今はなき旧冠着橋の強烈すぎた姿をレポートする後編は、第10径間の途中から始まる。
ここまで来れば、あとは第11径間を残すのみである。
第9〜10径間は2連続の下路ワーレントラス桁だったが、最後の第11径間は、ともすれば存在を見逃されかねない短さだ。
これまでの10径間は、幅こそ様々(!)であったが、スパンの長さは40〜50mの範囲内にあったと思う。
だが、この最後のスパンだけは15mに満たない短さで、しかも目に見えて陸方向へ下っている点も特徴的。
第9〜10径間と高欄の形が共通なので、この3つの径間は同時に完成したものっぽいと感じた。
最後のスパンを一瞬で渡り終え、473mぶり&約7分ぶりに陸上へ。
千曲川左岸の千曲市大字須坂へ到達した。
ちょっと回想シーン入ります(笑)。
これがこの橋の渡りはじめた時の姿です。
右岸の千曲市千本柳の橋頭です。
対して……
14:50 《現在地》
これが左岸の千曲市須坂の橋頭風景。
これらが同じ橋の風景だと、誰が思うだろうか。
歩道のある2車線完備の橋が、渡り進めるうちにあれよあれよと3段階に狭くなり、最後には歩道も無え1車線だけのボロ橋になってしまった。
旧冠着橋は、このように初見の誰もが目を疑うような特異過ぎる橋であった。
橋の“顔”ともいえる親柱も、【対岸のもの】とは全く別物だ。
この橋の竣工年を探索時点では知らなかったが、どこからどう見ても対岸の親柱とここにある親柱は同時に造られたものではなかった。見るからに年代が違う。
このことの証拠は、親柱の外見の違いだけでなく、各親柱に1枚ずつ附属する本来は4枚1セットである銘板の内容が正しいセットになっていないことにも現われていた。
本橋には「冠着橋」という銘板が2枚重複して存在するのである。そしてその煽りを受け、竣工年を記した銘板がどこにも見当らない。
(右岸には「冠着橋」と「ちくまがわ」、左岸には「冠着橋」と「かむりきばし」の銘板がある)
そのため、橋を渡って対岸の銘板を見れば判明すると思われた竣工年が、まだ分からなかった。
だが、親柱の銘板の代わりになるこんなものを見つけた。(↓)
渡り終えた第10径間トラスの左岸側橋門部に、鋼橋定番の付属物である製造銘板を見つけたのである。
ただ、路面からは離れた位置なのと、全体が錆で劣化しているため、私の視力では肉眼では内容が確認できず、望遠で撮影してからデジカメの液晶越しに確認したところ…(↓)
冠 着 橋
1966年 6月
戸倉町建造
道示(1964)TL-8
製作●●●●●●工場
材質 SS41
昭和41(1966)年6月に戸倉町が建造(すなわち開通当初は町道の可能性大)した橋であったことが判明した。
昭和40年代の町道橋と考えれば、幅3mという今日では狭すぎる幅員も納得だろう。
現在は県道橋になっているが、県道へ昇格した時期と、これよりも幅の広い桁が接続された時期の関係も気になるところだ。
しかしともかく、この橋の中で幅員的に最も古びて見えた第9〜10径間のワーレントラス部分の竣工年が現地で明らかになったのは嬉しかった。これは大きな手掛りといえる。
橋の入口に、こんな看板が取り付けられていた。
思わず、なんじゃこりゃああwwwと天を仰いだ!
