国道291号清水峠 (新潟側) 第8回

所在地 新潟県南魚沼市 
公開日 2008.2. 9
探索日 2007.10.7

 清水国道 稀人の夜営 

 檜倉尾根〜ナル水沢源頭


2007/10/7 15:27

 今日はナル水沢まで進み、明日朝から行動を開始し峠を目指す。
冷静にこれまでに要した時間と前進できた距離を考えれば、それが峠を目指す上での現実的な唯一の選択肢であったろうが、現地での我々はこの期に及んでなお、本日中に本谷沢まで進むことを諦めていなかった。
二人とも、「この先の道が意外にも歩きやすくて本谷沢まで着けること」を、まだ期待していた。
期待せざるを得なかったと言ってもいい。
なぜならば、明日に計画を残せば残すほど、リスクが飛躍的に高まるからだった。

 明日の天気予報は100パーセント雨。

その事実は、重かった。
そして、怖かった。
雨が、我々二人の退路を断つのではないかという恐怖。
攻略失敗は甘んじて受け入れたとしても、遭難だけは絶対に避けなければならない。

 本谷沢と檜倉沢という、非常に大きな谷に挟まれたナル水沢。
果たして想像を超える豪雨が発生した場合、進退窮まれる事態が起きやしないか。
本谷沢まで晴天のうちに進んでしまいたいというのは、攻略完遂のみならず、生還を確実のものとするためにも適えたい望みだったのだ。




 しかし、この日ばかりは奇跡から見放されていた。

奇跡なんて、そうそう起こるはずもないのに、私とくじ氏はいままで、失敗をほとんど経験したことのないコンビだった。

期待を越える何かがいつも、いつも我々の前途に待ち受けていた。

何かが起きる。

期待して期待して期待して、ただひたすらに痺れる足を引きずった。
自分でも、足がもうよた付き始めているのを感じていたが、進まねばならない。




 過酷な前途に、ときおり現れる歩きやすい場所。

しかし、決して長く続くことはなかった。

また、あらゆる石垣は突き崩され、残骸は炭焼窯の形をとって死滅していた。
そこに先人の苦労を慮る余裕なんてもう無い。

今日一日歩き通して、見つけたものは石垣と橋台一基のみ。
清水国道は、ひたすらに長いだけの藪道だったのか。
そんな感想のままで終わるなんて、信じられなかったし信じたくなかった。

だが、ほとんど全く利用されず、発展性も無く消えていった明治道という真実は、その広大な路幅とごく僅かな石垣以外に、過大な期待をする方が誤りだった。

そのことに気付くのに、時間が掛かった。




15::55

 地形図ではこの辺りに標高点の記号が1228mの標高と共に描かれている。
現地は何もない、強いて言えば藪が特に深いというだけの、左カーブだった。

これ以降、道は本谷沢に面するのをやめて再び峠に背を向ける。そして、ナル水沢の谷頭へ向けての長い迂回が始まる。
ナル水沢を渡る地点までは、地図上で約800m。
同じような地形にあった檜倉沢での苦戦から、この先も苦戦が予想された。




 案の定、何度も道は崩れ落ちていて、その都度足元の全く見えないブッシュを泳ぐように下り、また這うように道へ復帰する事を繰り返さねばならなかった。

二人は、もはや言葉を交わすことも少なくなり、ただただ目の前に現れる障害に、機械的な対処をしていった。
二人の体力は無尽蔵ではなかったが、残り1時間半で日没という現実は、足を止めることを許さなかった。
逆に言えば、あと1時間半頑張れば、この体のスイッチを切ることが出来る。

…いま踏ん張らなければ、どうにもならない。


しかし、本当に地獄のような藪道である。
アメとムチならまだいいが、ムチのみ絶え間なく振るわれ続ける。
この背中のばかでかい荷物さえ無ければ、まだ良かったのに。
1000回くらい同じ事を考えたが、もう全く、っぜんぜん、遅かった。
ここまで救いのない藪が、最初から最後まで全部続くだなんて、考えていなかった。
それが分かっていたなら、別の方法で攻略を目指しただろう。




