道路レポート 山口県道60号橘東和線 和佐狭区 第3回

所在地 山口県周防大島町
探索日 2019.12.24
公開日 2020.07.23

非凡と平凡の狭間に立つ道


2019/12/24 15:38 《現在地》 

入口から約300m……峠までおおよそ4分の1を登った地点で、思いがけないものを見つけた。

それは、何者かを乗せてきたであろう1台の車だった。
傍らには、今日この島に足を踏み入れてから飽きるほど見たみかん畑があった。
初めて沿道に生きた目的地を見た。
路上の車は、集落からこの畑へ通う足であり、同時に収穫物を運ぶ道具であろうという、全く意外性のない推理がもたらされた。



だが、このように小さな三輪自動車は初めて見る気がする。
あるいはこれまで目にした膨大な景色の中にも写り込んでいたかもしれないが、一度も意識を向け試しがなかったか。
今回、この恐ろしき狭路県道が立派な多車線道路に見えるほどの、まさにこの主要地方道のためにあるような姿に興味を引かれ、初めて注目した。

普通に道を通りがかる動きで近づいて観察すると、それは小さなガソリンエンジンを登載した三輪の自動車であり、一人乗りの運転台と1m四方ほどの荷台からなる、風通しの良い車だった。
いわゆる小型特殊自動車に該当するものと思うが、ナンバープレートはない。

帰宅後に調べたところ、本機のメーカー名などは分からなかったが、農機具の一種で、運搬車と総称される種類の車両であることが分かった。
特筆すべき特徴は、車体の小さいことだろう。
通常の軽トラックが決して走行出来ないような狭路を走行できるように設計されており、山間傾斜地に点在する果樹園の仕事に最適化された車両といえるだろう。



この車も乗り捨てられたものではなく、おそらく近くの畑に主がいたはずだ。
しかし目の届く範囲ではなく、話しを聞くことは出来なかった。まあ、もし車について質問ができたとしても、この地方の仕事に密着した当然の車両だろうから、逆に訝しがられるだけだったかもしれない。

それにしても、こうやって路上にある姿がなんとも愛らしい“自動車”である。
入口に掲げられていた【最大幅1.0m規制】に対しては、これまで内心では、あまり深い意味がない、ただ単に四輪車あるいは自動車全般を排除するための方便のような数字であると思っていた。

だが実際は、ちゃんとこの数字に根拠があって、全幅1m以下の利用車両の存在を念頭に置いた規制だった可能性が高くなった!
そのことが、私にはとても楽しいことに思われた。
ありきたりな【車両通行止の標識】では満たされない需要が、周防大島の主要地方道橘東和線には存在していた。

この道は、よくある思考停止系の廃道や狭路ではない!




この道がここまで維持されてきた目的といえる沿道利用者が、少なくとも一人はあることが判明した。
それゆえに、道はここまで塞がれることなく、穴が開いたところも修繕される必然があった。
当然、修繕は県が負担したはず。ここは県道なのだ。
幅1mまでの車両と歩行者に広く開放された真っ当なる県道!

そのことへの確かな誇りと安堵を胸に、峠まで残り約1kmの登坂を再開した。

この落葉、積もりすぎじゃない?

みかん畑を過ぎた直後に現われた可愛らしい切り通し。
そこには落葉が、自転車のペダルが隠れるほど溜まっていた。
ここまでも落葉や土で路面が見えない場所はあったが、さすがにちょっと溜まりすぎなような……



切り通しを出たが、相変わらずの落葉道。

あれ?

あれれれれ……

大丈夫だよね?




この周りもみかん畑だった。

しかし、先ほどの畑とは違って、みかんの木が雑木の樹海に没しつつあった。
それでも小さな烽火のように色づいた果実が、ぽつりぽつりと実っていて、他の畑と同じように収穫を楽しみにしているように見えた。
それこそ、路肩から手を伸ばせば容易に届くような位置に……。



問題は道だった。
最初から間違いなく良い道ではなかったのだから、“みかん畑”以奥で、そう大きく変ったというわけではない。
すくなくとも、道の構造の部分では変わりはないと思う。



ただ、私の膚(はだ)は、感じている。

“みかん畑”に敷かれていた、境界線の存在を。

“切り通し”で、その線を跨いだという確信があった。

ここも、以前にもあったような落葉と土に埋もれた舗装路であり、傍らには目立つように赤く頭を塗られた「山口県」の境界杭が突き刺さっていた。
確かに県道の続きであって、廃止されているわけでも通行が禁じられているわけでもないだろう。
なにせ、ここまで一度も道路管理者によって通行を阻止された覚えがない。

