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隧道レポート 走水での“未確認隧道”unidentified tunnel (UT)捜索作戦 最終回

所在地 神奈川県横須賀市
探索日 2024.03.25
公開日 2024.04.27

 発見された「穴2」の内部へ!


2024/3/25 7:10

走水第一隧道西口のすぐ上あたり(上の図の「穴2」の位置)で、土嚢で塞がれた穴を見つけた私は、土嚢の一部を撤去し、内部への進入を決行する。
開口部からは風が勢いよく吹いており、反対側に貫通している可能性が高いが、その出口となる穴は、ここまでの探索ではまだ見つかっていなかった。

果たして、この穴の正体や如何に?



直前まで塞がれていた穴の内部へ突入した。

やっと、やっとこの時が来た。

これが“虫取り少年の隧道”である確証はないが、ともかく、穴を探しに来て、穴を見つけて潜ったのだ。成果がやっと上がったと言える。
時間的には探索開始から1時間ちょっとしか経っていないが、道を辿っていれば自ずと隧道に辿り着ける普段の探索にはない難しさが今回はあった。そもそも、伝聞による情報を元に、ある程度広い範囲から一つの穴を見つけることの難しさがあって、こういうことは基本的には無謀な捜索なのだと感じた。

外は雨だが、洞内は乾いた空気に満ちていた。壁も濡れていない。
素掘りだが、壁は思いのほか滑らかで、丸っこい断面になっている。
そして、狭い。
写真は普通に起立した姿勢で構えて撮影しており、天井が随分近いことが分かると思う。
計測はしていないが、目測で天井の高さは最大で2m、幅も同程度であろう。すなわち、断面の規模としては人道用っぽい。

奥行きは未だ不明だが、地形的にこの方向に長く伸びる余地はほとんどないはずだ。
もし直線であれば、すぐに出口に辿り着きそうなのだが、その光は見えない。
代わりに、10mほど先に天井に達する高さの土の山が見える。
しかしそこで閉塞しているならば、この風は不自然だ。やはりどこかへ抜けているはずだ。

乾いた砂地の洞床を踏みしめて、最初の数メートルを進んだ。



振り返る、入ってきた入口。
積まれた土嚢の裏側が整然と陳列されている。
左上に一人分だけの穴を通して入ってきた。



7:11

入口から10m弱の所に、いわゆるママチャリである自転車が1台、転がっていた。
土嚢で塞がれる以前に、廃棄物として持ち込まれたのだろうか。ここまで自転車を運び上げること自体が、現状ではかなり面倒くさそうだが…。

で、その転がっている自転車の後輪は、膨大な量の崩土に埋没していた。
いわゆる落盤によって生じた状況のようであるが、実はこの部分は、もともと小部屋のようになっていたように思う。
というのも、これらの写真で分かるとおり、崩土がある部分は明らかにここまでの狭い坑道よりも右側に広がっている。
天井が高くなっているだけなら崩落の影響と判断できるが、右側の壁が広くなっているのは、もともとここに小部屋のような空間があった可能性を示唆している。

おそらく、小部屋部分の左側の地形的に地表に近接しているとみられる部分が、大きく崩れているように思う。
地上側に陥没痕でもあれば、この推理を確定出来ると思う。
しかしともかく、風の通り道はこうして確保されていた。
あとは、人間が出口に辿り着ける状況であるかどうか。



半分土砂に埋れた小部屋のような空間を右壁に沿って進むと、再び元の狭さの坑道が、入ってきたのと反対側の壁に空いていた。
その奥もまた崩れているようだが、確かに風は向こうから吹き込んできている。

この小部屋の存在は、単に通行だけを目的にした単純な隧道ではない可能性を疑わせる。
しかしともかく貫通しているのであれば、ここを“虫取り少年”のように隧道として通り抜けた利用者がいたとしても不思議はないだろう。



出口だ!!!

小部屋の先の狭い坑道を埋めていた土砂の山の上には、人間が一人這い出せるくらいの小さな開口部が、頼りない明りを点していた!

