道路レポート 山口県道60号橘東和線 和佐狭区 第4回

所在地 山口県周防大島町
探索日 2019.12.24
公開日 2020.07.29

島の中央分水界 〜和佐峠〜


2019/12/24 16:07 《現在地》 

普通の車なら、そこを見ただけで立ち入りを断念する【和佐側登り口】から、惜しくも廃道同然となってしまった狭路を登ること約1.3km、主要地方道橘東和線の自動車交通不能区間内にある「峠」に辿り着いた。
地形図や道路地図には峠に名前の注記はないが、後日の机上調査で、「和佐峠」とここを称する資料が発見され、またそれ以外の名前が見当たらないので、本稿でも和佐峠という名称を採用する。

峠の標高は、地図読みで約110mであり、0m近いところから登り始めたことを踏まえても、ささやかな峠である。
屋代島全体で見ても、島の西部にある山岳地帯がそこそこ高く、700mに迫る最高峰を持っている(瀬戸内海では小豆島に次いで高い山がある)ことと較べれば、細く長く尾を引くような島の東部を“横断”する峠は、数は多いがどれも低い。

だが、この低い峠を目前にした私は、実際の標高を遙かに上回る充足を憶えた。
廃道同然の道のりを上りきった達成感もその理由の一つだが、一番は、頂上に待ち受けていた景色だ。





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山を断ち割る巨大な切通し

深さ、長さ、鋭さ、3拍子揃っている!

画像を見て、たいして長くないと思った方は、グリンして私の後ろ側も見て欲しい。




長さは約90m、深さは中央の最深部で15mくらいあるだろう。
長い切通し全体が緩やかにカーブしているのも特徴であり、印象的だ。
さらにもう一つの重要ポイントは、下部も上部も全体に幅が狭いこと。つまり鋭く切り立っていること。それが「山を断ち割る」という印象になっている。

道幅はおそらく3m。最大幅1.0mの規制区間内なので、そこから見ればだいぶ余裕はあるし、実際これまででは一番に“立派な道”だろうが、結局、普通車がすれ違えないことに違いはない。

この道のこれまでの風景からは、峠にこれほどのものが待っていることは、想像し得なかった。
これまでは、将来の道路計画への布石として、たまたまここにあった農道を無理矢理県道に認定したものと思っていたが、切通しを見て考えを改めた。
相応の歴史なくしては生まれ得ぬ切通しではないか?

なお、この峠が市町村の境界であったことは明治以降一度もない。
ここは現在、周防大島町に属すす和佐と森という大字の境界であり、明治22年に町村制が施行された当初から、同じ大字の境であり続けている。両大字が属する町村名は、明治22年から昭和30年まで長らくにわたって森野村(もりのそん)、同年から平成16年までは東和町(いずれも大島郡)というふうに、数回変遷している。



落石や倒木への防御として、立派な擁壁が切通し内部の両側に存在する。
道幅に似合わぬ頑丈な壁で、表面にコンクリートブロックのような凹凸がなく、壁全体が道の曲線に合わせて滑らかにカーブしていること、さらに道幅に全く変化がないことから、この切通しの印象を非常に独特にしている。
道路というよりも、まるで大きな水路みたいな姿に見える。
あるいは、上部がひらいた隧道である。

もともと美しい切通しだったろうが、数年分の落葉が路面を埋め尽くしていることで、両側のコンクリートの壁だけが浮き上がるような不思議な印象があった。


底から見上げる稜線は、前述した壁のために手の届かない存在である。
岩と竹木に圧せられた細長い空は、人工の地割れの底にいることを強く意識させる。

切通しがこんなに深いとは思っていなかったので、これまで峠の標高を「地図読みから約110m」としていたが、これは訂正が必要だ。峠道の標高は約100mと訂正する。

この深さと長さならば、切通し全体が隧道跡だったと言われても不思議はない。
現地にそれらしい遺物はないが、机上調査では念のため注意したい。



切通しの後半部分は、コンクリート擁壁がなくなり、それが建造される以前の古い切通しの姿を彷彿とさせる。
道幅ギリギリまで植えられたと思しき杉が生えていて、狭さは前半以上である。
樹木による天然の幅員制限に近いものがある。