「幅員案内図」wwww
内容が異常すぎて笑いが止まらないが、一応親切ではあるのだろう。
橋を渡る前に、この橋の幅員構成が如何に異常であるかを教えてくれるのだから。
しかも、橋梁マニアが作図したのかと思うくらい、附属している数字が細かいwww
改めてこの幅員案内図によって本橋の幅員構成を振り返ってみよう。
レポート冒頭の右岸側より、【第1〜3径間】まで117.0m区間の(車道部の)幅員は7.3m(+片側に歩道があったから全幅9mくらい)。
続く【第4〜6径間】の149.0m区間の幅員は6.0m。ここまではいわゆる2車線道路に対応した幅であった。
さらに【第7〜8径間】の100.0m区間の幅員は4.0mとなり、信号機による常時片側交互通行規制の1車線へ。
そして最後の【第9〜11径間】の107.0m区間の幅員は3.0mと最も狭くなっていた。
しめて11径間全長473mの橋であった。
(本橋は既に撤去済みだが、本橋の特殊性を象徴するアイテムだったこの「幅員案内図」も現在行方不明である。どこかで保管されていると良いのだが…)
橋の袂は十字路になっており、堤防上の道路と信号のない平面交差になっていた。
なお、この辺りの堤防道路は長野県道462号上田千曲長野自転車道線という、いわゆる大規模自転車道である県道に認定されているが、普通に車が通る道である。ちょうど探索時は隣で新しい冠着橋の工事が行われていた都合で十字路の一方は通行できなくなっていたが、それでも交差点を出入りする車の数は少なくなかった。
そして、ここから橋へ進入するためには、設置された信号機の“青”を待つ必要があった。
橋上に200m以上続く片側交互通行規制に対する信号なので、一度”赤”になると、なかなか“青”にはならなかった。
そのため、撮影中もチェンジ後の画像のような信号待ちのミニ渋滞が頻繁に発生した。
新橋の完成を渇望するオーラが車列から立ち上っているようであったが、その成就と引き換えにおそらく日本一の幅員変動橋が永遠に失われた。旧橋を残しても朽ちるだけだから、撤去は当然だけどな(苦笑)。
今回最も引いて撮影した冠着橋の姿だ。
橋の手前100mほどのところに「幅員減少」と「最大重量6t」の規制標識が予告的に設置されていたのであるが、一緒に「この先冠着橋」と書かれた小さな補助標識板が、本標識の上部に取り付けられていたのが個性的だった。
言わんとしていることは、こうだろう。
「この先にあるのは、あの有名で地元では知らない人のいない言わずと知れた恐るべき変態橋である冠着橋である」。
冠着橋と書かれたプレートのいかにも年季の入った姿が、変態橋として過ごした時の長かったことを物語っていた。
さて、一通りの渡橋体験は済ませたものの、これだけでは本橋のイレギュラーを堪能したとはいえない。
また橋へ戻り、今度は橋上からでは見えない部分に潜む変態を、橋の下から見つけたいと思う。
これにより、本橋の異常性の原因を知る手掛りを得られるかもしれない。
改めて左岸橋頭から少し横にずれた所から撮影した橋の全景だ。
これまで見えなかった橋の側面が見えることで、それぞれの桁の形状、型式が見えてくる。
手前から、短い第11径間はIビームかな?
第10〜9径間は下路ワーレントラス。
その先は全て鈑桁のようだが、幅が3段階に変化している。
その凄まじい変化ぶりは、望遠レンズを使って遠近感を圧縮することで際だった。(↓)
酷くキザギザしているwww
3径間目と4径間目の間のP3(3本目の橋脚)、6径間目と7径間目の間のP6、そして8径間目と9径間目の間のP8で、ガクガクと桁の幅が変化していることが、外観からもはっきりと露呈していた。
こんな4種類もの幅員が同居するに至るまでのどこかの時点で、せめて2種類くらいの幅員を統一しようとは思わなかったのだろうか。
もちろん、既に架かっている桁を取り壊してまで幅の広い桁へ置き換えるのは、コストも工期も余計に掛かることだから、とりあえず通行できているうちはそのままで良いという判断は分からなくはないが、ならば敢えて広い桁を取り付けた時の判断の理由はなんだったのか。
まるで公共物らしからぬ非合理の塊のように見える橋だが、何かしら已むに已まれぬ事情があったというのか。
一体どんな真相があったら、私はこの橋に納得が出来るだろうかと、そのことばかりを考えていた。
ある程度遠く離れて見ると、この橋の異常性はだいぶナリを潜める。
一部分だけがトラスになっている長大橋というのは、古い鉄道橋を中心に良く見る気がする。そういう橋だと思い込めないこともない。
が、トラスと鈑桁の組み合わせは良いのだが、鈑桁部分がトラス桁と匹敵するくらいの長いスパンを有しているのは、やはりちょっと不自然だ。
設計思想の違いか技術水準の違いか、その両方かは分からないが、やはりチグハグさを感じる。
それだけに、全ての桁の塗装を赤系統で統一しているのは、微妙な色の違いはあるとはいえ、本橋の各部不統一ぶりをみれば十分に健闘した判断だと思ってしまう。これで桁ごとに色が違っていたら、爆笑したと思う。
時系列と空間の隔たりを無視して、これは冠着橋が所属する県道338号内山姨捨停車場線の終点である姨捨駅付近、すなわち冠着山(姥捨山)の山腹より見下ろした冠着橋周辺の空撮的眺望だ。
明るい街並みに覆われた谷底平野の中央を千曲川が流れている。
視野の中央に広大な河川敷ごと川を渡る新旧の冠着橋が並んでいた。
ここまで離れると、隣にある新橋との違いもよくは分からず、至って真っ当な橋のように見える。
今度は、トラス部分を下から撮影。
トラス桁の下には全く水気がなく、濃いススキのブッシュが広がっていた。
幅員が異なる桁を支えている第8橋脚(P8)を、下から撮影した。
そして、奇妙な事実に気付く。
写真だとちょっと分かりづらいので、次の図を見て欲しい。
これはP8を真上から描いた図で、この橋脚の上面に、幅4.5mの第8径間(G8)と幅3.0mの第9径間(G9)が、どのような配置で乗っているかを示している。
先ほどの写真でも良く見ると分かるのだが、明らかにG8はP8の下流側に偏った形で乗せられており、普通に中央に乗っているG9とズレている。
当たり前だが、普通はG9のように橋脚の中心と桁の中心線が重なるように乗せられる。そうでないとバランスが悪い。
これは明らかに奇妙な事実であり、何らかのイレギュラーを強く感じさせる状況だと思う。
そして、このような橋脚に対する桁の配置の異常性は、他の橋脚にも見られたのである。
これはP8の隣(対岸方向)に並ぶP7とP6を見ている。
ちょうどP8とP7の間に水流があり(本流はP6とP3の間を流れている)、これ以上は桁の下を歩いて行くことはできないが、P7に対する桁の乗り方は常軌を逸していて、橋の下で独り爆笑しそうになってしまった!