おそらくこの状況は、私が最初に発見するも突入は辞退した【穴】の洞床に立って、地上を見た眺めに近いものだろう。だがあれよりは這い出しやすい状況だと思う。開口部もまだいくらか広そうだしな。
風もここから吹き込んできている。



さあ、攀じ登って脱出する!

四つん這いで、地上を目指すと、雨粒が顔にぶつかってきた。
まるで巣穴から旅立つ獣になったみたいだ。
私という獣は、いったいどこへ抜けたんだ?!



7:14 

地上!

通りがかったことのない場所なのは間違いないが、見覚えのあるモノが目の前にあった。

見覚えのある、落石防止柵!

山の裾野を切り取って包囲している落石防止柵の連なりのどこかに出た。
柵沿いは傾斜がキツく、かつ樹木が密生していて歩きづらいのと、隧道がありそうな地形にも思えなかったため、私が柵から離れて歩いた部分のどこかに、実はこの穴の出口があったのだ。

チェンジ後の画像が、いま這い出してきた穴を振り返って撮影したもの。
道を辿って着くのでなければ、こんな穴一つを広大な地形の起伏の中に見つけるのは、さすがに無理であった。
そもそも、この開口部も入口のような人為的な坑口ではなく、崩壊によって生じた様子だ。本来の坑口は圧壊し、足元の土砂の山になっている様子である。

この場所のよりリアルな実況は、次の動画で確認して欲しい。(↓)



這い出してきた穴のすぐそばに、洞内で見た大きな落盤によって地上に生じた陥没地形がある。

また、這い出してきた穴の正面に落石防止柵があり、地形の連続性がそこで完全に断ちきられていた。
走水第一・第二隧道が誕生した明治以前はもちろん、昭和40年頃までは、この落石防止柵がある斜面は自然の海食崖であり、下は波打ち際だった。
したがってこの穴は、もともとは海に面して口を開けていたのではないだろうか。
その先に道があったのかどうかは、残念ながら現状の地形からは全く判断できない。

現状では、わざわざ“虫取り少年”がここを通り抜ける可能性は低そうだが、このことを現状を根拠に判断するのは危険だろう。



地図上に、「穴2」の坑道を表示した。
チェンジ後の画像は、「穴2」の周囲を拡大したものだ。

この穴は、走水第一隧道より10mほど位置の海側にあり、本来は海食崖であった地形の膨らみを貫いている。
洞内の中央部には小部屋状の空間があるが、それ以外はシンプルな一本道で、全長は25mほどであった。

なお、先に見つけた現状非貫通の「穴1」との関連性は不明だが、断面のサイズや素掘りである点、また走水第一隧道との高低差などに、一定の類似性はあるように思う。
したがって、これらの穴はもともと一連の道を構成していた2本の隧道だったという、オブローダー的に最もロマンを感じる仮説についても、現時点で明確に否定する情報はない。ただ、走水第一・第二隧道が明治初期から存在しているという事実を前に、「穴1」「穴2」が隧道として利用された時期の想像が難しいという状況的な問題がある。さすがに江戸時代の隧道ではないだろうし……。



潜った穴へは戻らず、穴の前の落石防止柵に沿って既知の場所を目指した。
結局、柵に沿って30mほど進むと、見覚えのある場所に辿り着いた。

結果的に、この写真の場面で右の柵に沿って降りていくと、坑口とも呼べない状況の“穴”に辿り着けるわけだが、もともとここが道だったとは全く思わない。
柵だけでなく、その下の土留め擁壁や市道のために、一帯の地形は明らかに変化しているように思う。



7:25

その後は、土嚢を元通りにするために写真の場所へ戻った。
そして復元作業が終わった後は、手近なところから走水第一隧道の脇【この画像の左の柵の向こう側】へ降りた。
そこに道があったわけではなく、探索終了のため、ただ降りられそうだから降りただけだ。
結局のところ、土嚢が積まれていた穴の前の平場は、現状はどこにも通じていない孤立した平場であった。



7:28 《現在地》

で、降りてきた斜面を振り返って見て……仰天!

