隧道レポート 初代・十石隧道(エンドレス) 前編

所在地 茨城県北茨城市
探索日 2016.04.18
公開日 2022.03.25

 十石トンネル北口 および 孝行橋


大正5(1916)年竣功といわれる初代隧道の南側坑口は、“沼”に浸かっていた。

いまはまだ辛うじて春先の静けさが空気を制しているが、もう少し季節が進めば、ゲコゲコッ グワッグワッ プーーン と、いろいろな騒音に覆われることが目に見えるような、生命を宿した沼だった。
しかし、本当に今日が探索に適していたのかについては、他の時期の水位を知らないので、正直なんともいえない…。もっと乾いている時期もあるのかも知れない。

とりあえず、成果の整理だが、初代隧道が開口していることは確かめられたし、物理的に侵入出来る余地もあった。
ただ、この身をなげうって突入するという決断をするには、まだ早い。
反対側の坑口の方が条件が良いかも知れないので、そちらを先に見に行こう。




2016/4/18 12:28 《現在地》

最新の地理院地図で細い沢のよう書かれている水の線が、実は初代隧道へ通じるエンドレスの軌道跡そのものであった。
軌道跡は100m足らずで現県道にぶつかり、水は路下の暗渠へ呑み込まれるが、軌道跡は消滅する。

先に見た旧隧道へ通じる旧道への分岐地点もすぐ近くであり、左の画像に表示した通り、3世代の十石トンネルへと通じる道が、そして坑口が、一望の範囲、ほぼ同じ高さに並んでいる。
この写真だと坑門は一つも見えないが、さらに藪の浅い時期で、かつ角度を上手く調整すると、3本が同時に見える。



反対側の坑口を見にいくために、この十石トンネルを潜る必要がある。
屈託ない現代のトンネルで、特筆すべき特徴見当らないが、ここでトンネル名の由来でも書いておこう。

この十石というのは地名ではない。
このトンネルの上の尾根に沿って、1本の水路が存在する。
寛文9(1669)年に完成した全長15kmほどの農業用水路であり、これによって開かれた新田の収穫高が約10石であったことから、十石堀と呼ばれるようになったそうだ。現在も利用が継続されており、世界かんがい施設遺産に指定されている。




12:31 《現在地》

全長207mのトンネルを潜ると、明るい平地に出る。峠道は全くなく、直ちに街だ。
そしてここに県道北茨城大子線との分岐があるが、県道日立いわき線は直進する。すると間もなく大北川に架かる孝行橋という名の橋があり、それを渡ると、かつての茨城無煙炭礦第二坑、エンドレス軌道の起点だった石岡地区である。

ここでUターンして、十石トンネルの北口の探索を行う。
右に並行している道路が見えるが、これが旧隧道に繋がっていた旧県道だ。
ゆーたーん。



3世代トンネル揃い踏み!

初代隧道だけは、藪が深いのか、土砂で埋れているのか、

ここからは見えないが、そこへ通じる切り通しの存在は明瞭だ。

見事な3世代揃い踏みの景色と言って良いだろう。


また旧隧道から行くことにする。



視界内のトンネルが、3本から2本に。

先に行った南口では新旧の坑口が50m以上も前後していたが、この北口ではほぼ横一線になっている。
こうして隣に並べると、いかにも旧隧道が小さく見えるが、昭和20年代の隧道と考えれば、小さ過ぎることはなかった。
そして、大正生まれの旧々隧道と比較すれば、倍は大きい。

ここでは、100年の間に、あまり長さが違わないトンネルを3回掘った訳だが、完成したトンネルの外見はこんなにも違う。
技術の進歩って、ほんと凄い。そして、世の変化は早い。
だから、100年後の道路風景を想像することは、道路における時間経過の専門家(笑)である私にもできない。 どうする? 100年後に真空のチューブの中を移動していたら。




南口はベニヤ板だったが、北口はしっかりとしたコンクリートの壁で封印されていた。
敢えて素材を変更した理由は分からないが、分からないと言えば、こちら南口同様に一度土砂で埋め戻してから、掘り返して閉塞工事を行っている。だからまた扁額などの坑門各所に土が付いている。

