2023/4/11 15:12 《現在地》
ここは「秘境駅ランキング2023」第6位の栄誉に輝く金野駅。最寄りの集落から1km以上狭隘な1車線道路を走ってようやく辿り着けるとされる有名な秘境駅だが、これより上のランクの各駅とは異なり、駅前まで一応乗用車で入れる。
駅名標にあるとおり所在地は長野県飯田市で、隣は唐笠駅と千代駅となる。そして私はこれから歩いて千代駅を目指そうとしている。
この駅の特徴としてしばしば語られる、単線S字カーブの途中にある小さなホームには、いかにも秘境駅っぽい扉なき前面開放の待合所がポツンとあって、乾いた木の椅子の片隅には何冊もの駅ノートが置かれていた。
掲示された時刻表に目を向けると、日中時間帯のダイヤの粗さが目を引く。
この金野駅、普通列車なのに素通りする列車が結構あるので、思いのほか止る電車が少ない。とはいえ、既に廃止されてしまったような超絶閑散鉄道の記憶に照らせば(【参考:岩泉線岩泉駅の時刻表】)、飯田線はまだ元気そう。終電は夜10時台だし、どこかで遅くまで飲み食いした後でもちゃんと帰宅できるね。
話は変わるが、私はここまで歩いてきた。
今朝早くに隣の泰阜村にある温田駅前から線路沿いを歩き始め、なんだかんだあって約9時間半が経った今、温田から4駅目の金野駅へ歩き着いた。
この後は引き続きあと2駅歩いて、天竜峡駅で温田に戻る電車へ乗れば、10年越しの“ゲームクリア”(竜東線完全踏破)となる予定だ。
この日歩く道は、ほとんど全てが竜東線(旧県道満島飯田線)に由来するもので、廃道が大部分を占めている。
訳あってこのレポートを一連の竜東線探索レポートの第1作目としたが、私の肉体は、このレポートの冒頭時点でもうヘトヘトだった。私をそこまで消耗させた途中経過の内容はいずれ紹介できると思うが、そんな疲れ切った私が、そろそろ帰りの電車の時刻を気にしつつも、「あともう一息!」と自分を奮い立たせながら頑張って歩いたのが、この金野〜千代の区間だった。
――では、スタート。
金野駅の狭いホームに立って、飯田線の他の秘境駅と同じく間近を流れる天竜川の上流方向(進行方向)を見る。
やや高低差があるので水面はあまり見えないが、両岸の険しい地形が見て取れる。
ただ、その先には、今日これまで訪れた4つの駅には見られなかった“明るさ”が感じられた。それは言い換えれば、谷の広さだった。
小縮尺の地図を見れば一目瞭然だが、金野駅がある辺りはもう、天竜川の中流を占める長い長い(100km!)峡谷のほぼ上端である。
次の次の天竜峡駅までは峡谷が続くが、そこからは伊那谷という名の広闊な内陸盆地が始まる。
ここから上流に見て取れる空の明るさと広さは、その雄大な地形の変化を予告しているのだった。
そのことに思い至ると、私はひどく感激した。
皆さまにとっては今始まったばかりの探索だが、私には違う。10年前の第一次探索を含め、ここまで歩いた竜東線はどこも深い谷底の道という印象で、こんな明るさとは無縁だった。長旅のゴールが近いことを察した。
このとき私の中では、実は竜東線だけではなく、さらに昔に探索した下流の佐久間ダム湖畔の廃道までも想起していた。
ホームに列車の到着を報せる無機質な予告音が鳴り響いた。15:17に豊橋行き普通列車がここに停まる。
その音をたった一人で聞きながら、ホームの前まで伸びてきている道路を見る。
写真奥が豊橋方向、すなわち私が歩いてきた道だ。
この道は狭かったが、駅のすぐ手前までは舗装されており、今回歩いた竜東線の中では数少ない現役区間だった。その今の道路名は泰阜村道1号金野停車場線という。栄えある泰阜村道のファーストナンバーなのである。長野県道ファーストナンバーの旧道として相応しい番号かも知れない。
もっとも、泰阜村道の終点であるこの駅だが、泰阜村の領域は写真奥にある米川の向こう側までで、駅があるこの場所は飯田市である。駅名になった金野集落があるのも泰阜村だが、駅は越境したところに設置されている。
『泰阜村誌』によれば、この金野駅は、飯田線の前身である三信鉄道の開業当初に泰阜村と千代村、それに天竜川対岸の下条村が協力して請願したことで実現した駅らしい。本来なら駅名の通り金野集落の近くに設置したかっただろうが、おそらく地勢上それができず、やむなく隣村の千代村に入ったところに設置されたようである。また、対岸の下条村も駅設置に協力はしたものの、天竜川を横断する橋が架けられた形跡がないので、利用圏とはならなかったようだ。(←悲しみ)
果たして電車は遅れずにやってきた。
ホームにいるとたぶん、「乗るなら早く乗れ」って車掌に思われるだろうから、少し遠巻きに見守っている。予期したとおり、ここでは誰も乗らず、誰も降りずず、電車はまもなく米川の向こうのトンネルへ消えていった。たちまち駅には元の静けさが戻った。数年前までは、この駅前に誰も使っていない自転車置き場があったそうだが、撤去後は真にがらんどうの駅頭になっている。寂しい。
うん、頃合いだ。
長歩きで疲れきった足も、この長めの休息で少しは回復できた気がする。
ぼちぼち、竜東線の続きを歩くとしよう。
向かうべきは、いま来た道とは逆の……
ここだな!