また穴があるじゃないか……。

…………

……完全にコンクリートで塞がれていて、入る余地はないが、おそらく見つけやすさならこれが附近で一番見つけやすい穴だろう。

ちょうど、「穴2」の南口の真下の辺り、走水第一隧道と同じ高さにあるが、坑口のサイズ感は「穴2」同様の小ささだ。
この穴を「穴3」とするが、対応する出口は未発見である。
仮に当初貫通していたとしても、出口を想定できる辺りは全てコンクリート擁壁に覆われてしまっているので、現存の可能性はゼロだ。



最後のオマケみたいなこの発見だが、やはり“虫取り少年”が通った可能性があるので、報告しておく。

……しかしぶっちゃけ、こう狭い範囲に穴が増えてくると、有難みが薄れるとかそういうこと以前に、やはりどれも隧道ではない気がしてくる。
この走水隧道が存在する山そのものに、穴がたくさん掘られる理由があったのではないか……?
そんな少し醒めた感想を持ちつつ、成果はあったが玉虫色の現地探索を終了した。

以上の成果を現在、情報提供者様に確認していただいている。
またそれと並行して、私の方でもいくらか机上調査を行っているので、次回その報告をもって一旦レポートを終える予定だ。
これを読まれた読者の皆さまは、これらの穴の正体は何だったと思いますか?



 〜机上調査編〜 見つけた穴の正体について (附)元“虫取り少年”さまの判定


いただいた情報を元に走水隧道の上部山中を捜索した結果、少なくとも1本は貫通状態にある穴が現存していることを確認した。

だが穴は、通常の廃隧道のように、旧道や廃道を辿って行って自然に遭遇するような立地にはなく、山の中に道から孤立するような形で存在していた。
これはいままで様々な隧道を探し当ててきた私にとっても、特異な存在であった。
それだけに、発見・探索を終えたあとも、穴の正体について、隧道以外の存在だったのではないかという疑念が強く残ることとなった。

だが、もしそうであるとすれば何であったのか。 ……机上調査を行った。




探索開始時点で既に、主だった文献に情報がないことは確認済だった。
具体的には、新旧が刊行されている横須賀市史の本編や、『横須賀再発見トンネルの風景』には、走水隧道の記述はあるが、その上部に別の隧道があるようなことは書いていない。
また、歴代の5万分の1地形図についても調査済で、縮尺の問題も大きいかと思うが、全ての版に走水隧道は描かれているが、その上部に別の隧道や何かの施設が描かれていたことがないことを確認済だった。

なお個人的に私が最も望んでいた“穴の正体”というのは、明治初期に水道隧道として建設された走水隧道が車道化される以前に利用された旧隧道というものであった。おそらくオブローダーの多くは、この決着にこそ最大の興奮を憶えると思う。
そのため、まずは国立国会図書館デジタルコレクションで公開されている『横須賀市水道史』にあたってみた。
同書には、明治初期の走水隧道の建造の経緯が事細かに記されていた。


『横須賀市水道史』より

嘉永6(1853)年のペリー来航に刺激された江戸幕府は、海軍力増強の必要性を痛感し、国内初の近代的造船所の建設地を当時一寒村に過ぎなかった横須賀に定め、フランス人技師ヴェルニーの協力のもと、慶応元(1865)年に鍬入れ式を行った。工事は間もなく明治新政府に引き継がれ、明治4(1871)年に第1号ドックが完成。この施設を横須賀造船所、または横須賀製鉄所といった。

事業拡大につれて施設は水不足となり、近隣に用水確保先を探したヴェルニーが目を付けたのが、約7km東に離れた走水の湧水だった。
明治7(1874)年に走水水源地より造船所まで専用水道の建設が決定され、同年7月に測量開始、翌8年4月から10月にかけて横浜の土木請負業北村市次郎の手によって、途中4ヶ所の隧道(合計680m)の掘り抜きが行われた。並行して貯水槽などの付帯工事や水道管の敷設も進められ、明治9(1876)年12月全工事が完了。自然流下式の横須賀造船所専用水道が通水した。

