
旧冠着橋には4種類の異なる幅を持つ桁が同居していたが、現地調査によって、このうち第9径間(幅3m)と第4径間(幅6m)に製造銘板が発見され、それぞれ昭和44(1969)年と昭和59(1984)年という架設年が記録されていた。
この発見によって、本橋を構成する11本の桁は、少なくとも2段階に分けて架設されていることがはっきりしたが、ぶっちゃけこのような製造銘板の発見がなくても、4種類の異なる幅の桁は、4つの異なる時期に建設されたと想定するのが当然であろう。もしも、異なる幅の桁を同じ時に架設したなんてことがあったら、それはもはや正気を疑ってしまう(笑)。
というわけで、本橋の桁はおそらく4つの年代が異なる桁が同居していると判断したが、その裏付けを得るべく、まずは歴代の航空写真を遡ることで、橋の変化を目視で確認することにした。
当地を撮影した航空写真を平成の初期から遡っていくと、@平成5(1993)年、A昭和62(1987)年、B昭和50(1975)年、C昭和40(1965)年、D昭和22(1947)年の5世代があった。
これらを全て見ていこう。

1枚目、@平成5(1993)年版。
幅の異なる4つの桁が全て揃っており、合計11連からなる橋が完成していた。
これは今回探索した状況と同じである。
なお、図に書き加えた4色の数字は、それぞれの部分の桁幅とスパン数を示している。
ここから時間を遡っていく。

2枚目、A昭和62(1987)年版。
@の6年前に撮影された写真であるが、なんと! なんとなんと!!
幅9.25mの右岸側の3径間がない!!
橋は右岸の堤防にまで達することなく、左岸から8径間目で終わっていた。
この当時の状況について、実際の通行体験談がコメント欄に寄せられているので紹介しよう。
地元、戸倉の住人です。昔の冠着橋懐かしいです。
昔は一番広かった橋桁が無くて、木製の橋で河川敷に下ってから土手に登る道になっていました。
聞いた話だと、予算の関係でどんどん狭くなっていったらしいです。
最後は橋桁が掛けられなくて木製で河川敷に降りたらしいです。
かつての冠着橋は、河川敷へ降りてしまう橋だったのである。
前回紹介した新潟県の魚沼川に架かる栄橋からの華麗な伏線回収的共通点が、ここにあった。
現在の栄橋や、かつての冠着橋は、片岸で河川敷へ降りてしまうという特徴……ある種の欠陥……を持っていたのである。
しかも、途中で途切れた橋と河川敷内の地上道路を結ぶスロープ橋が木製であったことも、平成22(2010)年以前の栄橋と共通している。
栄橋では、平成の後半に至るまで木製の橋が存続していたことに驚いたが、この冠着橋においても、少なくとも昭和62(1987)年という比較的最近まで、県道の一部として、木製のスロープ橋が利用されていたのである。
前掲の航空写真を見ても、スロープ部分は幅6mより狭く見えるし、色合いもコンクリートのようには見えない。
これは確かに木橋であったのだろう。
おそらく、当局においてもスロープ部分は暫定的存在という認識があり、コスト的にも耐用年数的にも木橋が適切と判断されたのだと思う。
……そう考えると、スロープ部分が永久構造物化した栄橋はもう……。
そしてさらに先ほどの証言には、“聞いた話”としてではあるが、橋の幅が段々と狭くなっていく理由は「予算の関係」であるといい、しかも途中で河川敷に降りてしまう理由は「(予算の関係で)橋桁が架けられなくて」であるという、もし事実だとしたらあまりにも侘しい事由が述べられていた。
この真偽について判断できる材料はまだないが、11径間で完成する橋の8径間までが完成しながら、たった残り3径間が架かっていない状況を目の当たりにしたら、多くの人が「貧乏さ」を連想するのではないかと思う。

3枚目、B昭和50(1975)年版。
おわ〜〜!! 今度は左岸から6径間目までしかない!
しかも、これも地味に私の想像を超えた状況だったのだが……、最終的に3連のスパンとなる幅6mの桁も、同時に架けられたわけではなかった。
この昭和50年当時、幅6mの桁はたった1スパンだけ川幅の真ん中に架かっていたという、あまりにも珍妙な状況www
この1スパンだけの2車線幅を終えると直ちにスロープ(当時も木製であったろう)で河川敷へ降りてしまうというww これでは実質的に待避所ですな。
橋の長さとしても、当時の冠着橋は最終的な橋長である473mの半分程度しかなく、足りない部分は河川敷内の地上をぐねぐねと曲がりながら走っていた。
規模は違うが栄橋の現状にそっくりだ。

4枚目、C昭和40(1965)年版。
ちっちゃ!!
B以降の冠着橋左岸側橋頭の位置から、明らかにB以降とはスパンの異なる橋が川面へ突き出しているが、水流を跨ぐ最低限の長さしかなく、干上がって見える広大な河川敷部分には全く橋が架かっていない。これはすげー割り切り。
この橋は、左岸の始点こそ共通しているが、現在架かっている橋桁との共通部材はなさそうだ。
今回見た橋桁の中で一番古そうな第9径間のトラスに昭和44(1969)年架設とあったから、それ以前に撮影されたこの桁は別だと思う。
すなわち、冠着橋旧橋なのだろう。(現橋から見れば旧々橋だ)
ところで、この写真には「旧橋」とは別の何かの構造物が、右岸側から河川敷内に伸びているのも見える。
橋桁が失われた橋杭の列のようにも見えるのだが、これはなんなのだろうか?
調査の結果、おそらくはこれだろうという写真が見つかったので紹介しよう。

