けたのも、この雷電海岸だった。



(1) 戦前から計画が進められていた海岸道路「雷電道路」

さっそく、今回の探索の主役にご登場いただこう。
岬を抜くトンネルと巨大な覆道の連続により、廃止された今日でも要塞の如き威容を誇っている旧国道(→)が、いかにして建設されたかが、この節のテーマである。

地形が地形であるだけに、容易な工事でなかったことは想像できるものの、探索前に把握していたのは、昭和38(1963)年に全通したことなど、『角川日本地名大辞典』から得たわずかな情報だけだったので、帰宅後に詳しく調べてみた。

入手したのは、現地の【トンネル銘板】にも名が刻まれていた、この道路の建設主体である北海道開発局小樽開発建設部が、平成1(1989)年に自ら刊行した『後志の国道』という資料だったが、期待した以上に詳細な記録が記されていた。

かつて“雷電越え”と呼ばれ、その険しい山道を往来する人々に恐れられていた岩内〜磯谷の道路は、開削以来、何度も改築を行ってきた。
第二次世界大戦終結後、それまで多年の懸案であった「雷電道路」は、昭和26(1951)年11月、本格的な改築工事に着手した。
この改築は、これまでの山側から海側にルートを変えるもので、すでに、昭和17(1942)年実測を完了していた。
これは、時代が昭和になるとともに、この海岸道路の必要性をうったえ、地元から強い請願陳情が続いていたものに呼応したものであったが、着工に目途がたった段階で、戦局が悪化の傾向を示したため中断せざるを得なかった経緯があった。
それだけに、この「雷電道路」の着工は地元の人びとを歓喜させる大きな意義があった。
(中略)
この沿岸は北海道屈指の魚田地帯であるが、海産物の輸送に予想以上の困難がともない、これがために関係住民の間に急速なる道路改良工事の施工が強く要望された。
『後志の国道』より

私は既に、この区間の開通が昭和38(1963)年だと知っているので、着工から竣工に12年もの月日を要したことが分かる。
しかし、戦前にルート設計と実測まで行われていたのに、戦局の悪化により着工目前にして実現しなかった経緯は初耳で、文中にもあるとおり、着工時の地元関係者の熱の入りは相当だったに違いない。ぬか喜びほど、悔しいことはないからだ。

なお、この計画の原点にあたるさらなる前史は、『後志の国道』には触れられていないものの、現地(ウエントマリの旧道入口)にあった雷電国道開通記念碑(→)の碑文に述べられていた。本文でも掲載しているが、いまいちど碑文を掲載する。

ここは昔海岸に道路なく、山越えをした処である。旧山道は安政3年幕府の命によって当時の運上屋がこれを改修し、昭和6年、池田北海道庁長官が親しくこれを視察されたのを機に海岸道路開削の議が起き、その後、昭和26年6月起工、昭和38年10月完工、工費8億4千万円をもって40年間に亘る地方住民多年の願を達したものである。
雷電国道開通記念碑より

この昭和6(1931)年の池田秀雄北海道庁長官(在任期間は昭和4〜6年、これ以前に秋田県知事や朝鮮総督府殖産局長などを歴任)による視察を原点とみれば、「海岸道路=雷電道路」の計画は、それから30年以上にわたって継続していたことが分かる。鉄道では珍しくないかもしれないが、道路としては異例のロングランであり、工事の難しさが窺われよう。
むしろ、戦前の技術力でこの海岸を貫通することなど、素人の私には無謀なことと思えるほどだ。

ところで、現在は一般国道229号というのが正式な路線名である雷電海岸の国道だが、起工時点では国道ではなかった。
過去の路線名の変遷は、次のようになっている。

 明治40(1907)年 仮定県道 西海岸線 →
 大正9(1920)年 準地方費道18号 江差岩内線 →
 昭和29(1954)年 二級国道229号 小樽江差線 →
 昭和40(1965)年 一般国道229号

ここに出てくる準地方費道という呼称は、私を含む内地の人間には馴染みがないと思うが、旧道路法時代にあった道路の種類である。
同法では、府県における府県道に相当するものとして、北海道に北海道庁長官が管理する道路である地方費道を定めていた。さらに、北海道道路令により、地方費道に準ずる準地方費道も規定されていた。これらは現行道路法下での(都道府県道の一種である)道道に相当するものであった。


さて、『後志の国道』の記述に戻ろう。次に紹介するのは、改良工事の年毎の内容だ。
徐々に工事が奥地へ進展していく様子が分かる。地図と一緒にご覧いただきたい。



『後志の国道』より
昭和26年6月26日着手
昭和26年
雷電道路に鋤はおろされ、岩内町敷島内の終点を0として磯谷方面に向かって工事が進められた。敷島内トンネルの導坑、掘削、道路1047mを施工。
昭和27年
敷島内トンネル巻立てを完了し、ビンノ岬トンネル導坑102m施工。
昭和28年
ビンノ岬トンネル導坑、切拡、巻立、坑門の一部を施工した。
昭和29年
ビンノ岬トンネルの導坑掘削を完了、道路150m施工。
昭和30年
ビンノ岬トンネルの切拡と道路143mを施工、この年から道路に伴う山側及び海側の石垣よう壁工に大量の雑割石を必要とし以後昭和38年度迄に全線を通して実に13万個の雑割石を使用した。
昭和31年
ビンノ岬トンネルの巻立を完了し一つの難関を突破した。道路は87m施工。
昭和32年
樺杣内トンネル導坑、切拡を完了、鵜の岩トンネル導坑、掘削を完了した。また樺杣内橋の施工、道路は815m施工。
昭和33年
樺杣内トンネルと鵜の岩トンネルの巻立を完了し……(以下、昭和36年まで刀掛トンネル区間の工事となるので略)
昭和37年
約2億円の巨費を投入して一挙雷電道路の開通を見た。敷島内、ビンノ岬、鵜の岩、刀掛、イセバチトンネルを完成させ、道路は1557m施工。
昭和38年
昭和26年6月に着工し13.14kmの道路に13年の歳月と8億3千万円の事業費を投入し10月をもって完成した。
『後志の国道』より

岩内(敷島内)側から始められた工事が最初に突き当たった難関が、現在は密閉されてしまい何人も立ち入ることができなくなった、ビンノ岬トンネル(→)だった。

この全長約450mのトンネルでは、導坑の貫通だけで2年間を要している。そしてこれが貫通するとすぐに、切拡げられる前の狭い導坑を通り抜けて、樺杣内海岸での道路作りが始められている。そしてまた岩場に突き当たると、短い樺杣内トンネルを短時間で貫通させ、すぐに鵜の岩トンネルに着手している。
同時進行で複数のトンネルの導坑掘削、切拡げ、巻立てが見事な手際で進められており、工事速成を目指す気迫が伝わってくるようである。

さて、ここまでの調査で、私が現地で抱いた“謎”の一つが解明できたことにお気づきだろうか。



その謎とは、最終回で触れたことだが、『道路トンネル大鑑』では、ビンノ岬トンネルの竣工年は昭和37年になっているのに、昭和32年の地形図(←)にも同トンネル(と敷島内トンネル)が描かれているのはなぜか……という内容だった。

答えは単純、昭和32年には既にこれら2本のトンネルが貫通していて、通行もされていた。だから描かれた。
ただ、『大鑑』は「通れるようになった時期」を重視せず、完全に竣工した時期を竣工年として記録したのだろう。また、当時はまだ工事中の扱いで、一般に解放もされていなかったかも知れない。
いずれにしても、地形図に正式な竣工前のトンネルが描かれているのは、かなり珍しいケースのように思う。

あとこれは道路の建設とは直接関係はないが、この道路工事の最大の受益者であり一貫して推進の立場であった岩内町は、工事4年目の昭和29(1954)年に、大火(岩内町大火)に見舞われている。同年9月26日のこと、15号台風…後に“洞爺丸台風”と呼ばれることになる台風が函館沖で多数の溺死者を生むほんの数時間前、最大風速40m近い風に煽られた出火は、一夜にわたって市街をなめ尽くし、焼失区域32万坪、罹災人口16622人、死者行方不明者38人、負傷者250人、焼失家屋3298戸、市街地の8割を焼く国内最悪規模の大火だった。



『道路トンネル大鑑』より

『大鑑』に、ビンノ岬トンネルの開通当時とみられる写真(→)が掲載されていた。だがそれはあまりにも現状とはかけ離れた姿をしていて、私を驚かせた!

