隧道レポート 新潟県道45号佐渡一周線旧道 大山隧道群 最終回

所在地 新潟県佐渡市
探索日 2013.05.27
公開日 2013.12.15

第三大山隧道は現存しているのか…?


がむしゃらによじ登った崩土の山から、旧道があった辺りの高さを、海と一緒に見下ろしたのが左の写真だ。

この足元の大規模な土砂崩れがいつ発生したものかは記録がないが、少なくとも現在の道が開通する前ではなかった。
その点は、よく似たシチュエーションである大崩海岸よりも恵まれていたというか、救われたと言えるだろう。
そしてもちろん、危険が迫る旧道に甘んじることなく、佐渡随一と言える規模の黒姫大橋を先回りして完成させていた人智は、高く評価されていい。
おかげで、人命を含む多大な喪失を回避することが出来た。

第二大山隧道は、使命を全うしたうえで地中へと帰還したのである。




2013/5/27 11:50 《現在地》

完全に失われた第二隧道北口を地中に想像しつつ崩土の山を海岸線近くまで下った地点に、明確なる平場を認めた。
どうやらこれが、この鋪装があったのかさえ定かではない草生いの5m四方平場が、昭和62年に廃止された旧県道のようだ。

そして実はこの地点には、端から見なければ決して気付けない、ある遺構があった。
ここは、橋なのである。
私がその事に気付くのはもう少し後だが、欄干も親柱もない橋は、まさに“忍び(草の者)”のように草むらと同化していたのだった。




第一から第三まである大山隧道も、今や最も短い第三を残すのみとなった。

だが、道路上の夏草の茂りや倒木が激しく、視界は極めて限られている現状では、もう間近であるはずの坑口がまるで見えてこない。
第二隧道にはそっぽを向かれてしまったので、せめてこの第三はものにしたいが、これまでのパターンから行くと、やはり廃止後一度は木柵で封印されたことだろう。
現存していたとしても、またも坑口の前で指をくわえるハメになるのだろうか…。

…いや、そもそもこの荒れた状況で坑口と分かるものが残っているかどうか…。

この時は第二隧道の落胆を引きずった状態であったから、隧道遭遇への期待感よりも、落胆に対する予防線的なローテンション状態であった。




シッポピーン!!!

キタキターー!!

第三隧道と思しき黒の塊が、うねる樹枝の向こうに見逃しようもなく見えてきた。

黒い = 開口している → 大興奮!!

しかし、これが本当に今までの続きの第三隧道か?!
なんか、まるで素掘の隧道のようにしか見えないのだが…。

果たしてその正体は!!




間違いない!

これが大山第三隧道だ!

遠目には素掘と見えたのも道理で、第三隧道の坑口には坑門といえるような平らな壁が無く、柱状節理の厳つい岩盤に直接坑道が刺さっていた。
だが、その坑道はコンクリートで覆工され、確かに第一第二隧道と同じ流れをくむ道路のトンネルであった。

そして何よりも雄弁に隧道が近年まで使われていたことを教えてくれたのは、この坑口に取り付けられていた「警」の文字がペイントされた小さな金属の箱だった。
これは見慣れたアイテムで、都道府県の公安委員会(警察)が設置した信号機の制御箱に違いない。「警」とは警察のことだ。

しかし辺りに分岐などはないし、トンネル内信号機が必要なトンネルの規模でもない。
ということは、かつて第三隧道付近では信号機による片側交互通行が行われていた可能性が高い。
(第一第二隧道についても同様だったかも知れないが、痕跡は見られなかった)





こ、 この立地条件は…。

ハードモードである。

岩盤はかなり堅そうで、隧道自体は結構安泰なのかも知れないが、
坑門上に数十メートルも続いている滑らかな斜面は、繰り返された雪崩で研磨されたものに見えた。
もしそうであるなら、この隧道は冬場から春先が、 や ば す ぎ た だろ…。


振り返って見た、坑口前の旧道風景。

もう聞き飽きたと思うが、今から25年ほど前まで車道があったようにはとても見えない。

路盤は確かにあるのだが、海と山と両側から激しく叩かれ、もはや風前の灯火以下の頼りなさだ。
確かにこれはハードモード。
海が荒れれば路肩を掬われ、山が怒れば土石に埋まるのだから、ここに誕生した道は本当に気の毒であった。そしてよく使命を全うした。



