廃線レポート 奥羽本線旧線 赤岩地区 その3

2005.1.9


 我々は今、「その2」開始時点と殆ど同じ位置にいる。
この後の計画としては、内崩しており突破の出来ない7号隧道を山腹迂回したのち、順次6号、5号、4号と隧道を攻略していきたい。
明治32年に開通した、東北鉄道史有数の古隧道達が、続々と顕わになるはずである。

ただし、地形的な制約は極めて大きく、特に、7号隧道の迂回部分。
そして、6号隧道と5号隧道を隔てる、松川峡谷の突破が、2大難所となる。

では、参ろうか。


 



 謎の石柱 
2004.11.20 9:08


 私は、7号隧道の西坑口に空いた小さな隙間から外へと這いだした。
入るのも大変だったが、出るのも、やはり大変だった。

さて、ここは新幹線の軌道の脇。
長居をしたい場所では到底無い。
目的を果たした我々は、速やかに法面を這い上がり、再び安全圏へと遠退いた。

野ばらの生い茂る苦しい藪を突破し、現在線北側の山肌を、概ね現在線に沿って水平移動した。
間もなく、深い杉の森に舞台は移る。



 余り手入れのされていない様子の杉林。
急峻な南向き斜面を杉林が覆っている。

この杉の林の何処かには、明治43年の僅か50日間だけ、鉄道の代わりになった歩道が眠っているはずなのだが、痕跡は見つけられない。

この歩道というのは、この森の下に埋もれている7号隧道が変状により使用停止とされてから、2代目線が完成するまでの期間のうち、初期の50日間、7号隧道と隣の6号隧道を迂回するようにして鉄道旅客の徒歩連絡が行われていた際のものだ。
僅か線路上では800mほどの迂回であったが、成人男性でも40分以上を要する大変な徒歩連絡であったと記録されている。

この歩道については、後ほどもう少し掘り下げる。


 森の中を東へ水平移動していくと、奇妙な物体に遭遇した。

それは、写真の人物(細田氏)のとなりに写っている、数本の石柱である。

自然石ではありえないような造形である。
少なくとも、私はこれと似たものを見たことはなかったし、この場所の周辺にも、他には見られなかった。
この何の変哲もない斜面の一角にだけ、数本の奇妙な石柱が、苔生しながらも、立ちつくしているのである。

なんなんだ、これは?



 皆様のご意見も是非お聞かせ頂きたい、かなり謎の物体である。


かなり、不気味である。
猛烈に風化した地蔵様のようでもあるが、まさかなんでも、これは大きすぎるだろう。
高さ2mは優にあるのだ。

しかも、数本が大体一本の直線上に屹立している。

なんなんだー! コレハ?!




 巨大な鍾乳石のような表面。

だが、付近に鍾乳洞があるという話は聞かないし、石灰質の地形でもない。
周辺にも一切、これと似たような石は見られない。

私の想像だが、これはコンクリートではなかろうか?
触った感じのざらつき感とかは、コンクリっぽいものがあった。
問題は、この異常な形だが…。

分からない。
はっきり言って、分からなすぎ。



 さきほど、「何の変哲もない地形」と書いたが、正確には、石柱群のすぐ東側は、すり鉢状に落ち込んでいた。
その斜面は、自然に生じたにしては、鋭角的である。
付近に水の流れなど、この凹みを生じさせたと類推されるものはなく、陥没などが起きない限り…

あ!
陥没!
ヤラセではなくて、いまこの文章を、どうしてかなー?なんて考えながら書いていたら思いついた!
陥没!
そうだ、まさにこの直下は7号隧道だ。

この奇妙な斜面が、地下の隧道崩落による陥没である可能性もあり得る。
或いはさらに想像を進めれば、地上部の奇妙なコンクリ塊は、廃隧道に対し地上からなんらかの作業をした、痕跡なのかも知れない。
ここまでいくと、完全に想像でしかないが…。





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 松川橋梁
2004.11.20 9:22


 石柱群のすぐそばに、松川の峡谷が切れ込んでいる。
足元の断崖に視界が開ける。
そこには、微妙な間隔を置いて峡谷を跨ぐ、2本の鉄橋。

これは、いずれも奥羽本線のもので、現在は左の橋を上り線が、右の橋を下り線が利用している。
このように、上下線が別々の橋を利用していると言う不自然な形態は、言うまでもなく複線化が付け足しで行われた為である。
左の上り線は4代目松川橋梁、右の下り線は3代目松川橋梁なのである。

