国道291号清水峠 (新潟側) 第1回

所在地 新潟県南魚沼市 
公開日 2008.1.21
探索日 2007.10.7

 苦闘へのプレリュード  【第1攻略区】

 南魚沼市清水 清水駐車場


2007/10/7 6:00 《現在地》

 清水峠の北の口である清水集落は、六日町の市街地から登川伝いに約13kmほど南下した位置にある。
魚野川沿いの盆地にある六日町(現:南魚沼市)の海抜は約150m〜200mだが、清水の集落(旧:塩沢村、現:南魚沼市)は既に600mの高所である。
清水峠にとって唯一の晴れの舞台となった明治18年9月7日の開通式の御列は、式典の後この清水集落にて止宿している。
(同行の土木局長・三島通庸も、この集落のどこかで寝たのだろう…)
これから私とくじ氏は、122年前にこの騎馬車一行が通った道を逆に辿って、峠を目指すこととなる。
清水峠は海抜1448m。
彼我の距離は直線(平面上)にて約7km、国道経由(我々のルート)で地図読み約16km、最も一般的な登山ルートである居坪坂経由で約10km、戦国武将が駆け抜けた最古の謙信尾根ルートは約8kmである。



 それぞれが運転する車で前夜のうちに清水集落の登山拠点である清水駐車場に集まった我々は、そのまま車泊して午前6時に目覚まし時計と人の声で起床した。車から出ると清冽な山の空気に目は醒めて、見上げた空の透き通る青さに本日の快晴を確信した。
駐車場には昨夜はなかった車が増え、我々の他にも多くの登山者がいることを理解する。ただし、ここは清水峠への登り口であると同時に、より身近に聳える巻機山の登山基地でもある。

 私は荷物を車から降ろしながら、くじ氏と再会の挨拶を交わす。
ほぼ一年ぶりの再会だが、くじ氏の爽やかな笑顔と、穏和な人柄の滲み出る言の葉は全く変わっていなかった。
簡単に今日の行動計画を確認して、またそれぞれの準備に戻る。

 やがて荷造りが出来たお互いのリュックを見て苦笑い。
通常の廃道探索では不必要な荷物を大量に抱えてしまった。それは、夜営のための二人用テントであり、寝袋であり、クッカー一式などなど。
これでは、悪夢のようだった「粒様神の谷計画」と同じじゃないか。苦笑。
またこの大きな荷物を背負って、木々を掻き分け岩場を潜り、天地を褥(しとね)に夜を明かすこととなるのか……。

…いや違う。計画が万端に行きさえすれば、今夜の寝床は屋根のある清水峠の山小屋だ。
テント装備はあくまでも、緊急時対応ということになる。

 また、くじ氏との組み合わせでは初めての登場となる自転車も、今回の切り札の一つだった。
本日の計画を改めて説明しよう。



 【第1攻略区】

起点:清水集落(清水駐車場)
終点:追分(下分岐)
全長:3.2km 高低差:140m

 最序盤であるこの区間では、登川に沿って国道291号を約3.2km南下するもので、自転車を利用することとした。
全線が第一次探索で走破済のルートで、その逆送に過ぎないのでレポートは簡略とする。基本的には平穏な区間である。

 実は当初の計画では、我々の出発地は清水集落ではなく、追分からとしていた。
だが第一次探索によって、清水集落より700mの地点から先には一般車が入れないことを知り、やむなく出発地を下降させたものである。
数年前までこの区間は一般に開放されていたようなので惜しまれるところだが、急遽計画に自転車の投入を決定したのも、そんな事情による。
つまり、たかが3km、されど3kmというわけで、重い荷物とともに歩く距離は出来るだけ減らしたかった。
本番では、どれ程の消耗があるか見当が付かないのだから。
また、追分〜清水峠間の約13kmを踏破するのにかかる時間を、休憩込みで約8時間と見込んでいたが、午前7時から8時間で午後3時、日没は午後5時過ぎであるから、あまり猶予はない。少しでもアプローチに要する時間を減らすためにも、チャリの使用は効果的と考えたのだ。


 それでは、第1攻略区スタート。

すなわち、清水国道踏破への出陣だ!