たまに両坑口でデザインが異なる坑門や扁額を見るが、本隧道には意図的に変えたところはなさそうだ。
南口銘板は土汚れで一部の文字が読めなかったが、こちらで読むことができた。竣功年の「昭和二十五年」に続く部分は「三月竣功」であった。

また、南口はベニヤ板に邪魔をされて見えなかったアーチ環を見ることができた。ヘラで描いたらしき厚さ30cmほどのアーチ環の模様が一部剥がれ、その下に隠されていた厚さ20cm程度の場所打ちされたコンクリートアーチ環の実体が露出している部分があった。現代のトンネルに比べると、やはり覆工が薄い。



続いて、隣に並んでいるエンドレス軌道の廃線跡へ。

こちら側には水は溜まっていないが、豪快に雑草が繁茂した長い切り通しであり、今の時期でなければ気軽に踏み込める場所ではないだろう。
ここは自転車を置いて、歩いて突入した。

エンドレス軌道の廃線跡と言っても、一般的な廃線跡と違った特徴はあまりない。
強いて言えば、複線だったのでやや幅が広いことだろうか。残念ながら枕木やレールは完全に撤去されていて跡形もない。バラストの足触りも感じられなかった。




さらに進むと、現トンネルと旧隧道の坑口が右に並んで見えるようになった。
初代隧道も、ほぼ横一線に並んでいるようだが、なんとなく暗がりが感じられるだけで、坑口はまだ見えていない。
とりあえず外に水は溜まっていないので、このまま開口してくれていれば、入洞の条件は悪くない。

頼むぞ〜! 

開口していろ!




12:34 《現在地》

あった! 開口している



ぐえーーーー。

先に見た南口と同じく、扉付きのフェンスで塞がれており、扉には南京錠が取り付けられていた。

が、もはや扉に意味はない!

大量の土砂がフェンスの下半分を埋めてしまっており、扉の開閉を不可能にしていた。

そしてこの瞬間に、確定してしまった。

私には、 しかないと。

まさに、「ぐえーーーー」な状況だった……。



まあ、探索者として、現実を受け入れる以外ない。

このうえで、入るか入らないかは、私の判断すべきことである。

決断の前に、せっかく現存してくれて“は”いた、この北口を愛でるとしよう。

小ぶりだが、よく整った美しい煉瓦坑門だ。
下半分くらいが土砂に埋れ、アーチ部分しか見えていないが、見える部分には破損や亀裂もなく、よく原形を留めている。

また、煉瓦の鮮やかな赤色が良く残っている。
鉄道用の煉瓦隧道には、蒸気機関車による煤煙の汚れを恒久的に残しているものも多いが、本隧道は大正時代生まれの鉄道用隧道ながら、煤煙とは無縁であっただろう。
これが、動力車を持たないエンドレス軌道ゆえの美しさだったのかと思うと、一層意義深く見える。行き交う貨車には常に、蒸気機関車で使えば強烈な煤煙を生じることで知られた常磐炭を満載していたにも拘わらず、この隧道はこんなにも汚れていない。→常磐炭で灼け付いた隧道の例




構造的な面で特筆すべき要素はなさそうだ。
坑門の平らな面(スパンドレル)の煉瓦は一般的なイギリス積みで処理されており、上部には煉瓦の笠石が2段階に突出している。

アーチ環は煉瓦を四重巻きにしたもので、断面の小ささの割にぶ厚い感じを受ける。地質があまり良くなかったのかも知れない。
要石や扁額はなく、装飾的な要素はほとんど持っていない。それでも、煉瓦隧道というだけでこれだけ見栄えがする。
これは素材の強みであると同時に、一つ一つ手積みをするより方法がなかった時代へ敬意でもある。私の目には、敬意が形をもって見える。




洞内は……

闇。

出口の光は見えず、また視線が届く範囲に土砂の壁も見えなかった。

しかし、風が感じられなかった。

また、フェンス越しに流入したのだとしたら、非常に流動性の高い土砂だったと思うが、洞内もアーチより下が土砂に埋れていて、天井の高さは1.5mくらいしかない。
目の前に存在する洞内を、立ち入って調べることができないもどかしさ。