この写真、正確な撮影年は不明である。ただ、刊行が昭和43年なので、それ以前であることは間違いなく、昭和37年に竣工した直後の撮影だと考えられる。

見ての通り、トンネルに接続している樺杣内覆道は影も形もなく、現在は路上からほとんど見えないビンノ岬の岩山が恐ろしげに迫っている。
岩盤よりだいぶ手前に突き出している坑門自体は、今と同じものに見えるものの、現存している銘板や、覆道のため存在の有無を確認できていない扁額は、どちらも見当たらない。

トンネルだけでなく、手前の路面が未舗装であることも、現状との大きな違いだ。今は覆道の壁で一切見ることができない山側も見えており、貴重な景色である。

『大鑑』にはこの写真だけでなく、工事に関する様々なデータや図面も掲載されており、その一つである工事工程表によると、昭和32年度までに導坑、切拡げ、巻立てまでは完了したものの、仕上げの路面工だけは昭和37年度まで行われなかったことが分かった。
未舗装のまま何年間も工事車両を通行させていたということになる。
このようなイレギュラーな施工を行った理由については、次のように書かれていた。

坑内舗装を後年に行ったのは、道路の完備を第二義におき、とりあえず道路の型作りをして路線を延長することを第一義においたからである。
『道路トンネル大鑑』より


『後志の国道』より

このトンネルが開通しない限り、それよりも奥地の工事を進めることができないという交通事情が、工事全体の速成を目指すすうえで大きな障害となった。そのため、養生に時間を要する路面工を後回しにして、路面未完成のまま5年間も工事用道路として利用したのであろう。

先ほどの写真は、坑内舗装が終わった後だろうが、トンネル外の舗装工事はまだ行われておらず、全線開通時点では砂利道だったのだ。当時としては珍しくなかったかも知れないが、堂々たる新道が未舗装というのは、現代の感覚ではない。

もう一枚、開通の直前か直後に撮られた写真(→)をご覧いただきたい。
こちらは『後志の国道』に掲載されていたもので、キャプションには「樺杣内トンネル及び覆道」とあるのだが、誤りである。写っているのはビンノ岬トンネルだ。そして、この道が覆道に覆われるのはもう少し後のことである。キャプションは未来を予知している。

本当に守りが薄い道だったことが分かる。
海側も山側も、防護施設が最低限以下である。しかも未舗装だ。
これは、銃弾飛び交う戦場に裸で乱入しているのに等しいが、とにもかくにも、完備されていなくても通じている道路が欲しい、そんな願いが強かったのだろう。

(北海道新聞の写真データベースにも、開通直後の昭和38(1963)年に撮影された樺杣内トンネルの写真があった。ぜひご覧下さい。)



『北海道道路史』(北海道道路史調査会/平成2年刊)から、工事の総評となる記述を引用する。


『北海道道路史』より
道路の延長は、13.14km、この短い区間に13年にわたり、8億3000万円をこえる事業費が投入され、9ヶ所のトンネルが掘削された。工事関係人員は延べ48万人で、トンネルなどに使ったセメントが1万5000t、道路開削にともなう石垣や擁壁などに要した雑割石13万個など膨大な資材を投入、切盛土は29万立方メートルにのぼった。

この道路は鉱山資源や林産物などの開発に寄与する産業道路として期待されたが、刀掛岩などの海岸線の雄大な景観が昭和38年7月24日にニセコ・積丹・小樽海岸国定公園に指定され、道路開通直後から雷電温泉の整備がすすみ、旅館がたちならぶ北海道では珍しい海岸温泉郷となるなど、観光道路として重要な意義を果たした。
『北海道道路史』より

かくして、雷電道路は貫通し、古来からの雷電峠の難所を過去のものにした。
だが、この地から工事の槌音が止むことは無かった。





(2) 終わらぬ工事と巨大覆道の出現


『後志の国道』より
昭和26年に着工したこの道路の構造規格は、大正8年の道路構造令によるものを基としており、道路交通は馬車や荷車であった。その後自動車交通の発達に伴い、「昭和10年、道路構造ニ関スル細則案」により基準の補足修正が加えられたものから出発している。(中略)
昭和33年に道路構造令が制定された。その内容は、昭和10年当時のものとは比べようもないほど、いろいろな基準が整備され充実したものであった。
しかしその後の交通情勢のめざましい変化によって、交通容量などの問題をはじめとして、交通安全に関する道路構造面からの一層の配慮が必要とされるようになり、昭和45年に現行の道路構造令が制定され、昭和46年4月から施行された。(中略)

雷電道路も引き続き舗装工事を行うことになったが、旧規格の道路構造を全面的に見直し、急激な車社会による輸送需要にこたえるべく、安全で快適な、新しい雷電国道の建設を進めることになった。
交通の安全と防災対策を基本的な方針として、平面線形の改良や、車道の拡幅、トンネル、覆道、スノーシェッド等の新設など険しい雷電岬周辺も更に、87億円余りの巨費を投じ近代的な道路として生まれ変わり、更に一層の安全対策を積極的に進めている。
『後志の国道』より

既に見たとおり、雷電道路の設計は戦前になされていた。そして戦後間もなくに着工した。
当時の道路構造は、まだ自動車交通に十分に適応したものではなかったから、開通時には既にモータリゼーションのトレンドから取り残されており、すぐさま大規模な改築が必要になったというのである。
そして改築の結果誕生したのが、今日見られる要塞、城塞、防壁のような、樺杣内覆道や防波堤といった巨大な防災構造物だった。


『後志の国道』より

『後志の国道』より

貨幣価値の変化もある(昭和30年から昭和60年までの貨幣価値の変化はおおよそ5倍程度)ので単純に比較はできないが、建設に8億円を要した道路の改築に、その後に87億円を投じているというのは、凄まじいものがある。

右図は、着工から昭和60年度までに雷電道路に投入された事業費の推移グラフである。
昭和45年度頃から毎年もの凄い額が投入されているのが分かる。特に昭和48年度には12億円も使われていた。

現地で圧倒的な存在感を誇っていた樺杣内覆道も、もちろんこの改築工事の賜物だった。
右図は、昭和62年度末現在における、雷電道路のトンネル・覆道・橋梁の一覧表であるが、赤枠内の構造物が今回の探索に登場した。

樺杣内覆道のデータもここに記載されているが、全長1201mというのは、当時道内最長の覆道だった。
竣工年度は昭和45年〜53年になっており、徐々に継ぎ増しされていったのだろう。

『後志の国道』には、各年度ごとの工事一覧も掲載されているが、例えば昭和48年度を見ると、「岩内町カバソマナイ地内覆道その1」「同その2」という工事が記録されており、計500m弱の覆道新設工事が約5億円で請負施工されていた。この年の雷電道路全体の総額が12億円弱であるから、樺杣内覆道工事が占める割合は大きかった。


寒地土木研究所が公開している論文に、樺杣内覆道建設の経緯を述べたものがあった。
昭和47(1972)年に発表された「覆道工事について-落石に対する計画と設計-」だ。
詳しくはリンク先を見て頂きたいが、一部引用してみよう。

岩内町敷島内より蘭越町イセバチ間の約10kmは、特に100m以上の崖と海とが近接していて、その間に崩壊物の堆積土があり、その上に道路を造った区間で、開通以来、融雪時期と大雨の後は多くの事故が起きている。特に昭和43年8月には車滝地内で、3000立方メートルにおよぶ絶壁上からの土砂崩れと、昭和45年3月と同年11月にはイセバチ地内で落石と土砂崩れによる山留擁壁が決壊し、人身事故に及ぶ被害があった。本工事箇所も落石が多く、特に屹立する岩壁には大きな縦割れ目があり、最近岩壁表面のハダ落ちが頻繁となってきたので、その土割れ目が進行の状態であると考えられ、崩落の危険性が増大したので、当覆道工事を計画、昭和46〜47年と2ヶ年にわたり実施中である。
(中略)
可能性の大きい崩落岩塊は(中略)約9700立方メートルと算出した。
寒地土木研究所1972「覆道工事について-落石に対する計画と設計-」より