 一見路面のはっきりした道。

しかし、道一杯に草が生い茂るブッシュの何十倍も辛かった。
雪崩や多雪がそうさせた真横に向けて育つ木々は、一本一本が全て進路を妨害していた。
10m進むのに、最低5回はそんな木を跨ぐか、潜るか、とにかく全身運動で対処しなければならなかった。
そして、これが清水国道の最も典型的で代表的でありがちで、長時間相手をしなければならない道路状況だった。

チェーンソーですべて切断しながら進んだとしたら、どんなに気持ちいいだろう。
その道幅の広さゆえ道全体が完全に消失してしまっている箇所は意外に少ないので、真横に育ってしまった木を全て駆逐したなら、またたく間に道が復活してくるのかも知れない。
もっとも、一帯は国立公園に指定されているので、勝手に木を切ってはならないだろうが。




 特徴的なとんがり頭を持つ大烏帽子尾根が、谷の向こうに見え始めた。

そこには、等高線よろしく一本の道が見えていたが、どう見ても明るいうちに辿り着けそうにない。
本谷沢などは、このさらに向こう側だというのだから馬鹿げている。

夕暮れの色が、山全体を急速に包み始めた。
これ以降、「本谷沢まで行きたいな」などと夢を口にすることは無くなった。

それどころか、明るいうちにナル水沢まで行けるかどうかさえ不安になってきた。




 対岸のとんがり頭はいつまでも近づこうとしなかった。
急激に赤みを増していく風景に、焦りを隠せなかった。
この辺りからはほとんど写真を撮っていないが、別に撮りたくなるような被写体も無かった。


 奇跡なんて、起こらない。




 どこまで行っても、幅の広い道の跡は続いていた。


一般国道291号だという。

何が一般国道だろう。


この付近でも法面の岩盤に、削岩機の刻んだ円筒形の掘削痕を見つけている。





 トライフォース?




16:48


 あーー。





16:51

  日が、落ちる……。


「 くじさん。  明日も晴れたらいいな…。 」

 「 だすな。 」


明日の朝の再開を願いつつ、我々は10月7日の夕陽を見送った。

日中ずっと歩き通して、まだ峠まで3分の1を残すという現実。
清水峠の、人跡未踏とされる由縁を、身を以て体験中。




 前を行くくじ氏が、いきなり立ち止まってこう言った。


「 あそこ、道あるすかねー? 
 辛そうだなー。 」

 くじ氏のこの台詞。
山で一番聴きたくない台詞だった。
彼が一目見て難しいと思うような場所は、大概が札付きの難所。

 なぜか私は、彼が指差した先を撮影しなかった。
もううんざりだった。この期に及んで進めなくなって撤退なんて、考えたくなかった。




 ナル水沢の接近を最初に感知したのは、路傍の底知れぬ草むらの下から滝の音が聞こえ始めたことだった。

それから間もなく、ナル水沢は現れた。

鳴ル水  …すなわち、滝の連なる連瀬の急湍。

名前の通りの沢が、眼前に現れてきた。
と同時に、清水国道が丸一日の探索の果て、初めて今までと異なる表情を見せてきた。
実は、こんな感じの岩場を通って滝を巻くルートは群馬側に何箇所かあって、いずれも登山道上の難所なのだが、いままで新潟側で遭遇した沢は東屋沢も檜倉沢その他諸々、どれも穏やか目な沢だった。
新潟側では、本谷沢の険しさが地形図からも容易に想像されたが、その前衛を成すナル水沢もまた、滝の連なるV字の懸谷であったのだ。




17:05

 ナル水沢に到着。

幸いにして、沢に達する最後の岩盤地帯は路幅こそ狭かったが、地山が堅固であったのか、完全にその形を保っていた。
故に、労せず徒渉地点へたどり着くことが出来た。
当然のように橋の痕跡は一切無い。

 実は、上の写真の位置から道は見えず、猛烈に迫り上がってくる滝しか見えなかったから戦々恐々としていたのだ。
もしここで道が谷に消えていたら、とてもじゃないがこの滝谷を渡ることが出来ない=水場に辿り着けずビバークする羽目になると。




