まずは探索で得た成果のまとめであるが、推定全長2.8kmの軌道跡のうち、三縄ダム湖による水没により確認不能である推定0.1kmほどを除いた、実測2.7kmを踏破した。
この間には、目立つものだけでも右図に示したような各種遺構があり、素掘りの隧道2本や、コンクリートガーダー橋1本、アーチ橋1本が含まれる。
また、本軌道の性質を象徴するような非常に珍しい遺構として、軌道運材と河川流材を結び付けるコンクリート製シュート(投入口)を発見した。
一方で、レールや枕木などの軌道施設そのものは現存しておらず、残骸を見ることもなかったが(そのため軌間を知る手掛かりもなかった)、1本目の隧道内に枕木を敷設していた痕跡らしき路盤の凸凹があったことから、文献情報に照らしても、軌道であったことは疑っていない。
全体的な軌道跡の状況は荒れており、地形図に全く道として表記されていないことが肯けた。特に下流側半分には切り立った岩崖を隧道や片洞門で潜り抜けていくようなシビアな場面が多く、崩壊と相まって危険度が高かった一方で、探索して楽しいのもこの区間であった。
また、軌道の敷設時期や廃止時期を明確にする遺構も見られなかったが、廃止から相当の時間が経過していることは荒廃の状況から窺えた。
もう一つ特筆すべき立地上の特色として、この軌道はほとんど他の道路や村落に接続しない、外部から孤立した存在であったことが挙げられる。これは本軌道があくまでも祖谷川の河川流材の一部を代替する目的のためだけに存在していて、他の利用は考慮しなかったからだと考えられる。
続いては探索後の机上調査であるが、まずはいつものように歴代の地形図調べから。
| @ 地理院地図(最新) |
|
|---|---|
| A 昭和32(1957)年 | |
| B 昭和8(1933)年 | |
| C 明治31(1898)年 |
@地理院地図には、三縄ダムと三縄発電所、そしてそれらを結ぶ地下の導水路が見える。だが、これらの施設はいずれも昭和34(1959)年に完成したもので、本軌道が建設されるきっかけとなった旧ダムや旧発電所とは世代が違う。
A昭和32(1957)年版は、旧ダム&旧発電所の最末期を描いているが、この時点で既に軌道は描かれなくなってた。軌道はダムの更新を理由に廃止されたわけではなく、それ以前に廃止されていた可能性が高い。
B昭和8(1933)年版は、本編中でも度々参考にしたもので、赤くハイライトした位置に今回探索した軌道が描かれている。
なお、掲載は省略したが、この軌道は昭和28(1953)年版までは引き続き描かれていた一方で、三縄堰堤や三縄発電所が初めて描かれた版である昭和3(1928)年版には描かれていなかった。
そのため、必ずしも堰堤の完成と同時に軌道の運行が始まったわけではない可能性があるが、これは文献で改めて検証したい。
C明治31(1898)年版は、当地を描いた最古の5万図である。ここにあるのは、一切の人の手の加わる前の原始河川、原始峡谷であった時代の祖谷川と、それを取り囲む険しい山並みの方々に営まれた小集落たちの姿である。そこには僅かながら道もあるが、当時は祖谷川に沿って三縄、西祖谷山、東祖谷山の各村を連絡する祖谷街道(現在の県道32号の前身)は建設前で、そのことが文明の侵入を緩やかにしていた。
ここからはいよいよ、探索後に紐解いた新たな文献を頼りに、実踏だけでは窺い知れなかった軌道の詳細へと踏み込んでいこう。
探索前に『西祖谷山村史』を読んだことで、本軌道は、大正元(1912)年に完成した三縄発電所に対する流材補償の目的で、堰堤と発電所放水口を結ぶ区間に敷設されたものだということが判明していた。また実踏によって、記述通りの立地だったことも裏付けられた。
この『村史』に近い内容を記した文献が他にも見つかった。三縄村の後継である池田町が昭和58(1983)年に発行した『池田町史 下巻』である。
流材との関係も含めて、次のように記されていた。
道路のない昔は木材の搬出はすべて流材によっていた。川の瀬肩に材木で鉄砲堰を造り、簗を設け、木材の間には芝と苔を詰め水路を作り、流材は一本一本「鳶口」で簗に引き入れ、水と共に次の淵まで流す方法が取られていた。
祖谷川・松尾川は水量が豊かで早くから水力発電に利用された。大正元年に完成した三縄発電所の取水に大申堰堤(※引用者注:三縄堰堤のことだろう)が築かれた。それまで、祖谷川・松尾川の木材は吉野川まで流送によっていたのが、出合・大利間の祖谷川の水がことごとく隧道に流れ込んだので左岸の川崎地に木材運搬用の軌条が設けられた。堰堤で水揚げされた材木は「トロッコ」に積まれ、川崎で元の祖谷川にもどされた。レールは外されたが林用軌道の跡は今も残っている。