「覆道工事について-落石に対する計画と設計-」より

「覆道工事について-落石に対する計画と設計-」より

この現場は、掲載されていた2枚の写真(→)から、現在の樺杣内覆道の中央付近にある、車滝付近であったことが分かる。

○印を付けたところには、写真でも分かるほどの巨大な亀裂があり、ここから崩れると9700立方メートル(参考:豊浜トンネル崩落事故の崩土量は11000立方メートルだった)もの土砂が崩落すると想定されていた。

なお、この車滝付近では、昭和43年にも3000立方メートルクラスの土砂崩れがあったと書かれており、開通時点から非常に危険な状況だったのだろう。それゆえここが、樺杣内覆道の最初のピースが埋め込まれた記念地となったのだ。

本編中第6回前半に通過した【小窓の覆道】の西側寄りの200mが、“最古の樺杣内覆道”だったのである。
防波堤を兼ねたような独特の形状をしていたが、そんな記念の地であったのか…!
(なお、この覆道工事により、昭和32年に建設された樺杣内橋は、敢えなく姿を消したようである)


↑図は、昭和41(1966)年と昭和51年に撮影されたカバソマナイの航空写真の比較である。

前者は開通直後であり、未舗装らしき陰影の路面が、幾分頼りなく海岸線に横たわっている。
対して、後者はそのわずか10年後であるが、一連の海岸線から路面はほとんど見えなくなり、
その位置には緩衝用に土を盛られた覆道の屋根が無表情に連なっている。
ただ、現在と完全に同じではなく、例えば【鵜の岩トンネル東口延伸部】は、まだない。




「覆道工事について-落石に対する計画と設計-」より

同論文によると、当初は覆道以外の工法も検討されたらしい。
左図には比較検討された3本のルートが描かれており、実際に選ばれたのは、現道に200mの覆道を設ける中央のルートだったが、489mの橋梁で海上へ迂回する案石部海上橋を彷彿とさせる)と、300mの曲線カーブで地中へ迂回する案もあった。
さらに、現道には手を加えず、崩落前に危険な岩盤を除去する工法も検討されていたそうだ。
だが最終的には、最も経済的で、工事中の危険も小さく、短期間で対処できる、覆道が選ばれたのだった。

そしてこの覆道による防災工法は、スタンダードなものとして前後への延伸が続けられ、昭和53年までには樺杣内の路上から空を一掃してしまった。
さらには道内各地、全国にも多くの覆道が建設されていった。

やがて昭和60年代になると、さしもの雷電海岸一帯の防災工事も一通り完了が近づき、年ごとの工事費も減り始める。
最初の全通から20年余りを経て、ようやく雷電道路は安定した存在として、この鬼神の如き海岸線に確かな人類の領域を確立したかに見えた。

だが、それから10年ほど経た平成8(1996)年、従来の防災対策の限界を露呈する出来事が、この道の別の場所で起こってしまう。





(3) 覆道による防災対策の限界とルート変更

平成8(1996)年1月5日付北海道新聞に、「国道229号この秋全面開通*21世紀見据えた大動脈」という大きな記事が掲載された。
道内の海岸線を一周する国道で最後の未開通区間となっていた積丹町〜神恵内村間が、同年秋にも待望の全通を予定しているというもので、全通後の華やかな未来が様々に謳われていた。また、国道全体の交通量増加が見込まれることから、既設区間でも様々な改良が進められていることも報じていた。その中に、今回登場した鵜の岩トンネルの盤下げ工事(路面を少し掘り下げることで空頭高を増やす工事)を同年度中に開始することが出ていた。昭和30年代に開通した古いトンネルを、時代に対応したサイズへパワーアップさせて使い続けることが、考えられていた。


だが、この記事の翌月、同じ国道、同じ積丹半島で、事故は起こった。


北海道の余市町と古平町を結ぶ豊浜トンネルで2月10日朝、古平町側のトンネル入口付近の岩盤が崩落した。トンネル内を走行中だった路線バスと乗用車1台が直撃を受けた。崩れた岩盤を取り除く作業は難航し、4回にわたる発破作業で1週間後にようやく取り除くことができたが、2台に乗っていた20人全員の死亡が確認された。 →映像
NHKアーカイブス「豊浜トンネル岩盤崩落事故」より

豊浜トンネル岩盤崩落事故である。
現役の国道トンネル、しかも完成からわずか12年目のトンネルが圧壊し、多数の犠牲者を出したこの事故は、衝撃を与えた。
直接の原因は、坑口付近の土被りが浅い箇所の地表で起こった大規模な土砂崩れ(体積11000立方メートル)であった。

もっとも、この災害が起こるまで、道路管理者が行うべき点検を怠っていたわけでも、そうした制度がなかったでもなかった。
昭和43(1968)年の飛騨川バス転落事故を契機として、わが国の道路防災対策が本格的に始まったと言われる。このとき、道路管理者は5年に1度の道路防災点検を行うことが制度化された。
さらに、平成元(1989)年に福井県の国道305号で起こった玉川岩盤崩落事故を契機に、道路防災点検には「岩石崩壊」という点検項目が設定されるようになった。

しかし、豊浜トンネルは崩壊した。

定期的な点検だけではなく、災害に即応した臨時の点検も行われていた。
北海道では、平成5(1993)年に発生した北海道南西沖地震の影響を点検するため、崖崩れが起こる危険があるトンネル191ヶ所を臨時で点検していた。
豊浜トンネルはこのとき、4段階の危険度判定のうち上から2番目のBランク(安定度がやや低いが、いますぐに危険な状態になるものではない)に位置づけられていた。
ちなみに、最も危険とされたAランク(地震に対する安定度が低い)は23ヶ所あり、豊浜トンネルを含むBランクは50ヶ所、残りはそれ以下だった。

しかし、豊浜トンネルは崩壊してしまった。

なお、雷電道路にあった各トンネルの評価を見ると、今回探索した雷電トンネル旧道にあるビンノ岬、樺杣内、鵜の岩の各トンネルは全てB評価だった。これは豊浜トンネルと同じ評価。また、今回の探索区間外だが、刀掛トンネルによって廃止された旧刀掛トンネルに至っては、最も危険なA評価を受けていた。

翌平成9(1997)年にも、同じ国道229号の現役トンネルが前触れなく圧壊する第2白糸トンネル崩壊事故が起こった。
幸い人的被害はなかったが、崩落した土砂の量は20000立方メートルで、豊浜トンネルの2倍近いものだった。
このトンネルの点検結果は、A評価だった。

2年連続の大事故から導き出された結論、あるいは世論は、A評価とB評価を食ったトンネルは全て排除しろ! …であったと思う。
これは乱暴な表現だが、実際、それからの20年ほどの間に、A・B評価トンネルの大半が、新道に取って代わられて放棄されるか、あるいは大規模な改修を受けて、姿を大きく変えている。偶然であろうはずがない。
雷電海岸についていえば、A・B評価は全て平成15(2003)年に廃止された。

次に紹介するのは、北海道新聞平成10(1998)年9月26日の記事「岩内・雷電地区2本の新トンネル危険個所う回へ」である。

小樽開建は25日までに、後志管内岩内町雷電地区の国道229号に建設する新しい岩内トンネル(仮称)と刀掛トンネル(同)のルート案を決めた。完成すれば開発局が危険と判断しているトンネルなど10カ所をう回できることになり、来春完成予定の白糸トンネル(同)と合わせて、札幌−小樽−函館を結ぶ物流や観光面へ経済効果が期待できる。
同開建によると、岩内トンネルは、ビンノ岬覆道の岩内側から、ウエンドマリ野営場に至る全長3461m。幅員9m、車道部分は6.5m。10月末に着工し平成14(2002)年度に供用開始する予定。 一方、刀掛トンネルは、弁慶トンネルの岩内側からイセバチトンネルの蘭越側に至る約2800m。現在進めている用地買収を終え次第、具体的な工期などを詰めるが、本年度中に着工し、供用開始は岩内トンネルと同時期の見通し。
両トンネルが建設される場所には現刀掛トンネルなど、1996年の豊浜トンネル崩落事故と、昨年の第2白糸トンネル崩落事故を受けた開発局の緊急点検で、「対策を必要とする」と判断されたトンネル・覆道10カ所が集中。現在、来年1月まで、落石防止工事のため2カ所のトンネルが午後10時から午前5時まで、夜間通行止めとなっている。
新たなルート案が決まったことで岩内町は「悪天候などでキャンセルが多い雷電地区のホテル営業もひと安心。名産タラコの原料確保にも効果が大きい」(企画経済部)。
また函館、江差方面から岩内を通って小樽、札幌方面へ抜ける道路が充実するため「新たな周遊コースができてフェリー客も増える」(東日本フェリー岩内支店)など、関係者は喜んでいる。
北海道新聞平成10(1998)年9月26日朝刊より

