隧道レポート 太郎丸隧道(仮称) 第5回

所在地 新潟県長岡市
探索日 2012.06.01
公開日 2012.12.21


これは、予想外な展開となった。


太郎丸集落での古老からの聞き取りは、今しがた終ったかと思われた探索に、再度の命を吹き込んだのである。

現在の地形図にも「徒歩道」として描かれている太郎丸隧道(仮称)は、期待に恥じない個性的な隧道だった。
そこへ至るべく踏破した廃道も、激藪という有り難くないものではあったが、いざ突破してみれば印象に華を添える存在だった。

だが、太郎丸隧道には旧隧道があるのだという。
今度こそ、道路台帳からも地形図からも抹消された、正真正銘の廃隧道に違いない。



現在の太郎丸隧道の竣工年は、古老二人の証言でやや食い違いがあった。
一人は戦前であろうと言い、一人は昭和36〜37年頃であろうと言った。
共通していたのは、この隧道を掘ったのが太郎丸集落の人達であると言うことだった。

私なりに隧道の構造等から感じとった印象としては、このどちらでも不自然な点はない。
出入口のコルゲートパイプの補強だけはさらに新しいと思うが、竣工時期を特定出来るような手掛りは、残念ながら見つけられなかった。

しかしどちらにせよ、新しい隧道でないことは明らかであった。
にもかかわらず、さらに古い隧道が存在しているというのである。

旧隧道はいつ、誰が掘ったものであったのか。

古老は直接それに答えなかったが、「馬車が通る道で、幅6尺くらいあった」と言った。
正直、6尺では一般的に言われている馬車が通るのは難しいと思うが、牛馬が牽引する荷馬車であれば、通り得るだろう。
それを馬車と呼んでいた可能性は十分ある。

やはり、まだ関連性への期待を棄てきれない。
隣村の法末にひっそりと残っていた丑松洞門が、明治中期の竣工であったこととの。

太郎丸隧道の旧隧道とは、明治隧道ではなかったろうか。

探しに行こう。


太郎丸隧道の400mほど手前で右へ分れていく、今にも青草に掻き消えそうなこの小径こそが、旧隧道へ繋がっていた旧道だという。


古老に教わった情報は、この時点で全て使い切った。

ここからは、一人きりだ。

あとは岩にかじり付いてでも、この道の最後を見届ける。

もちろん、もう自転車を連れて行く必要はない。

行こう!





想定外の旧道探索 


2012/6/1 15:57 《現在地》

だだだだだっ!
と、旧道へ雪崩れ込んだのではない。

その入口は余りにも貧弱に見えたし、そもそもこれから峠へ至ろうというのに、入口が下りで始まっている時点で、いくら古老の証言(杉の木うんぬん)があったとは言え、大変に本当にここなのかどうか、疑わしい状態だった。

それはどう見ても、かつて谷底に並んでいた田んぼへの進入路のようであったし、それ以外の何ものにも見えなかった。

私はその進路がどうなっているのかを、深い藪に突入してしまう前に、現道上から確認していた。
それが左の写真である(ここに写っているのが目印の杉だ)。

とりあえず、道は谷を突っ切ってるっぽい?




意を決して進入開始。

旧道に入ってからのことも、古老に聞いておけば良かったと少し後悔中。

いてもたまらず来てしまったが本当にここで良いのか?

休耕田を突っ切っている部分にいると思われるが、はっきり行って地形の凹凸は道路を意味しているのかどうか、よく分からない。
休耕田に入るところまでは、間違いなく道であったと思うが…。

休耕田にしても、耕作を止めたのは最近ではなさそうだ。
むしろ「旧」耕田ないし、「廃田」というべきだろう。

不安に包まれながら、谷を真っ直ぐ横切ると…。



こっちで…、
  いいのか?


うあ……。

これは最初から暗雲立ちこめるような展開だなぁ…。

そもそも、ここで右に進めば、現在の太郎丸隧道がある谷筋からは離れる事になるわけだが…。

地形図を見ると、100mほど南側にも同じくらいの深さの谷筋がある。

そっちへ行こうというのか…?