しかし、ここにはさきほどまであった“運搬車”や、もしかしたらグーグルカーのものも混ざっていたかも知れない深い轍が、なかった。
轍の消えた道は、私の中で廃道と呼ばれる存在と何も違わない。




15:43 《現在地》 

確定。

廃道です。

車を見たみかん畑から約150mの地点だったが、太いマツの倒木が道を塞いでしまっていた。
数日以内の障害物では間違いなくない。
さらに、その直前の路肩はアスファルトが崩れていた。
それほど古くなさそうなアスファルトだったが、陥没したように崩れていて、そのまま修理されていなかった。

残念ながら、2014年3月時点では、乗用車型のグーグルカーが通り抜けたとみられる幅1m制限がある県道だが、6年近く経過した今日、既に乗用車で通行することは出来ない状況になっていた。

私は悲しかった。



私は、廃道が好きであるから、この状況の悪化を歓迎したと思われるかも知れないが、今回に関しては逆だった。
正確には、廃道状態であること自体は楽しいと思ったが、その喜び以上に、この道のおそらく最も稀少であった部分が失われてしまったことが、残念でたまらなかった。

この県道は、2014年3月時点では、本当に奇跡的なバランスの上に存在していたと思う。

  1. 最大幅1.0m規制があるが、通行止めではない。
  2. 行き止まりではなく、自動車の通り抜け可能な区間である。
  3. 主要地方道の現道である。

このうち1の条件は激レアで、2と3と組み合わされているものは、おそらく全国でもここにしかなかった。
そのことの証明が、グーグルマップに平然かつ歴然と描かれた“青い線”(ストリートビュー撮影済みの証しであり、通行止めではないことの証しでもある)であった。

今回の探索では、私がグーグルカーに先を越されたことを悔しがったと推測するコメントを頂いているが、確かに事前調査の段階ではその通りだった。しかし、区間内で撮影されたストリートビューを2箇所ほど無作為に見た瞬間(全部見ることはしていない)に、むしろグーグルカーがこんな狭い道を撮影していたこと、イコール、【こんな珍奇な標識】から始まる県道が、自動車で通行出来る状況で解放されているという事実に、強烈な歓喜!!!――道路界のSSSRを引いたような――を覚えたのだった。

だ  の  に  ……。




これでは“いつもの廃道”じゃないか〜!(涙)


なぜ、山口県が、この状態でこの道を開放しているのかは、新たな謎だけどな(笑)。




凄まじい、緑の勢いだ!

垂れ込めた蜘蛛の巣に頭を低くして通り抜けたトンネルを、振り返った。

これが、毎冬の積雪によって完全リセットされることなく拡大していく、南国の草藪というものだろうか。
2014年までは曲がりなりにも自動車が通り抜けた道が、緑に掻き消えるのも時間の問題か。
これでも舗装があるおかげで、相当にマシな状況ではあると思う。路外は完全なるグリーンヘルと化している。




廃道には転落したが、幸いにしてまだ凡庸の海に沈み切ってはいなかった。
コンクリート壁に両側を閉ざされた、見通しの極めて悪い曲がりくねった狭路の連なりは、ドライバーの悪夢を実現したような、この道の在りし日の景色を留めていた。
ここは本当に逃げ場のない狭路であったが、印象の面において、視界を遮る雑草の存在が、風景を穏便にしていた。

この道が、かつてどれほどに印象的な“狭路”として、この地に存在していたかについては、私のレポートではとても伝えきれない!
この期に及んで、もう決着はついた。白旗を上げたい。そうして伝えたい。見られる環境にいる方は見て欲しい。ストリートビューに記録されている在りし日の姿と、その優れた眺めを。

もう一度、甦ってくれないかな…。




上の地点は、片側が完全に開けていて、眺めが良かった。

私の写真では、強烈な西日と海上の霞のために見えないが(肉眼でも見えなかった)、日によっては、小さな島々が疎に浮かぶ大きな海の後ろに、黒く棚引く四国山地が見えるのだ。

私はその景色を見られなかったが、かつてドライバーを苛烈に攻め立てたこの道も、一つは褒美を用意していたことを知って、救いを感じた。
まあ、本当にこんなところで対向車が来たら終わりなんで、車を駐めて景色を見るなんてことはなかったと思うが……。



欠壊は、1箇所だけではなかった。
まだ完全に道が欠けたところはなかったが、小さな欠壊は何ヶ所もあった。
おそらく、この道が今のように荒れてしまったのは、ある一度の災害に大部の原因がありそうだった。徐々に崩壊が進んでいると考えるには、期間が短い。

