隧道レポート 竜宮岬のトロッコトンネル 後編

所在地 福島県いわき市
探索日 2019.01.23
公開日 2019.02.03

岩間側坑口は、突然の海上に、私を飛び出させた!



2019/1/23 6:48 《現在地》

ぽこっ!再び! 崖に、ぽこっと出た!

この展開は、隧道を通り抜けるあいだいろいろ想像していた中でも、ちょっと考えていなかった。

とてもシンプルに、想定外。

確かに私は、全長300mクラスの大隧道を貫通し、岩間側の景色を目にするところまで、やってきた。

そのために払った犠牲は……、犠牲というのはあまりにも自己完結的ではあるけれど、私にとって軽からざるものだったのに。

それがここ! ここに至って、見るだけにしろと。 岩間側には、私を受け入れる用意はないと言わんばかりの風景だった!



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ここでも、全天球画像。

頭の上には、切れ込んだ地面の割れ目に、僅かばかりの空。

まさしく岩間の空だったが、こんなのでは、期待していた朝日を拝む余地はなし。

顔を下に向ければ、私に許された岩間の地面は、マジ狭かった。

目の前の海に飛び込む自由だけは、与えられているが……。



それにしても、この景色よ!
岩場が険しくて、私を拒絶するのは分かる。
むしろ、慣れっこだ。

だが、その先の穏やかな砂浜の海岸線までもが、全く私を受け入れる気がなさそうな高い防波堤によって、陸と隔絶されていることには、驚いた。
当然、そんな海岸線には人の姿は全くない。

こうして海側から未知の陸地を目指そうとする、まあこれ自体が珍しい状況ではあるわけだが、そんな場面において、この目の前の海岸線からは、過去に体験したことのないくらいの強い拒絶の意思を感じた。

もっとも、この巨大防波堤が何をきっかけに、これほど強い拒絶を始めたかは、真っ白な新しさ(最新の地理院地図にも存在が反映されていない)や、一部の土台に見える古い防波堤から、容易く想像できた。
目を和ませる海の眺めより大切なものがあると思い知った答えが、これなのだろう。
遠くにそびえる煙突のある施設……地図を見ると「常磐共同火力発電所」とある……もまた、防波堤の向こうにいくつものクレーンを立てて、大掛かりな工事の真っ最中だった。

守りを固めることを選んだ人々が奏でる高らかな復興の槌音を尻目に、見捨てられたかのような美しい浜辺が、少し寂しげに見えた。




←往くか

戻るか→

オブローダーの気持ちとしては、もちろん進みたい!
しかし、命を賭すのは本意ではない。観察が必要だ。
もしここが深い入り江であれば、飛び込むのは自殺行為だ。仮に溺れなくても、心臓が止まりかねない。

だが、よく見ると……海は深くない! 数秒ごとに波が退く瞬間があり、そのときには狭いながらも、砂浜が露出していることに気付いたのである。



左の写真は、引き波のときの海面だ。
このときには崖際の水位がほとんどゼロになって、砂浜が露出していることが見て取れるだろう。
そして肝心の波の周期は、体感だが、5秒くらいだ。

脳内で自分の動作をシミュレートする、思考実験。
目の前の砂浜に飛び降り、向こうに見える波消しブロックという安全地帯へよじ登るのに要する時間は、テキパキこなして、おそらく5秒くらい。
この状況を、どう判断すべきだろう。
もし、あなたならどーする?

もしも、波の高さが1m以上あるなら、失敗したときのリスクが高すぎるので、走り抜けはNGだと思う。
だが、この探索時は「大潮+満潮」というマリンレジャーには不向きな高潮位でありながら、波は低かった(気象台の予報で0.5m)。
そのうえ既に私は腿の下まで地下水に浸かっているのであって、ここで再び海水に50cm浸かることは、我慢できる。
それを我慢するだけで前進が許可されるのならば、むしろ選ばない手はないといえた。

結論。
飛び込みをすることにした。


といっても、「飛び込み」というのは少しばかり大袈裟な、格好を付けた表現だ。

実際は、戻ってくる可能性も考えなければならなかった。片道切符は駄目である。
もちろん、飛び降りた先の安全が確認できているならばその限りではないのだが、今回は未知だ。
仮にこの先の陸地に上陸できても、進む余地が残されていない可能性もあった。絶対的な立入禁止(例えば発電所施設とか)に海岸部一帯が覆われている可能性も、ゼロではないと考えた。
その場合は、戻ってくる余地を残しておかないとまずい。
だから、「飛び込み」をするにしても、戻ってこられるかどうかの点検をするのが先なのだ。