さて、本日二度目の侵入開始。

崩土の山を乗り越えるようにして洞内へ入り込むと、まず猛烈な濃霧に視界を遮られた。
照明を消せば霧は目立たなくなるが、代わりに何も見えない闇に覆われて全く意味がない。

この激しい霧は、外気との温度差だけでなく、空気が滞留している事も意味していた。
つまり、奥は閉塞しているのだろう。




霧の正体はただの水蒸気と分かっていても、余りの濃密さに視覚から息苦しさを錯覚する。
思わず喘ぐように振り返ると、海際とも思えぬほどの鮮やかな木の緑が、私の不快感を振り払ってくれた。

なお、案の定この坑門にも木造の閉塞壁があったが、ここでは外から押し寄せた崩土(と雪が)が押し倒したもののようである。
核心の第二隧道だけ、まだ頑張っちゃてるんだな… 閉塞壁。



外気との温度差が霧の発生原因なので、洞奥へ進むと次第に薄まった。
そして代わりに現れだしたのは、コウモリの大群であった。

コンクリートで巻き立てられたトンネルは、彼らが落ち着けそうな狭い隙間も少なく、余り居心地が良さそうには見えないのだが、佐渡島におけるコウモリ発見第1号(あくまで私にとって)は予想外の大豊作であった。
そして冬眠から醒めた彼らは元気がよく、私の頬にもタッチする勢いで乱舞した。
例によってたじろぎはすれど、止まりはしない。この闇のゴールを見届けないと。




コウモリを払いのけながら進んでいくと、坑道の奥に何かぼんやりと見えてきた。

その正体は、天井までぎっしりと積まれた土砂の山。
案の定、第三隧道は(も)閉塞していたのであった。

整然と積み上がった土砂や亀裂もない内壁の様子から、これは崩壊による閉塞ではなく、人為的に埋め戻したものと判断された。
せっかく隧道自体は崩れずに残っていたというのに…。
逃げ場を失ったコウモリたちの狂乱が少し哀れかつ怖ろしく思えてきたので、長居はせずに引き返すことにした。
特に何の救いも面白みもない、この道の果てであった。



閉塞壁を背にして入ってきた坑口を振り返る。 第三隧道の全長は50mと記録されているが、ちょうど私が歩いた距離もそれに匹敵しそうだ。
つまり、閉塞地点は北口だと考えられる。
しかし外にも何かしら遺構があると思うので、それを見つけるのが、ここでの最後の目標になるだろう。

結局、3本の隧道は確かに存在したものの、通り抜け出来たのは第一隧道だけという結果であった。


――撤収開始。




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黒姫集落で出会った、最後の遺構


12:03 《現在地》

距離的には第一隧道の南口から第三隧道の北口までわずか500mにも満たない旧道であるが、ここまで一通り見終えるのに50分を要している。
そして第三隧道の北口を確認すればいよいよ終了だが、すんなりここから行くことは出来ないのだった。

なぜなら、第三隧道が通り抜け出来ない以上は海岸線を迂回するしかないのだが、今日ほど申し分のない海の穏やかさでも、濡れずに磯を通りぬける余地は無かった。
だから一旦引き返して、黒姫大橋を渡り直さないとならない。

でもまあいいか。
どうせ一度は第一隧道に戻らなければならなかったのだ。
自転車を置き去りにしているからな。



なお、海岸線から第三隧道を見ようとしても、樹木が邪魔をして見る事が出来ない。
ちょうど矢印の辺りにあるのだが。
したがって、現道から坑口を目視することも出来ないだろう(冬期間は見えるかも知れない)。




そしてこれが、今回冒頭のシーンに登場した “橋” である。

第二隧道北口付近を埋没させた巨大な土砂崩れの裾野部分が路面を埋めてしまっているために、上に立ってもそれが橋とは気付き難い状態になっている。
元もと欄干があったのかも分からないが、無名の沢を渡る小さな橋に敬礼だ。




それからここまでの探索の反対方向に浜を歩いて、第一隧道を目指す。

この日の海の静かさは本当に驚くべきもので、引いては返す波もほとんどなく、潮騒というものが皆無だった。
そのため探索中に耳に届く音はと言えば、ときおり海上を走り去るクルマの走行音と、上空の海鳥のこえくらいであった。