また、道が荒れる直前の状況を想像すると、道幅が2m未満の部分が大半とみられるほどに狭く、かつ待避所がなく、カーブミラーと道路標識もないことを除けば、舗装や法面保護といった道路構造の規格面については、案外にしっかりしていたようだ。

ここまでの写真でもふんだんに見えているが、切り立った路肩や法面の多くが、コンクリートブロックでしっかりと固められていることに気付く。
だから、世に多くある不通県道のように、ほとんど改良されず放置されてきたわけではなくて、あくまでも幅1mまでの(主に)農耕用運搬車が安全に通れるような道路の維持が、それなりに積極的に進められていたのだと推測できた。

私が普段考えもしないような種類の車を念頭に置いた道路整備が、全国に連なる幹線道路網の一員であるべきこの主要地方道で秘かに進められていたという想像は、なかなか楽しいのではないか。




変わり身の早い島


2019/12/24 15:50 《現在地》 

入口から約700m、峠までちょうど半分来たところで、落葉に埋れた路肩に転落防止柵のような鉄製の棒が現われた。

近づくまでに正体が分かった。
それは、モノラックと呼ばれる運搬路の軌道(というと必要以上に萌える)だった。
傾斜地にある工事現場や林地、さらには果樹園での普及が近年著しい、モノレールタイプの自走式運搬装置であり、皆様もどこかで見たことがあるだろう。

この装置自体は島内でもしばしば目にしていたので、意外性のあるものではなかったが…。




廃線である。

まあこのことも、この道の現状、さらに昨今の過疎化する島の現状を踏まえれば、意外性はないと思うが、猛烈な藪の海に自ら呑み込まれに行くような細い軌条は辛そうで、憂鬱な気持ちになった。

この行く先にも、かつて島民が手を掛けて育てたみかん畑があったのだろう。
みかん畑は、いつも太陽の光を浴びて明るくなくてはならないものだ。それは農業的な能率についての意見というより、私の素朴なイメージであり期待だ。

果樹は人の手入れを離れても、その年に枯れてしまうわけではなく、なおも人の還りを待つように実を付け続けることがある。
だからこそ、打ち捨てられた果樹園ほど、寂しさを感じる廃耕地はない。
少し前に目にした、藪化したみかん畑のささやかな実りが、私の中に強い印象を残していた。



再び路肩が小欠壊したところを越えて、薄暗い藪と杉の混在する林を走り抜け、夕日が正面の尾根に沈もうとするのを追い縋るように登った。
するとまた袋状の小さな谷が眼下にひらけ、コンクリートブロックの鋭い路肩が道と谷を峻として隔てていた。

谷の中は炎のような葛の狂乱に覆われつつあり、そこに取り残された哀れな廃屋が見えた。
この谷にも人の過去が埋もれていた。

探索日が12月24日であることは、もう少し述べられて良いかも知れない。
普段の「山行が」のよくある風景とは、季節のズレがあるはずだ。
ここは廃道に厳しい環境だと、東北人の私は実に恐れおののいている。
夏場の状況など、想像するだけで、草の汁が身体から出て来そう。




なんだこれ……

「山口県コーン」のてっぺんに開いた小さな穴から、木がニョッキリ生えていた。
全然オシャレじゃないが、一輪挿しみたいだ。初めて見た、この造形。
悪戯でこんなことをする人はいないだろう。

2014年3月のストビューには、このようなものはなかった。
ここ数年で道の荒廃が進んだようだが、その最中にも、コーンを設置して危険を知らせる程度のささやかな道路管理は、試みられたようだ。



どこまで行っても、逃げ場のない1本道だ。写真外でも全然待避所がない。
現役当時、最大幅1mという規制を無視して突入した四輪車は少なかったと思うが、本当に幅1m以下の車でないと、すれ違い不可能だ。

ここが県道に、さらに主要地方道に指定された時点では、将来の拡幅計画があったのだろうか。それとも最初から、並行路線である町道片添和佐線の整備だけが重視されていたのだろうか。

道沿いにトタン壁の廃屋があった。
道と建物の狭い隙間に一直線に杉が植えられており、防風林であったろうか。
その太さが、永くここに人がいたことを物語っていた。

また、すぐ前の路傍にはコンクリート製の水場があったが、淀んだ溜まり水だった。
もともと瀬戸内海は小雨の地方で、降った雨があっという間に海へ流れてしまう島であるから、水の確保には苦心があった。
峠に近いこの土地で、どうやって水を得たものだろう。並ならぬ苦労があったと思う。