……あの沼を、どうにかしないといけない……。



12:39 《現在地》

この表題でレポートを開始した以上、もう皆様の中には、次に現われるべきシーンが、楽しげに想像されているかと思う。
私がシチューに煮込まれるシーンを。

期待に応えられず申し訳ないが、もうちょっと待て。待ってくれ。
まだ早いんだ。
ここで沼に入ると、たぶん困ったことが起こる。
覚悟は決めたんで、入るは入るが、まだ早い。もう少しだけ待って欲しい。

再び自転車に跨がり、十石トンネル群を後にする。
写真は振り返って撮影したものだ。
トンネルを離れるとすぐに大北川を渡る橋がある。
現在の県道の橋は新孝行橋といい、平成15(2003)年竣功の銘板がある。
この名前から分かるとおり、旧の孝行橋が隣に……



ナイヨー。

あったんだけど、この探索のごくごく直前に撤去されてしまった。
数枚前の写真に、「旧橋を撤去しています」と書かれた工事看板が写っているくらい、最近の出来事だった。

本来、いまの十石トンネルと新孝行橋は同じバイパスの構成員であり、平成2年にバイパスが着工した当初から計画があったが、完成は平成7年と15年という具合に8年も離れており、供用も段階的に行われた。そのため、ネット上にあるエンドレス軌道跡の探索(shige氏のサイト「浪江森林鉄道〜古の鉄道を訪ねて〜」より)にも、この橋の在りし姿が登場している。

上記サイトなどによれば、旧孝行橋は現在の橋とほぼ同じ長さ、高さのコンクリート桁橋で、幅は2車線ギリギリくらいだったようだ。
そして、旧橋と極めて近接した下流側には、基礎の部分が石造である高いコンクリート橋脚が2基、桁を乗せずに残っていた。
それこそが、エンドレス軌道の橋脚(旧々孝行橋の橋脚)ではないかと推測されるものだった。

しかし、残念ながら、現在では旧橋と一緒に橋脚も撤去されてしまい、上記の旧々橋の橋脚と考えられていたものも見ることができない。
残っているのは、両岸の橋台だけであるが……。



ムムムッ!!!

唯一残された橋台に、1本の橋が生きた長い歴史が見事に印像されていた!

そのことに気づいた瞬間、私は震えるほどの衝撃を受けた。興奮というよりはもっと静かな、目の奥が熱くなるような感情の震えを持った。

一見、桁という主を失った空しい壁に見える橋台の前面だが、よく見ると、4つの部分の集合であると見て取れた。画像は国旗ではないぞ。

まるで核のように中央に収まっている、荘厳な石造部。それこそが本橋における最も古い部位、大正5年竣功の初代・孝行橋を支えた橋台に他なるまい。
そして、その初代橋が、木の斜材に支えられた木橋であったことが、斜材受けの窪み(コンクリートで埋められた跡がある)によって現わされていた。

実は、初代橋の貴重な姿を撮影した絵葉書が、前掲のサイトに掲載されているので、ぜひご覧いただきたい。
その姿は、まさしくこの橋台が物語る型式の木橋であった。

そして、本橋はこの核となる部分を再利用しながら、少なくとも3度の拡張を受けた形跡があり、極めて興味深い。
最初の拡張は、上流側にコンクリートの橋台を延長することで、桁を倍近い幅にすることだったのだろう。
だが、この段階ではまだ木橋であったようで、位置を変えた斜材受けの窪みが残されていた。
おそらくだが、昭和25年に道路の十石隧道(旧隧道)が建設された時期に、エンドレスと道路を併設するべく、橋を拡幅したのではないだろうか。


反対側の橋台にも、こうした複数回の橋台拡張の痕跡が残っており、対岸の橋台と完全な対になることで、私の想像を支持した。

おそらく次の段階の拡幅は、下流側に橋台を増設したようだ。
この拡幅によって、橋の幅は当初の3倍にもなったと思われる。
これは想像だが、道路交通量を確保するためにエンドレスの軌道を下流側の増設部へ移設し、もとの橋の幅を全て道路としたのではないだろうか。

ただし、次の最終となる第3段階の拡幅によって、この下流側の増設部分は使われなくなったようだ。
第3次の拡幅では、再び上流側に幅を増設しただけでなく、初めて橋の高さの嵩上げが行われたようである。
当然、橋脚も作り替えられただろうし、桁も載せ替えられたであろう。