 見れば見るほど、ここに道が残っていたことが既に奇跡だったように思われてくる。
清水国道の徒渉地点より下流は、数段の滝が方向を変えながら幾重にも落ち、路下の崖は一気に30m近い高度を得ている。
しかも、それは今までの清水国道がほとんど見せなかった、白い岩肌。
牙。

 清水国道に奇跡なんて何もなかったとうそぶく我々。
しかし、今この景色を見れば、清水国道を突破できる技量を持たなかった我々が最悪の事態を避けられたのは、この場所に谷底までちゃんと道が付けられていたからなのだ。
ここに道がなかったと思うと、今でもゾッとする。

 そして、この谷底から5mだけ進んだ藪の中に、…それは国道291号の路上だったが…、我々はテントの設営を決定した。
17時7分、我々は12時間ぶりに背中の荷物から解放されたのだった。

 滝の音の反響するナル水沢に、初日の旅を終える。




 清水国道  稀人の夜営 


17:10

 我々が野営地としたのは、ナル水沢とその枝沢との間にある小さな尾根の上の道路敷きだった。
国道上で堂々と寝ようというわけだ。
炊事場となるナル水沢は水量が十分に豊富で、飲用する上でも清澄さに何ら不安を感じることはなかった。
現に、その味は市販されている「谷川山系の水」に匹敵するものがあった。…ような気がする。

 取りあえず安心できそうなテント場を得て文字通り肩の荷を下ろした我々であったが、私はまだ明るい時間が少し残っているうちに、明日の心配事をやっつけておこうと思った。
すなわち、先ほど対岸にくじ氏が見たという「辛そうだなー」の難所を、この身軽な状態で確かめてこようと思ったのである。
このまま、明日の出発後すぐに未知の難所が控えているという状況では、心安らかに眠ることは出来ないと考えたからだ。
テントの設営準備をするというくじ氏と別れ、一人荷物を何も持たず、明日のルートを少しだけ先回りすることにした私。

 この行為が、予期せぬ旅の結末へと結びつくのであった……。




 大荷物から解放されたことで、私は驚くべき身軽さを実感していた。
まさに枷から解き放たれた囚人である。相当な足の疲労さえ忘れていた。
相変わらず背丈よりも深い灌木帯が、小さな尾根を巻く岩場の道にもびっしりと続いていたが、ことさら開放的な気持ちになっていたこともあり、これは難なく突破した。

野営地から100mほど進むと、袋小路になった枝沢の徒渉地点が見え始める。
こちらはナル水沢と違って岩場ではなく、土の斜面に囲まれているようだ。別に問題はあるまい。




 V字型に切れ込んだ谷底を、膨大な量の岩塊が埋めていた。
周囲は土の斜面で、かなりの急傾斜だ。
水は流れておらず、雨裂に近い沢らしい。
両岸共に土が露出していることからも、いままさに激しい浸食作用に晒されている最中であることが感じられた。
当然のように橋は一切の痕跡を留めていなかった。

 早々に渡って、その先へ進もうする私。
対岸の草が生い茂る土斜面に、食らいつく。



あれ?
 登れないぞ。

うそ?
 登れない。
ホントに?

 ニヤニヤしながら二度と挑戦するが、いずれも草付きの下に隠れた土斜面に足掛かりが全くなく、背丈以上に登ることが出来ない。
三度目は冷静になって、じっくりと斜面の緩やかそうな場所を選んで取り付く。
濡れた土の斜面には、いままさに谷底へ転がり落ちようとしている岩塊が多くあって、体重をかけようとすると容易く落ちてしまう。
替わりに体重をかけるべき植物も、全くと言っていいほど灌木が無く、根の浅い雑草ばかり。とても体重を支えられない。
…まったく手も足も出ない。

