廃線レポート 奥羽本線旧線 赤岩地区 その8

2005.1.17


 第4号隧道 内部
2004.11.20 11:14


 目の前に口を開ける、第4号隧道。

我々の赤岩旧線探訪の、一つの終着駅。

かつて幾万の旅人達を通した、その穴は、もう、何人をも通さない。

烈風を纏う鉄の巨獣の咆哮も、呼吸のような黒煙も、過去のもの・・・。


かつて、奥羽本線の全線を直通する列車はなかった。
それは、余りにも列車が遅く、時間がかかったからだ。

しかし今、新幹線の名を冠する列車がこの峠を、稲妻のように銀の車体を輝かし疾駆する。

幾多の遺跡を、見えざる場所に置き去りにして。


  我々の探索は、遂に最奥の地へ、迫った。


 4号隧道坑門前の情景。

昭和35年まで現役であったが、もはや森の一部と化している。

松川峡谷に鋭く袖を落とす蝮沢橋梁橋台が、坑門に直接続いている。

その対岸には、新旧の第5号隧道が、前後にやや距離を置き、並んで口を開けている。

この地に辿り着いた者だけに許される、至福の廃線風景が、そこにあった。





 第4号隧道、坑門。

一方はそそり立つ山肌。

崩れかけた石垣が、辛うじて形を留めている。

煤で黒ずんだ坑口の煉瓦には、無数の金属が突きだしている。

おそらくは、かつて隧道名を記した銘板が掲げられていたのだろう。
また、電化に伴って設置された設備の名残もあろう。

足元は垂直の崖が、松川の淀みに吸いこまれている。



 坑口間近の内壁には、薄れたペイントが微かに残されている。

ただし、判読できるのは2行の文字列のうち上の行の、初めの四字のみ。

そこには、「隧道調査」とある。


隧道調査…。

まさか、我々のような酔狂の仕業ではあるまい。

この先に、なにかヒントがあるのだろうか。




竣工年月日 昭和30年●月●日
施工者名  鉄道建設興業株式會社
施工区間  自 12K 895M 00
        至 13K 146M 56
施工数量  背面導水排水溝 53カ所
        側壁ブロック積  21.6M2 (8カ所)


ペイントの傍の壁に嵌め込まれていた、煉瓦一枚分の小さな工事記録銘板。

昭和30年… 廃止の僅か5年前。
隧道の延命を図る意図か、大規模な改修が行われたようである。
なお、「鉄道建設興業社」は、現在も「鉄建興業社」として健在のようである。(創業昭和19年、社サイトより)


 細田氏とは、極難所の蝮沢橋梁の手前で再び別れた。
そして彼は、初代5号隧道の米沢方を見に行った。
私とくじ氏はそのとき、4号隧道内部に立ち入った。

内壁の奇妙な構造が、目をひいた。

これまで、どこの隧道でも見たことがない、施工である。

まるでスリットのような切れ込みが、両側の側壁の正対する位置に、おおよそ等間隔で並んでいる。
それは、幅45cm、高さ3m程度。
奥行きは僅か5cm程度だが、その内側の壁は元来の煉瓦積みではなく、コンクリートブロックのようである。

ピンと来た。
先ほど目撃した工事銘板にあった「側壁ブロック積」とは、おそらくはこの構造物のことだろう。
これが、果たしてどのような意味を持つものなのかは、分からないが。
もう一つの施工内容である「背面導水排水溝」と関連しているのは間違いないだろう。



 振り返ると、まだ入り口はそこにあった。

この隧道は、記録によれば延長331m余り。
その線形は判然としないが、おそらくは松川の断崖に沿って、やや南にカーブしているのだろう。
そのせいなのか、やはり閉塞しているのか、出口は見えず、また、風も感じられない。

洞床には、まだ微かに凹凸を感じる。
それは、枕木の置かれていた跡に違いない。
轍はなく、車輌が進入したことは、当然のようにないらしい。

コンクリートによる覆工などは見られず、崩れもないままに良く煉瓦の壁が原型を留めている。
所々に謎のスリットがある以外は、初代線の各隧道や、新5号隧道と大きな違いは見られない。




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 謎の数字が、内壁に掛けられていた。

白い木の小片に描かれた、「4」の文字。
そして、さらに小さな木片がその右にも掲げられており、そっちは小さな字で「19」とある。

洞内では、さらに連続すると思われる「6」などの数字が落下しているのを見た。
また、小さな木片の数字は、新5号隧道にも残されていた。
こっちは、洞内の距離では無かろうかと、推測する。
大きな板の数字は、分からないが、スリットの番号?