これが竜東線の続きに違いあるまい。
おそらく、ここへ来る人のほとんど(100%?)が金野駅を目的にしていると思うので、その先へ道が続いていることは、あまり知られていない気がする。
ましてやそれが、飯田市の道路元標へと至る大正以前の由緒ある県道だとは、思うまい。
凸るぞ!
道は天竜川ベリへ降りていくかのような、結構な下り坂で始まった。
やや草生しているが、見て取れる道幅は3mくらいもあり、ここまで歩いてきた竜東線のうち、廃道化した区間の大部分が建設当時の道幅として伝わる6尺(1.8m)しかなかったことに比べると、明らかに広い。
今なお現役の区間がその最たる例だが、竜東線の中にも明治の開通以降大掛りな改良を受けた区間があり、ここもたぶんそうなのだろう。
上手くすれば、ここから千代村までの一区間は、これまでより状況が良いかも知れない。
距離的にもたった1.2kmしかない駅間であり、歩いて移動する需要が最近まであっても、案外不思議ではないだろう。
ホームのある平場を見上げる形で進んでいくと、ホームが尽きた辺りで下り方が落ち着いて、ほぼ水平に。
まだ天竜川との落差はたくさん残っている。
あまり近づかないのは、得策だと思う。(これまでの区間でも、川に近づくと大抵ろくでもない荒れ方をしていたから…)
依然として、道ははっきりしっかりと見分けられる。
今が春先だというのも大きいだろうが、ときおり刈払いをされているのだと思う。
ますます、この区間の状況に期待を寄せる私がいた。荒れていた方が面白いなどとは、実は思っていない。面白い荒れ方なら喜ぶこともあるのだが、この道ではここまででさんざん辛い荒れ方をされてきたので、むしろ綺麗なままで残っている区間を見たいと思っていた。
なお、最新の地理院地図の道は金野駅で行き止まりだと先述したが、厳密にはこの辺りまでを軽車道として描いていて、その行き止まりはちょうどこの先だ。
気になるのは、そこから先の状況だ。
15:19 《現在地》
駅を歩き出して2分後――
なんか見えてきた。
これ、
俺、
たぶん、凄い興奮する予感がする。
いいか?
あーーーー!(歓喜)
めっちゃコレ熱い!!
おそらく大半の皆さまが、
こんな平凡な現役の鉄道橋に何を騒いでいるのかと不思議に思われただろうが、
この橋には、私を強く興奮させる理由があった。
もちろんそれは、竜東線絡みのことである。
――説明しよう。
「金野架道橋」
それがこの橋、この飯田線にある現役の橋梁の名前だった。
注目すべきはもちろん、架道橋というところ。
この橋は、昭和7(1932)年に三信鉄道の最初の開業区間として天竜峡〜門島駅間が開業した当初から存在する橋(桁は更新されているかもしれないが)であって、当時はれっきとした県道だった竜東線こと、県道満島飯田線を跨ぐために架けられたものなのだ。
この橋の存在こそは、三信鉄道が竜東線に直接手を下して不通にしてしまったわけではないということを証明しうる、極めて貴重な生き証人だと私は思う。三信鉄道は、わざわざコストが掛る架道橋を設置してまで道の往来を確保しようとしていたことを物語っている。
この橋が三信鉄道時代に作られたことは、昭和12(1937)年の全線開業時に同社が発行した『三信鉄道建設概要』にも、次のように明記されている。
――金野停留場(川合起点六四粁五分)を置き米川に沿ふて進み百三十二分の一、三百分ノ一、六十分ノ一等を以て上下し天龍川岸を北進し府縣道満島飯田線を(径間二十呎一連)にて横断し――
『三信鉄道建設概要』より
20呎は約6mであり、長さ約6mの架道橋で県道満島飯田線を横断していたのである。
昭和18(1943)年に国有化されて飯田線となった後も、そのまま橋は存在して今に至っている。
県道自体は、昭和25(1950)年にルートが大幅に変更され、ここを通る道ではなくなってしまったわけだが……。
(↑)これは、昭和26(1951)年の地形図だ。
金野駅のすぐ北側で、鉄道と道路が立体交差しているのが分かる。
ここに存在が示されている跨道橋が、そのままの姿で現存していたのである。
そしてこの地図で赤く着色したのが、県道から降格した直後の竜東線の姿だ。
これからこの道を「千代駅」目指して北上しようとしている。
チェンジ後の画像は最新の地理院地図で、跨道橋も、その先の道も、全く描かれていない。
(今の地図には描かれていないってところがまた、一層魅力的だよねッ!)
大袈裟と思うかも知れないが、感無量だった。
だって、10年歩いて(←これは大袈裟)初めての遭遇だぞ。竜東線の存在を明確に感じさせる鉄道との交差。
実はここまでにも飯田線と竜東線の交差箇所は何度もあったが、基本的に平面交差の跡には何も残されていなかった。
おそらく、三信鉄道時代には平面交差部分にも踏切が用意されていて、往来が確保されていたはずだが、飯田線となって久しい、そして何より県道が廃止されて久しい今となっては、踏切など跡形もなくなっているところばかりだった。
しかしこの架道橋に限っては、竜東線は無視されていなかった! あった!! 嬉しい!
(↑)
橋台を支える道路脇の石垣も、久々に竜東線を意識して通ろうとする人間の出現を、無言で喜んでいるかも知れない。
そんな自由な想像をして私は楽しんだ。
(→)
頭上を跨ぐこの桁も、喜んでいるでしょう。
この橋が平凡な谷川を渡るものではなかったという本分を知る通行人の登場を!
金野架道橋、潜って参る!
その先は
やぶ