…本当に、あてどなくなってきたぞ…。



16:00 《現在地》

旧道… と言われた道… に入って2分経過。 

GPSの上では、当然のことながら現在地は変化していっている。

私は今、太郎丸隧道があった谷とその南側の谷を分ける小さな支脈の裾野を巻き取るように、南へ向かっている。

足元には、辛うじて道っぽい平場が感じられるが、轍などは全く見られず、道幅も不定である。

客観的に見れば、山裾の“なんでもない場所”に、こうして大きな木が生えていない帯状の空隙地があること自体、既に道の存在を肯定していたのかも知れないが、正直そんな楽観した気分にはなれなかったし、これが確かに道の跡であったとしても、旧道であるかどうかはまた別問題と思われた。

単なる造林道や、作場道の跡という可能性だって、あるのではないか。



さらに1分後。

おそらく道はもう、途絶えていた。

行く手には斜面である。

それでも何となく道のように見えるのは…、願望に過ぎないのではないか。

時間の経過を見ても分かるとおり、まだろくに進んではいない。
諦めて踵を返せば、すぐにでも現道へと戻ることが出来るだろう。

時刻は午後4時をまわった。
今すぐ古老のもとへ戻れば、より詳しい情報を聞くチャンスがあるのではないか。

そんな迷いが、私をいたずらに焦らせた。

どうすべきなんだ。



道はまだ続いていた。

前言を翻し、道はまだ続く。

横倒しに近い巨木の下に、明確なる平場である。

直前の地点は、おそらく路肩ごとごっそりと道が落ちて斜面に変わったのだろう。
それゆえ、私は「その先」に、何となく平場を感じていたのだ。
「願望」からくる幻なんかでは無かった!

…今日はツイていた


思いのままに、進んでみよう!





16:09 《現在地》

うおおおおおおおおぉぉ!

やばいよ
やばいよ
やばいよ
やばいよ
や ば い よ!

マジ古道じゃねーの?!

急に異常に鮮明化したぞ。

か、罠なのか?!

おもしれー! 
自らかかってやる!




やばいよーー。

やっぱり罠だったよ−。

行く手が明るいよ−。

嫌な予感しかしないよー!

やっぱり、廃道だよー。

分かってたけど、完全に廃道だよ。


今から数秒後には、道が無くなってそうだよ…。




やっぱり!

この“高さ”

しっかと覚えておけよ、俺!

この斜面崩壊地をやり過ごしたら、この高さに道は蘇るはずだからな。

そうでなければ、この区間で切り返していたということだぞ。

…ここが行き止まりだったなんて、さっきの風景を見た後だったら絶対考えられないよな!

覚えたら…

覚えたら、降りて良し!




ツタやら枝やらススキやらに捕まりながら、かなり急な斜面を下りた。

斜面の勾配が一段落するところまで下りたら、そこはもうほとんど谷底に近い所っぽかったが、とりあえず何の人工物も見られない原野の片隅であった。

「破線」を描いたあたりに、本来の道はあったのだと思う。

全く何も残っていないが、これもあれか、あの中越地震(平成16年10月23日発生)の被災の跡か。

小国町が観測した震度は6強という凄まじいもので、住宅750戸余りが全半壊した記録がある。
地滑りなどによる道路や田畑への被害も大きかった。

…さて、杉の木がまた目印だな。

あそこを目指そう。



汗を垂らして、杉の木の近くまでよじ登った。

しかし、そこに道はなかったのである。

杉の木は急な尾根筋に何本か生えていたのだが、尾根の裏側に道が見あたらなかった。

…ということは、この崩壊地の途中で道は切り返して別の方向へ向かったのだろうか?