 見えている。 次の道は見えている。

5mほど上部の、木の生えている箇所が平場なのは、下から見て取れる。




 四度目には少し大きめに滑り落ちて、私はゾッとした。
滑り落ちる度に、斜面はより平滑なものに変わっていった。

あたりも急激に薄暗くなってきた。
これ以上、墜落を前提とした挑戦を続けていれば負傷の畏れが高いと考え、志半ばでテント場へ戻ることにした。

これで、初日の探索の全てを終える。

翌朝行程の冒頭に、異常なまでの不安感を抱きつつ…。




17:39

 テント場に戻って、協力して小さな二人用テントを設営し終えた頃には、もうあたりはすっかり暗くなっていた。
久々の山中の夜営である。
一人でなくて良かったが、それでもやはり心細い。
なんと言っても、この夜が明けるまでは決して移動できない場所に我々はあった。
周囲は断崖絶壁と急峻な藪山ばかり、闇の中で彷徨えば命を取られる。
あとは大人しくテントに籠もって、この恐ろしい夜闇の過ぎ去るのを待つより無い。
地底の暗さは慣れたし、今では安らぎさえ感じるというのに、夜の闇は今でも怖い。 特に、山では。



 手際よくソーセージカレーを作るくじ氏を頼もしく思いながら、ここまで重い思いをして運んできた食料を一食分たっぷりと平らげた。
何を食べてもさほど旨いと思えなかったのは、先ほどの思いがけない撤退劇が、試験前夜のようなプレッシャーを私に与え続けていたからだと思う。



 食べているうちにも、どんどんあたりの空気は冷を帯びてきて、片付けもそこそこに二人は夜風を凌げるテントの中へ転がり込む。
くじ氏との夜営は、粒様神の谷での大雨の中でのそれ以来。
あの夜は、本当に生きた心地がしなかった。
だが、思い出話に花を咲かせるほど元気でもなく、寝袋にくるまって並んだ二人は今日の辛かった行程を振り返り、明日の晴れを祈り、起床時間を確認して、最後に、これは言うべきかどうか迷ったが…先ほど撤収してきた、このすぐ先の枝沢の登攀困難を告白し、「くじ氏ならば大丈夫だと思う」とだけ付け加えて、…あとは黙った。

 まだ午後7時頃だったと思うが、二人は重い疲労感に引きずられるようにして、一度目の睡眠へとすべり落ちた。







 無闇に長い夜だった。

 一晩で何度目覚めただろうか。
私が最初に目覚めたのは、確か時計を見て23時くらいだったと思うが、カサカサガサガサという、テントの外を何かが撫でる音に起こされた。
獣が周囲をうろついているのではないかという恐怖に駆られたが、やがてそれが風の悪戯であることに気付く。
起きたついでにトイレをしようと外へ出たとき、風がかなり強くなっている事を知った。
テレビの砂嵐に近いような抑揚のない滝の音に混じって、風が笹の葉や木の葉を擦り合わせて鳴らすサーというノイズが混ざる。
見上げた空には、プラネタリウムのような満天の星空があった。下界の方を眺めてみても、一切光を放つものは見えなかった。
ほんの5分ほどだが、テントから顔を出して星空を見上げて、この晴天が朝まで続くことを祈った。

 次は何時だったろう。
目覚めた私はテントから顔だけ出して、星を数えようとした。
しかし、星は斑に見えただけだった。そして、ひときわ明るく見えた月の周りには、ボウッと輝く大きなガスの輪が見えていた気がする。
雲が出はじめていた。


 午前2時に目覚めたときには、星も月も消えていた。
隣のくじ氏も頻繁に目覚めているようで、二人は何度か言葉を交わしあったが、すべて天気に関する事だった。

 午前3時、最悪の音で目を覚ます。
ポツポツ ポツポツ…
テントを叩く、小さな水の滴。
「降って来ちゃった…」 そう呟く私に、くじ氏の応答はなかった。
以後も、10分おきくらいに目が覚めて、その都度寝返りを打ったり、結露に濡れたテントの壁から少しでも濡らしたくない荷物を遠ざけたりした。

午前4時、雨は目覚める度にその強さを増していた。
風は止んでいた。
頭上の木の葉がまとめて落とす滴が、パンッとテントに弾ける音が聞こえてくる。
雨は、既に本降りだった。
あ〜〜〜〜あ。
今日の雨はもはや揺るぎのないことを起きるでも寝るでもなくいた私は理解したが、同時にヤキモキすることも無くなって、それからアラームがけたたましく鳴るまでは、目覚めることがなかった。




