廃線レポート 雲井林業軌道 机上調査編

公開日 2016.10.22
探索日 2010.06.06
所在地 青森県十和田市

雲井林業軌道の机上調査


ザ・森林鉄道・軌道in青森』の管理人シェイキチ氏から平成20(2008)年に頂いた情報をもとに行った平成22(2010)年6月の探索により、仮称「雲井林業軌道」の路盤跡を起点から終点まで一通り確認する事が出来た。

同路線中における白眉は、何といっても峠の隧道跡である。
想定に反して、隧道は「長い隧道」と「短い隧道」の2本が発見され、辛うじて入洞が可能であった「短い隧道」の内部は、明らかに未完成形で放置されていたのである。
この名も無い峠で、過去に一体何が起きたのかという、“新たな謎”が生まれた。

しかし“謎”といえば、この雲井林業軌道自体がそもそも謎に満ちた存在である。
私が探索時点で把握していたこの路線の情報は、導入回で紹介した、シェイキチ氏によりもたらされたものがその全てである。
すなわち、「木炭製造のため、昭和19年に菅原光珀は惣辺山に雲井林業株式会社を設立した。そこに水力自家発電を導入、延長7キロに及ぶ軌道を敷設し、ガソリン機関車2台、トロッコ5台を配置した(「ふるさとの思い出写真集 十和田」より抜粋)」という記録のある軌道(=仮称「雲井林業軌道」)が、かつて十和田山中惣辺山のどこかに存在していた。そして、昭和35年の地勢図に隧道と共に描かれていた軌道こそが、それなのだろうという予測である。

このように、竣工年や廃止年はむろん、路線名でさえ仮称がついてる状態だった。
そして実際に探索を終えてみても、それが雲井林業軌道だったという明確な証拠は得られなかった。
ただ確かに廃線跡の遺構が存在したというだけである。


本稿は「最終回」として、探索後に行われた机上調査や聞き取り調査の成果をまとめたい。
ここでも大きな役割を果たしたのは、シェイキチ氏である。
これから挙げる全ての資料を発見したのは彼であり、今回の手柄も全て彼に帰属する。
また、残念ながら現段階の本稿は、最終稿にほど遠い。判明した事実はいくつもあるが、核心的な部分にも未解明がいくつもある。
本稿をここで公開した大きな目的は、さらなる情報提供者の登場を期待してのことである。




【1】 探索の発端となった「写真集」の内容を確認



『ふるさとの思い出写真集 十和田』より転載。

まずは、探索前の時点で唯一名前の挙がっていた資料である『ふるさとの思い出写真集 十和田』(昭和55(1980)年/国書刊行会)を自分でも入手して、その記述を確かめてみることにした。
するとそこには、こんな写真が掲載されていた。(→)

写真に写っているのは、まさに森林鉄道然としたガソリンカーが牽引する数台のトロッコ列車である。荷台には袋詰めにされた何かの荷物と、数名の男たちが露天に身を晒している。
路盤の周囲には雑木林が広がっていて、特に現地を特定するようなものは何も写っていないが、今回探索した場所にもこんな雰囲気の場面はいくらでもあったと思う。

なお、シェイキチ氏が事前情報として教えてくれたのは、この写真と、同ページに掲載された別のもう1枚の写真(男たちが炭材を伐採している風景)のキャプションを抜粋したものであった。
抜粋前の元のキャプションは、以下の二つだ。

木炭製造は大正の中期、盛んに行われたが、昭和14年以降不振を極めるにいたった。ところが大東亜戦争の勃発に伴い、再びこれが重要視され、増産につぐ増産がなされた。菅原光珀は、その先頭を切り、19年惣辺山に入山して雲井林業株式会社を設立した。写真は春近い山の炭材伐採風景である。

菅原光珀は、そこに水力自家発電を導入、延長7kmに及ぶ軌道を敷設して、ガソリン機関車二台、トロッコ五台を配置した。また製炭地人口が135人に達するや、奥入瀬小学校雲井分校を開設した。写真はそのガソリン機関車である。