取り立てて新しい内容はないが、複数の文献に記述があることは、実在の裏づけになる。

『四水三十年史』より
右写真は、三縄発電所の事業主である四国水力電気株式会社が昭和3(1928)年に刊行した『四水三十年史』に掲載された、「三縄水力発電所全景」の写真である。
中央に写る大きな建物が、現在は廃墟となって残っている【煉瓦造りの旧発電所】
で、軌道跡らしき道が、“矢印”の位置にはっきりと見えている。
残念ながら撮影年月日がはっきりしないので、発電所完成直後に軌道が開設されていた証拠とはならないが……。
本編中にも一度掲載しているが、『四水三十年史』にある三縄発電所の工事経過の文章を再掲しよう。
明治44年5月10日、三縄水力発電所建設の工事を開始し、関係官民を現地に招待して地鎮祭並に起工式を挙行した。
古来禽聲水韻(鳥の声、水の音)の外聞く事の無った祖谷川沿岸の幽境は此日よりして現代科学の試練場と化したのである。
起工以来数回の洪水に見舞われたる外種々の困難に逢い尋常ならざる辛苦を嘗め、1年6ヶ月の歳月を費やして大正元年10月23日落成し、官庁の検査を了え、翌11月10日より一般に供給を開始した。之れ実に当社事業上に一時代を画したもので頗る重大なる意義を有するに依って、会社は此の日を以て開業記念日と定めた。
ところで、ダムの建設に伴って困難となる河川流材の補償として、電源事業者が代替の運材路を整備することは、流材が盛んであった時代にはしばしば見られることであった。
例えば、有名な千頭森林鉄道の始まりも、古来千頭御料林の伐出が寸又川の流送により行われていたところへ、昭和初期に第二富士電力が計画したダム計画に伴って、流材補償と工事用軌道の両目的から、同社が昭和6(1931)年に敷設した軌道に由来しているものであるし、かつて岐阜県に存在した私鉄の北恵那鉄道は、大正時代に大同電力が木曽川を堰き止めて大井堰堤を建設しようとした際、付知御料林の流材補償として建設が計画され、諸般の事情から私鉄として開業したものだった。
また、補償によって建設されたのは必ずしも軌道に限らず、昭和5(1930)年に富山県の庄川に相次いで建設された小牧堰堤や祖山堰堤では、流材補償として電力会社は通称「百万円道路」と呼ばれる湖畔道路を開設した。これが現在の国道156号の元になっている。
以上挙げた例のように、我が国の初期のダム開発には、しばしば流材補償の問題がついて回っていたが、中でも今回探索した三縄堰堤のケースは、非常に初期のものであると思われる。単純に大正元年完成という時期がどの比較対象よりも古く、しかも計画自体は明治末から動いていたものである。
これを断言出来るだけの裏付けはまだないが、本軌道は、日本初の電源開発に伴う流材補償目的の軌道だった可能性がある。
もしそうであれば、当初考えていた以上に貴重な産業遺産といえると思う。(より古い事例をご存知の方がいたらご一報を)
そして、このように日本初か、それに近いくらい初期の事例となったダム開発に伴う補償の問題は、地元住民と電源開発会社の間の軋轢という、後にも各地で繰り返される出来事の初期的な事例となったことも判明した。
今度は、『池田町史 上巻』の記述を元に、三縄発電所の建設を地元がどのように受け止めたかを見ていこう。
香川県仲多度郡の讃岐電気株式会社は、石炭の値上りで経営が悪化したため祖谷川の豊富な水量に着目し、明治42年8月30日、徳島県知事に水力利用許可申請を提出し、12月27日に許可を得て、明治43年2月、三縄村大字大利字日浦に、三縄発電所をつくる工事をはじめるとともに、同年、社名を四国水力電気と改称した。
香川県で発足した讃岐電気は、明治42年12月に徳島県知事から三縄発電所建設のための水利利用許可を得ている。
このときの命令書が『四水三十年史』に掲載されているが、県はその中で会社に対し17条の命令を下している。その一部を紹介しよう。
| 第1条 | 許可を受けたる者は明治35年本県令第34号土木工事取締規則を遵守すべし |
| 第2条 | 本許可の有効期間は許可の日より50ヶ年とす |
| 第3条 | (略) |
| 第4条 | 使用の水量は1秒間300立法尺を超過することを得ず |
| 第5条 | 祖谷川を流下する木材に対しては許可を受けたる者の費用を以て相当の設備をなし無償にてこれを通過せしむべし。通過の木材によりて生ずる総ての損害は許可を受けたる者の負担とす |