そして、しつこいようだが、これだけは忘れられないよう何度でも言い伝えたい。
この道の最大の特徴であり、魅力と言って良いことだ。

この県道は、封鎖されていない。

このことは、これまでの20年以上にわたる私の酷道・険道巡りにおける常識の外だった。
県道ともなれば、廃道同然に荒廃した時点で、封鎖されるものだと思っていた。
例外は、封鎖すべき道自体が目につかない場合や、そもそも車が通れたことがないような道では封鎖されていないこともあるが、この道は数年前まで車も通っていて、グーグルが撮影までしているのに。

そもそも、最大幅1mさえ掲げておれば良いという考えなのかも知れないが、現状ではそういう車であったとしても、倒木を跨いだり藪を払ったりしないと満足に通り抜けられないのであるから、恐るべき放任である。(楽しいぞもっとやれ)



グーグルカー伝説!!

……よく分からないテンションになったのは、例によってこの切通しの2014年3月の風景をストビューで見たところ、思わず吹き出すような光景が写っていたからだ。

右の画像を見て欲しい(出来たらこの小窓の画像ではなく全画面で)が、この状況で車の通行を許していたとか、ぶっ飛びにも程がある!

どう見ても、支えを失った巨大な倒木が路上に覆い被さってきているが、それを退かすことなく、まるで天然の高さ制限2.4mくらいになってしまった道を、そのまま通しているではないか!
もう何でもありじゃねーかよ。良いのかこれは…。
そして、ドライバーはなんでこれで諦めないで先行ったんだよ!
ほんと、通行止めって書いてない限りどこまでも行くのか奴ら……笑。




魅力的な切通しだが、長居はしていない。
古い石仏とか、足を止めて観察したくなるようなものがなかったので、峠をスムースに越させてやりたいという切通しの意図に応えた素早い通過であった。

目をしばたかせながら切通しから出ると、切通し内の緩やかなカーブとは逆方向の屈折が待っていて、同時に下り坂が始まっていた。
ここに地図にはない1本の土道が分岐していた。おそらくただの作業道だが、県道よりも通行量があるようで、真新しい四輪の轍が刻まれていた。

小さな運搬車を見たみかん畑以来約1kmぶりに、県道にも新しい轍が復活したことになる。
これでもう安心か。
そんなフラグじみたことを考えたせいではないだろうか、下り始めて間もなく、良い感じに視界に飛び込んできた海を撮るのを忘れるほどの衝撃的光景が……!




急坂過ぎて
ぶっ飛んだ!


写真に直立するスギが写っているので、勾配が分かりやすいと思う。
車道上の急坂として、誰もが目を剥くようなものは20%(11度)を超えており、車道で目にすることができる上限は約30%(17度)といわれる。
この坂道も計りはしなかったが、20%を越えていると思う。

しかも、路上に落葉や土や木っ端が散らばっているせいで、マジ止まりやしない!
そのせいで、坂道を見下ろす写真がなくて、こうして振り返った写真だけになってしまった。
既に峠から100mほども走っていて、切通しは見えない位置まで離れている。

ここは徒歩以外での通行は実に危険で、道が狭いうえ蛇行しているため、速度制御が出来ないとリアルにぶっ飛ぶことになるから、私もカメラの“ながら運転”をハッと中止して、慌てて前後輪のブレーキレバーを引き絞ったわけだが、後輪がロック状態になったまま停まるどころかズリ始めたのがおかしくて、自転車はどうにか止めたが、代わりに変な笑いが止まらなくなってしまった。
危険地帯なのに笑顔が絶えないというね!www