『ふるさとの思い出写真集 十和田』より転載。

なお、同書にはもう1枚、森林鉄道を撮影した写真が掲載されている。
それが右の写真である。

父とガソリン機関車に乗る子ども。未就学児童と思われる。

この写真が撮影された路線が、上の写真と同じものかは確定できないが、菅原光珀氏が惣辺山の製炭事業地付近に設立したという奥入瀬小学校雲井分校の写真をまとめたページに掲載されているので、これまた“雲井林業”の軌道風景であることは間違いない。

なお、雲井林業という一民間企業会社が設立した雲井分校の存在は、本業である製炭業以上に多くの記録が残されている。
私は学校制度について詳しくないので、これがどの程度珍しいことなのか判定出来ないが、山奥に事業地を持つ企業が、そこで働く従業員の子弟教育のため小学校を開設していたことは、戦後まもない世の注目をだいぶ集めていたようである。
これについては、後ほどさらに記述したい。





【2】 雲井林業について、「十和田市史」の記述を確認


次に私は、惣辺山の所在地である十和田市が発行した『十和田市史』(昭和54(1979)年/十和田市)を入手した。
するとそこにも、雲井林業の活躍が次のように記載されていた。

(5)木炭製造販売業の蘇生
 (中略)
ところが昭和16年大東亜戦争勃発に伴い、それまで家庭燃料の域を出なかった木炭が、諸工業用ないしはガス発生用に欠くことのできない重要物資として登場し、これが増産を期して国有林内における木炭生産が大幅に許可されることとなって、ようやく木炭製造販売業界が蘇生するにいたった。その先頭を切ったのは菅原光珀で、先ず大深内及び奥瀬の国有林に入山して増産の実績をあげ、昭和19年には惣辺山に入山して雲井林業株式会社を設立した。他にガソリン機関車二台、トロッコ五台を配するなど、先手先手と果敢に立ち廻り、製炭部落の人口135人を数えるにいたるや、子弟の教育の万全をはかって、奥入瀬小学校雲井分校を開設し、余人の注目を浴びた。
これらの生産能力においても、終戦の年、軍の生産割当4万俵を突破し、7万俵の最高記録を樹立した。ただこの間戦争末期には深刻な労働力不足を来たし、護弘部隊及び三沢海軍航空隊から、それぞれ30名におよぶ兵員の応援を得るなどして、辛くも軍割当量の搬出を確保した。
因みに木炭業界最大の危機は、戦後昭和30年初期以降に訪れた。すなわち燃料としての薪炭は激しい速度をもって石炭に移行し、さらに一層の急速度をもって石油へ、そしてガスへと転換されていった。今日ではごく少数の愛好者に調理用または暖房用として使用されるにとどまり、いわば一種の骨董品的存在となって、その製造販売に終止符が打たれた。

以上の内容は、前出の「写真集」とほぼ同じものであるが、軌道の全長が7kmだったという記述は「写真集」にあって「市史」には無いなど、多少の違いがある。また、「市史」は戦時中から戦後にかけての木炭業界の消長を包括的に述べており、当時の時代背景を知ることが出来る。




【3】 「雲井林業沿革」という手書き一次資料を発見!


以上に挙げた「写真集」と「市史」という二つの公刊資料により、我々が探索した軌道跡の正体は、昭和19年以降に雲井林業株式会社が木炭搬出用に開設した全長7kmの路線であったと確定――かと思ったが、実はそう単純な話しでは無かったのだ。ここからが面白い!

ここからのどんでん返しのきっかけは、やはりシェイキチ氏。
彼は現地近くの十和田市民図書館へ通い詰めた末、検索システムには反映されない、おそらくは「市史」や「写真集」の記述の元となったであろう手書きの一次資料を発見したのである。

その資料は原稿用紙3枚からなり、そのうち1枚の半分が表紙で、そこに『昭和三十六年二月 雲井林業沿革』と書かれている。
原稿は手書きで、多数の修正跡がある。文字も走り書きに近く、かなり読み辛いものである。また、原稿用紙の欄外に「雲井林業・菅原光珀商店」と印字があり、おそらく社内品だ。執筆者の記名は特にないが、内容からして菅原光珀氏本人とみられる。

内容は、「市史」と「写真集」にある雲井林業関係の記述を全て含む。ここにその全文を掲載すると膨大になるので、軌道や林道など、本稿と関係が深そうな部分を中心に引用する。(文中の漢数字は全てアラビア数字に、旧字体や旧仮名遣いは現代の表現に改めた)