隧道の出口に存在する路盤の先端に可能な限り近寄って、足元の周辺の地形の観察を始めた。

遭遇の直後は、さすがに驚いてしまって冷静な観察を欠いたが、こうしてじっくり眺めてみると、不思議な光景だと思う。

隧道がここにあって、隧道を出た線路は、どこへ向かっていたのか?

たかが、工事用軌道(といわれているもの)である。
林鉄のいわゆる作業軌道よろしく、陸のないところはすべて木製桟橋で、奔放に、悠々自適に、空中を走り抜けていたのかもしれない。
またあるいは、数十年のあいだに侵食が進み、目の前の地形が大きく変わってしまっている可能性も無視できない。

いろいろな可能性が考えられると思うが、さしあたって怪しいのは、ここから3〜4m離れた右斜め前の崖に見える、隧道路盤と同じ高さのステップだ。
そこは、路盤の続きと断定できるほどの広さはないし、通常の鉄道の直線性からはかけ離れた位置だ。
しかしこれは何度も言うように、工事用軌道(といわれているもの)。あらゆる常識を排除して考える必要があるだろう。



路盤の末端から、海面(=砂浜)を覗き込む。
実は私が立っている場所は正式には路盤ではなく、坑口に降り積もった土砂の上である。この土砂が洞床を50cmくらい埋めてしまったせいで、片勾配の洞内が排水不良となり、私の膝を冷たくさせた原因となったのだ。良く締まった土砂で、ここに溝を掘ることは困難と思える。
図で緑に着色した部分は、洞床に刻まれていた排水溝だ。鑿の痕がくっきりしている。しかしこれも土砂に埋もれて用をなさなくなってしまった。

これから下りようとしている目の前の高低差は、2.5m前後はある。
浸食のためか崖は全体的に滑らかで、しかも海面付近がオーバーハングしている。
したがって通常であれば、飛び降りたら一方通行となる地形だ。とても戻って来られそうにない。

だが、私は幸運だった。
この悪い地形を助けるように、1本の倒木が、とてもいい形で崖に寄りかかっていた。
おいおいマジかよ、ラッキーすぎる。これを使えば、戻ってこられるだけでなく、より安全に下ることが出来る!



しかしこの幸運、完全な偶然ではなく、ここに架橋があったという“土地の記憶”から、超常的に影響を受けているのかも知れぬ。

そんな非科学の思いに囚われたのは、目の前で私を助けようとしているこの倒木、恐ろしくがっちりと足元の岩に固定されていたのだが、その固定に決定的な役割を果たしていた岩の窪みが、明らかに人工的なものだったからだ。

この深すぎる窪み、最近のものではないだろう。そして、ここにあって隧道とは無関係とも考えにくい。
おそらくだが、この先の路盤……想像される木製桟橋……を固定するために用意された窪みではなかったかと思う。
造りが異形なので、具体的にどういう風に桟橋が組まれていたかは分からないが……。




というわけで!

この上手い具合に用意されていた倒木を利用することで、海面着水への最後の一歩は、ここまで踏み出すことが出来る!

残りの落差は、あと1mくらいしかないので、これなら不安なく(不安はあるけど)ポンと飛び降りられる…… はず。


……でもやっぱり、ちょっと怖いんだなぁ…………。

………………。





6:51:43

いまだ! 行け!




6:51:46

おぉおおおおおぉ!

(行った、一番水位が高い状態に飛び降りて、次回の寄せ波までの余裕を多くとった)

(だから、このほかにも数枚の写真を撮影する余裕があった)



(うおぉおおおお……?)