それで仕方なく靴底を地面に擦りつける方法で強引に停車して撮影したのが、上の写真だった。
しかしこの停止した場所には、先客である1台の車が既にいた。
もっとも、“彼”がここに停まったのは最近のことではないし、もう二度と動くこともない。

車体の画像をここに掲載しておけば、おそらく異様に詳しい“車両解析班”の方がコメントを下さると思うが、とりあえず普通車である。
こういう車が、かつてはこの道を通行していたということなのだろう。……たぶん。

世にも珍しい最大幅1.0m規制は、おそらく開通当初からのものではなかったと思う。
ただ、やっぱり普通車が通るにはあまりにもギリギリで、すれ違いが出来ないし危なすぎるだろうすぎるだろうという程度の良心?は、管理者も持ったことがあって、後から規制が入ったのだと想像している。




車が駐まっていた位置は、路外である。
転落したわけではなくて、ここに用事があったのだと思う。

私の自転車と大きさと比較してみると、崩れ果てたとはいえ、車はやはり巨体だ。
この大きさのものが山や谷を越えて行き交う姿を、我々はふだん当たり前のように眺めているが、こういう極端な狭路を訪ねてみると、その当たり前の有り難いことに気付く。
まあ、今さらそんなことを有り難がってようじゃ時代錯誤も良いとこなんだけどな。この県道は、“現代の道路選手権大会”があったら間違いなく一次審査で落第。



今から冷静に文章化しても面白さがよく分からないが、タイヤがズッたことで笑いのツボに入ってしまい、不真面目にゲラゲラしながら下った道だ。
こんどは、妙にバンピーというか、波のうねりのような凹凸を描きながら、緩急ではなく急と急急な下りが伸びている。

久々に、みかん色ガードレールが登場した。
そういえば、このガードレールも最初のうちはあったものの、しばらく見なくなっていた。中途半端な整備だった。

そして、この“みかんレール”から続いて、初めて見る新アイテムが。




みかんバー!

山口県名物のみかん色防護柵は、ガードレールだけでなく、ガードバータイプもあったんだね〜。




眩しいッ!

猛烈な勢いで下りゆく県道の行く手に、眩い海が広がっている。
何度も述べているように、峠がある辺りの島の陸地はとても薄っぺらで、直線距離なら1.5kmもない。
だから、少しでも高いところで視界が開けていれば、必ず海が見えることになる。

海上に一際目立つ円錐形の小山が見えるが、あれは海に突出した小さな半島で、もっと手前に下り着くべきゴールがある。
県道は麓に近づいてもほとんど勾配を緩めず、平均10%を優に越える坂道のまま駆け下っていく。
あっという間に、下山完了――




――かと思いきや、

大きな道にぶつかった!




16:15 《現在地》 

峠からおおよそ200mの地点で、立派な2車線道路に突き当たるが、停まりきれず飛び出さないよう注意!
これは「大島オレンジロード」の愛称がある広域農道で、全島を西の端から東の端までほぼ尾根伝いに横断する。
昭和後半に建設が始まり、平成後半にようやく全線開通を果たして、過疎化が進む島の新たな幹線道路となった。

島の陸地が薄っぺらだと書いたが、その薄いところにも、既に3本の道が並走して完成している。
すなわち、北岸の国道437号、尾根通りの広域農道、南岸の町道和佐片添線で、いずれも完備した2車線道路だ。
これら完備した3本を、斜めに横断しながら結ぶ4本目が、この県道である。
沿道に農地さえなくなってしまった現状、これをさらに整備すると言ったら、
普段どんなに税金の使い道について温和な人でも、怒り出すかもしれない。

地図を見れば、県道の迂回路がいくらでも選べることを重々承知した上での、今回の探索だった。




最大の難所である峠を越えた感があるが、地図上での徒歩道表記の区間は、もう少し続く。
その入口が広域農道の対岸に見えている。やっぱり、最大幅1.0m制限なのね(笑)。

ちなみに、なぜかグーグルカーはここで撮影を止めているので、
みんなにとっても未知の区間が、ここからちょっとだけあることに。




交差点から振り返ると、こっちにもやっぱり1.0m制限。この道のために何枚も作ったのか。

そしてやっぱり、封鎖はされていないし、通行止めの予告も何もない。完全フリー状態だ!!!