 (前略)
(昭和)19年、林産興業株式会社雲井事業所を開設し、惣辺山国有林内養老沢53林班に入山し、「雲井林業」の名称にて、その事業を行った。
 (中略)
又、昭和22年(←おそらく昭和20年の誤り)には積極的な生産一色の時代、金9万円也を投じて養老沢53林班の生産事業遂行のため4kmの林道(搬出馬車道)を開設した。翌々の年、昭和22年には青森営林局で4kmの林道(養老沢53林班)を拡巾し自動車道路に改修(4kmの内2kmだけ)した。しかしその道路は悪路のため自動車の運行が不能であった。そこで同年に三本木営林署より軌条を借用し作業軌道4kmを敷設した。
 (中略)
翌年の23年、林産興業株式会社から一切の権利を譲り受けた。その年、生産強化の策として、ガソリン汽関車2台及びトロリーを15台を購入し、搬出の能率向上を図った。(中略)此の年樺太引揚者12世帯を増員雇用し入山させた。(中略)山では谷川を堰止め水力自家発電をも行い、入山家族の子弟教育のため学校を建築、奥入瀬小学校雲井分校を開設し世の注目を浴びた。当時作業戸数45、人口135人の部落を形成した。
 (中略)
又々翌25年には三本木営林署から軌条を借用し、事業が奥地へ進むにつれ軌道を7kmに延伸敷設した。
 (続く)

まだ「沿革」の文は続くのであるが、一旦ここまでで切りたい。
そして、「写真集」や「市史」の記述は、これまでの内容をまとめたものである。(なお、トロッコの台数は、おそらく「沿革」の15台というのが正しく、他の資料にある5台は誤記なのだろう)
つまり、「写真集」や「市史」に書かれていた惣辺山国有林にあった全長7kmの軌道の正体は、昭和20(1945)年に雲井林業が9万円で敷設した搬出馬車道に、22(1947)年に営林署から借用した軌条を敷設し、さらに25年に7kmまで延伸された作業軌道であったのだ。そしてその所在地は、養老沢の53林班であったという。

ここから、がどんでん返しだ。結論を先に述べれば――

「写真集」や「市史」に登場した7kmの作業軌道は、今回我々が探索した路線ではない、全く別の路線だった。

次にその証拠を明かそう。



『国有林森林鉄道全データ 東北篇』より転載。

右の2枚の画像は平成24(2012)年に刊行された『国有林森林鉄道全データ東北篇』からの転載である。

ここには、惣辺山国有林の53林班に存在した、全長4585mの養老沢林道という森林鉄道2級線が記録されている。
この養老沢林道は青森営林局三本木営林署が所管した森林鉄道であり、三本木営林署側の記録では、昭和21年から22年にかけて開設されたことになっている。
そして前述の「沿革」は、雲井林業側から見た同じ路線の記録である。

両者を比較すると、細部の表現こそ異なっているが、昭和22年に53林班の養老沢において全長約4kmの軌道が敷設されたという事実が共通して述べられている。
昭和25年に7kmに延伸されたという内容は雲井林業側の記録にしか無いが、おそらくこれは営林署側が林道として記録しない、文字通りの作業軌道であったのだろう。

そしてこれが最も重要なことだが、右図の通り、今回探索した軌道跡は、明らかに53林班とは無関係な位置にあり、養老沢林道ではあり得なかった。それは別の路線だったのだ。

この養老沢林道は、現在も同じ名前で自動車道の林道として存在しており、我々が探索の行き来にそこを利用していた。本レポートの導入回に登場しているので、見直していただきたい。





【4】 「雲井林業沿革」の後半部分に、今回探索した軌道跡の正体が!!

それでは、我々が実際に探索した、峠越えの隧道を持つ、惣辺川沿いの軌道跡の正体は何か。

その答えも、「沿革」の後半部分にはっきりと記述されていた。
公刊された資料ではなぜか完全に無視されてしまった、雲井林業が敷設した第二の森林軌道――。
その記述は、以下のようなものだ。


『国有林森林鉄道全データ 東北篇』より転載。

 (続き)(前略)
そして、昭和31年には三本木営林署及び乙供営林署より軌条を借用し、惣辺山国有林47、42、52、53の林班の林産物搬出強化のため1500万円也を投下、5kmの軌道を敷設しているのであるが、当面の課題としては、搬出強化もさる事ながら、経営規模を拡大し、 (後略)

キタキタきたー!!!