| 第6条 | 水路その他の工作物及び木材の通過に対する設備はその設計工法等に付き更に当庁の許可を受けるにあらざれば施工する事を得ず。前項許可の申請は土木工事取締規則第2条及び第4条に依り書類及び図面を調製し第3条但書きに依れる電気事業の許可を受けたる日より6ヶ月以内に当庁に出願すべし |
| (以下略) | |
このように、命令書の中で既に、「流下する木材に対しては許可を受けたる者の費用を以て相当の設備をなし無償にてこれを通過せしむべし」の条件があり、これが軌道の建設として処置されたことになる。
続く条文ではさらに、この「木材の通過に対する設備」についても、「設計工法等に付き更に当庁の許可を受けるにあらざれば施工する事を得ず」とあって、設計についても県が監督したことが分かるのである。
なお、17条の命令の中で、補償に関する内容はこの「木材の通過に対する設備」だけであり、今日ならば当然重要視されるであろう田畑や住居、道路等に対する水没補償についての記述はみられない。それだけこの流材に対する補償は、県の利害にとっても重要であったということが窺えるのである。
そして会社は、この命令に従って工事を進め、完成させた。
この工事は77万円の経費で大正元年10月23日に完成し、11月10日より水力電気が初めて香川県に送電された。大字松尾字大申に、高さ13m、長さ70mの堰堤を築き、祖谷川の水をせき止め、約1700mの送水トンネルを通じて、大水槽に導き入れ、直径2m、長さ50mの鉄管4列で落差とし、三相交流発電機を回転させた。出力は2000kWで、その後2400kWの増設がなされた。
会社と県の間で円満に進んでいるように見えるが、実際には不満を募らせている者がいた。
地元の三縄村である。
同村は運転開始の3年後に村民大会を開き、そこで村内にある四国水電の一切施設の撤去を決議したのである。
このように強硬な反対を生じた経過は、次のように記されている。
三縄発電所建設時の紛争
三縄発電所の建設について、三縄村と、四国水力電気株式会社との間に紛争が生じた。
明治42年8月30日、讃岐電気株式会社は、三縄発電所建設について三縄村との間に契約書を取り交わし、翌31日、村長の副申が県へ提出された。契約書によると、
- 上流の木材や樵木の流下は隧道内を流すか、入口で適切な方法を設けて木材その他の流下に大なる支障のないようにする。
- 原動力及び電燈は本営業中無限をもって、三縄村には他村へ供給する定価より減額して供給する。
三縄発電所は明治43年2月起工、大正元年10月23日第一期の工事が竣工し、11月10日より水力電気が香川県に送電された。
ところが、大正元年9月、豪雨による堰堤上部の崩壊亀裂のため、近くの民家2戸が転覆し、四国水力電気株式会社から見舞金が贈与された。また、契約書にある三縄村に電燈をつける件も実現せず、トンネル内を材木を流すことなど思いもよらず、木材運搬の施設も形ばかりで実用にならないという状況であった。
その上、当初は思ってもみなかった種々の問題が続出した。土地買収のトラブル、道路の荒廃、風俗の悪化など、住民にとって発電所の建設は、大きな犠牲を強いられることばかりであった。大正2年、村へ対する2200円の寄附も、期待よりはるかに低い額であったのであろう、受理が保留されている。
これが三縄村が会社に不満を募らせた理由であるが、興味深いのは、明治42年時の村と会社間の契約では、木材の運搬方法として、発電用導水路内を流下させることが想定されていたらしいことだ。
だが、実際に発電所の運転が始まると、「トンネル内を材木を流すことなど思いもよらず」であったというのは、どういうことだろう。
流材を発電用水路を使って流すことは一挙両得のようにも見えるが、実際は思うようにいかなかったということなのか。
ちなみに、この四国水電が三縄発電所に引き続き、大正15(1926)年に同じ祖谷川の上流に竣工させた出合発電所では、西祖谷山村内に設置した善徳ダムから8kmの長い地下導水路を建設しているが、この時も導水路を流材路として兼用する工作を行っており、こちらは実際に利用もされたというから、手法としては通用するものだった。あるいは初期の事例故、構造に問題があったのかも知れない。
またこれに加えて、「木材運搬の施設も形ばかりで実用にならないという状況」とも書いている。
これは会社が整備した今回探索した軌道を指していると考えられる。やはり三縄発電所の運転開始時点で軌道も開設されていたのである。
「形ばかりで実用にならない」とあるのは、その設計に何らかの不良があったのだろうが、詳しい事情は明らかではない。