急坂ではあるが、標識以外は普通に平凡な入口なので、うっかり普通車で入り込むと、

この先車をUターンさせるような場所はほとんどないので、ガチ注意である。

なお、峠からここまで200mの距離で、高度を50mも下げていた。つまり、

平均勾配25%だ!



次回、この島の秘密の能力が明らかになるとき、

謎の数字“”が、解き明かされる……。

(いや、そんなんじゃなくて、もっと大切な情報が明かされますからね)




随喜! ♥ヨッキれんの楽園島♥


2019/12/24 16:16 《現在地》 

広域農道を横断し、県道の続きへ。
背にした峠側の入口と同様、こちら側も一見変哲のない入口だが、またしても「最大幅1.0m」規制標識が立っている。

ここに封鎖や警告がないことが、この島では先行き無事のバロメータとして絶対でないことは、既に理解済み。
とはいえこの先は集落がある海岸沿いの低地までわずか300mほどであり、地形図に徒歩道として破線表記されている区間も400mほどで終わる。しかも周囲は果樹園の記号であるから、峠区間のように荒れていることもないだろう。もう警戒は解いても良いだろう。
まあ、なぜかグーグルカーがここで県道の追跡を投げ出している理由は少し気になるが、たぶん深い意味はないと思う。




ここを立ち去ろうとした私だが、傍らのみかん畑に人影があることを発見。
情報収集の格好の機会を得たと思い、急遽インタビューを敢行したところ、いくつかの重要な情報を得ると同時に、みかんを3個ゲットした!

いくらネタだとしても、大文字で強調すべき部分は“みかん”の前だろと突っ込まれそうであるが、これはこの島を初めて旅した私の忘れがたい出来事だったので、優先して“みかん”のことを書きたい。古老かく語りきの内容は、650文字先(ワープ)からです。

まず一つ告白すると、このレポートの最初から時折現われていたこの数字“”は、私がその時点で所持していた残機数(死んでも復活出来る回数)ではなく、所持したみかんの数でした。はい。



そしてこれが、これまで人に見せたことはほとんどない、私の探索用リュックの中身だ。

みかんしか入ってねぇ!

…ように見えるのは、実際その通りに近い(あとは自転車のメンテ道具ぐらい)ので良いが、問題は、今朝私がこの島に上陸したときは3個しかもっていなかったはずのみかんが、島内で1日活動し続けた結果、8個に増えたという事実である。

もちろん、財布の中身は悲しいほど少ないままで変っていない。ただ、島の中を探索していたら、みかんが増えたのである。
この日のみかんの増減を時系列に沿って振り返ってみたい――。




まず、午前9時過ぎに大島大橋で海峡を渡って島に上陸した時点で、私は既に3個所持していた。
次に、まだレポートを書いていないが、島の西側にある“ある廃道”で、大変な場面(←)に遭遇!
その後、今回のレポートのスタート地点に到達するまでは増えず、逆に摂取したので減ってとなっていたが、レポート序盤で遭遇した廃みかん畑で遠慮がちにとなり、そしていま、古老からの情報収集の代償を払うべき場面でなぜかまた増えてという、歴代の探索中における圧倒的最大所持数となって島を出たのである!

この私の体験から分かることは――




周防大島で探索を続ける限り、みかんは無限増殖!

これぞまさしく、ヨッキれん式探索永久機関の完成だ!!!