今日使われている第一・第二走水隧道の原形は、この工事で誕生した水路隧道である。
これは全長320mほどの1本の素掘り隧道だったといわれ、途中1ヶ所に海に面した明り窓があった。
水道には他にも3本の隧道があったようだが、いずれも後の開発で失われたという。

この専用水道は、水道管の口径を大きくするなどの数次の改造を受けながら造船所を支えたが、さらなる需要増大のため明治40(1907)年より新水源の捜索が始まり、遠く離れた丹沢山系の中津川を水源とする半原系統が計画された。こちらは明治45年着工、大正7(1918)年通水。翌8年、走水系統一式は横須賀市に貸与されることとなり、以後は専ら横須賀市の水道水源の一つとして今日まで稼働を続けている。

なお、水道用だった走水隧道が道路用に改良された経緯については実は情報が少なく、現地にある(本編中にも引用した)解説板の説明程度しか伝わっていない。
今回改めて文献を捜索したが、やはり新情報は得られなかった。
しかしいずれにしても、明治15〜16年(市史)ないし明治29年(現地看板)には、現在ある煉瓦巻きの2本の道路隧道へ大胆な変貌を遂げたようである。

結局、横須賀造船所の専用水道が建設される以前に、走水の海岸周辺に隧道があったというような記録は、見いだせなかった。





水道について調べている間、私は3枚の旧地形図の入手を手配していた。
それはこれまで調査済だった5万分の1縮尺のものよりも遙かに詳細さが期待される、25000分の1や10000分の1の地形図である。

昭和40年代以前、25000分の1の地形図は日本中をカバーしていなかった。
また、10000分の1地形図に至っては今日なお一部都市部のみの作成に留まっている。
だが、横須賀はわが国の国防において有数の枢要地と見なされていただけに、明治以来今日まで、これらの大縮尺の地形図が数回作成されてきている。
1枚500円という高額に耐えつつ、昭和25(1950)年版の25000分の1、大正10(1921)年版の10000分の1、明治36(1903)年版10000分の1の3枚の謄本を国土地理院から入手したのである。

さあ、走水隧道の上に何があったか、真実を見ようじゃないか!


(↓↓↓以下の地形図のうち、赤背景の3枚が、今回新たに入手したものだ↓↓↓)


@
地理院地図(現在)
1/25000
A
昭和25(1950)年
1/25000
B
大正10(1921)年
1/10000
C
明治36(1903)年
1/10000
C
明治15(1882)年
1/20000

私が出会った隧道は、やはり描かれていなかった。(涙)

が、それにしても、10000分の1の旧地形図はヤバいな。

明治や大正時代にこれだけ詳細な地図があるってだけで、なんか脳がバグる。
詳細度合いが想像以上だ。
まさか、様々な軍事施設の名称や配置まで描かれていようとは思わなかった。
戦前のBやCの地図を見ると、方々に小原演習砲台、小原堡塁、走水高砲台、走水低砲台、花立台砲台、探照灯などの軍事施設が、そのまま記されていた!
これらはいずれも帝国陸軍が明治中頃から終戦時まで運用していた東京湾要塞を構成していた施設である。
当然、戦前は一般人が見ることは許されない地図であったが、これが敵対する組織に渡ったらと思うと……、というか、渡っていたんだろうな……。

Bの地図には、今回探索中に歩いた浄林寺脇から防衛大学校の方向へ登っていく【小道】もしっかりと描かれており、その終点には小原演習砲台の記述がある。起点側には重砲射撃校の記述があり、若き砲手訓練生たちが連日あの道を通ったのだろうと想像できた。

しかし、こんなに詳しいにもかかわらず、やはり走水隧道上部には、私が出会った隧道はおろか、そうした軍事施設らしいものも描かれていなかった。


これはいよいよ迷宮入りか……?