下線部に登場するのが、現在の雷電トンネルである。
豊浜トンネルと白糸第2トンネルの崩落事故を受けてのルート変更であることが、記事でも示されている。
これらの事故が起こらなければ、計画はもっとずっと後になっていたのではないだろうか。

雷電トンネルの工事は順調に進められたようで、当初の計画通り、平成14年度内である平成15(2003)年3月17日に開通した。道内では3番目に長いトンネルだった。また、姉妹にあたる刀掛トンネルは、一足早い2月27日に開通した。

これ以降、我らが旧道の処遇に関しては、新聞記事にはならなかったようで、情報がない。ここから先は、私が見た現状だけがあり、机上調査の外である。
現実に行われたことは、北海道開発局による通常業務のような廃道化工事であり、粛々と全てのトンネルの両坑口が封鎖されて、旧道の大部分が完全に密閉された。

なお、私は本文中で、北海道ではなぜこれほど念入りなトンネル封鎖が行われるのか、もし関係者が見ていたらこっそり教えて欲しいと書いたが、匿名のコメントでご回答を頂きました。

元国交省北海道開発局にいました。
閉塞についてですが、野生動物の越冬地や巣穴化の防止による獣害の非拡散目的。不審人物等による拠点化の防止の為が主理由です。建築上の問題や技術的側面からの事由はほぼありません。
匿名のコメントより

噂レベルでは聞いていた話だが、やはりヒグマの巣穴化を避けることが、一番の目的らしい。あと不審船や過激派対策か。


ここまで、旧国道の生きた歴史を見てきた。
今ではすっかりもぬけの殻で、どこか未成道を思わせるような空疎さに包まれている旧道だが、盛んに通行されていた現役時代の映像がyoutubeに残っていると、複数の読者から教えていただいた。
リンクを張っておくので、ぜひご覧頂きたい。

youtube 「積丹1:雷電海岸から泊原発を経由し断崖の日本海沿いをひた走る」
 (参考タイム: ウエントマリ 1:51〜 親子別覆道 1:59〜 鵜の岩トンネル 2:04〜 樺杣内トンネル 2:10〜 ビンノ岬トンネル 2:26〜)

今では絶対に見ることができなくなってしまった各トンネルの内部や、空虚ではなかった樺杣内覆道の内部など、見所満載である。




……今回の主役は旧国道、それは分かった。その歴史が苦闘に塗れていたことも、分かった。
だが、今回の最強なる名脇役のこと、アナタ、忘れてないか?





(Ex) 国道開通以前の海岸線に通じていた道について


今回の探索の影の主役、究極の名脇役、あの衝撃を忘れたとは言うまい。

巨大海蝕洞を利用した、奇絶極まる人道隧道!! (→)

この驚愕の隧道の他にも、下に写真を掲載したような……、袋澗の跡、人道隧道の跡、桟橋跡らしき多数の小孔などの発見もあった。

そしてこれらの発見は、旧国道の鵜の岩トンネルと樺杣内トンネルを迂回する位置に、左図の如き一繋がりの歩道が、かつて存在したことを物語っていた。

本編では、この道が旧国道より古い道であろうという考えから、単純に“旧々道”と呼称したのであるが、事前情報は皆無であったし、また現地探索においても正体を決定づける発見はなかった。

机上調査編の最後に置いた当節の目的は、この謎の徒歩道「海岸道(仮称)」の正体を解き明かすことだ!

が、意気込んで取り組んだ調査は、当初考えていた以上に難航し、未だ貫通できない隧道のような存在となってしまった。
ここまでの調査結果をまとめておこう。





先に白旗を揚げてしまうと、いまのところ文献調査では、この徒歩道の正体を確定させるには至っていない。
したがって、本編中でも既に試みたことの繰り返しにはなるが、現地で見つけた様々な遺構と、旧地形図という俯瞰的な資料を組み合わせて、正体を推測することが未だ有効である。答えがはっきりしているなら、このような推測は時間の無駄になりかねないのだが。

というわけで、まずは歴代地形図の比較から。


@ 大正6(1917)年 A 昭和32(1957)年 B 昭和51(1976)年

@大正6(1917)年の地形図を見ると、海岸沿いの徒歩道が描かれている。
この道が今回探索した「海岸道」であるはずだが、2本あった隧道は描かれていない。もっとも、5万分の1地形図なら省略止むなしな長さではあった。
注目して欲しいのは、沿道に多数の建物が描かれていることだ。分かり易いよう、家屋記号の周囲を赤く着色したが、「雷電」「カバソマナイ」「ウエントマリ」といった地名が注記されている周囲には、複数の家屋が見える。ウエントマリには学校の記号もあるから、単なる漁具倉庫の集合ではなく、集落が存在していたことが伺えるのだ。今回、カバソマナイで発見された袋澗跡は、カバソマナイ集落の唯一の名残ではないかと思う。

A昭和32(1957)年の地形図では、前節までで述べたとおり、車道である「雷電道路」の建設がたけなわである。この地形図は実際の工事の進捗具合をかなり正確に反映していて、カバソマナイ以東を車道(そして県道)として太く描いている。だがその先は、依然として徒歩道だ。
注目したいのは、集落の衰退だ。ウエントマリには辛うじて数戸の家屋が描かれているが、学校は消えており、カバソマナイや雷電は地名だけが残った(集落があった場所は道路敷になってしまったように見える)。

B昭和51(1976)年になると、もう地形図には古いものが何も残っていない感じになる。ビンノ岬以奥の沿岸集落は完全消失。ついでに地名の注記も減っている。


@ 大正6(1917)年 A 昭和32(1957)年 B 昭和51(1976)年

今度も全く同じ3枚の地形図だが、もう少し広い範囲、雷電海岸の全体で見てみよう。

注目して欲しいのは、青でハイライトした「海岸道」と、緑でハイライトした「雷電山道」の対比である。

この2本の道は「敷島内」で分岐するが、「朝日温泉」という地点で再度合流して1本になってから、雷電峠を越え、磯谷側の「イセバチ」へ下って行く。

これらは、よくある新旧道の関係にも見えるし、集落を経由して迂回する道と、経由せず短絡する道の関係にも見えるが、実際はどのような関係の両道であったのか、あるいは、どちらがより古くからあったのかという疑問が生じる。

私は今回、探索していない「雷電山道」は手に余るとして、レポートでもできるだけ触れずに済まそうと考えていたのだが、それは少し難しいようだ。

また、再び集落の変化に注目して欲しい。
@大正6年とA昭和32年の間に、沿岸部の集落は全体的に激しく衰退している。これがB昭和51年になると、国道「雷電道路」の全線開通によって雷電温泉が誕生し、新たな集落の登場を見ているが、その影で長らく命脈を保ってきた雷電山道は終焉を迎えている。雷電山道と雷電道路は単純な新旧道の関係性であり、リプレースが行われたわけである。
だが、@からAにかけての沿岸集落の衰退は、地方の過疎化を考えるには時期が早すぎるし、不自然である。これはなぜか。

解明の容易いものから解説しよう。
沿岸集落衰退の原因は、ニシン漁の衰退である。
『岩内町史』(岩内町役場/昭和41(1966)年刊)によると、岩内一帯のニシン漁は、江戸時代後期から大正時代まで長らく栄え、特に明治20〜40年の最盛期には年5万石の漁獲があり、現在の貨幣価値に換算して5億円以上の年利益が地域にもたらされていたという。
だが、大正末頃からニシンはほとんど現われなくなり、漁業の中心はスケソウダラに移ったものの衰退を止めることはできず、地域人口も大幅に減少したという。