昭和31年に雲井林業が惣辺山国有林47、42、52、53林班の搬出強化のため敷設した、全長5kmの軌道こそが、今回我々が探索した軌道跡の正体だった。
隧道の存在など、完全に同定出来る証拠は無いが、右図に示したような林班の一致や、実際に探索した軌道跡の長さも約5kmであったことなどから考えて、間違いないといえるだろう。

なお、この惣辺川沿いの軌道は、前述した養老沢林道とは違い、『国有林森林鉄道全データ』に一切記載がない。
これは、養老沢林道が営林署の開設した林道に雲井林業が軌条を敷設したものであったのに対し、惣辺川沿いの軌道は一から雲井林業が開設した路線であったからかもしれないし、作業軌道という扱いであったのかもしれない。
いずれ、国有林内にあっても、国有林森林鉄道としては記録されなかった軌道があったのは事実だ。



「沿革」という貴重な一次資料の発見より、はじめて紐解かれることになった“幻の軌道跡”の正体は、以上の通りである。

非常に大きな進展であったといえるが、不明の事柄もなお多く残っている。
例えば、この路線が廃止された年度や、正式な路線名は明らかになっていない。そして、峠に穿たれた長短2本の隧道の正体も――。
これらについては、さらに別の資料か、証言が必要になるのだろう。




【5】 新聞記事より見る、雲井集落と雲井分校のすがた


『東奥日報 昭和33年5月4日夕刊』より転載。

雲井林業の菅原光珀氏が、交通不便な山中の事業地で住み込み働く従業員の子弟教育を目的として現地に開設した雲井分校の存在は、当時の青森県の地方新聞にも取り上げられていた。
シェイキチ氏がその記事を発見して送って下さったので、軌道そのものの記事では無いが、無関係ではないから、以下にその一部を引用しよう。
『東奥日報 昭和33年5月4日夕刊』からの引用である。

おそらく、この記事に登場する人々は、今回我々が探索した軌道を日常的に利用していたのであり、あの謎に満ちた峠の隧道の正体も知っていたに違いない。
そんなことを想像しながら読むと、より面白いと思う。

国立公園十和田湖に近い標高600mの山の中に先生一人、生徒三人の小さな学校がある。ジプシー学校とも呼ばれる。山を求めて移動する杣夫の子供たちの学校だ。朝は山鳩の声、夕べはひっそりとランプを灯すこの谷間の学校を『三人の生徒に一人の教員はもったいないから廃校しよう』という動きがあるという。人里は南の湖畔宇樽部に16km、北の焼山に16kmの地点である。本校のある部落に下宿させるには、父兄の負担力がない。事実上登校は出来なくなるだろう。

八渓山小、中学校雲井分校が出来たのは昭和24年7月、ここに事業所をもつ雲井林業の経営者菅原光珀氏(県議、十和田市)が当時、40数万円の私財を投じて建てたものだ。7年目に奥入瀬渓流「雲井ノ滝」の近くに移動した。昨年は、さらに馬門岩の東南6kmの山の中に三度目の移動をした。
山の戦士たちが木を求めて移動するたびに、学校も移動したのである。最初は50世帯、30人ほどの児童、生徒がいたが、苦労の多い山暮らしは多くの脱落者をだした。いまは16世帯になった。(中略)
里は桜も散りはじめているがブナ林に囲まれた山の学校は、まだ1m余りのかたい白雪に沈み、カツラの赤い芽がやっと吹きはじめたばかりだった。馬門岩の事業所から約6kmの学校へゆく道は、惣辺川をはさむ谷間を、羊腸とつづく軌道だ。軌道は雪に埋まっていた。(中略)
彼ら(3人の生徒のこと)の作文には「荒町さんでラジオをきいた」「山に機関車がきた」の二つがよくかかれている。彼らの関心は、この二つの“新しい文明の機械”に集まり、話題になるからだろう。部落は樺太からの引揚者が多い。荒町さんだけが携帯ラジオをもっている。(以下略)