チェンジ後の画像がP7をズームで撮影したものだが、見慣れたT型橋脚のほとんど片側にだけ桁が乗っていたのである。
そんな馬鹿な!!!www
で、次のP6はこうなっている。
手前の桁G7はP7と同じように片側に偏っているが、奥の桁G6はちゃんと中央に乗っているのである。
このことには当然理由があるはずで、おそらくその理由が分かれば、これらの橋脚の不自然さは、出来の良いパズルが解けるように一気に解決する予感がした。
ただ、この土地の過去をまるで知らない私が、現場の景色から自然と正解を導き出せるほどは冴えていなかった。
先ほどのP8と同じ作法で、P6とP7についても作図してみた。
この状況から推理して、P7を建設した時点では、幅6mの桁を乗せる計画があったのではないかと思う。
しかし何らかの事情により、実際に乗せられた桁は幅4.5mになってしまったのではないだろうか。
その際、将来の桁の腹付けによる拡幅を考えて、中央ではなく片側に寄せて桁を設置したのだと推理した。
さて、失われた橋の在りし姿を巡る旅も、そろそろ締め括り。
最後に、右岸側でも橋の下を探ってみた。
これは桁の幅が最初に変化するP3を岸寄りから撮影した。
頭上の桁G2は幅9.25mという巨大なもので、幅7.3mの車道と1.5mほどの片側歩道を有している。
桁そのものの高さや部材の太さも相応に頑丈で、繰り返しになるが、同じ橋の反対側とは全く別次元だ。
それは、桁を支える橋脚の造りについても同様である。
P3を対岸側から見ると、橋の上から観察したときにも分かっていたが、手前の桁G4はP3の中央ではなく、上流側に偏って設置されていた。
上流側に偏って設置されているという点では前述のP7と同じであるが、もちろん橋脚そのものの幅は違う。
やはり図にするとこのような感じだ。
P3を設置した時点では幅9.25mの桁を予定していたが、実際には幅6.0mの桁を設置したのか?
……いや、一つの橋でこんな奇妙な設計の変更が、果たして何度も起こるものなのか。
なにか今度は別のストーリーがあるのかもしれない……。
とても難解だ。
結局、現場での推理はほとんど実のある答えには結びつかなかったのである。
ただただ不思議が増えるばかりであった。
(↑)これは、全ての橋脚と桁の位置関係を1枚の図にまとめたものだ。
へんなの。
ほんといろいろと変なんである。
分からんことが増えていくばかりの今回の現地探索だが、新たな情報の収集にも少しは成功していて、ここで2枚目の製造銘板を発見することが出来た。
G4の一箇所に取り付けられていたもので、肉眼では読めなかったが、例によってズームで撮影して解読したところ……。
冠 着 橋
1984年 7月
長 野 県
道示(1980)二等橋
使用鋼材 ●●●●●●
製作 株式会社栗本鐵工所
このように、G4は昭和59(1984)年に架けられたことが判明。
トラスのG9〜10が昭和44(1969)年架設であったから、なんと15年も時期にズレがあった。
これはまた、いったいどういうことなのか……。
わからんすぎる!!!
頭上は昭和59年完成のG4(幅6.0m)。
水上に見えるののはP4であるが、水が流れているので近づくことは出来ない。
現場で最後に撮影したのがこの写真。
段階的に幅員や桁の形が変化する奇妙なチグハグ橋が、それでも雄々しく、悠々と、千曲の大河を攻略していた。
さんざんネタのようにイジった後で恐縮ではあるが、自然と頭を垂れたくなる偉大な姿であった。
ここで何があったのかは、机上調査でちゃんと教えて貰おう!
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