@には描かれているウエントマリの学校だが、『町史』によると、これは「敷島内雷電簡易教育所」といい、明治35(1902)年に北海道庁長官園田安賢の寄附によって開校したという。だが、「昭和初年(?)廃止となったようだ」と、疑問符付きではあるが、昭和初期の廃校を伝えている。

次に、今まで避けていた雷電山道についても、簡単に述べておく。いろいろな資料に記述があるが、今回は『北海道道路誌』(北海道庁/大正14(1925)年刊)から引用する。

 雷電嶺の開鑿
雷電嶺は磯谷、岩内、両場所の間にある峻嶺にしてアフシタを以て両場所の境界とす
山中に温泉湧出し海岸は絶壁峭立し風景の奇を以て称せらる此処古来船を以て交通せしに奥地の漁業発達するに従ひ春期積雪を踏みて漁夫等の岩内以北に赴くものあるに至りしか、安政三年磯谷請負人桝屋栄五郎はアフシタ以西一里余を開鑿し、岩内請負人仙北屋仁左衛門はアフシタ以東二里余を開鑿し四季人馬の通行をなすを得るに至れり而して中間の温泉には柾家を建て箱館在の又兵衛なる者を家守となし以て通行の官吏旅客を取扱はしめたり
『北海道道路誌』より

雷電山道は、江戸時代末期の安政3(1856)年に、ニシン漁者の奥地への北上を助けるべく、幕府に知行を与えられていた豪商たちが合議して開鑿した、3里余りの山道だった。現在もある朝日温泉は、この時に開発されたものである。
そしてこの開鑿の後、雷電山道は一切の車両交通を受け付けない難路ながら、昭和時代まで生き続けた。長い山道の中間にある朝日温泉には、明治35年から駅逓と呼ばれる官営の宿舎兼人馬継立所が設置され、なんと昭和17年まで存続していた記録がある。道が生きていた証明である。

このように、雷電山道については、発祥がはっきりしている。
だが、海岸道には、こうした建設の記録が見当たらない。



『西蝦夷日誌』(松浦武四郎)より

おそらく雷電峠越えを記した最古の紀行は、蝦夷地探検家として名高い松浦武四郎が、雷電山道開鑿の年である安政3年に通過したときのものである。
『西蝦夷日誌』によると、彼はこのとき峠で濃霧にまかれ遭難寸前の苦難を味わうのだが、海岸道の有無には全く触れていない。

では、この頃まだ海岸道がなかったかといえば、どうもそうではないらしく、一緒に掲載されている絵図(→)を見ると、雷電山道とは別に、「シュマチセ」から「ユウナイ」まで海岸を通る道(赤い線)が描かれている。
これを現在の地名に直せば「敷島内」から「湯内(=雷電温泉)」へ至る道であり、大正6(1917)年の地形図にある海岸道と一致するのである。
つまり、江戸時代末期には既に海岸道が存在したらしい。

今回、十分すぎるほど海岸線の地形の険しさを思い知った。
もし、海岸に全く集落がなければ、海岸沿いの道が造られることはなかったと思う。雷電峠を越えて南北を結ぶ雷電山道だけで、事足りたはずだ。
海岸にも集落が誕生し、大勢が海岸を通行したいと思ったからこそ、隧道などという手のかかる土木工事が行われたと思う。

ただ、この海岸線にニシンを求める人が定着した時期は、江戸時代末まで遡るようだ。
そんな昔から、隧道や袋澗があったとは考えにくい。
結局、いつ、誰が、いま残っている形の海岸道を造り、隧道を掘ったのかは、記録がないことには分からない。




『大日本沿海輿地全図』(伊能図)より

右図は、雷電山道開鑿の35年前にあたる文政4(1821)年に、かの有名な伊能忠敬が完成させた、『大日本沿海輿地全図』(いわゆる「伊能図」)の一部である。

中央に見える岬に「クシナプイ」と書かれているが、これが後に「カバソマナイ」の地名となる。右端の「ホンライニ」の隣に見える岬が、現在の「ビンノ岬」である。ちなみに赤線は道路ではない。

クシナプイという地名はもちろんアイヌ語由来なのだが、『北海道蝦夷語地名解』(永田方正著/明治24(1891)年刊)は、この言葉の意味を「洞穴」とした上で、小さく「岬端ニ洞穴アリ」と注記している。

これを読んでハッ!とした。
樺杣内(カバソマナイ)という、旧国道のトンネル名や覆道名になっている地名だが、もとを辿れば、私が潜り抜けた、あの忘れがたい海蝕洞に由来していたのだ。

もし最初から日本語で「洞穴」という地名だったら、こんなに分かり易いことはなかっただろうが、さすがはアイヌ語。全く分からなかった。
ともあれ、遙か昔にアイヌの人が地名を名付けるときにも、あの巨大な海蝕洞は気になったんだなぁと思うと、人類皆兄弟の感を深くする。

本編では、名称不明だったこの岬をカバソマナイ岬と“仮称”するに留めたが、改めて、正式名と断じたい気分だ。




江戸時代へ遡る作戦は、残念ながら、海岸道の由来を絞り込む役には立たず。
『町史』にも全く記載がない道であり、早くも調査は行き詰まり……。

正攻法では埒があかないようだが、現地での聞き取りや文献調査は、時間もお金もすぐには無理だ。
というわけで、国会図書館デジタルライブラリーを駆使しての、搦め手からの文献調査に取り掛かった。

方策としては、昭和30年代に雷電道路が開通する以前に雷電海岸を訪れた記録を探すことにした。
当時の人は、どんな道を通って、雷電海岸を訪れていたのか。そこに、我らが海蝕洞隧道は、登場していないだろうか。

だが、雷電海岸が観光地として広く知られるようになるのは、まさに国道が開通した年に国定公園へ指定されたときからなのである。
古い記録は、やはり多くは見つからなかった。




雷電海岸方面の探勝は目下交通不便であるが、岩内町より歩道を利用するか、又は遊覧船を用意することができる。
『北海道景勝地概要昭和九年』より

上記は、昭和9(1934)年に北海道景勝地協会がまとめた、『北海道景勝地概要』という資料からの引用だ。
これは将来有望な景勝地を探し出し、その現状を報告した記録であるが、雷電海岸は国定公園になる30年近く前から、「断崖絶壁数百尺、その下には奇岩怪石を置いて懸谷滝を発達せしめ、荒漠とした海洋に対して豪壮な海岸の風景をなして居る」「凄愴人に迫るものがある」などと、高い景観評価を得ていた。
だが、目下交通不便であると断じられており、そのアクセスは、遊覧船か歩道だとある。ただ、歩道というのが、海岸道なのか、雷電山道なのか、どちらを強く意識しているのかは不明だ。


もっと欲しい。


今度は待望の紀行文を見つけたが、古い本ではない。
昭和54(1979)年に出版された、『北海道・ぐるりトコトコ』という、長新太著の紀行集に、「雷電海岸」という一説があった。そこからの引用。

大正末期まではニシンの漁場で、そこのオッサンが、私財を投じて断崖絶壁に道をつけたりしたらしいけれど、今は「追分ソーランライン」という道路があって、ソーラン節を思い出して、いささか勇気が湧いてくる。
『北海道・ぐるりトコトコ』(長新太著)より

なんという軽口…… いや、軽妙な語り口だ。
その軽薄さに一瞬スルーしかけたが、実は重要なことが書かれてはいまいか?

大正末期までに、ニシン漁場のオッサン(おいおい…)が、私財を投じて断崖絶壁に道を付けたりした「らしい」?!

「らしい」ってナンダ?!
まるで、どこかにそのことをしっかり書いてある資料が存在するみたいな言い方……。 そうでなければ、聞き取りの結果…?