『目で見る更埴・埴科の100年』より転載
これは郷土出版社が平成4(1992)年に刊行した『目で見る更埴・埴科の100年』という写真集に掲載された、「木橋架設当時の冠着橋」の表題の写真だ。
附属するキャプションによると、撮影されたのは昭和40年代で、後方に見える吊り橋の冠着橋が度重なる水害と老朽化により使えなくなったため、手前に見える木橋を建設したとのことだ。
写真には、とても昭和40年代とは思えない江戸時代みたいな木橋が写っており、その背後に2本の主塔を有する吊り橋が見える。吊り橋は川幅の僅かな部分にしかなく、巨大なスロープで河川敷へ降りているのが異様な姿である。
この木橋と吊り橋の位置関係を、先ほどの航空写真Cと照合すると、写っていた橋杭の列らしきものは、この木橋の跡だと分かる。
キャプションの通りであるなら、ここでは吊り橋が最も古く、次に(江戸時代みたいな外見の)木橋が架設され、その後(昭和44年)に現在のトラス桁が吊り橋の位置に架け替えられたのである。おそらくだが、この木橋は吊り橋からトラス橋の間までの仮橋であったのだと思う。
なお、昭和40年の航空写真だと、この木橋は橋杭だけしか見えなかったが、架設中なのか、流失した跡なのかという疑問があった。これについては後ほど他の資料から解決する。
@ 平成5(1993)年 | ![]() |
---|---|
A 昭和62(1987)年 | |
B 昭和50(1975)年 | |
C 昭和40(1965)年 | |
D 昭和22(1947)年 |
ここまで見てきた@〜Cに、D昭和22(1947)年版を加えた歴代5枚の航空写真の一挙比較を右に掲載する。カーソルを動かして変化を楽しんでほしい。
まとめると、@〜Bにかけては、冠着橋の桁が左岸から右岸へ向けて増設を繰り返し、最後には河川敷に降りない完全な橋となる過程である。
Cには、その旧橋である吊り橋と、吊り橋の老朽化によって仮橋的に架けられた木橋を見て取ることができる。
そして最後のDまで遡ると、河川敷内に橋らしい構造物は全く見当らない。
そしてもう一つの注目点として、Dから@までの半世紀近い時間経過の中で、河川敷内での本流の位置が変化していることが挙げられる。
DからC、そしてBにかけては左岸寄りに本流があったが(だからこそ左岸寄りに吊り橋やトラス桁が架けられたのだろう)、Aと@では明らかに本流が河川敷の中央に移動している。探索時点でも左岸のトラス桁の下には一滴の水も流れていなかった。
このような河川敷内での本流の移動が、冠着橋の変化に少なからず影響を与えたのではないかということが、航空写真から読み取れた。
I. 明治43(1910)年 | ![]() |
---|---|
II. 昭和4(1929)年 | |
III. 昭和12(1937)年 | |
IV. 昭和37(1962)年 | |
V. 昭和51(1976)年 | |
VI. 昭和54(1979)年 | |
VII 平成13(2001)年 |
せっかくなので、航空写真だけでなく地形図でも冠着橋の変化を見てみよう。
特に航空写真が撮影される以前の状況は、地形図でしか窺い知れないものがある。
I.は明治43(1910)年版。
地図の中央付近に川を横断する点線の道(小径=徒歩道)があり、短い橋と渡船の組み合わせで両岸を結んでいる。この渡船は千本柳舟渡と呼ばれ、古くは嘉永5(1852)年の絵図にもあることが、長野県教育委員会発行の『歴史の道調査報告書 31 (千曲川)』に掲載されていた。これが位置的にも冠着橋の前身である。
II.は昭和4(1929)年版。
I.と同じように渡船が描かれているが、河川敷内の流れの位置の変化に合せて、小径や渡船の位置も微妙に変化している。
III.は昭和12(1937)年版。
この時期には本流が右岸側に移動し、渡船も右岸寄りに変わっている。
IV.は昭和37(1962)年版。
実はこの時期には既に航空写真Cに写っていた吊り橋が存在したのだが地図には反映されておらず、渡船も消えて、この位置から渡河施設の一切が消えている。先代橋の吊り橋は結局一度も地形図に反映されなかった。
V.は昭和51(1976)年版。
この版からようやく冠着橋が描かれている。いかにも幅の狭い橋が、川幅の半分程度を渡っていて、残りは河川敷を通行している。航空写真Bの状況に近いと思う。
VI.は昭和54(1979)年版。
橋の表記が太くなり橋名も記載されるようになったが、橋の長さや道の位置は変わらないから、単に表記上の変化でしかなさそうだ。しかし着実に橋の存在感は増してきている。なお、県道338号内川姨捨停車場線の認定は昭和49(1974)年7月29日である。それまでは町道だった冠着橋は、このときに県道に昇格したと思われる。このことが表記に反映されたのかもしれない。
VII.は平成13(2001)年版。
本編でも紹介した、旧冠着橋が完成した姿が描かれている地形図である。ちゃんと両岸の河川敷を結ぶ姿になっている。
次の章では、冠着橋に係わる謎の核心である桁の変化、増設と延伸の歴史に焦点を当てる。
現地探索で湧き上がった数々の疑問に、引導を渡そうではないか!