「陸から旧道への接近は難しい」という当初情報の真偽に拘りたい私は、素直に来た道(第一隧道)へは戻らず、そのまま磯辺を歩いて黒姫大橋の下から現道に出られるか試してみた。

その結果、こちら側の往来は可能である事が確かめられ、仮に第一隧道が封鎖されたままであったとしても、陸路のみで第二隧道へとアプローチ出来ることが分かった。
だがだからといって、「陸から接近が難しい」という情報が間違っていたとも、誇張であったとも私は思わない。
左の写真をよく見て頂きたいが、今の海面が満潮で30cmほど上昇したり、波の高さがもし同じくらいあったとすれば、この磯辺の道は即座に跡絶えてしまう。
そしてその時は完璧に陸路では辿り着き難い地形である。
おそらくこの日の私の探索は、(偶然にも)極めて限定的に恵まれた条件の下で行われており、その状態でようやく南側のみ海岸線から細々とアプローチ出来たと言った方が良い。

そもそもの話。
ここが問題無く海縁伝いに歩けるのなら、古の住民たちはわざわざ岩山の上に大山越えなどという巻き道を用意して往来する必要は無かったはずだ。
そこから考えても、私は極端に恵まれた日和に探索をしている。






12:18 《現在地》

約1時間ぶりに現道へと戻ってきた。
資材置き場から自転車を回収することも、当然忘れてはいない。
いつかまたここへ来て第二隧道の謎を解き明かすことは誓ったが、それは今回の旅の中ではない。
今回の旅ではもうここへ来ることはないと思うから、この大山の眺めも、これからの黒姫大橋で見納めだ。

昭和62年完成の黒姫大橋は、その工事中に編纂された両津市誌に建設中の写真が掲載されているほど、同市にとって重要な次世代の橋であったと思われる。
その四隅の親柱には、両津市の市章を象ったものが誇らしげに掲げられていた。(なんかカタツムリみたいだが)




海上から眺める旧道は、実際にそこを歩いてみたときの感想と同様、自然の暴力の凄まじさを印象づけた。
これほど穏やかな日和に眺めてなお、この感想なのである。嵐の日にも通らねばならなかった昔人の苦労や如何ばかり。

そもそも、旧道が地表を通っていたのは3本の隧道の僅かな間隔の部分だけであったのだが、
その隧道が埋まっているはずの斜面が大荒れで、地中にあるものを無事に温存している保証はなかった。
そして僅かに地表に露出している旧道は瓦礫と緑に没していて、少しも路面らしいものが見えなかった。

この黒姫大橋こそが、明らかに理想的な最適解であった。
しかしそこへ辿り着くために多くの時間を要した事も、やむを得なかった。
人が海の上に安全な橋を架せるようになったのは、現代の事柄だ。




約300mの黒姫大橋を渡りきると、そこは既に黒姫集落の外れであった。
行く手には最初の人家が見えており、右手にはコンクリートで突き固められた漁港が広がっている。
旧道を意識するきっかけを得にくいクルマの旅だったら、このまま行き過ぎたに違いない。
だが、私は置き忘れたものがある。

出口を塞がれてしまった大山第三隧道の北口が、この辺りのどこかに埋もれているはずだ。
それを確認するまでは、この場所から心を離すことは出来ない。

どこだ。 どこに埋もれている?
左側の法面をじりじりと注視しながら、ゆっくり先へ進んでいった。




橋から 10… 20… 30メートル…

……無いぞ。

コウモリ達がさんざめくあの空洞とは、余りにもかけ離れた明るい現代の道路が、見渡す限りに続いていた。
おすまし顔で、旧道なんてありませんよと言いたげだ。
まさか… まさか第三隧道の北口は、完全に痕跡を埋め戻されてしまったのだろうか。

…いやな汗が、出る。

そんなぁ… あり得るとはいえ、ちょっと締まらないなぁ。

この写真の左の白い防護柵の辺りに見あたらなければ諦めるしかないだろうと、そう思って覗いた。





12:26 《現在地》

何かある〜!!

明らかに現道とはかけ離れた時代の意匠を纏った、

疑いようもない “ 何 か ” が!!!


そしてそれは、よく見ると…

想像以上に凄いものだった!




“何か”の正体は、大山第三隧道の北口坑門の埋め残された上部であった。
そこまではまあ、予定調和的で、予期されていた発見である。

だが、その意匠はと言えば、私の予想を遙かに上回る出来映えだった。



まず扁額よりも先に、一番に目に付いた、そして驚かされたのは、坑門の意匠に鋸状の飾りが施されていたことだ!