すなわち、初代と、2代目が、既に廃棄されているのだ。
そして、2代目はすぐ傍にある。



 4代目と3代目の松川橋梁の間。
4代目寄りに、驚くほどに巨大な一本の橋脚が立ち尽くしている。

これこそが、2代目橋梁の遺構である。
明治44年から昭和35年までの49年間現役を務めた2代目松川橋梁は、昭和42年に複線化工事により4代目橋梁が建設されるまでここにあり続けたという。
その姿は、背の高い下路ペチットトラス一連と、上路デックガーダー一連の複合橋であり、トラス部分の延長は91.4mもあった。
全長115m余りを数えた長大橋梁の、その象徴的な構造物が、今も残る、巨大というより他はない橋脚である。

この2代目橋梁の米沢側橋台は3代目橋梁橋台の傍にあり(未確認)、3代目と4代目の橋梁の間を、途中ただ一つの橋脚(現存)を置いて斜めに渡し、福島側橋台は4代目橋梁橋台の傍にある(現存)。
そして、そのまま現在の4代目松川隧道の坑口位置にかつてあった、2代目6号隧道へと続いていた。




 ここで、いよいよこの赤岩探索の役者が揃った。

この赤岩地区で廃止された線路は、先に示した明治32年竣工の初代線のみではなく、明治44年に災害復旧用代打として急遽拵えられた2代目線がある。
それぞれ、初代線には4隧道、2代目線にも独自の隧道が2本あったが、それらの一部(4号隧道付近)は重用していた。
その後、老朽化した各設備を放棄して全く新しく昭和35年に建設された3代目線。
さらに、2代目線の橋梁跡や隧道坑門などを呑み込みながら複線化のために建設された4代目線。
この3代目・4代目が、現役線と言うことになる。
いずれも、山形新幹線開通に伴い標準軌化されている。

この後の計画をもう一度整理しておくと、初代線7号隧道から順次6号、5号、そしてこの区間の端である4号隧道まで辿る。
そして、そこで折り返し、今度は2代目線5号隧道、6号隧道を経由し、現在地点に戻る。
これが、この赤岩探索計画であった。

これは、おそらく廃線好き誰もが考える“贅沢な”廃線探索計画。
だが、これを現実のものにするには、多くの試練が伴う。
まずは、この、

今目の前にある、松川峡谷の攻略が不可欠である。




 3代目(下り線)松川橋梁を疾駆する山形新幹線つばさ号。

くじ氏がこれを見てボソッ。

 「電車の運転士って、なんて恐いところを走るんだ…」

そう言う感覚…あるのかな?
ちょっと、私には分かりづらい感覚である。
もちろん、あの鉄橋を歩いて渡るのは、それなりに恐いだろうけど…。




 4代目橋梁の米沢方袂から見る晩秋の松川峡谷。

この真っ正面の山肌のだいぶ先までは、初代7号隧道が地中を進んでいる。
そして、奥の所々緑のある辺りからは、さらに先の6号隧道まで短い明区間になっていたはずだ。
ここから見ても、一切の廃線跡はおろか、人工物は何一つ見られない。

もう10kmも下れば福島市街の喧騒があるのだが、そう言われても信じがたいような深山の景色だ。

だが、今はこの景色を見て呆けている場合ではない。

この峡谷を攻略せねば、探索の先はないのだ。
前進あるのみ!