(みかんシーズン限定)




県道沿いのみかん畑でみかんを収穫していた古老の証言集

  • ここは確かに県道で、毎年秋になると県の方で刈り払いをしてくれていた。
  • しかし、去年の台風で崩れてしまい、通行出来なくなった。
  • 以前車で通ったことがある。
  • (この県道を改良する計画の有無について質問すると) 地盤が悪くとても崩れやすい道だから、(整備の)順番が回ってこないのだと思う。

上記のようなことを、私が小学生の頃に学級文庫で読んだ「はだしのゲン」の登場人物を思い出させる、人情味のある訛り言葉で教えてくださった。
重要な内容が多く含まれている。
まず、県道の峠越えの区間が荒れてしまった原因を、「去年の台風」と語った。

「去年の台風」について質問を重ねれば良かったが、帰宅後に該当しそうな台風絡みの豪雨を調べてみると、西日本で突出して大きな被害をもたらした大きな豪雨があった。
気象庁命名「平成30年7月豪雨」、各種報道などでは「西日本豪雨」とも称された、死者行方不明者271名を数えた豪雨災害だ。

同災は、本州に接近した台風7号が直接もたらしたものではなかったが、梅雨前線を活発化させることで豪雨の引き金となった。被害は西日本に多く、特に瀬戸内海沿岸に大きな被害をもたらした。周防大島町でも、複数の土砂災害が記録されており、周辺地域の道路にも多くの被害が出た記録がある。
遅くとも2014年3月時点までは健在だった県道を一気に荒廃させてしまったのは、2018年7月のこの出来事であったと考えられる。

個人的にさらに大きな衝撃を受けた証言は、第一番目だ。
従来から、ほとんど放置していたのではないかと疑っていた道路管理者の山口県が、2017年までは毎年秋に刈り払いをするという、ささやかながら手間がかかる手入れを続けていたことに、大きな驚きを感じた。
当然だが、当時から道幅は今と変らず、急勾配も変らない。地形図や道路地図では徒歩道を示す点線で描かれているほどの“険道”を、県…具体的には山口県柳井土木建築事務所大島分室…が、見捨てずにいたのである。この点において、封鎖されたまま放置されている全国数多の不通県道とは画然としている。

むしろ、この県道に対する県の姿勢は、主要地方道に求められる広域交通路としての実際の利用度に比較すれば、破格の好待遇であったかもしれない。
幅員1m制限のこの道路は、事実上、沿道にあるみかん農家の利用に留まっていたであろうし、そのみかん畑も近年の過疎化と消費者のみかん離れのために、減少し続けていた。だから被災以前から沿道の大半が、荒廃した元みかん畑であった。にもかかわらずその唯一のアクセス道路である県道を封鎖をせず、最後まで刈り払いという世話をしていたとすると、これはまっこと篤い。
しかも、被災以降であっても完全に放棄してはおらず、和佐側から最後のみかん畑の地点までは、道に空いた大穴を【しっかりと復旧】させていた。篤いぜ!

もっとも、このことは単なる美徳ではなく、道路法上の義務に関わることである。
道路管理者は、管理する道路の維持に手を尽くす【義務】道路管理者は、道路を常時良好な状態に保つように維持し、修繕し、もつて一般交通に支障を及ぼさないように努めなければならない。(道路法第四十二条一項)があって、切迫した事情もないのに封鎖するのは宜しくない。ただ、われわれ利用者の側としても、利用度がほとんどない道を税金を使って維持し続けることは喜ばれない。おそらく大多数は、管理をしなくて結構だと言うだろう。
幅員1m制限などという、端から見ればヤケクソのような規制を敷かれた道路が、その規制を放置の口実とするようなズルをせずに、ちゃんとその【規制に則った車両】の存在を想定していて、県道として真っ当な手段をもって維持されてきたということに、道路制度の奥深さと、それに携わる管理者の律儀さが滲んでいて、私はとても感心した。こんな地味な話で感心出来る俺スゲーなんて言わないよ。だってこれは本当に感心すべき話だから。みかん増殖が滲むような深いい話だ。




貴重な情報と美味しいみかんをくれた古老に礼を述べてから、立ち去り際に問われた「どこから来た」には、少しだけ驚かれることを期待して「秋田県」と言った。期待通りの反応を背中に感じながら漕ぎ出す。ごめんなさい、自転車で秋田から走ってきたと思ったかもだよね。