とも思ったが、やはり気になるのは、走水周辺の軍事関連施設の多さである。
これだけ多数が作られる軍事上の要地であったなら、例えば太平洋戦争末期とかに作られ、地図に描かれる機会なく終わったものがあっても不思議ではない気がする。
戦跡という方面から、もう一度文献を探ってみることにした。

横須賀一帯の戦跡については、極めて詳しい決定版ともいえる文献がある。
横須賀市博物館が昭和29(1954)年に刊行した『横須賀市史No.8三浦半島城郭史(上)』ならびに同30年刊行の『横須賀市史No.9三浦半島城郭史(下)』だ。
戦後間もなく市内各地にまだ多くの戦跡が遺存していた当時編纂されたこの文献には、古代から中世近世近代現代に至る間に三浦半島内に造営された城郭(多くは戦闘を念頭に置いたもの)が豊富な写真付きで解説されており、極めて有用である。(以前、観音崎での調査に使ったので、その存在を知っていた)

手始めに同書から、旧地形図でその存在を知った「小原演習砲台」に関する記述を拾ってみよう。『城郭史(下)』に次の内容がある。

 小原台演習砲台
陸軍重砲兵学校演習砲台。同校東側、小原台の西北端、馬堀トンネルの上方尾根上にあった。二十四加四門砲台の右に二十八榴四門砲台がならんでおり、その中間及び両端に観測所があった。その他更に左方に観測所があり又小原堡塁の観測所を改良した観測所があった。走水低砲台あとには観音崎南門砲台から移した九速加四門演習砲台があった。

『横須賀市史No.9三浦半島城郭史(下)』より

ここでは、小原“台”演習砲台となっているが、興味深いのは、「馬堀トンネルの上方尾根上」という表現だ。現地に銘板があるでもない現在の走水隧道は、戦後間もない頃までは馬堀トンネルと呼ばれていた(あるいはそう通用していた)可能性がある。

ここで横須賀の軍事との関わりや、その戦時の展開を総括的に述べると膨大になりすぎるので、興味のある方はwikipedia:東京湾要塞をお読みいただくことにして、私はさっそく走水隧道周辺に何があったかに焦点を当てたいと思う。
『城郭史』に掲載されている、各年代ごとの城郭(戦跡など)の位置を示した図を、ご覧いただきたい。(↓)


@
江戸時代
(幕末)
A
明治〜
昭和戦前
B
太平洋戦争
終戦時

Bを見てくれ!

@の江戸時代幕末や、Aの明治〜昭和戦前には、現在の走水隧道の上部附近に施設はないが、Bの終戦当時を描いた図には、その位置に「□」の記号がある! 意味するところは、「狙撃陣地」だという。
『城郭史』は、太平洋戦争前後でAからBへ戦備が大きく変化する過程を次のように述べている。

従来の東京湾要塞は帝都及び横須賀軍港防禦の目的を以て、敵艦の浦賀水道強行突破に備えたものであったが、火砲の進歩と航空機の発達により、その意義を失い、長射程砲を湾口に備え、防禦航空機基地を備えてその意義を再確認せんとした。然るに大東亜戦争後半期の敗戦に次ぐ敗戦の連続は遂に本土決戦の止むなきに至らしめた。四周海をめぐらす我国はこれに備えて敵上陸防禦のための築城を必要とするに至った。これが沿岸築城である。要地に長射程砲及び機銃そ撃用の洞窟陣地を配し、その中間の砂浜地帯には厚いコンクリートに覆われたトーチカを配し、背後の丘陵には幾重にも抵抗陣地を構築した。東京湾口防禦の任務にある房総半島南部及び三浦半島においても同じくこのような築城が行われた。
(中略)
(三浦半島においては)全沿岸に渉って敵艦船接近の場合、これを撃滅するための砲台が配されていたこと、更に敵上陸の場合これを水際において撃砕するよう沿岸陣地が構築せられていたのである。