 ちょっと写真の尺が大きすぎたかも知れないが、このくらいしないと、この2代目松川橋梁の橋脚の迫力は伝わるまい。

私が今まで見てきたどの橋脚よりも巨大である。
そして、圧倒的に、大迫力だ。
そればかりか、その形状も極めて特徴的である。

一言で言い表すなら、まさに『塔』。

これは、重力式橋脚という構造体である。
その名の通り、自重で地面を強く押すことで、安定を保っているのだ。
すぐ脇には現在線のスマートな橋脚が立っているが、その姿は対照的である。

細かく見ていく。
まず、橋脚自体は直接地面に接しておらず、土台が築かれている。
橋脚は3層に分かれているようで、これが見た目の変化になっている。
全体ではおおよそ35mほどの高さを有すると思われるが、そのうちの下部15mほどは黒っぽい石積みで、非常に特徴的な“窓”が、川側にのみ設けられている。
窓の内側は煉瓦が覗いており、鮮やかである。
これは、明らかにデザイン的な意匠と思われる。
また、この下層部分の川上側には、おそらく流水抵抗を低減するための水切りと思われる突起部分がある。
次に、地上15mから25mほどまでが中層部分。
ここは煉瓦製の表面で、四隅には隅石が仕込まれている。
上部はコンクリートに覆われているが、これは生来の姿ではないと思われる。
さらに、天辺にもコンクリート製の突起物が複数見られるが、接近することは出来ないので、詳細は不明。

明治44年に建設された、驚くべき巨大橋脚。
それが、この遺構の正体だ。





 松川峡谷へ降下!
2004.11.20 9:33

 さて、いよいよ前進再開。

この先のルート取りは、おそらくこの地の探索を企てる多くの同胞にとって、興味深い部分だと思われる。
私も、今回の計画を実行するまで、いくつかの先人の著に触れたが、この地形の困難は記していても、実際にどのようなアプローチをしたのかが、良く触れられていなかった。
それで、結局は現地で検討するものとしていた。

そして、現地を見てみた我々の答えは、谷底を迂回することだった。
このまま山腹を水平移動するのが7号隧道東口への最短だが、雑木林の斜面に手がかりこそあるものの、極めて急峻で落ち葉が積もった状況は、危険すぎると判断。
距離もまだ300m程度あると考えられるので、リスクが大きすぎた。
また、大きく山上を迂回するルートは、おそらく今まで一般に利用されてきたもので、先に挙げた「徒歩連絡道」も、大体近い経路だったと思われる。
これは、今我々のいる場所からは大きな迂回となるので、最後の手段とした。

とりあえず、4代目松川橋梁の橋台は谷底まで一定角度のコンクリート斜面になっており、ここを下ることは比較的容易そうに見えた。
また、松川の水量も大人しく、沢歩きも可能と見えた。
そこまで確認の上、7号隧道までのルートとして、谷底を選定するに至った。



 水路と化した橋台から続くコンクリ斜面は非常に滑りやすく、後半はウォータースライダーのようにして下ってしまった。
が、とにかく無事に下ることが出来た。
慎重に下りさえすれば、どうと言うことはない。

今回初めて辿り着いた松川の底。
水量は少なく、我々のネオプレーン装備が無くとも、濡れずに対岸に立つことも出来よう。
少し寄り道になるが、対岸の2代目橋脚の袂まで、行ってみよう。




 これが、2代目橋梁の重力式橋脚下部。

一軒家くらいの断面積がある。
しかも、その高さは、高層ビル並みだ。

なんと言っても目を引くのが、この“窓”の赤い煉瓦。
ややどぎつい色だが、近年の建造物のそれではない。
100年近くの刻を経た、色合いである。
よくぞまあ、これだけ綺麗に残っているものだ。



 接近するほどに、見上げたくなる大きさ。

まさに塔というより他はない。

コメントもいい加減浮かばなくなってきたので、さらに数枚の写真をコメント無しで、ご覧頂こうか。








 溜息混じりにしばし見上げたが、我に返るとすぐ、川を下り始めた。

巨石がゴロゴロと散乱する、暴れ川らしい河床の様子。
今はたいそう穏やかだが、それはかりそめの姿らしい。

すこし経って振り返ると、3代4代の橋が、折り重なるように見えた。
2代目以降は、全て松川の右岸に隧道を穿ったが、初代だけが、左岸にいくつもの隧道を貫いた。
その左岸は間もなく、巨大な地滑りに見舞われ、現在に至るまで全く再利用されぬ土地のままである。


そこには、まさに幻の鉄路と言うに相応しい、明治に威厳の数々が眠る。
次回、いよいよお伝えする。

そして、山行がの命崖、いや命懸けの探索も徐々に、顕わになるだろう。











その4へ

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