しかしともかく、これは私が現地で袋澗を見ながら想像した(そして第5回にしたためた)ストーリーそのものである。
ニシン漁が盛んだった大正時代、袋澗が盛んに作られていた最中、海岸道も作られた(江戸時代から何らかの歩道はあったにしても、隧道などを新設して通行しやすくした)のではないかという憶測だ。

この本の著者の 「らしい」 の裏側が知りたい!    ……が、届かず……。




私の到達した終点が……、トンネルの行き止まりが……、近づいてきた。

私は発見した。


昭和36(1961)年9月に、雷電海岸を深く訪れた紀行を。

時期は新道工事の真っ最中。第1節に掲載した工事年表に照らせば、ビンノ岬、樺杣内、鵜の岩の各トンネルが既に貫通し、雷電温泉まで車道が通じている状況だ。つまり、我らが海蝕洞隧道を有する海岸道が放擲された直後であろう。

紀行者は、水上勉。
小説「飢餓海峡」の著者として、よく知られている人物。
紀行のタイトルは「雷電海岸の孤愁」と名付けられており、昭和39(1964)年に雑誌『旅』で連載されたが、後に集英社文庫から『負籠の細道』としてまとめられている。

これから何ヶ所か引用する。
まずは、今は壁でしかないビンノ岬トンネルを潜り抜け、雷電海岸の核心部に飛び出すシーンから行こう。


『道路トンネル大鑑』より
雷電へは、岩内から、西南へ向かって海岸沿いを車で10分ほどゆくと到着する。岩石をえぐった黒いトンネルを出ると、まるで、いままでの海岸とまったく風貌を変えた荒々しい奇岩怪石の光景が展開した。
世界の果てといった感じだった。私は、目を瞠(みは)ったまま呆然となった。いったい、こんな恐ろしい奇岩怪石の巨大な突出が、いつ起きたものか。……
『負籠の細道』(水上勉著)より

彼が飛び出した坑口はこれだ(→)。 そして、景色の変化に驚愕した。

私が、この坑口(←)から飛び出して、真っ先に驚愕したことを思い出す。
もちろん、文章は彼が100倍も上手だ。引用はしなかったが、上記文章の直後に、とても素敵な表現で、雷電海岸の景色を書いている。
ただ、1本のトンネルが雷電海岸の内外を劇的に隔てている衝撃性は、私も変わらず体験できた。

いきなり話が脱線してしまった。本題に関わる記述は、このすぐ後に。



峻嶮な断崖の斜面に、昔の旅人が歩いた道があった。ほとんど垂直に近い岩また岩の波間をくぐりぬけてゆく。こんな道を歩かねばならなかった人びとがいたのだ。けわしい道跡を見るに付けても私は、厳しい歴史が、いまそこに、びくともせずに在るのを見た。私は固唾を呑んだ。
『負籠の細道』(水上勉著)より

彼は、間違いなく見ている。
現在の樺杣内覆道の辺りで、視線を遮るものがない状況で、「けわしい道跡」、「昔の旅人が歩いた道」を、見ている。
そして、書き残したくなっている。 ……私なら、当然歩きたくなっただろう……いや、きっと歩いたに違いない、その道のことを。

残念ながら、歴史に触れてはいないが、「昔の旅人が歩いた道」というのは、単なる工事用道路的な歩道ではなかったことを断定している。
さらに、残念ながら、これ以降、この昔の道に関する記述は現われない。
だが、良い内容はまだ沢山ある。

恐ろしい垂直の絶壁が、かなしい人間の歴史を抱きながら咆吼していた。私が立っている道路の上には、黒壁のような断崖が、垂直にそそり立ち、絶壁は頭上に、おおいかぶさるように空を圧していた。仰ぎ見ると今しも岩が落ちかかるようだ。その岩石を割って、道を濡らす瀑布は、轟々と水音をたて、車の屋根やガラス窓をたたいた。
『負籠の細道』(水上勉著)より

羨ましい!

覆道に遮られない滝を見た彼が!
偽りに甘やかされる前の、この地を辿る道と人が当然に甘受すべき至難を、彼は全身で味わっている。車滝は、こんなに遠くじゃなかった!(→)
うら羨ましい!!

彼には同行者が1人いた。案内人の老人(岩内町の職員)である。彼の案内が、私には興味深い。

「ここらあたりを敷島内といいますが、ここから、磯谷の海まで、ざっと10キロありますかな。このような奇観の連続でございますよ。しかし、この雷電海岸に住んだ人びとの歴史は古いのです。約250年前、寛文年間に、すでに松前藩の家老知行所だったことが文書にみえておりますし、天保にはいってからは、東北地方をおそった大凶作で、追われた人たちが、ここへあつまって、この付近は、西エゾ一ばんのにぎやかな所だったと書かれたものものこっています。」
(中略)
カバソマナイという地点にたどりつく。ここはちょっとした砂地の見えるところだ。
「むかしは、ここに大きな村がありました。網元もありました。ところが、全村亡びてしまいましてね」と案内者はいう。
亡びた村は跡形もない。岩層の下をトンネルがぬけて、海の方はふりかえってみるしかないのだが、そこには、漁場の栄えた澗の面影しかなかった。
『負籠の細道』(水上勉著)より

この最後に登場する景観は、今も近いものを見ることができる。
樺杣内トンネル西口から、袋澗がある辺りを見たのだろう(→)。


さて、紀行はこのあと、雷電海岸の誰もが認めるハイライトである刀掛岩の景観で終わる。
だが文章は続き、3年後の場面へ。そこで彼は、雷電海岸の旅を振り返って書く。

年老いた町役場の人が、私に語ったあの目の輝きを私は忘れていなかった。
「水上さん、ひとつ……この雷電の海を、小説に書いてくださいよ……」ともいったあの老吏員と、当時、町長さんが、私たちを岩場に案内して、焚火を囲んで、貝鍋をご馳走してくださったが、その時、私は、ただ、だまって海を眺めているだけだった。
その時にはまだ『飢餓海峡』の発想はなかったのである。しかし、雷電の自然の中へ、生きた人間を歩かせてみたい欲望は、たしかに、その時にもったのであった。
私は、生きた人間を雷電へ歩かせるためには、孤愁を背負った人間でなくてはいけないと思っていた。とつぜん、頭にひらめいたのは、岩内の町を焼いた男。おそろしい男をこの波濤の狂う海岸へひきつれてきて、とぼとぼと歩かせてみることであった。じっさいは、岩内町は失火によって焼失しているのだが、放火事件にすることによって、私はドラマになると思った。その男は、岩内を焼いてから、大金を盗んで駅に向かい、岩内線で小沢に出て、函館へ逃げる。ちょうどその時刻は、洞爺丸の転覆で函館は大騒ぎの最中である。この混雑にまぎれて、第二の犯罪がたくらまれる。……
『負籠の細道』(水上勉著)より

彼は告白する。『飢餓海峡』というフィクションが、この旅から生まれたものであったことを。
同作品の刊行は、旅の2年後の昭和38(1963)年である。

私は、フィクションである『飢餓海峡』を読まねばならなくなった。
そこに描かれた雷電海岸の風景は、きっとフィクションではないと思ったからだ。


『飢餓海峡』には、こう書いてあった。

田島清之助と、小樽署の荒川刑事が、火山岩の屹立した雷電の鼻に到着したのはその日の午(ひる)ちかい頃である。
海は凪いでいた。しかし、岩蔭の荒磯は波が大きな岩を噛んでいる。田島は、署に来て八年になるが、この景勝ゆたかな、雷電の岩壁をみたのは三、四回しかない。岩の雄大さも目を瞠らさせるが、五十メートルもある巨大な岩と岩の合い間から噴出するように数条もの滝が海へ落ちこんでいた。黒と茶褐色との斑になった岩壁に、純白の滝水が糸束を投げつけたように落下する底の方は、背すじを寒くするような巨大な穽(あな)であった。道は穽に沿うてまがりくねっている。時々、昔の旅人がどうしてそのような穴をあけることが出来たのかとおどろかされるトンネルも見られた。
『飢餓海峡』(水上勉著)より


私には、水上勉もこの隧道も見ていたとしか思えないのだ。

この奇絶を見て、己の中に秘め続けることを出来る人が、どれほどいるだろう。

ましてや、この地の旅と道に心を奪われた者が、これを秘することは不可能だ。


おおよそ、魔性なのだから。




(追記) 旧々道(海岸道)の貴重な聞き書き資料が発見された   2020/3/28追記


『聞き書きで綴る 雷電のはなし』 表紙

私が小説『飢餓海峡』にまで手を伸ばして机上調査を行なってきた“旧々道”について、追記すべき重要な情報がもたらされた。

これは本レポート公開後、以前も机上調査に協力してくださった田中氏が、自主的に岩内町郷土館に宛てて情報提供を依頼されたところ、郷土館のE氏より私宛にメールを頂いたことに端を発する。
E氏との交信により、同館が所蔵する『聞き書きで綴る雷電のはなし』という文献に、私が探索した旧々道を利用した雷電部落の元住人の聞き書きが収録されていることが判明したのである。
その上ありがたいことに、同資料の複写と当サイトへの引用の許諾を頂戴した。