『国有林森林鉄道全データ 東北篇』より転載。

記事によれば、雲井分校は雲井林業の事業地が移動するたび、雲井部落(集落)と共に繰り返し移転した。おそらくは右図のように。
そして昭和32(1957)年には馬門岩東南6kmの現在地に三度目の移転をし、記者はそこへ行くのに、馬門岩の事業所から約6kmの雪に埋まった惣辺川沿いの軌道跡を歩いている。

ここに登場した軌道こそが、「沿革」に昭和31(1956)年の開設として登場し、今回我々が探索した軌道跡そのものであろう。

我々は馬門岩附近の起点(どうやらそこが雲井林業の事業所跡だったらしい。現在は養蜂小屋がある地点)から、軌道跡を5.5kmほど辿って、現在の車道となった養老沢林道に辿りついた。
雲井分校の跡を我々は見つけなかったが、シェイキチ氏が現地調査の際、地元の林業トラックドライバーから、養老沢林道が惣辺川と交差する辺り(我々が車をデポした周辺)で、「この辺りにもかつて学校があった」と聞いたそうである。

またこの記事には、当時在学していた児童が、「山に機関車がきた」という作文を書いたことも書かれている。
このことは、機関車が利用されていた記録がある養老沢林道だけでなく、惣辺川沿いの今回探索の軌道でも、同じように機関車が用いられていたことを意味するかもしれない。
もっとも、今回冒頭に「写真集」から転載した機関車の写る2枚の写真が、養老沢林道なのか今回探索の軌道なのかは、現時点では判明していない。





【6】 最後に、シェイキチ氏による、現地での聞き取り調査の成果

文章として記録されたものだけが、この世の真実の全てでは無い。
まだ文章化されていないものは相当に存在し、そのまま永遠に忘れ去られてしまう事柄も多いだろう。
シェイキチ氏は、自身の徹底した文献調査でも明らかにならなかった事柄について、さらに現地で生の声を集める労も厭わなかった。
そうして得られたいくつかの証言についても、内容の正確性を確認する術はほとんど無いものの、紹介しておこう。


聞き取り調査(1) 2010年10月にシェイキチ氏が現地を再調査した際に、軌道跡で出会った山菜採りのおじさんの証言
  • 峠の隧道は2箇所にあった?(方言が分からなかったので詳しくは不明、1箇所はたいしたことがないと言っていた?)
  • 起点にある廃屋は、雲井林業の詰め所だった。

聞き取り調査(2) 2011年11月にシェイキチ氏が現地を再々調査した際に、軌道跡で出会ったおじさんの証言
  • トンネルは1カ所だった。
  • 30年くらい前までは、枕木が取り外されて積まれて残っていた。


現時点では、私が雲井林業軌道中の最大の謎と考えている、「峠の隧道が長短2本あり、そのうち短い隧道は明らかに未完であること」については、正体不明のままである。

これについても、色々と最もらしい事を想像してみることは出来る。
例えば、「長い隧道」を先に開通させ、しばらく利用していたが、現状では完全に両坑口が埋没しているように、地盤の悪さから長持ちせず、より崩壊リスクの小さい「短い隧道」を建設していたが、その途中に木炭生産自体が下火となり、事業が打ち切られたというストーリー。
或いは逆に、「短い隧道」の建設が先に進められたが、機関車を入線させる為などの理由で、さらに勾配を緩和させる必要が生じ、途中で計画を変更し「長い隧道」を完成させたというストーリ−。

これは脆弱な地盤に用いられる(古い)新墺式工法によるトンネル掘削現場という、本邦に他の現存例が見あたらない極めて貴重な土木遺産であるが、唯一の坑口は埋没へと限りなく近付いており、本格的な調査者を迎え入れる前に永遠の闇に閉ざされる畏れもある。
また、謎の全てを知っていたであろう雲井林業という会社も、かなり前に解散してしまったようであり、調査をより難しくしている。


以上、シェイキチ氏による情報提供を受けて私が現地を調査し、その後も同氏が引き続き種々の調査を続けてきた仮称「雲井林業軌道」について、現時点における調査報告を終える。