 清水〜追分  国道の一般車通行止区間


6:18

 さて出発だとなって、各々の車の周りに忘れ物など無いかと確かめてみると、ポツンとアスファルトの上に置かれたガスコンロとその箱を発見。
この場所には…、先ほどまで「長崎」ナンバーのバンが停まっていた。
どうやら、使ったまま忘れて帰ったらしい。
私とくじ氏は、誰かが踏むといけないからと、これを隅の草地に寄せておいた。
もし帰ってくるときまで放置されていたら貰っちゃおうかなと、私はくじ氏にそう言った。
くじ氏は笑った。 (写真にも微笑みが…)

 こうして、我々は無事の帰還を誓いあった。




 重い荷物を背負って、組み立てたそれぞれのチャリに跨った。
午前6時20分に駐車場を出発。

すぐに集落内の旧国道は、国道291号に合流する。
片側1車線のすばらしい直線路で、勾配も緩やかで上りやすい道。
しかし、早くもくじ氏に異変が。
「変速が切り替わらない」と言う。

実はくじ氏、高校のころ自転車部に所属していたそうだが、この自転車も当時のもので、最近は全く乗ってなかったという。
何かメカニズムに問題が生じているようだが、彼は立ち止まろうともせず、重いギアのまま立ち漕ぎで坂道を登っていった。
さすがは、私をして「無尽蔵の体力の持ち主」と言わしめた男だ。いきなりのロケットスタートである。



 400mほど立派な道を進むと、T字路に突き当たる。
国道は右折だが、どちらへ行っても道は1車線となる。

昭和の後半に六日町の市街地より始まった国道291号の改良工事は、沿道最奥の集落清水の上端であるこの地点まで約13kmを、平成初年頃までに済ませたらしい。
当然この立派な2車線道路は、予め行き止まりを想定したものではなく、やがては峠を越える車道の復活を目論んでいたのであるが、今日の工事再開は想像しがたい。




 古い地形図と見比べてみると、このT字路から先の国道の道形は明治のままである。
まさにそれらしい緩勾配のS字カーブが、我々を出迎えた。

周囲は段々の畑や、手入れの行き届いた杉の美林などで、無雑な山村の景色である。
この狭路となった国道の目指す先には、ピラミッドのような尖った小山が、重々たる山稜の先兵のごとく飛び出して見えた。
清水国道がさかのぼる登川本流は、この山の右手に進む。
左手は涸沢川となる。




6:26

 “ピラミッド山”の裾に突き当たって、道は二手に分かれる。
写真では見にくいが、直進する国道へはワイヤーが掛けられていて、車の進入を拒んでいる。
数年前から、この6km上流の檜倉沢・本谷沢出合付近で、大規模な砂防ダムの新設工事が続いている。
現在もこの狭い道をダンプなどの工事車両が頻繁に通っており、一般車両の締め出しはこれに関係するものとも考えられる。(工事以前は解放されていた)



 写真は、この探索の13日前に同地点で撮影したものだ。
通行止を告知する標識が何枚かある。

国道291号の「自動車交通不能区間」は、ここから始まる。
清水峠まで15km、さらに群馬県みなかみ町(旧水上町)一の倉沢の通行止ゲートまで13km、合計28kmにも及ぶ、現代国道網敗北の区間である。





 ゲートから追分(下分岐)までは約2.6kmあり、全線ほぼ一定の勾配で登っている。
ゲートを過ぎるとすぐに舗装が途絶えて、工事車両に踏みならされたダートとなる。
平行する登川は、源流間近とは思えぬ谷幅を有しており、太古には氷河が形成されていたとも考えられている由縁だ。

 そして、この広々とした谷が窓となり、峠を目指す者には覚悟を強要、逆に峠を下るものには確かな達成感を与える、そんな光景が展開されている。




 13日前には自惚れるような達成感の中で、陽光を満面に受けるこの山波みを見た。
しかし、再び舞い戻った私が目にしたのは、そんな一度の勝利など無意味だとでも言いたげな、圧倒的な山塊質量。

色彩の無い山々が屏風のように遮る視界のその先に、うっすらと暁に染まる、ひときわ高い山がある。
それが大烏帽子山。清水国道がナル水と本谷の沢を超えるとき、その懐まで深入りする。
この景色の中で最も遠いあの山へ、我々は行かねばならない。
そこで進路を反転させ、さらに歩いて対岸遙か前方、鉄塔が幾本も聳えて見える謙信尾根の裏側の清水峠へ辿り着かねばならない。