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 10月8日 雨の朝 


2008.10.8 5:52

 5時50分のアラームで目覚めると、辺りは仄かに明かるくなっていた。
夜半から降り始めた雨は今や本降りとなっていて、重苦しい雲が空を覆っていた。
しかし、取りあえずは危険な夜をやり過ごせたことを喜んだ。
行動開始だ。

 まずは水汲みに滝へ降りる。
水はまださほど増えていなかったが、全山が静かな雨に濡れていた。
意外に雲は高く、さしあたって嵐の危険は無さそうだ。これは秋霖と呼ぶべき雨だろう。
気温もさほどは下がっていない。
とりあえず、前進を最初から諦めるような天候ではない。

 今日は、昼までに下山しなければならない。
全ての行動に、時間的な猶予はなかった。



 干し椎茸をたっぷり入れたくじ氏自慢の味噌ラーメンを、流し込むように食べる。
今思えば、国道上で野営するという楽しい体験だった。




 明るくなって気付いたが、ここからも峠の鞍部の方翼ははっきりと見えていた。
肩に乗った赤い屋根の山小屋も、尾根を渡る幾つもの鉄塔も、皆見えていた。
そこは、我々にとって唯一の栄光の場所である。

行きたい!
歴史に名を残せるかも知れない!
そんな野心と無縁では有り得ない、清水国道の13km。
ここからはほとんど高低差も無いのだが、残る道のりは4kmもある。

左手前の斜面に沿っては、この先の道らしい感触も見て取れるが、昨夕撤退した場所を越えねばあそこへは行けない。

 



6:34
 テントの撤収と荷造りを進める。

一晩寝ただけだが、無事に夜明かしをさせてくれたこの場所には、もう愛着を感じるようになった。
水近く、風穏やかで、見晴らしよく、褥柔らかい、素晴らしい野営地だった。
路上にも我々の寝汗が染みこんで、少しだけ道にあるべき人の息吹を取り戻したように感じられた。
120年ぶり? そんな人の匂い。
この地点と、3m離れたナル水沢との間だけは、2日の間に20回以上も踏みならされて鮮明な道の形さえ現れた。

 清水国道と我々の、根比べ、力比べという交流。
このナル水沢は、その終着地だった。



6:39 

 濡れた靴を履いて、幾分軽くなった大荷物を背負い、2日目の前進を開始する。


出発時にあるべき爽快感は、ほとんど無い。
いきなりにして、この濡れた草むらを自らもびしょ濡れになりながら掻き分けねばならないのだから当然と言えるが、それ以上に気持ちを重くしていたのは、昨夕の撤退地の事。
一晩中頭から離れなかった。
まして、この雨で土の斜面は濡れているはず…。



 ナル水沢付近から枝沢までの100mは、荒々しい岩場の道である。
もし丁寧に路面を刈り払えば、そこには明治当時の道形が恐ろしく綺麗に顕れてくることだろう。
もしかしたら何か…地蔵であるとかが埋もれている可能性もゼロではない。
想像するとワクワクするが、そんなことをする有志が集うことも難しかろう。
ここは、清水国道全線のうちでも、かなり近づきがたい場所。
特別な技術でナル水沢を登れればその限りではないかも知れないが、通常ならば丸一日藪を掻き分け続け、それでようやくたどり着ける場所である。
また、もし仮に峠側からここを目指すとしても、そこには本谷沢が立ちはだかる事になり、ナル水沢こそが清水国道で最も稀人な場所かも知れない。




6:45

 ダメだった。

やっぱりダメ。
ここは登れないのだった。
くじ氏曰わく、こういう土の斜面を登るための道具もあるが、その準備はないという。
簡単に登れそうに見えて、実は生身の体ではかなりどうにもならない斜面なのだという。