大正2年9月三縄村長に就任した坂本政五郎は、こうした状況を見て、会社に交渉したが、要領を得ないまま大正4年を迎えた。村民の間にも、村内点灯の約束は果たされず、それに伴って土地買収、道路の荒廃、魚道、木材搬出の不便などの不満が一挙にふき出し、大正4年3月18日の村民大会となった。
村民大会は三縄小学校運動場で開かれ、「四国水力電気株式会社発電所撤廃期成同盟会」を組織し、「発電、送電設備で三縄村にあるものを徹頭徹尾撤廃せしむ」ことを決めた。
その理由として、次の10項目が列挙された。
- 一、負担の重課を忍び開鑿したる道路を破壊したる事。
- 一、軌道の設備不完全なる事。 (他8項目あり)
このように、村が四国水電施設の一切を村内より追い出すことを決議した理由の中にも、「軌道の設備不完全なる事」があって、この問題はかなり重大視されていたようである。
また、「負担の重課を忍び開鑿したる道路を破壊したる事」ともあるが、これは明治35年から大正9年まで長い年月と沿道3ヶ村(三縄、西祖谷山、東祖谷山)の多額の出費を以て全長50kmが完成した祖谷川沿いの祖谷街道(現在の県道の原型)が、電源開発のために破壊されたことがあったのだと推測される。
この村民大会の決議をうけ、村長坂本政五郎は村民492人の連判で会社宛に催促状を送付し、訴訟も辞さない構えを示した。
しかし同年12月9日に徳島県と三好郡が仲介に入り、村と会社の間で和解が成立している。
会社は6800円を10ヶ年に分割して村に寄附することになったが、結局村内点灯の約束は果たされず、後の第二期工事(大正14年に着工した出合発電所)にも禍根を遺したという。
残念ながら、私が探索した軌道について、村が不満を持った点をどのように改善したかの記録は全くないのだが、軌道跡に存在する2本の隧道のどちらにも旧線と思しき隧道を通らないルートの形跡があったのは、このときに会社が改良を行った痕跡かも知れない。
現地では、どのタイミングでルート変更が行われたのか分からなかったが、これは一つの有力な説だと思う。
そしてもしその通りであれば、旧線部分は本当に短命だった(大正元年から4年ごろまでしか使われなかった)ことになる。
このように、産みの段階で地元社会に大きな負担と動揺を強いた三縄発電所だったが、その後の経過についての情報は少なく、軌道の行方についてはなおさらである。
軌道の運用に関する数少ない情報が、既に再三引用している『西祖谷山村史』にあった次の記述だ。
そしてその輸送には、祖谷川運輸株式会社が当たることとなり、株主として当該電力会社はもとより民間株主坂本正五郎・田中正一等がこれに当たることとなった。
ここに登場する祖谷川運輸株式会社が軌道の運行を担った時期があるようだが、具体的な内容について他の資料は見当たらない。
ただ、同社の株主として名前が挙げられている坂本正五郎は、他の資料によると坂本政五郎が正しく、これは三縄村長として四国水電と折衝に当たった人物に他ならない。
彼は村長を辞して後、大正15年に同社を設立、代表取締役となって祖谷川流域での運送事業に力を尽くしたようである。
その後、少なくとも1960年台まで会社は存続した形跡があった。
ここまで仮称として本編の表題としていた「祖谷川三縄堰堤軌道」だが、正式名称らしいものを一つ与えるとすれば、「祖谷川運輸軌道」は良さそうである。
そして、この軌道の廃止がいつ行われたかについても、文献的情報は全く欠けている。
昭和34(1959)年8月に発行された雑誌『電気とガス』に、「新三縄堰堤工事と地滑りについて」という記事が掲載されている。
これは同年に運転を開始した(現在の)三縄ダムの建設に伴って生じた地滑り災害の記録だが、記された詳細な図面に、左岸に通じる軌道やその跡地らしき道路は書かれておらず、四国電力が新三縄ダムを着工した昭和32年の時点で、既に軌道は廃止されていたと考えて良い。
そもそも、祖谷川における流材事業の一部を担う事に特化した軌道だったのだから、肝心の祖谷川における流材が廃れれば、軌道は不要となったはず。
具体的には、前述した祖谷街道(大正9年完成)が自動車道として改良され、トラックによる運材が可能になった時点で、お役御免であったと思う。
『西祖谷山村史』には、昭和22(1947)年12月8日に、「村民多年の要望であった池田町と東祖谷山村久保間に省営トラックが開通した」との記述があるので、この時期に祖谷街道の自動車道化は完成したようである。軌道の廃止も、おそらくこの時期だろう。
以上が、1枚の古地形図から私が辿り着いた、古き林用軌道の物語であった。
四国水電の写真帖に軌道の写真が発見された!! 2026/5/1追記
来たぞ来たぞ! 凄い写真が発見された!!