ここから少しマニアックな土木の話題になるが、このように笠石の下に飾り付けを行うのは、明治期の鉄道用煉瓦隧道でしばしば用いられた定番の意匠で、もとは帯石の代わりであるらしい。
一応、(帯石と同じく)水垂れを防ぐ機能もある様だが、大体は美的な目的であろう。
そして、この鋸状の飾りよく似た歯状の飾り(前者の平面形は「△△」だが、歯飾り(デンティルとも)は「凸凸」となる)とともに、煉瓦の配置によって表現された煉瓦ならでは意匠だったが、人気があったためか、やがて煉瓦からコンクリートの時代になってからも、特に古風な美観を添えたい場合に用いられる事があった。
例えば昭和5年に完成した東京都千代田区の万世橋に例がある。

翻ってこの大山隧道は、昭和2年の完成である。
そして、煉瓦ではなくコンクリートの隧道である。
鋸状の飾りを有するコンクリート隧道坑門は、極めてレアである。少なくとも私は見覚えがない。
土木遺産級である(埋め戻されていなければ!)。

この意匠の一点からも、佐渡民の本気を私はここに見た!!

佐渡には煉瓦隧道はおそらく存在しない。一般の鉄道も敷かれた事がない。
そんな中でこの意匠が佐渡に存在するとは、全く予想外であった。
小さな、ともすれば「ふうん」で済まされそうな意匠だが、私は興奮してしまった。



鋸状の飾り付けが、知る人ぞ知る隠れたお洒落だとしたら、この堂々たる御影石の扁額は、誰もが認める「格好良さ」に満ちている。
掲げられた「大山隧道」の四文字も、きっと達筆だと思う。私に書を解する目がないのが口惜しい。

最後の最後で、ようやくこの素晴らしい坑門(の一部を)はっきりと愛でる事が出来たのが嬉しかった。
おそらく最初に出会った大山第一隧道の南口のロックシェッドに隠されてしまった部分にも、これと同じ扁額や飾り付けが眠っているのだろう。
向こうは隧道の坑道が健在なのに意匠は見る事が出来ず、こっちは意匠は完璧だが、坑道は埋められている。

それにもう一つ、扁額から重要な事に気付かされた。
ここにある3本の隧道は、まとめて「大山隧道」であった事だ。
第一〜第三というのはあくまでも道路管理上の便宜的な区分であって、この扁額が掲げられた昭和2年の当時、何本の隧道からなっていたのかも定かではない。

改めて思い出して欲しい。
北口にこの堂々たる意匠を誇る第三隧道の、その南口の姿を…。

不釣り合い過ぎる両坑口のデザインも、大山隧道として飾るべき部分がどこであるかを考えれば、決して不自然ではない。
財にものを言わせ…た訳ではないにせよ、半ば機械的に全ての坑口を飾り立てる事も、明治の鉄道隧道などでは普通に見られる。
だが、文字通りの地方道であるこの隧道が、あからさまな贅沢を避けた事も、私は好きである。




まさか、埋め戻されて出入りの出来ない坑門の跡で、こんなに語れるとは思わなかった。

そして、語り尽くせぬこれら隧道への愛着は、まだ終わらない。
坑口から20mほど黒姫側に離れた現道路傍の草地に、旧道沿いから移設されたと思しき一枚の碑(いしぶみ)あり!
この石碑、今回の大山隧道探索の最後の1ページを飾るものとなった。

ちなみに、移設と考える根拠は、この位置が旧道時代には空中であったとしか思えないからだが、そもそも現道建設中や、開通直後の旧道がどんな感じで存在していたのかが興味深い。
埋め戻されてしまったのは、ずっと近年の事なのかも知れない。

さて、石碑である。




碑は案の定と言うべきか、大山隧道の建設工事で命を落とした作業員の慰霊碑だった。
探索中も、これは難工事だっただろうなと思わせる場面が多くあったが、やはり命がけの事業であった様だ。
右に碑の全文を書き出してみた。