『横須賀市史No.9三浦半島城郭史(下)』より

そして、具体的には、馬堀、花立台、観音崎、鴨居、鳥ヶ崎、千代ヶ崎、久里浜湾内、千駄ヶ崎、金田湾内、高貫、岩浦、剱崎、城ヶ島、浜諸磯、三戸海岸、黒崎、長浜海岸、新宿、佐島、長者ヶ崎、小坪、稲村ヶ崎などに、洞窟陣地や臨時砲台、トーチカなどが建造されたことが列記されている。
このうち、筆頭にあげられている馬堀のものについての解説は、次の通り。

馬堀――トンネルを中心に洞窟陣地が構築されていた。此処に海軍の六〇粍位の砲四門が置かれ、そ撃用機銃陣地があった。

『横須賀市史No.9三浦半島城郭史(下)』より

これだろ……。

発見した穴の正体…。

穴の中の状況を振り返ってみても、途中に小部屋らしき空間があって、いまは激しく崩れてしまい原型を止めないが、おそらくその小部屋から海側へ複数の開口部が用意されていた雰囲気があった。
小部屋に砲台が設置され、開口部から砲撃を試みたのか、あるいは兵員が直接機銃で狙撃するための施設であったか。
近隣に発見された内部不明の他の穴の存在も、洞窟陣地だったとすれば納得が出来る。

ネット上にも、情報があった。
三浦半島の戦跡を詳細に調査発表されているデビット佐藤氏の「東京湾要塞 神奈川、千葉、東京の戦争遺跡」中の「本土決戦基地マップ【三浦半島】」に、狙撃用洞窟陣地として「馬堀洞窟陣地」が紹介されており、明らかに私が探索したものと同一の穴が見て取れた。(現在ほど内部が崩壊しておらず、複数の開口部を確認できたようだ)


[ 結論 ]

私が探索した穴の正体は、太平洋戦争末期に本土決戦用に建造された、狙撃用洞窟陣地だった。




さて、こういう結論に私は至ったが、そこで何より気になるのは、

そもそも探しに行った目的である “虫取り少年”が潜った隧道が、この穴であったかどうか ……である。

ずばり、この点を、情報提供者さまよりご回答いただきました。
なお、ご回答のタイミングは、この机上調査編の公開前、レポート本編「最終回」公開後であった。また、洞窟陣地ではないかという話を私からは一切していない。(情報提供者=伊勢涼香氏、 私が“虫取り少年”と呼んでいる人物は、情報提供者の同僚で、市民歴50年越えの人物)


情報提供者さまからのご回答は、次の通りである。


伊勢涼香氏からのメール(3通目:抜粋) 

伊勢涼香です。
探索並びにレポート執筆いただきありがとうございます。
早速、情報提供元に写真を見せながら改めて話を聞いてみました。

まず穴についてですが、古い記憶のため「そうだよこれこれ」とは流石にならなかったですが、投棄されたママチャリのサイズ感や、概ねの位置関係から、ヨッキさんが通った土嚢積みの穴で、ほぼ間違いないと思われます。
穴の正体については相変わらず進展はないのですが、読者の皆様がコメントやツイートで教えて下さっていた、「馬堀洞窟陣地」の地図や内部写真が今回の穴と似ていることから、それかもしれません。

また2回目のメールに記載した「(隧道は)2本ある」というのは、普通に考えれば2本貫通しているという意味ですが、今思えば坑内で分岐していることを表現していたのかもしれません。そうなると、「貫通していた穴とひと続きかもしれない」という部分との整合性もあります。
以上のことから、私と同僚は「未発見の隧道は、馬堀洞窟陣地の可能性が高いね」という結論に至りました。

しかしながら私は、今の今までその洞窟陣地のことはおろか、そういった構造物を戦時中に作っていたということすら知りませんでした。地元だしと高を括っていたこと、隧道かもしれないという期待が先走り、隧道以外の可能性を考えて調べをしなかったことも事実です。もう少し冷静になっていれば、もう少し視野を広げて調べられれば、今考えても遅いのですが、既に隧道と呼べるかも分からない穴のために、遠路遥々横須賀まで御足労お掛けしたこと、お詫び申し上げると共に、上司の50年来の思い出を蘇らせていただいたこと、私の疑問を解決に導いてくださったことに改めて感謝申し上げます。