その可能性がある。

あるいは、この先も崩壊地形なのか。




…現道が、随分遠くに見えるな。

……

………疲れた。

正直、隧道東側でのあの過酷なヤブ漕ぎや、この慌ただしい出戻りが無くても、遠征探索2日目終盤と言うことで、私の全身には疲れが鉄鎖のように絡みついていた。

でももし、疲れを理由にこの里山での探索を打ち切ったら、没ネタになるんだろうな(苦笑)。
それは嫌だし、何より古老の証言は、時限付き。
情報があるうちに、手を打っておかないと、たぶん後悔する。

まだ明るい。

動き続けよう。



16:19 

GPSが役に立った。
道を辿れていた時の軌跡のトラバース延長線上に、失われた道の擬定ラインを脳内で描いた。

すると、現在地と脳内擬定ラインとの高低差が、少なくとも10mあった。
したがって、その高低を埋める分だけは自信を持って、この谷をさかのぼる事が出来た。
道が見あたらないのならば、直接坑口に辿り着くぐらいの覚悟で挑もうと思った。

なお、この源頭である谷底には水が湧き出しており、ぬかるむ場所が多かった。
ぬかるみのどこかに坑口を探す不毛に陥らなかったのは、GPSのおかげだったかも知れない。



叫びとガッツポーズが、ちょっと出た!


道があったのである。

失われたと見えた道が、おそらく100mぶりくらいに復活した。

一回きりの土砂崩れによるものとは考えがたい、長距離の欠落であった。

この道が廃道となってから、どれほどの年月が流れているのか。

まわりにはわずかに杉林もあるが、あまり管理されている様子も見えず、道は旧隧道と完全に命運を共にしたものと思われた。




しかし、しかし、しかし!

ここは鮮明だ!

……古老を疑うつもりはなかったけれど…

どうやらこれはマジで、旧隧道があったんだな。

これだけの路盤を築造するには、現道を作ったときに匹敵するくらい多くの労力を要したはず。
しかもこの現存する部分全てに共通する、圧倒的な勾配の緩やかさだ。
造林作業路にありがちな勾配の急転も、全く見られない。
勾配の緩やかさは、明らかに現道にも勝っている。

古老の言うとおり、ここは非力な動力に牽引される種類の車両…馬車…荷馬車の道だったに違いない!



16:24 《現在地》

そしてついに、旧隧道の実在に関する決定的と思える証拠が!!

←動画を再生してみてください。

それは、写真や動画、あるいは言葉で表現しても少々分かりにくい、しかしこの手の古い隧道を見慣れた人間であれば気付くことが出来る、坑口前の“ある特徴的な地形”であった。

隧道を掘ったときに生じた残土(ズリ)で谷を埋め立てた、その平坦地の痕跡である。(昭和後半までは、トンネル工事の残土は現場で埋め立てなどで処理するのが普通だった)
おそらく表面の腐葉土を少し掘り返せば、残土の特徴であるガラガラの砂利が露出してくるのではないか。

無人の山中に突如として現れた、埋め立てによるものとしか考えられない谷上の平坦地。
こうなれば隧道までの残りの距離は、基本的に「もっこを担いだ人夫が往復するに耐えられる距離」ということになる。

いよいよだ。



残土による埋め立てを伺わせる平坦地を背にして、道は太い木を巻き取るような切り返しを見せていた。

いよいよ谷沿いのトラバースから、隧道を頂点とする山越えへと方針を転換したのであろう。

後はもう…

隧道が現存しているか、
否か。

…その一点に全神経を集中して望みたい。




やっべ、やっべ!!

マジ興奮もんだわ、これ!


切り返して1分後、

2度目の切り返しと思われた、その地点。

2度目のカーブが曲がった角度は、

“半分どまり”。



つまり、この後の道は、


尾根へと正対することに!


こういう形で掘割りとなった道の帰結は、


一つしかない。


何十、何百と経験しても、
やっぱりこの瞬間が、廃道で一番興奮する。




掘割りの終わりが、見えてきた…。


この掘割りの深さと長さは、

まさに古き隧道の正統的流儀である。

コルゲートパイプ巻きの隧道とは、失礼ながら空気の“重さ”が違って見えた。




雪上の藤花、

嶺下の開隧。






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