 昭和二年八月十八日就業中没行年十九
 浦川文殊院檀徒法名即岸護道居士
隧道工事殉難者平片伊作君碑
 加茂村平松平片伊助二男  
    昭和九年五月建

    発起者
      黒姫一同
      佐藤寶秀
      田村逸明
      川上○○
    石工佐藤仁久治

工事も終盤にさしかかっていたはずの昭和2年8月18日は、夏の暑い日だったろう。
その日、当時19才の作業員平片伊作さんが、この現場で「殉難」した。

彼の住まいは加茂村平松にあり、そこはこの現場から僅か4kmほど両津市側に行ったこの道沿いだ。私も今日通ってきたので良く覚えている。
年齢的にも、近接地の住人であることを見ても、専門の土木作業員ではなかったと思う。
どんな事故であったかは全く触れられていない。
そして彼の法名は、即岸護道居士である。
即・岸・護・道の四文字には、彼の最期の地に込められた願いが見える気がしてならない。

なお、碑の建立は事故から7年後の昭和9年5月である。
なぜ開通から遅れて建碑されたのかは不明だが(おそらく費用を集める時間が必要だったのだろう)、その発起者の一番目には、(彼の住まいがあった加茂村ではなくて)工事の現場で、かつ完成した隧道の恩恵を最も受けた「黒姫(の住民)一同」となっていた。その事が一層私の胸に迫った。
そしてこの碑は旧道が自然の猛威に叩きのめされ、人為的にも失われた今もなお、新装なった県道を見守り続けている。
往来の無事は、俺が守るとばかりに。




本編の最後は、黒姫集落から振り返る黒姫大橋と大山越え。

手前に明るい漁港があり、防波堤や大きな橋が視界の中心を占めるせいか、反対側から見たときのような険しい難所のイメージはない。

だが、このような集落安全の牙城を築き上げるまでに、多くの苦難と忘れがたい犠牲があったことを見逃す事は出来ない。





事前情報からの期待感に背かぬ凄絶な実景を存分に見せつけた大山隧道群であるが、レポートの最後に後日の机上調査から明らかになった少しの事柄を追記しておこう。



『両津市誌 町村編下』(昭和58年/両津市役所発行)より、
「大山隧道と黒姫大橋の基礎工事」という写真。

『両津市誌 町村編下』(昭和58年/両津市役所発行)は、黒姫集落を紹介する冒頭でこう書いている。
両津の埠頭から加茂線のバスで、内浦海岸を走ること四十分、長い大山トンネルをぬけると、右手に防波堤に囲まれた漁港が見え、道の両側に家々が立ち並ぶ小さい部落に入る。これが「黒姫」である。

当時、黒姫大橋はまだ建設中で、右の写真の様に基礎が完成したばかりであった。
この写真の背後には現役末期の旧道が見えるが、地上のアイテムは現在とあまり変わっていない。当然である。
写真の左に第二隧道の護岸擁壁が見え、右端にはあの小さな橋が見える。

しかし今と大きく違っている点もある。
それは、小さな橋のすぐ左に、一帯で最も目立つ巨大な岩峰が存在していた事実だ。
おそらくこれこそが「鬼の面」と称されてきた天然の尤物であったが、その崩壊は第二隧道の北口を巻き込んで、地形の印象さえも大きく変えてしまった。
これほどの崩落であるから、当時の新聞記事には何か記録があるかも知れない。(未確認)

このレポートの初回で「鬼岩城に挑む」などと煽ったのも、この地がかつて「鬼の面」と呼ばれる奇景であり難所であったからだが、探索開始時点でそれは既に消滅していたのだった。
…煽ってゴメンね。 でも、好きなんだよね、こういう分かり易く難所っぽいネーミングが。鬼だぜ。鬼!!



『両津市誌 町村編下』(昭和58年/両津市役所発行)より、
黒姫地区の地図。

だが、大崩壊までは確かに「鬼の面」があったらしく、同市誌の黒姫地区の地図(←)にも、この通りである。

また、隧道の名前となった「大山」だが、地形図には出ていない地名であり、実際に大山という山があるのか、それとも単純に険しい山道(の在処)を称してそう呼んでいたのかが疑問であった。
この地図を見る限り、地元では大山第三隧道が裾野をくぐる標高166.6mの山を、大山と呼んでいるようである。
そこから大山隧道という名前が付けられた可能性が高い。
(しかし、険しい山越えの道が通る場所という意味で大山と地名が付けられた可能性も捨てきれない。ニワトリとタマゴの関係である)