小さな森と小さな谷が交互に現われる、総体としては変化に乏しい道行きだ。
だが、道の周囲の斜面は切り立っていて、旺盛な緑のため崖はないが、長城を思わせるようなコンクリートウォールに挟まれている時間は長い。古い空積みの石垣も稀に目についたが、ほとんど藪に隠されていて、よく目立つのはブロック壁ばかりだった。

シンプルに登り一辺倒なので、着実に高度を上げている。
そのことは、谷のたびに見下ろされる海の低さで察せられた。
たかだか100mと少しの峠であるが、なにぶん周囲が完全な水平であるために、張合いがある。島の山旅を行う度に、このことに満足を憶える。

強烈な西日が尾根に隠れたせいでに、島で外浦と呼ばれている南の海、燧灘の見通しが良くなっていた。
高所より見下ろす海は不気味なほど凪いで見えて、沖合には島のように大きな輸送船が停まって見えた。そして最も遠くには、今回の旅で初めて四国というものを見た。
その350万人以上が暮らす大地は、新潟の寺泊や弥彦あたりから見る佐渡にそっくりで、ただ山並みがあるだけだった。





これは、2014年3月にグーグルカーが撮影した全天球画像。

とても、長閑で、美しい。 これをそのまま見られず、残念だ。

この当時までは、みかん畑の小型運搬車や小型車両がときおり通行していたのか。
軽トラの轍よりもさらに狭い範囲の路面のアスファルトだけが、綺麗に露出していたようだ。
一年でもっとも藪の静まる時期でも、路外には踏み出せそうにない、猛烈な藪の攻勢も見て取れる。
だがそれでも、道は確保されていた。何者かが草刈りを続けていたのだろう。


次の写真は、同一地点の2019年12月24日の景色である。



Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

ぐにゃぁ〜〜…

路外と路上を同一化する、おびただしい量の葛のツタ。2014年の画像を見ると、
私の背側には小さな廃屋があって、今回もたぶんあったが、私はそれに気付かなかった!

島の黄昏れた農地を静かに見届けていた、愛すべき小径県道が、ついに失われてしまう。
地図上の表記は、ここ数十年間全く変らず「徒歩道」だったが、実態が表記の通りになってしまう。



もともとにおいて狭すぎる道だけに、肉感的質量を伴った草藪に圧せられて、容易く窒息した。
最後の砦は薄っぺらな舗装であり、それはまだ機能しているが、次の崩落で客土されれば終わりだ。
風前の灯火だ……。 否。これはオブローダーの感想であって、もう死んでいるのかもしれない。
完全スルーを決め込む山口県公式道路情報サイト「道路見えるナビ」は、この状況をどう考えているんだ?!




うおっ。

頭を低く藪を潜った先に、ぬうっと瓦屋根の小屋が現われたので、少しびっくりした。
2014年の画像を見ると、もっと手前からこの建物は見えていて、ちょっとした目印のような存在だったようだが、今は突然現われる。
小屋の閉ざされた木戸は道に面していて、否応なく近づかねばならない。




16:02 《現在地》 

瓦葺きの屋根や、屋根周りの漆喰の壁など、これまで沿道で見た小屋よりも上等、あるいは古い作りをしていた。

峠に近い立地であり、かつ風景の良いところであるから(後述)、もと峠の茶屋かもしれないなと思った。だったら良いなという願望も込みで。
仮にそうでなくても、ここに小屋を置いた誰かは風流人であった。
ここで農間の休みを取れば、雨でも晴れでも、格別に情の深い眺めだった。




これらは、小屋の前と、その近くの路上から得た景色だ。

いずれも東方の風景で、和佐の小湾を隔てた向こう、島の端まで続く稜線には、
県道の続きが確かに刻まれているのが見えた。片割れが真っ当に働いていて羨ましい限り。
チェンジ後の画像は、湾奥の和佐集落で、舟も浮かばず、漁村らしからぬ静けさに包まれていた。



この奥に見える、申し訳ないが……美しくない山を、県道は遠くの浜から登ってきた。

ここは間違いなく眺望に恵まれた道なのだが、蔓延る藪のために魅力を著しく減じていることが残念でならない。
このレポートに並んだ写真を見ただけでは、おそらく、息苦しく雑然とした狭路県道という醜い印象を持たれることであろう。
だが、道が置かれた地形は実に解放的で、光と風と海とみかんの明るさこそが、“本当の姿”なのだと思うのだ。