既に濡れているだけに、冷たさはあまり感じない。

地下水よりもやはり海水の方が温かかったのか、アドレナリンのせいか。



(………あれ? たいしたことないぞ。)

着水から数秒後、波は本当に穏やかで、もはやここからの離脱をことさら急ぐ必要がなくなったことが分かった。
そして私は、始めて竜宮岬の肌越しに朝日を見ようと思ったが、地平線に横たわる雲のせいで、見えなかった。
しかし、霞がかった海面はとても幻想的で、美しかった。足元が落ち着いていたら、じっくり鑑賞したいくらいだ。



その必要は生じないと願いたいが、もし戻るならば、ここをよじ登らねばならない。
そのときは、倒木が決定的な役割を果たすはず。これがなければ、この艶めかしい岩場は上れない。

着水からたっぷり1分後、何度も波に太腿を撫で上げられる快なる浮遊感を味わいつつ、
安全地帯である波消しブロックに、そろりそろりと上陸した。
しかし、陸地への脱出ルートが確認できるまで、生還確定は保留である。

そして、隧道に背を向けて前を見ると……



6:52:46 《現在地》

アラビアンナイトのモチーフを彷彿とさせる、常磐共同火力勿来発電所の姿に、息を呑んだ。

古くから菊田浦と呼ばれ、白砂青松を知られた秀美の海岸線を占領するこの巨大施設、地域に根ざしたものであるという。
なぜなら、かつてこの地方の主要な産業として不動の地位を築いていた常磐炭田が、石炭の需要減少に苦しみ始めた昭和30年代、
大量に産出される低品位石炭を活用すべく、地元炭鉱会社と東北電力および東京電力の共同出資によって生まれた発電所だからだ。
昭和32(1957)年の発電開始から地域を支え、19年後の常磐炭田閉山を経てもなおこの地で、石炭のみに頼らない発電を続けている。

見渡す限りの海岸線には誰の姿も見えない。ただ私だけがここに潜んで、幾多の夜を越えてきた城を眺めていた。




ぽこっ。

崖の中腹に、ぽこんと口を開けている穴。
通常、こんなものは自然洞穴か古墳か思うところだが、隧道なのだ。

小浜側にも増して、本当に突拍子のない立地に存在している。
海水の上に口を開けている状況は、特にその印象を強くする。




波消しブロックの山側にある地山に上陸すると、人が手を加えた痕跡は濃厚に残っていた。

はっきりしているのは、写真の左側に写っている崖の大きな窪み。
ここには隧道内部で見られたものと同じような手掘りの削痕が多くあって、明らかに人為的な掘削による。
しかし、穴というほどの奥行きがないうえ、想定しうる路盤とも位置がずれているので、正体不明。軌道と関係ある施設だったかも知れないし、全く無関係なものかもしれない。地質調査用に掘られた隧道試掘孔だったりしたら面白いと思うが。

一応、その右に路盤の位置も想定して描いたが、隧道外には現状のままで枕木を布設できそうな広さと平坦を持つ平場は全く見当たらず、隧道を出た路盤がどこをどう走っていたかは、現状からは全く不明である。ここまで見当が付かないのも珍しい……。

右の写真は、隧道前ラスト4mほどの途絶風景。
ここには桟橋があったと思われるが、路盤と同レベルの崖面に、横木を挿していたかもしれない窪みが一つだけ残っていた。



さらに少し離れて坑口の遠景を振り返ると、既知の坑口や窪みが全てではなく、さらに竜宮岬の突端に近い海崖の壁面にも、別の穴が口を開けているのが見て取れた。

こちらは形がいびつで、むいている方向的にも自然の海蝕洞っぽいが、人手が加わっていないとは断定できない。しかし、さすがに水深が深く近づくことが出来ないので、判断は保留する。隧道ではないだろうということは書いておく。

しかしこの竜宮岬、私が思っていた以上に、穴だらけなのかもしれない。
そのうちの一つが、岬の土手っ腹を貫く、300mもの隧道なのだ。




さて、隧道探索は終った!

私は、人気のまるで感じられない岩間海岸へ抜け出した。

あとは、この陸地が私を受け入れてくれて、そこにあるはずの県道で、濡れた下半身を温められる愛車が待つ小浜のスタート地点へ移動できれば、ゴールである。
いわば終戦処理なのだが、文字通り、先が見えないから、まだ怖い。