また、この地図は大山隧道を「黒姫トンネル」と誤表記している。
結局のところ、この大山という地名は、大山越えが廃止された昭和初期の時点で旧化が始まり、その後の黒姫大橋が大山大橋と呼ばれなかった事からも分かる様に、遠からず消え去る定めなのだと思う。

市誌の類には写真一枚も残っていない「鬼の面」は、江戸時代末期の紀行文(越後国雑誌)にも次の様に現れている。
当村(黒姫のこと)海際浜形に家あり。後ろ少々田方にて直に山なり。波打際より家まで四、五間。貧村に相見へ、村内に黒姫川と言うあり。鬼の顔と言う岩あり」と。

顔なのか面なのかはっきりしないが、ともかくそういうものがあり、同市誌はそもそも大山とは鬼山の転化などとも言われている、と紹介している。またこの集落の伝承として、鬼が田植えをした田んぼがあるとのことだ。


…というように、各集落史について結構詳細な『両津市誌 町村編』であるが、大山越えや大山隧道に関しては単に「昭和2年に大山隧道が開通した」という一文があるのみで、他には黒姫大橋の着工が昭和53年であった(つまり完成まで9年も要している)事くらいしか記述が無く、それ以上の交通史上の出来事は分からなかった。
集落にとって、これら道路事情の改革は一大事であったはずだが、道は暮らしの中の日常にあるもので、敢えて集落固有の歴史として記録される事は多くなかったのかも知れない。
あんなに立派な、本土に連れて行っても誇るべき隧道が目の前にあり続けたのに、余りに近すぎたのだろう。



大山隧道の机上調査は敢えなく壁に突き当たってしまった(第二隧道にも入れず今はここで止まっている)が、『両津市誌下巻』(平成元年/両津市役所発行)によると、この大山隧道を抜けた黒姫集落は長い間、両津から北へ向かう路線バスの終点として人々の記憶に刻み込まれた地名であったようだ。黒姫は佐渡における車交通の一つの果てであったのだ。

大正3年に両津港から工事が始められた県道(当初は馬首線と呼ばれたがすぐ海府線に改称された)が、加茂村の歌見まで達したのは大正14年だそうだ。
それから大山隧道の難工事があって、内海府村黒姫まで(海府線と呼ばれていた)が開通したのは昭和5年とされている。
(『大鑑』や『町村編』では開通が昭和2年とあり、一致しないが、どちらが正しいかは不明)

だが、黒姫から先へは「難工事区間が多く、相次ぐ事変・戦争の遂行などで工事は中絶し」たため、路線バスが黒姫の次の集落の外れにあたる虫崎北まで行くようになったのは昭和38年(前年の虫崎トンネル開通による)と一気に遅れる。
それから内海府海岸と外海府海岸が接する佐渡北端の地である鷲崎まで県道と路線バスが辿りついたのは、昭和45年という。
地図の上では、黒姫と鷲崎の間は11km、両津との距離を測っても30kmに過ぎないが、内海府海岸北部の地勢は、大山を含めて随所に険しかったのである。
そしてそのために、浦々を結ぶ定期船が、長らく内海府海岸交通の主役であり続けたのだった。

このような脆弱な道路事情は、右に掲載した昭和28年の地形図においても表現されている。
県道の表記が、黒姫で打ち切られているのである。それより先は里道の扱いである。
法的には既に鷲崎まで全線県道であったはずだが、それは測量者の目に止まらないような存在であったのだ。

大正から昭和初期、大山隧道は犠牲を払いながらも、何とか掘り抜いた。
やがて佐渡を一周する夢を抱いた県道は、起点の両津から順調に加茂村を貫通し、鷲崎を擁する内海府村の南端(黒姫)までは辿りついた。
しかし、そこで力尽きてしまった。
それからの再充電には、想像以上に長くかかってしまった。

そのため、せっかく開通した大山隧道も、昭和3〜40年代に車社会が島にも徐々に浸透して黒姫の奥へ県道が伸びていくまでは、かなりお寒い交通量だったことだろう。
黒姫以北の集落へ向かう旅客も、わざわざ黒姫で路線バスから定期船へ乗り継ぐ事はせず、両津から直接ゆく事が出来た。
立派な坑門は寂しかったかも知れないが、それゆえ「鬼の面」の大崩壊という危険な爆弾を抱えた隧道の本格的改築(=黒姫大橋)は遅れ、実際のXデーとの誤差もあまりなかった。
改築が間に合って、本当に良かった。