ここは、人が手をかけ続ける限り、美しい道だった。

そして、そういう土地や道は無数にあるが、多くが気付かれないままに消えていく。



しかし、昔は美しかったのだと、そんな風に書いただけでは信じて貰えないこともあるだろう。
だから、見て欲しい。
周防大島の40年前の山野の景色を。

右は新旧の航空写真で、新しい方は一面の緑の山が広がっているように見える。
県道沿いで畑らしく見えるのは、例の車を見たみかん畑だけである。
緑が目に優しく、環境に優しいという基本に従えば、これは理想に近い風景に見えるかも知れないが、島に人が住み始める以前の“自然の姿”が写っているのでは決してない。

チェンジ後の画像は、昭和50(1975)年の風景だ。
県道がある山の斜面の大半に、等高線と樹木からなる不思議な模様が見えるが、これらは全て みかん畑!

これまで沿道で見た藪の大半が、かつてはみかん畑だったとは信じがたいかもしれないが、事実である。
この島の人々は、それほど徹底的にみかんを育てていたことがあった。
県道はかつて、甘い香りとお日様の色に満ちていたのである!


しかし、島民のしたたかな変わり身の早さは、島の色を何度も変えていた。

右図は、昭和36(1961)年の航空写真だが、モノクロなので白く見える部分が多いのではなく、ここに写る白い部分の大半は、棚田や棚畑である。
みかんの島になったのは、昭和30年代後半に、それが島の産品として有利であることに全島民が気付いたからであり、それまで島中に猫額の棚田や畑棚が連なっていた。

実は、明治初期と昭和20年ごろにあった二度の人口ピークにおける島民の数は、7万人にも及んでいた。現在は17000人ほどであるから、4倍以上の人口があった。人口密度を計算すると、1平方キロあたり550人近くになり、現代の全国都道府県平均と比較すると、第10位の京都府に匹敵して、秋田県の5倍以上だった。
そのため、島の土地は自給自足の食料生産の場として重要で、よほどの山奥でも開墾されてきた経緯があった。

だが、主食をいつでも購入出来る現代社会において、自給自足より現金収入の向上が重視されると、島中がみかん畑となるのに10年もかからなかった。
そういうことが、『東和町誌』に書かれていた。
県道は、島の色が移り変わる姿を、何度も眺めていた。



入口から約1.3km、そろそろだろうと思いながら回り込んだ尾根の向こうから、鞍部というよりはもう少し盛大に凹んでいる峠が、間近に現われた。

麓からここまで、越えるべき地点を特に意識せず、ただ稜線の頂上を目指して登ってきたのだが、気付いたときにはほぼ峠に辿り着いていたパターンだ。
おそらく角度的に、和佐集落からは直接見えない峠であった。




あとは見えている分を登り切れば峠という場面だが、最後に根の深そうな路肩崩壊が現われた。
路肩ごと路下の斜面を巨大なスプーンで抉ったように凹んでおり、絵に描いたような斜面滑動による崩壊地だ。水の流れはないので、よほどの豪雨で一気に山が緩んだようだ。

落差があり、本格的に復旧しようとすると、かなり大きな工事になりそうである。土嚢を積んでどうこうなる感じはない。
やはり、このまま廃道に……、なってしまうのか。

現状ではまだ幅1m以上は舗装路面が残っているので、入口の規制標識に偽りはないけれども、この状況で車通りがあるならば、すぐさま封鎖されるだろう。
(架橋されているとはいえ)さすが、事情を知らない通行人が多くない離島の大らかさだなぁと、長閑な気持ちになった。



いよいよ峠だ。

クワノキか桜か、迂闊な私は良く確認しなかったが、何か天然ではない大木が下草のない斜面に生えていた。
まだ微かに人の匂いがする景色だった。
気の弱い人なら、こういう夕暮れには出来るだけ通りたくないと感じるだろう雰囲気がある。霊じゃなく、妖怪が出そう。

最後は、右へ曲がりながら峠へ入るが、角のところに最後の廃屋があった。
これまでで最大の規模。また、峠の茶屋ということを言いたくなった。
景色の良い峠道だからこそ、言いたくなるのだ。




おおおお〜。

思いのほか、迫力のある峠の口に、テンションが上がった。
このカーブして切り通しに入っていくところなんて、隧道があっても良さそうな雰囲気である。
幅員1.0m制限の道路にはとても勿体ないような、オーバースペックな本格的土工を感じるぞ。
薄暗いために藪の影響が弱いことも、私が見たかった現役当時の景色を、少しく甦らせてくれていた。





16:06 《現在地》 

あ、ここ好きだわ。