『聞き書きで綴る雷電のはなし』(以後『雷電のはなし』)は、道立図書館や国会図書館にも所蔵されていない稀覯本である。内容は、著者で町内在住の浅賀輝夫氏が、雷電部落の元住人数名からの聞き取りをまとめたもので、あとがきの一文に、「文書に残された記録が全くない中で、明治期の雷電漁場の様子については推測の域を出ず、聞き書きの中心はお話し下さった古老の生活した時期である大正中期から昭和初期のことと考えてよいと思います」とあるように、雷電部落の存続した期間の後期にあたる大正中期から昭和初期の内容が中心になっている。総ページ数30、発行は平成10(1998)年である。



『聞き書きで綴る 雷電のはなし』 目次および部落内の地図

ところで、本書が元住人からの聞き取りを行なった「雷電部落」が、雷電海岸にいくつもあった失われた集落のどこを指していたかについてだが、ウエントマリから親子別の海岸線に長く伸びていた集落を指している。

私のレポートでも、歴代の地形図を比較しながら、大正6年の地形図には「ウエントマリ」に多くの家屋や学校が描かれていたことを紹介し、それが昭和32年の地形図ではほとんど消えていることも述べたが、第1回のスタート地点でもあったウエントマリこそ「雷電部落」の中心であった。

本書によると、ニシン漁の衰退とともに集落も衰退に向かいつつあった昭和初期も20〜30軒ほどが暮らしていたそうだが、地区内の小学校分校が昭和11年に廃校になっており、この頃を最後に定住者はなくなったようである。

チェンジ後の画像は、聞き書きにより作られた集落の見取り図である。
右端に旧国道の鵜の岩隧道があり、左端に現在の雷電温泉郷が見えるが、いずれも位置を示すための注記で、集落が存在した時期にこれらの施設(旧国道や温泉郷)はなかった。
今も変わらず同じ位置にあるのは、傘岩くらいなものかもしれない。ここに描かれている家々は一つも現存しないし、私が最も知りたい旧々道についても、図端の右外の話であるから、描かれていない。


しかし、がっかりするのは少し早い。
もう一度「目次」を見て欲しいのだが、本書の第四章は「雷電への道」であり、そこに「(3)海岸道路」という項目があるではないか!
まさにこれこそ、ここまで探し求めて初めて出会えた、旧々道の貴重過ぎる体験談だった。



ここから、岩内町郷土館よりご提供いただいた『雷電のはなし』の第四章「雷電への道」の内容を紹介していく。

まず始めに、雷電部落が健在だった大正から昭和初期当時、この地方の中心都市の岩内から雷電(ウエントマリ)へ行くには、次の3つの道があったことが述べられている。

 雷電への道
昭和37年11月、国道229号線雷電国道が開通し、容易に往来できるようになったが、それ以前は雷電まで行き着くには次の3つの道があったのだが、此の道について辿ってみた。
 (1)海からの道
 (2)山からの道
 (3)海岸道路
『雷電のはなし』より

このうち3番目の道が、私が旧々道と呼んだ道を指しているらしいのだが、1番目と2番目の道に関する記述も簡単に拾ってみよう。
この3つの道は状況に応じて使い分けられていたものであるらしく、旧々道をより深く理解するには、これらの道についてもある程度知る必要がある。

 (1)海からの道
岩内、或いは島野から磯舟を漕いで行く海路がある。しかし、木原さん(注:島野生まれで若い頃に夏場の雷電漁場で働いていた人物)の話によると、島野からでも波のない穏やかな日で2時間半、少し波が出ると3時間以上もかかるので、天候を充分に見てから船出をしたものだといいます。それでも背に負いきれない大きな物、重い物を運ぶには、どうしても舟に頼らざるを得なかったのです。(以下略)
『雷電のはなし』より

海路は最短距離であったが、手漕ぎの小舟のため時間がかかり、雷電地区には動力船が直接横付け出来るような港もなかったので、決して便利な“道”ではなかった。それでも、陸路は車道として整備されていなかったから、海路は最後まで、重量物の輸送に欠かせないインフラだった。

 (2)山からの道
(中略)
雷電部落へ行くには(朝日)温泉から下って、親子別の海岸まで降りるのだが、此れも昭和36年に日鉄雷電鉱山が開山式を挙げて、温泉の億で掘り出された鉄鉱石を運ぶ運搬道路として付けられたもので、当時は殆ど直登に近い細い急斜面の山道であったと言われます。しかし、此の山道も朝日温泉まで登る時間があれば、海岸道路では島野まで行き着けるので、部落の人たちの利用度は少なかったようです。(以下略)
『雷電のはなし』より

この道は、安政3(1856)年から5年の歳月をかけて岩内場所の請負人仙北屋が開削した有名な「雷電山道」を経由するルートであったが、前掲の地図を見れば明らかなように、ウエントマリから利用するには非常に迂回が大きく、高低差も凄まじい。そのため、住人の多くは、私が探索した海岸道路を利用したということだ。

なお、先に書いてしまうが、本書にも、海岸道路がいつ、誰によって、なぜ建設されたかは、書かれていない。
本書が記しているのは、大正末から昭和初期にそこを歩いた人々の聞き書きであり、その時期既に海岸道路が存在したことははっきりしたが、その来歴は未だ不明だ。
それでも、雷電部落の住人にとって唯一の陸路であった雷電山道が、あまりに迂遠で不便であったため、ニシン漁で財を成した明治期の雷電住人達が力を合わせて海岸道路を開削したというストーリーは、海岸道路の来歴として、最も可能性の大きな仮説だと私は思っている。


それでは、いよいよ今回の追記の本題であり核心……、旧々道こと海岸道路の通行体験談を、紹介しよう。
嬉しいことに内容が多いので、いくつかのパートに分けます。
あと、出来れば読み始める前に、私が海岸道路を歩いた部分のレポート、具体的には第2回から第3回の最後までと第5回の前半を、写真をめくるだけでいいので簡単に読み返して下さい。その方が理解しやすいはず。


 (3)海岸道路
海岸道路は幾度も犠牲者をだした危険な道でしたが、一番近道であったことから、部落の人々がよく利用した道でした。
『雷電のはなし』より

いきなり犠牲者が多かったという内容から始まっている……。

……まあ、あんな道だもの、さもありなんとしかいいようがないのだが。

それでも、近いことを理由に多くの住人が通っていた、いわば雷電集落のメインルートであったという。 恐ろしいことである。


海岸沿いの道は道なき道で、目眩のするような難所「赤ハゲ」【1】を越え、その名の通り「滝の下」【2】はゴロゴロとした大小の石を飛ぶようにして歩きますが、春秋は二十数本の滝が懸かり、水の飛沫で石が滑るので、歩く石を選びながら足を乗せる海辺が、梯子滝【3】まで続いていました。そこから半トンネル【4】を経てつり橋【5】を渡り、何時掘ったのか判らない風化した岩穴【6】に、差し込まれたボートを頼りに階段の岩【7】にへばり着くようにして登り降りして波打ちぎわ【8】まで来ます。そこからは又、崖に突き出した岩石【9】につかまって足場を探しながら歩く、とても疲れるスリルの多い道でした。波の穏やかな日は気になりませんが、少しでも波が出てくると歩くのが大変でした。こうして現在の雷電国道開通記念碑の所【10】まで出てくるとウエンドマリまではすぐです。
『雷電のはなし』より

……これが、私の歩いた旧々道の“歩き方”である……。

敷島内から雷電へ向かって歩いてくる途中には、「赤ハゲ」や「滝の下」のような名前が付けられたいくつかの難所や危険地帯があって、気をつけながら歩かねばならなかったこと、少しでも波が出てくると歩くのが大変だったことが、率直に述べられている。
全体として“道なき道”ではあったが、難所には、「半トンネル」や「つり橋」「何時掘ったのか判らない風化した岩穴」「階段の岩」といった、人が通りやすいようにいくらか地形に手を加えた、いわば土木構造物があり、私が奇絶を評した海蝕洞を利用した隧道も、これらの含まれていたはずである。