再開となった幅員1m制限県道は、相変わらずだった。
狭く、そして猛烈な急坂。
この急坂は地図を見てもよく分かる。
等高線の跨ぎ方が、車道化された道のそれではない。
徒歩道表記も相まって、その辺の登山道と大差ない印象。
そのため私も計画段階では、峠のこちら側は車道ではない車道未開通の峠道であって、そのために不通県道のような扱いなのだろうと考えていたくらいだ。

しかし実際は、舗装とエンジンの力に期待して無理矢理登攀せしめる、こんな無茶な車道だった。自動車登場以前は、どんな手段で利用された道だったろう。この疑問は持ち越しだ。




ひとしきり下ると、珍しく広い場所があって、そこにカバーを掛けられた普通車が止まっていた。どう見ても幅1m以上あるが、おそらく私に道路法違反を問われたら全員ガチ切れするだろうな。

これを最後に、峠から続いていた竹林を出る。




和佐を出てから、初めて明るく広い土地に出た。
小さなみかん木が丁寧に植えられた、小高い丘の上にいる。
薄いけれど急峻な島の中央山脈を乗り越えて、北岸の人里へ近づいている。
しかし、道幅の狭さだけは揺らがない。
地形図もまだ破線表記である。




眩い夕日に迎えられた。
一日を過ごしただけの離島の夕日に、郷里で見るときと同じ感情を呼び起こされるのは、愉快なことだった。

一日を未知の土地で過ごし抜いた、ささやかであっても冒険をして生き抜いた、その後に訪れる夕日には、新たな郷里を持ったような収穫と安堵の快感がある。
表通りではない裏の道に汗を流し、土に汚れることで、いち早くその土地を知ることが出来る気がする。それは多分に自惚れだとしても、そういう愉快な優越感を、私は旅先で夕日に会う度に憶えて、孤独に満悦している。




何十年も昔から時が止まったような農道だ。
耕地があって、道は生かされているが、峠越えの区間では少しは見せていた近年の改良は感じられず、ただ舗装だけされた昔の農道。

まっすぐな切通しが、耕地を割いて急に下って行く。
その道幅は、両側が土の壁であるために、本当に舗装分しか取られておらず、ここまででも最も狭いように感じられた。
軽トラがこの舗装路に収まりきれる限界だろう。





これはずるい。こういうのはずるいからさ……。
旅先でこんなの見たら、感動するに決まってるじゃん。

眼下の街並みは、旧森野村時代も旧東和町時代も役場があった森の集落だ。
そしてその左で完全に軒続きになっている、さらに広い集落は平野という。
これらの街は、安芸灘の一部が屋代島に抱きかかえられた静かな湾に面している。
湾の中央には我島という名の古墳みたいな形をした小島が浮かぶ。
背後にある、本土と見紛うばかりに高度感を感じる山並みは、
瀬戸内海の島では第二の高山である嘉納山(標高685m)を含む、島の中央山地である。

この景色は、今日という旅の集大成であった。感動しちゃうに決まっている…。




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前ばかり見ないで、背後も見よう。凄まじく狭い急坂道である。

これが古い時代の開墾の結果なのか、天然の海岸段丘なのかは分からないが、
集落の裏手の山は、急斜面と緩斜面を繰り返す段々の地形になっており、
そこを直線的に上り下りする県道の勾配も、奇妙な緩急を繰り返していた。



また短い急坂を下ると、目の前に突然、立派な瓦屋根のお屋敷の2階から上だけが飛び込んで来た。
それはとても奇妙な景色であり…、と、こんなことを書いたらお屋敷の主に叱られそうだが、県道である道との位置関係が独特過ぎて、一度見たら忘れられない感じがある。

道と家屋のどちらが先か、おそらく道が古くからあるものと思うが、路肩のすぐ外に道のカーブと形を合わせるようにギリギリまで家屋の1階瓦屋根が迫り出していて、もしもカーブを曲がりきれない車がはみ出したら、二階に直接お邪魔することに。




このカーブ、厳しい〜!