おそらく、この時点で既にエンドレスが廃止され、道路単独の橋となっていた。
残念ながら旧孝行橋の竣功年の記録(銘板の竣功年など)は未発見だが、もし残っていれば、この最後の拡張が行われた年が刻まれていたと思う。

まとめると、最初はエンドレス単独の木橋であったが、拡幅されて道路併設の木橋へ架け替えられ、次にエンドレス用の橋を下流側に増設し、その次にエンドレスの橋を撤去しつつ、道路単独の橋を拡幅&嵩上げしたのだと、この2基の橋台から推理することができた。 廃道探偵ヨッキと呼んでくれ。


@
平成24(2012)年
A
昭和50(1975)年
B
昭和36(1961)年
C
昭和23(1948)年

上記の推理を確認すべく、歴代の航空写真を見較べてみた。
橋だけでなく、周辺環境の変化も見ていただければと思う。

@平成24(2012)年は、ほぼ現在の状況であり、新孝行橋が存在する。だがまだ旧橋は撤去されていない。

A昭和50(1975)年は、旧橋が現役だった時期であるが、橋の下流側に並んで未使用の橋脚が2基並んでいるのが写っている。これが、エンドレス用の第2次拡幅の部分だろう。

B昭和36(1961)年は、この写真のエリア内の炭鉱が閉山して間もない頃だと思われるが、大量の鉱山住宅がまだ残っている。旧橋はAよりも明らかに幅が広く見える。頑張れば橋の型式まで見えそうな気がするが、きついかな。なんとなくポニートラスっぽい気がするんだがな…。どこかにこの頃の橋の写真が残ってないだろうか。

C昭和23(1948)年は、戦後復興に炭鉱が燃え上がっていた時代だ。当時ここには常磐炭礦茨城礦業所中郷礦第六坑が24時間体制で操業しており、エンドレスも昼夜分かたず稼動を続けていたはずだ。
石炭の熱を全身にみなぎらせて、日本は甦っていった。



 撤去前の旧孝行橋の姿には、強烈なインパクトがあった!

このレポートを公開後、「千葉県の近代産業遺跡」の管理人さまから、旧孝行橋の撤去される以前の写真をご提供いただいたので、紹介したい。
右の画像がそれで、撮影日は平成21(2009)年3月14日だそうだ。

この橋、より正確にはこの橋の橋脚を見て、なんじゃこりゃー!という叫びが出ぬ者はないだろう。
そのくらい、インパクトのある橋脚だった。
現在は根元から撤去されてしまい、もう二度と見られないのがなんとも惜しい…!

本橋の両岸にある橋台には、少なくとも3回の増設や拡張を受けた形跡があることを本編で紹介したが、河中に2本存在していた橋脚もまた、フランケンシュタインの怪物を思わせる奇っ怪な姿をしていたのだ。

二つの異なる高さを持つ橋脚が、一つの構造物のようになっている。
最終的に使われていたのは高い橋脚の部分だけで、まるで切り欠きのように見える低い部分は使われていなかった。

この状況は、本編で推測した本橋の経歴と合致する。
本橋が最後の改築を受けた際、橋全体が嵩上げされて橋脚もより高くなったが、既にエンドレス軌道の廃止によって不要になっていた下流側の部分は放置され、もとの高さのままとなった。
それでこんな形の橋脚になったのだろう。
なんとも面白い歴史を秘めた橋脚だったのに、本当に勿体ない。

「千葉県の近代産業遺跡」管理人さま、ありがとうございました!





新孝行橋を渡った私は、エンドレスの起点であった炭鉱跡地を見て回った。

そこは新興住宅地や空き地になっており、軌道跡らしき道形が残る部分もあるが、エンドレスならではというような遺構(曳索所など)は見当らなかった。
写真は、真新しい住宅地にあるバス停。
バス停名は、「常磐炭砿前」である。風景は変わっても、バス停名は変っていない。




いくらかは炭鉱時代の施設が残っており、写真は「六坑区世話所」の看板を掲げた木造平屋。
先ほどのBやCの航空写真に写っていた、膨大な建物の中の一つだ。それが残っていた。




第一次探索、終了。





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