変貌を遂げた岩間を見て、小浜へ帰る


6:56 《現在地》

激戦。
終始、人里の近くで展開した探索だったが、紛れなき激戦だった。
小浜の酷く崩壊した海崖を攀じて見つけた、海蝕洞の底に開いた異形の坑口。
一転して洞内は人造物の気配が濃厚で、鉄道隧道を確信に変えた多数の待避坑や、津波の恐怖を語る大量の漂着物、そして探索者の覚悟を計る意地悪な水没が待ち受けていた。
ついに竜宮を貫通して辿り着いた岩間坑口の衝撃に至っては、まだ思い出として振り返るほど離れていない。渦中からの脱走劇が、今も続いているのである。

では続きから。




いま私が立っている、古びていて破損の目立つ波消しブロックの団体は、これでも軌道が稼働した時代より新しいのだろう。
以前は、右に見える崖の裾野が直に砂浜と接していたはずで、軌道はこれらの隙間をどうにか通り抜けて、正面に見える広い陸地へ達していたものと思われるが、ルートを確信できるような情報も遺構もない。

現状は、変化しすぎている。
中でも、海陸を隔てる長大な防波堤の出現が軌道の跡を分断したことは想像に難くないが、今やその防波堤を土台として、さらに従来の高さを倍にするような新防波堤が出来上がっていた。

探索の導き手として最も信頼している地理院地図であるが、この場所では、描かれている地図風景と、実際の風景との乖離に、面食らいっぱなしである。
震災後に更新された現行の地理院地図は、津波による旧防波堤の消失によって生じた、まるで原始のままの砂浜をここに描いており、眼前の偉大な新造物は影も形もない。



上の写真の矢印のような進路を採って、波消しブロックの上から陸地へ上陸した。

なぜか分からないが、ここだけ新防波堤と旧防波堤が重なっておらず、両者のあいだに30m四方ほどの空白を生じていた。
この間隙空間は、周囲どのからもアクセスする道のない、存在自体を忘れられていそうな土地だった。
しかしそこは、上陸直後で周囲の状況がまだ全く掴めていない私にとって、身を隠しておける安心の土地とも感じられた。

チェンジ後の画像は、ここ(足元は旧防波堤)から振り返って撮影した隧道だ。
別の穴が目立っているが、私がくぐってきた隧道、中央より左に見える目立たない穴である。
また、ここではじめて竜宮岬の突端部分を目視した。小浜側同様に切り立った海崖が突端まで続いており、とても陸路で迂回できないから岬の付け根に隧道を掘ったということがよく分かった。



6:59 《現在地》

新防波堤は、直には登りがたい高さを持つ垂壁だったが、山際の斜面を上手く使って克服した。

そうして乾いた綺麗なコンクリートの地面を得た私がしたことは、長靴を脱ぎ捨てて靴の中の水を排出することだった。これで鉄の鎖を引きずり歩くような苦行からは解放される。
そして私が個人的に「河童出没」と呼んでいる、濡れた足形がそこかしこに刻まれるシュールな絵面が、この零下2℃の岩間海岸にもお目見えしたのだった。
ふざけていつまでもこれをやっていると、冷たさで足がもげるのでほどほどに。

とまあ、そんなことはどうでも良くて、いままでずっと目隠しとなっていた防波堤の向こう側がどうなっていたかだが……



防波堤の向こう側にあったのは、芝生敷きの空間で、園路と思しき狭い舗装路が巡っていた。
一瞬、ゴルフコースに分け入ってしまったかもと焦ったが(さっきキャディバッグも見てるしね)、常に携行している地図の一つである「スーパーマップルデジタル」を確かめると、ここには「岩間防災緑地」というものが「造成中」ということになっていて、震災後に津波防災の目的で設置された新設の施設のようだった。

これなら立ち入り禁止ではないだろうし、ちゃんと県道に出られそう。
ここでやっと生還を確信! 隧道に戻らず済むぞ!!
(ただし、軌道跡の探索という意味では、絶望である。もう何も追跡できないし期待できない。終了だ。)

そうして次の目的地となった県道だが、これまた地理院地図やスーパーマップルといった現行の地図からは大きく豹変していることが、一目瞭然だった。
前方の山際を横切る大築堤が見えるが、あれこそ換線された県道に違いなかった。さっきから車の屋根がいくつも行き交っているのが見える。



地理院地図では、右図のような九十九折りの県道が描かれていた。
これによると、現在地のすぐ傍に県道はあることになっていたが、実際の県道はチェンジ後の画像のように変貌を遂げていたのである。