 くじ氏は、持参した地形図のコピーとこの光景を何度か見比べたあと、言った。

 「マジすか。 …遠いッスね。」

  …同感だ。




 第一次探索時に、ほぼ同じ位置から撮影した写真。

すぐ前方の尾根に並んで見える二本の鉄塔は、JR東日本の幹線鉄塔で、このあと登川を跨ぎ謙信尾根を経て、清水峠付近で群馬側へ入る。
清水国道の前半戦は、この二筋の鉄塔と絡まり合うこととなる。




 しかし今回の探索計画、一応山中泊の準備はしているものの、明日8日までかかるのはイレギュラーと考えねばならない。
そもそも、岩手という遠方から参加のくじ氏にとって、明日は帰還して明後日の仕事に備えねばならぬ日。日が明けたら早々に下山しなければならない。

 それに、天気予報も本日一日での決着を、強く薦めていた。
新潟も群馬も、明日は朝から雨だという予報だった。
下山路である謙信尾根も、或いは居坪坂も比較的よく整備されているが、登川や本谷を渡る箇所に橋がないことは不安事だった。

 朝日が山肌に本来の色彩を与えはじめた。
今日一日だけが、最高の探索日和として我々に与えられていた。




 「第1攻略区」の道のりをただの通過路&足馴らしと考えていた我々は、基本的に立ち止まること少なく、それぞれのペースで漕ぎ進みつつ、カーブの先に「追分」が現れるのを待っていた。
ゆえに、写真もほとんど撮られていない。(この写真は第一次探索時)

 これから先の廃国道を考えないならば、既に一級品の“酷道”と言っても良いだろう道のり。
未舗装のか細い道が、険しい山腹に沿って幾度も蛇行しながら、徐々に高度を上げていく。
残念ながら、酷道ファンを喜ばせるような“おにぎり”は見あたらないが、デリニエータに明朝体で「新潟県」と書かれたものが、数本残っている。
眼下には「登川上流砂防ダム」が広がり、その巨大さは砂防ダムの範疇を超えた存在に見えた。





 追分  ここからはじまる廃国道


6:43

 出発から25分弱で、「追分」の地名で各種案内板などに書かれている地点へ辿り着いた。
ここには、ハイキングコースの目印となる標柱が建っており、見逃す心配はまず無い。
逆に言えば、この標柱がもし無いとしたら、とても国道がここで分岐しているのだとは、気付かないかも知れない。

 標柱の内容に注目。
直進の道に対しては「↑ 清水峠 ↓ 清水集落」であるが、他面に左上向きの矢印とともに「国道291号線(この先通行止)」という記載がある。


 腐っても国道というべきか…。
完全に見捨てられているのではないのだろう。



 だが、この“草道”が国道だというのは、いささかシュールすぎる。

世の中には、国道指定を受けていながら登山道レベルという道や、そもそも指定路線さえない「未開通国道」というものが、結構ある。

しかし、清水峠にはちゃんと元となる車道が存在するから、未開通というのとは全く異なる。
あくまでも開通していて、指定された当時は車道が厳然と存在したにもかかわらず、その後に自然の圧力に屈し、行政が道を維持できなかったのである。
ならば「廃道」の手続きをとって、現役の登山道を替わりに国道としても良さそうなものだが、どのような経緯があってか、未だ国道であり続けている廃道。
それが、清水国道の新潟側である。

 さて、我々はここでチャリを乗り捨てた。
乗り捨てたチャリは、近くの草むらの中に並べて隠しておいた。明日帰りに回収するのだ。



 国道の入口に立っている「クマ注意」の標識の支柱を見ると、それは鉄塔巡視路の案内板であった。
これと同じデザインのものを、第一次探索でも非常に沢山見ている。
群馬側の清水国道沿いにも無数に設置されていたからだ。
それゆえ、「この道も前回の道と同じ道なんだ」という親しみを、ほんの少し感じた。

もっとも、巡視路は国道をただの“足掛かり”にしか考えていなかった事を、私はすぐに思い知るのだが。








 ここから始まる廃国道。


決戦の火蓋が、いま切って落とされた。






第1攻略区 完了。
清水峠まで のこり13.0km。