今までも狭かったが、左右両方とも谷になっている場面はなかったはず。
だが、この民家の2階を巻くカーブだけは例外で、内側は民家、外側は草地、どちらも路面との落差がある、絶対にはみ出せないカーブになっている。
路面の轍や前の写真に写る自転車との比較からも、このカーブが幅2m程度と分かるはずだ。厳しい。

しかし、脱輪防止用なのか、雨水が敷地内に入らないためなのか、家屋側の路肩にだけごく低い地覆がある。
どうせなら外側にも同じものを設置してくれたらと思うのだが、半分はスパルタだった。(いや、全部スパルタだろ…)




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土地はあるのに、なぜこの県道は、こんなにも隅っこに追いやられなければならないのか。
そこには次のような理由があったのではないかと、これを書いている今は思う。

この島では、江戸時代後半から昭和戦前まで長らく、面積に対して過剰な人口があった。
そのため、山のてっぺんまで耕されるほどに、農地としての土地が不足していたという。
さらに、もともと島内の行き来には海上交通が便利であったから、陸路整備の需要は少なかった。

これらの条件が重なれば、道路の拡幅などは難しいことである。むしろ隅に追いやられた。
この島に本土並みに広い道路整備がもたらされたのは、本土架橋が本決まりになった
昭和40年代後半からだったというのだから、いかにも歴史は浅い。
もっとも、その後の道路整備はめざましく、今日の屋代島の幹線道路は決して悪くない。
ただ、ここに取捨選択に取り残されたままの県道があったということだ。



落日の瀬戸内慕情。




県道はお屋敷の2階から1階へ、さらに玄関口を掠めて走り抜ける。
いよいよ、これより下に陸地はないという感じを受ける、広い地平が近づいてきた。
そこには小さな水田が残っていて、島中の全ての耕地がみかん畑に置き換えられたような中で、古い景色を留めていた。

なお、私がこの「森」という集落を通行するのは、本日これで2回目である。
1回目はレポート開始前に、この自転車で、奥の低地にある国道437号を駆け抜けている。
探索の目的を達成して見知ったところへ戻ってこられたという安心感が、この土地に漂っていた。




最後にまた急坂で、小さな段差のような斜面を掘り割りながら一気に下った。
峠を越えて以来、まるで県道の灯台でもあるかのように、常に真っ正面に見え続けた丸い山も大きくなったが、近づくのはこれで終わりだ。
最後の下りの出口には、背を向けた1本の道路標識…内容は予想がつく…と、小さな丁字路が待っていた。

集落には降りてきたが、突き当たった道の狭さはこちらと同等で、どう見ても幹線道路ではない。
地形図にも丁字路は存在せず、ここにはただ直角左カーブだけが描かれている。しかも、前後ともまだ徒歩道表記が続く。そしてこの角には、海抜14mの「写真測量による標高点」が描かれている。




16:24 《現在地》

これが主要地方道橘東和線の峠区間、森側入口だ。

和佐側の【入口】から2.1km、所要時間はちょうど1時間で、島の細い山脈を横断した。
案の定、こちら側にも最大幅1.0mの規制標識だけがあって、通行自体の規制はなし!
ここから広域農道までの区間は短距離で、荒れてはいなかったが、やはり半端なく狭かった。

また、こちらの入口は和佐側以上に県道らしい感じはしない。本当にただの農道みたいだ。
唯一の県道らしいアイテムは、標識柱に貼られた小さな「山口県」のステッカーだけだろう。
このか細い道が、真後ろにばっちり見える稜線の鞍部まで、ほとんど真っ直ぐに登っていく。
峠までの距離は僅か500mしかないが、この距離で90mの高低差を攻略した。平均勾配18%だ!


これにて峠越え区間は終わり、次回からは終盤戦、森と平野集落の奇妙な県道風景をご覧いただく。