チェンジ後の画像には合わせて、嵩上げされた防波堤、防波堤と新県道のあいだに造成された防災緑地、そして新県道の大築堤を書き加えた。
かつての九十九折りは、大半が築堤に呑み込まれて消滅した。




竜宮岬は穴だらけかも知れないと書いたが、また穴が見つかった。
防災緑地に接する陸上の山際にも、自動車が入れるくらいに大きな穴が口を開けていたのである。
奥行きはなかったが、中に小屋でも建っていたのか、大量の廃材が散らばっていた。



防災緑地は、概ね完成しているように見えたが、看板などは未整備だった。

最後に振り返ってみたが、隧道はもう見えなくなっていた。
防波堤越しに少しだけ見えているのは、隧道の右にあった別の穴である。
ただ、探索者をおびき寄せる目印としては、あの穴でもいい。あの穴の近くまで行けば、必然的に隧道に近づくことになる。

もしかしたら、足元の瀟洒な園路が、かつての軌道の位置と重なっている可能性もあるが、だとしてもそれは偶然であって、繋がりはない。
ほんの数年前まで、ここには別のものがあったはずなのだから。




長い階段で、新県道へ駆け上った。
ここにきて、下半身が濡れていることによる寒さが格別に堪えた。
後悔はなかったが、ただただ寒かった。体温が欲しくて、大袈裟に身体を動かしながら歩いた。




7:09 《現在地》

新しい県道から、いわき市大字岩間の岩下地区を俯瞰している。

この地区の歴史については、いわき市公式サイトがまとめている「いわきの今むがし vol.64 岩間町」がとても詳しく、参考になる。
それによると、いまいるこの坂道は“間(馬)坂(まざか)”“愛宕坂”“火力坂”などと呼ばれていたものだそうで、ここから眺める菊多浦の弓なりの海岸線は、「いわき百景」にも数えられる有名なものだったそうだ。
残念ながら、トロッコトンネルについての情報はなかったが、道路や海岸線の変遷についても述べられていたので、興味のある方はぜひ読んでみて欲しい。



まだもう少しレポートは続く。
スタート地点への帰路に入っている。
ここは岩間と小浜を隔てる竜宮岬の基部を越える峠の頂上だ。
峠の上は台地状に広くなっていて、そこにその名も「台」集落が存在している。

峠の標高は3〜40mあり、しかも前後の傾斜がきついので、トロッコを越えさせるのは一苦労だろう。
だからこそ、300mという決して短くない隧道が、直下に掘られたに違いない。
理由は納得出来ても、工事用という一過性のものとしては過大投資に思える大隧道。事業の規模の大きさが伺えた。



7:22 《現在地》

県道の峠を越えて、再び小浜側の渚地区へ戻ってきた。
ここは県道から少しはずれた、竜宮岬を見ることが出来る展望台で、小さな広場に四阿とベンチが設置されていた。

いまから1時間前、まだ日が昇る前の薄暗かった眼下の砂浜を歩いたのである。ここからも崩壊地は見えるが、その奥に潜む隧道は全く見えない。



そしてこの展望台の周囲も、やはり穴だらけだった。
しかも、穴は大小さまざまだ。
今まで見てきた穴はどれも海面に近い低地にあったが、山上にもあるというのは、建設目的が一つではなかったことを示唆しているように思う。
だいたい海岸沿いにあるものは、漁具倉庫というのが本命で、対抗として大戦中の特攻兵器格納施設だったりもするが、あまり可能性の選択肢は広くない。
対して陸上にあるものは、倉庫、防空壕、横井戸、氷室、採石場、宗教施設(やぐら)、古墳など、可能性の幅が広く、なかなか絞りきれるものではない。




7:30 《現在地》

さらに移動してここは小浜漁港。

この移動の途中では、小浜海岸の入口に止めていた自転車を回収している。
相変わらず下半身はぐっちょりなので、さっさと車に戻ってもいいのだが、最後に見ておきたいと思った。
トロッコトンネルによって造られたといわれる、港の姿を。

とはいえ、「この港を造るのにトロッコが使われました」という証拠を手に入れることは、まあ難しい。
見た限り、どこにでもありそうな普通の漁港のようであった。
施設のどこからも古さを感じない。それは、港として今日まで真っ当に活躍してきた証明とも言えるだろう。