…崖のプロがそう言うのならば、仕方がない。

ここは諦める。
迂回だ。




 くじ氏は、たった一度斜面に取り付いただけで無理だと判断した。
私は昨夕の4度の失敗があるから、濡れてより困難となった現状で挑戦することも無かった。

 今日は時間に猶予が無い。
清水峠の山小屋で野営するのが当初の計画であって、ナル水沢でのビバーク自体が大きな計画の遅れであり、アクシデントなのだった。
そして、この時間的猶予の無さは、引き返す決断を下したにしても直ちに解消されるものではない。
昨日丸一日かけてここまでやって来たのを、今日の半日だけでどうやって下山するのか…。 それは大きな問題だった。
前進を試みる姿のように精彩は無いが、家族と会社を持つくじ氏にとって、時間通りの決着は放棄できない問題なのだ。
私も、そのことはよく理解する。
進むにしても、引き返すにしても、決断に時間をかけることが出来ない。そんな2日目だった。

…壊れていく。

志した完全攻略への道が、どんどん壊れていく。
可能性という扉が、つぎつぎ閉じていく。

時間もない。
道もない。

谷を下る迂回に全てを賭けるが、それは一気に谷底へと落ちていく、息の詰まる道だった。




 本領発揮とばかり、V字に切れ込んだ枝沢の底をサルのように降りていく、ほっかぶり姿のくじ氏。
彼は沢以外も沢靴で歩く猛者であるから、こういう場所では特に強い。

トレッキングシューズの私は、濡れて滑る岩場におぼつかない足取りで、かなり遅れてしまう。
それでも、どうにか着いていく。

 向かって左の岸辺を上って、清水国道に復帰したいのに…。

最初たった5メートル頭上にあった道が、谷を1m下る度に2mずつ離れていくような、虚しい展開。

恨めしげに見上げるも、やがて分厚い岩盤と鼠返しのような草付きに阻まれて、道は見えなくなってしまった。




 静かな雨が降り続く中、滝の連なるナル水本谷に出合う。
枝沢を50mほど下った地点である。
ナル水本谷は、相変わらず清澄だった。
そしてさらに、ナル水沢を下降することにした。


 実はこのとき、我々は二兎を追っていた。
一つは言うまでもなく、この左岸から清水国道への復帰の道を探ること。
そしてもう一つは、ナル水沢を1km下降することで居坪坂ルートへ脱出すること …すなわち撤収である。

前進と撤収、栄光と挫折の両方を、
このナル水沢に託す。




7:02

 ナル水沢は、おそらく岳人たちの遊び場である。
私のような、平場に生きる人間の範疇ではない。

この谷を1km下れば正規登山道である居坪坂に達するが、その高低差は250mもある。
行く手の谷底は見えなくなっており、そこが相当な急傾斜であることは、ここからでも容易に想像出来る。
そこを素人が無装備で下降できるはずなど無かった。
居坪坂の登山道を歩くと分かるが、ナル水沢は最後も滝となって本谷に落ちるのだ。


やがて、先に行って偵察中のくじ氏が、大きな岩の上で立ち止まる姿を見つけた。
近づくと彼は言った。

 「これは危なくて下れないすな。」

「 ……。 」






くじ氏が立ち止まる先を覗き込むと、20mほどのナメ滝がスラブの底へと落ちていた。


無理だった。

悔しさに涙が出てきたが、清水国道へ復帰出来るルートは、寸毫も見出せない。




最後の景色を目に焼き付けたくて、怖々と、滝の先端にへばり付く。

そして、撮影。

向かって左の斜面の上部に清水国道はあるのだが、もう見えない。
その一つ向こうの低い尾根が居坪坂ルートのある居坪坂尾根。
奥の鉄塔が並ぶ大きな尾根が、謙信尾根だ。
この僅かなナル水沢下降で、かなり高度を下げた事が分かると思う。
出っ張って見えるのは、大源太山。
我々の地を這う死闘を、二日間見届けた山。

7:08

清水国道前進を断念。

撤収開始。



ナル水沢(8.8km)から100m清水国道を進んだ地点の枝沢が越えられず、
沢を200mほど下った地点で前進を断念した。

二日間で合計13時間清水国道を歩き、8.9kmをほぼ忠実に辿った。

残りは廃道区間が3.7kmほど。
峠までだとちょうど5kmほどである。


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