純粋な隧道ではないだろう穴のために横須賀まで遠征したことへのお詫びが書かれていて、大変恐縮します! とんでもないことです。こういう情報を元に探索するのは最高に楽しいので、これをお読みの皆さまも、どしどし詳細不明の情報をお寄せいただければと思います! ヨッキれんが皆さまの手足&ヌコとなって調べますよ。

ともかく、今回探索した穴が、市民歴50年越えの同僚氏が少年時代に潜り抜けたものであった可能性は高い、とのご回答をいただいた。
なお、“2回目のメール”という話が出ているが、実は伊藤氏からは2回目の情報提供メールもいただいており、そこで同じ同僚氏の話として、「トンネルっつーともう1本あるんだよな、水源地の近くのところ」という爆弾発言(爆)が飛び出したということが書かれていたのだ。

この2回目のメールを戴いたのは探索後であったため、再度の現地探索は行っていないが、伊藤氏はこの「もう1本」も馬堀洞窟陣地であったのではないかと書かれていた。
なるほど、スッキリ、万事万態憂い無し。


ふぉふぉふぉ、

これにて、一件落着!





……とは、言えない気がするんだよな(笑)。


気になるのは、同僚氏が爆発させた2本目の穴の話である。
2通目のメールには、この穴について、同僚氏が語った内容が箇条書きで次のように列記されていた。

伊勢涼香氏からのメール(2通目:抜粋) 

隧道の情報をもらった同僚に、(私が伊藤氏に送った洞窟陣地の穴の写真を)「今もあったらしいですよ」と見せたところ、「こんなに埋もれてたかなあ(笑)、トンネルっつーともう1本あるんだよな、水源地の近くのところ。」と、これまた聞き捨てならない情報が飛び出しました。詳細な情報はないか聞いてみると……

  • 自転車を横にしてギリギリ入るかの幅で
  • 件の隧道とひとつの道を構成していた
  • 道は伊勢町バス停の近くから分岐していて、その道に入って1本目の隧道だった
  • よく分からないが、戦前か戦中の道だと思う
  • 何も無いところでチャリがコケるなど不可解な現象が起きていたことから、子供達の間ではお化けトンネルと呼ばれていた

とのことでした。



もしかしたら

その隧道は別に有るかも知れないよ。

……ということを、いま私は考えている。

今回色々調べていて偶然知ったのだが、現在の伊勢町と走水上町の間の旗山崎の付け根辺りにも隧道が存在したようである。
明治36(1903)年の10000分の1地形図には、この隧道が描かれている。

正体ははっきりしており、水路隧道である。
『横須賀水道史』によると、明治9年に完成した走水系統の横須賀造船所専用水道だが、増強のため明治28(1895)年に走水水源から700m離れた走水上町の覚栄寺裏山に新水源を求め、ここに貯水池と、従来の水道に接続する新たな2本の導水路トンネル(走水仲町〜破崎間の130mのものと、別に11mのもの)を完成させたという。

こちらは写真も残っている。(↓)




『横須賀市水道史』より

果たしてこの隧道は残っているのだろうか?



伊勢町バス停との位置関係などから、この水路隧道(跡?)が同僚氏の歩いたもう1本の隧道である可能性はあると思うが、「件の隧道とひとつの道を構成していた」とは言えないなど疑問はある。

水路隧道なんで今すぐ探しには行かないが、次に横須賀に行く時があれば確認したいし、もし読者諸氏が確認できたら教えて欲しい。

以上、今度こそ本編は完結だ。

皆さまも気になる穴の情報があれば、どんな些細なものでも良いので、私に探させてくださいね!

やっぱり穴は最高に興奮するぜ!





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