小浜漁港も穴だらけだった。
写真は漁港内の道路風景だが、石碑の裏側に河川用のトンネルが2本もあった。

地形図にこの河川トンネルは描かれていないが、右図に書き足した点線のように存在している。

ここでは小さな川(渚川という)が、2本の連続するトンネルを通って海へ注ぐようになっていたのだ。明らかに天然の地形ではない。おそらく、昔は小浜の砂浜に河口があったのだろうが、川から排出される土砂で港内が浅くなることを避けるために、河道を付け替えたのだと思われる。狭い入り江に浜と港と川を同居させる苦肉の策と思われるが、なかなか大胆だ。



2本とも高さ幅とも5mくらいある大きな河川トンネルなのだが、なんと完全な素掘りだった。現役の施設なのにこれは凄い。青黒い水面を、カモ艦隊が悠々と走って行った。

これも最近のものではないのだろう。
もしかしたら、トロッコトンネルが活躍した時代に造られたのかも…。
この港に現存する、唯一の“古いもの”かもしれなかった。



そしてこれ、こういうものは大切にしなければならない。
お誂え向きに河川トンネルの前に設置されていた、立派な石碑。もしかしたらここに、トロッコトンネルのことが書かれていやしないだろうか。期待を胸に読んでみた。

飛躍  豊田作太郎翁顕彰碑
 豊田作太郎翁は安政六年三月、丹野太治右エ門の四男として小浜町渚に生れ、その後豊田与六氏の養子となる。(略)明治三十二年植田町の前身である鮫川村村長に推され、爾来二期四年村民の生活安定と福祉向上のため大いにその手腕を振い、大正六年には石城郡郡会議員に推され、当時極めて至難とされていた磐前郡中ノ作に通ずる一等線道路改修工事を初めとし、地方行政活動に情熱を傾け絶大なる貢献をしてその事績を残し、又漁業関係に於いては明治二十年に菊多浦漁業組合を設立、稼働船舶実に百二十余隻を有する初代組合長となり永年問題となっていた錦町中田漁業組合との海区境界設定、漁港の整備、漁獲高の拡大、特に鮑の生産増強と加工に心血を注ぎ、中華民国への輸出を実現し国際貿易にまで発展させる等極めて稀に見る政治、経済面の大先覚者であった。(略)
  昭和五十六年五月二十三日建立
     小浜漁業協同組合組合長 丹野円平 撰文
                 大平峰月 書

小浜の発展に寄与した先人の顕彰碑であり、「漁港の整備」も彼の事績の一つとして列挙されていたが、残念ながらトロッコトンネルのことは記されていなかった。

さらに小浜漁港には、もう一つこれとよく似た石碑がある。
その場所は、ここから50mほど集落寄りの道端で、たくさんの軽トラが停まっていた。
石碑の隣に小屋があり、漁師と思われる人達が集まって火を炊いているところだった。

古老みぃーつけた!!

当然、お話を聞いたわけだが、先に石碑の内容を紹介。

顕頌碑  渡辺兵左衛門翁に捧ぐ
 翁は、明治三十年九月十六日渡辺稲太郎氏の嫡男として小浜町に生まれ、(略) 永年小浜漁業協同組合組合長を勤めた。 翁は、郷土の発展を希い漁港の開発に期すること二十有余年、その間植田町々会議員、勿来市々会議員並びに県関係漁業団体の役職など数多くの要職に就き市政振興に努める傍ら漁業育成指導発展に貢献した。 殊に翁は、国、県、市の支援を受け現小浜漁港の築港工事を積極的に促進し、地域漁民と共に一致団結、幾多の困難を克服し、その責任者として終始陣頭指揮に当った(略)
  昭和五十四年十月吉日
     小浜漁業協同組合組合長理事 丹野円平 撰文

こちらも地域の先達の顕彰(頌)碑で、やはり小浜漁港の築港工事に功績があったことが書かれているが、やはりトロッコトンネルについては触れていなかった。 残念!

石碑の隣にある小屋の前で、たき火の暖をとりながら談笑する、地元漁師とみられる60代くらいの男性2名に、さっそく話を聞いた。長靴なのに腿まで濡れている私の姿はいささか怪しかったように思うが、気さくに応じてくださった。ありがとうございます。

古老によって明かされる、トンネルの正体は――

証言をお土産に、現地探索は終了。 机上調査編行ってみよう!





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