もっとよく調べてくるのであった。



 いくらか進むと、その洞内の様子は、なんとなくこれまでに見た他の隧道と異なる、雰囲気があった。

うまく言えないが、作業感というか、工事現場のような、雑然としたものである。

わずか300m強の隧道、このまま歩けば、あっという間に脱出の筈である。

しかし、進めども進めども、出口らしきものはいっこうに見えては来ない。

代わりに、ますます雑然としてくる。

現在線にぶつかって潰えるのだとすれば、これはその前兆なのか。

その予感に興奮する暇もなかった。
早足で進む我々は、すぐに異様な光景に出くわすことになる。





き、きた。

この光景(洞内分岐)を見た瞬間、私は不思議な感覚を覚えた。

この約1ヶ月前にも、同じような景色を見ていた。
しかも、やはりそばにはくじ氏がいた。

第二次和賀計画で、私とくじ氏が潜った水路隧道の奥底。
そこで目撃した景色と、似ているのだ。

丁寧な煉瓦の壁を強引に崩したような、横穴の様子。
煉瓦とコンクリの違いはあれど、荒々しい後付の洞内分岐の様子は、似ていた。


そして、私は思った。

なぜこの人と一緒だと、こんな変な隧道ばかり現れるのか?  と。



 それはちょうど、元々あった待避口をお構いなしに半分崩していた。
トロッコがちょうど通れる程度の、本洞からは遙かに小さな横穴だ。

そして、その横穴は、僅か1mも続かず、天井までの土砂により、埋められていた。

果たして、我々は坑口からどれほど進んできたのだろう。
振り返れば、大部小さくなってはいたが、まだ鮮明に入り口は見えた。
きっと、200mか、或いは250m。
まだ、出口がある距離ではないように思える。

この横穴は、果たして、何なのだろうか?
明らかに、隧道が廃止されてからの、或いは廃止が決まった後の所作だと見える。
そうでなければ、まさかこのような乱暴な工事をするまい。

考えられることは、やはり現在線との干渉である。
しかも、本隧道の直接の後継である3代目松川隧道ではなく、4代目のそれ(現上り線)による干渉ということが、地図上から想像できる。



 4号隧道の福島側坑口付近は、左図の通り複雑な状況になっている。
しかも、残念ながら我々はまだ、自身の目でこの坑口を見たことがない。
3代目松川隧道と、4代目松川隧道の坑口が、地図の通りであるとすれば、近い位置に並んでいるのだろうが、果たしてそこにこの第4号隧道の痕跡が残されているのか、私は知らない。
しかし、位置的にはどうしても4代の隧道と干渉せざるを得ないとも思える。

その真実は是非、皆様が列車の車窓から確かめて欲しい。
或いは松川断崖を上り下りする根性と技があれば、対岸の車道から直接アクセスできる可能性もあるが…。



 横穴は、明らかに埋め戻された痕跡がある。
そこには、支保工らしき材木の一部や、なぜかスコップの持ち手の部分だけが地表に現れている。
そして、支保工の外側の壁は、完全に素堀のままである。

この横穴が通じていたと想像される4代の隧道は、昭和43年に、複線化用に建設されたものである。
ちょうど今この時に、その隧道に列車が通りかかれば何かしら気配を感じられるかと思ったが、その様な気配を感じることは終始なかった。

それが、たまたま列車が通らなかっただけのか、全く見当違いな想像をしているだけのなのかは不明だ。



 隙間に貫通を賭けて潜り込んだが、ダメだった。
1mも進めず、先は完全に埋まっていた。


謎の横穴跡を後にして、さらに本洞を進むことにする。




 さらに30mほど進むことが出来た。

だが、そこで隧道は遂に、我々に終点を告げたのであった。


その閉塞地点は、奇妙な場所だった。

正面の閉塞壁は、コンクリートでがっちりと固められており、珍しいと言うことはない。
だが、内壁の様子が左右で異なるのは、珍しいことだ。

向かって右側(4代の隧道が並走する側だ)の壁は、閉塞地点の30mほど手前からコンクリート製になり、しかも、一際大きな待避口(コンクリート製であり、これ自体が不自然だ)の先からは、奇妙な羊羹状の壁が築かれている。

あたかも、右側の壁の向こうには、なにか触れてはならぬものが隠されているかのようある。



 閉塞付近から坑門を振り返る。

おおよそ300m程度と推定される。



 しかもよく見ると、その奇妙な壁の“張り出し”は、進むにつれて大きく、本隧道を圧迫している。


もう、これは決まったと言って良いだろう。

やはり、この隣には、現在線の上り隧道があるのだ。


このような、決着となった。
今一度、光のもとへ通り抜けることは、叶わなかった。



 洞内に、ポツンと落ちていたヘルメット。
飾り気のないそれは、作業員の忘れ物だろうか。
そもそも、この作業場までは、どうやってアクセスしていたのだろう。
赤岩からここまで、我々が辿ってきた道はなかなかに容易なものではなかった。


謎が残った。

実は、相互リンク先『ニヒト・アイレン』の管理人TILL氏の調査によれば、この第4号隧道の福島側坑口から100mほど米沢よりの地点には、横坑があるというのだ。
それは、現在も対岸の車道から観察できるという。
うっかり、我々はそのことを知らなかった。(帰宅後にご教示頂いた)

その横坑部分は、まるで地点(第7号隧道横坑)のように、地表スレスレにまで隧道が接近している様だと言うが、今回進める限り進んだものの、それらしきものは発見できなかった。
本当に福島側坑口から100mも米沢寄りにそれがあるとしたら、遭遇しないことが不自然なのだが…。


まだ、我々の知らない遺構が、この谷には残されている。

その横坑の内部には、果たして何が、あるのだろう。

猛者ならば、崖沿いに本隧道を迂回し、まだ見ぬ横坑へと辿り着くことも不可能ではないだろう。
(そこに工事用軽便線が通っていた痕跡は、僅かにある。だが、写真は無し)







 次回、最終回。








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