次の地図は、上記の文中にある【1】〜【10】の地点のうち、間違いなくここだと思える数ヶ所を、地形図上にプロットしたものだ。

私が歩いた区間は、【2】から【10】地点までで、おそらくビンノ岬を越える区間にあった「赤ハゲの難所」は通っていない。
また、歩いた区間内でも、「半トンネル【4】」や「つり橋【5】」は見なかった。梯子滝から海蝕洞までの区間にあったと思われるが、ここは右写真のように斜面全体が盛大に崩壊しており、ルートを見失っていた区間でもある。

そして、私にとって道中最大の見所となった海蝕洞隧道を示していると思われるのが、「何時掘ったのか判らない岩穴【6】」である。

そう考える根拠として、直後に出てくる「階段の岩【7】」や「波打ちぎわ【8】」との位置関係がある。
左の画像に示したような位置関係であり、これは揺るがないと思う。
また、他の区間にも増してポイントが密に紹介されているのは、それだけ難所であったり通行人の印象に残る風景だったからだろう。

形を留める隧道は【8】と【10】地点の間にも1本あったが、こちらについては特に述べられてはいないようだ。
しかし、「崖に突き出した岩石【9】」につかまって足場を探しながら歩く場面には、右写真のように、思い当たるところがある。
総じて、前記した一連の証言は、私が今回歩いた旧々道の光景と良く一致しており、間違いなく同じ道を歩いたのだと思えたのだった。

それにしても、海蝕洞隧道に対する「何時掘ったのか判らない岩穴」という表現は、興味深いものがある。
大正時代から昭和初期にこの道を利用していた証言者が、このように表現しているというのは、この隧道が海蝕洞に由来するもので、人が一から掘ったものではないという意識からなのか、それとも掘ったのが自身の先祖ではない……例えば先住民であるアイヌの人々であったとか……の意識によるものなのか、妙によそよそしい気がする。
もっとも、先住民というのは少し飛躍した考え方で、雷電に住んでいた住民の多くはニシン漁のために遠方から移住してきた人々であって定住の度合いはそれほど深くはなかったようだから、この道を作った先達の話も、あまり語り継がれなかったのかも知れない。


次は、海岸道路での事故の記憶が語られている。

・海岸道路での事故記録
二印斎藤さんの留守番をしていた人だが、3〜4人で岩内に出て一杯飲んでの帰り道、今までお喋りをしていた話し声が赤ハゲまで来たときにプッツリと切れてしまったので、後を振り向くと下の海中へ落ちたところでした。丁度ビンノ岬の漁場で働いていた人達の応援を貰って、ロープを下げて遺体を引き揚げたことがあったとの話です。
又、或る婆さんが、半トンネルを通っているときに足を踏み外して海に落ちそうになったが、幸いに手に触れた手摺りの針金を止めるボートに捕まり、長い時間ぶら下がって一心に神仏に祈願をしていたら、丁度通り掛かった山田さんに発見されて助けられたと言う話は雷電でも有名になっていたとの事です。
『雷電のはなし』より

前半の記述は、私は歩いていないビンノ岬付近の難所「赤ハゲ」での事故。
ほろ酔い気分で岩場を歩く危険度を物語っているのだが、死が今より身近に転がっていた時代の空気間が印象的だ。楽しいお喋りで次の語を待つ“いとま”に死んでいたなんて、人の命の重さがどうかしているとしか思えない。
後半の記述は、これは私が歩いたどこかでの九死に一生スペシャルな出来事だが、ここに登場する「ボート」の正体が分からない。「手摺りの針金を止めるボート」とあるから、杭のようなものを指しているのだろうか。さすがに舟(Boat)のことじゃないよな? (読者様コメント「ボートはボルトの事です。今でも年寄りの職人には言う人も居ます」とのこと)
それにしても、前半のインスタント・デスと較べてしまうと、女は強しと思えてくる。


次に、海岸道路で急病人を搬送したエピソードが語られる。

・病人の運搬
病人が出たときは舟で行けるときは舟を漕いで行くが、殆どは背におぶって海岸道路を越えたものです。冬道の時は、横野さんの父の達者な頃は青年団の人達が総出で協力し、スコップやツルハシを持って雪を掻分け、氷を割って病人を交互に背負って大変な苦労をしながら運んだものだそうです。
清水さんからも時化の海岸道路を運んだ話が聞かれました。夕方から腹病みをした人が朝になっても治まらないので、皆で集まってムシロで造った担架に乗せて海岸に出ました。山にぶつかる風、返す風で飛ばされそうになります。前に10人後に10人がついて運びます。一番危険なのは半トンネルの所で、波が岩に当たって吹き上がってきますが、その波の合間を見て走ります。マサカリやトビを持って氷を割って行きますが、下は白波の沸き立つ海です、危険な赤ハゲを通り抜けて半トンネルへ来ると、丸太2本を渡した岩場も時化ると丸太が流されてしまうこともあるのです。
部落に産気づいた嫁さんが出たが、どうも普通とは様子が違うので岩内から産婆さんを呼ぶことにした。しかし海は大時化で波が渦巻いている。何人もで町まで行き産婆さんと交渉したが、天候が悪いのでどうしても行くとは言わないのです。嫌がる産婆さんを無理に背負って雷電まで連れてきたこともあったそうです。
『雷電のはなし』より

時化ても、必死に岩にしがみつき、波飛沫を被り、波の合間を駆け抜けるようにして、あの海岸の道を行き来していたというのである。
私は最も条件の良い中で通行しても、あんなに恐ろしいと思ったのに、想像を絶している。
そして、「半トンネル」や「赤ハゲ」の難所の恐ろしかった話が、ここでも出ている。
最後に登場している産婆さんのエピソードなど、今だったら誘拐事件である。


なお、『雷電のはなし』に掲載された旧々道のエピソードは、別のページにもう一つだけ収められていた。
最後に紹介するのは、雷電部落に税金の徴収に訪れた村役場職員の語った内容だ。

・或る島野役場職員の手記
雷電部落への税金の出張徴収も大変な仕事であった。税の徴収技術は殆ど必要では無かったのです。「ご苦労様です、役場から税金を貰いに参りました」と、一軒一軒回ればよく、後は出来るだけ部落の人達と顔見知りになれば、次の機会には効率よく仕事が出来るのです。私は四度程出掛けました。海岸道は滑るのと、半トンネルからの海伝いの所が嫌で、山道を歩き朝日温泉で徴収してから浜に下がりました。(中略)
雷電に出張する時は、帰りを漁協の昆布の集荷船に乗せて貰うことにして、あらかじめ時間を打ち合わせて置きます(中略)
又、税金徴収で各戸を廻りますと、殆どの家で干し鮑を1〜2個口に入れなさいと言って出して呉れます。これを鞄に入れて帰りの船で1個食べたのですが、此れがまた美味しくてホタテの貝柱以上の味で、身の大きさが全く違い、口の中でだんだん大きくなって、噛んでも呑み込むのが惜しい気持ちになります。(以下略)
『雷電のはなし』より

おそらくこれが、平地に住まう“一般の人”の雷電部落へ交通する時に選ぶ、通常のルートであったと思われる。
あの海岸道が生活道路だったのは、確かであった。
しかしそれは、板子一枚下は地獄を素で行く屈強な漁師やその家族達の“日常”であって、当時とて、誰もが通れる道ではなかったということだ。
この証言者は、当時まだ若い働き盛りの男性であり、臆病でも足弱でも無かったが、海岸道を避けたのである。それが、海岸道の実態であったと見て良かろう。

なお、雷電の住人は、心の優しい、そして気前よい人が多かったようだ。
海道にせよ山道にせよ、大変な道のりを越えてきた来訪者への労いと愛情が、感じられる。税金を徴収している内に高級品の干し鮑が鞄に溜っていく光景は、とても温かい。
だが、全てが今は昔、誰も通わぬ冷たい旧道の遠くに消え去った。
語り継がれるべき話は、失われた雷電の営みにも多くあった。そんな当然のことを実感させてくれる、素敵な書との出会いだった。

機会を与えてくれた田中氏、岩内町郷土館の善意に、心から感謝します。