本レポートを公開したその日の夜、全国の古い発電所やダムなどの文献・現地調査を行っている古川旭氏(X:@doboku_MD)より、今から1年ほど前に旧三縄発電所の竣工記念写真帖をオークションで落札しており、その中に軌道が写り込んでいる写真があったので、スキャンしたデータを送付するとの大変ありがたい内容のメールをいただいたのである。

明治31年開通、福浦隧道(2代目)
まずは、その表紙と奥付を共有しよう。
画帖仕立てにされた厚紙の表紙に、「四国水力電気株式会社 祖谷川水力工事 竣成紀念写真帖」の表題が「Shikoku Hydro-Electic Co.,Ltd.」の英文や、流れる水を描いた意匠と共に刻まれている。
奥付には、「印刷所 凸版印刷株式会社」「四国水力電気株式会社編」「大正二年四月十五日印刷発行」との記載がある。
中に綴じられている写真は全部で12点あり、それぞれ次のキャプションを有する(翻訳英文も附属するが省略する)。なお表示は掲載順で番号は私が付した。また旧字体は新字体に改めた。
- 工事中ニ於ケル取入口
- 徳島県下祖谷川ニ於ケル堰堤工事中
- 堰堤の前面
- 堰堤背面ノ木材運搬軌道ノ図
- 吉野川鯛ノ浜ニ於ケル機械運搬ノ図
- 発電所排水路出口(鉄筋コンクリート工事中ノ景)
- 水槽ノ図(容量四万立方尺)
- 発電所全景
- 発電所内部(三千馬力二千キロワツト)
- 送電線路鉄塔
- 丸亀変電所
- 隧道内部ノ図
これから上記のうち、本編と関係が深いと思う4点の写真を一緒に見ていこう。

対岸から撮影された旧三縄発電所の全景写真である。
以前の回にも紹介した【古写真】
と比べてみると、いろいろと違いがあるが、それはこの写真はまだ完成する前の建設中に撮されたものだからだろう。
分かりやすい違いとしては、建物の背後の落水路が2本しかないが、これは最終的に4本になる。
建物の下の放水口も、完成時はより複雑な形状になっている。
また、発電所の建物の形も異なっており、後に増設を受けていることが分かる。
一連の施設の背後の高い位置を横切る明確なラインが見えるが、そこが現在の県道の位置である。当時の祖谷街道だ。
なお、撮影者が立っている場所が、まさに今回探索した軌道ではないかと思う。
比較的近いポジションから【今回撮影した写真】
と見較べると、百年を越える月日で、地形を隠す立派な森が出来上がったことが分かる。

建設中の旧堰堤を下流左岸側から撮影している。
地味に三縄堰堤の写真を初めて見た。三縄ダムに水没したため、もう見ることができない構造物である。
高さは25尺(≒7.6m)と記録されており、現在のダム(17m)と比べるとだいぶ低かった。
いかにも古色を帯びた、前面切石布積みの堰堤だったことが見て取れる。
背景の急な斜面のずっと上の方に少しだけ道が見切れているが、あそこが現在の県道で、当時の祖谷街道だ。
ここまでの写真には、今回探索した軌道は写っていないが、いよいよ次の写真に……。

湛水した状態の堰堤を、今度は下流右岸側からやや見下ろし気味に撮影している。
谷の奥に集落が見えるが、あそこが祖谷川と松尾川の合流地点にある出合集落だ。
このアングルだと軌道が写り込んでいるはずなので、あるべき場所をズームアップしてみよう!!!

キター! 見える! 見えるぞ〜〜!!
堰堤の天端すれすれの高さに、高い石垣の法面擁壁や、木製の桟橋を連ねた、いかにも軌道らしきラインがはっきり見える!
この旧堰堤があったのは、【現在のダム】
の70m上流で、【このように】
完全に水没してしまっている。
写り込んでいる軌道は、旧堰堤の上流へ伸び、目測100mほど先で終わっていたようだ。
ちょうどその場所の前の水面に線上の何かが写っているのだが、おそらくこれは上流から流れてきた流材を受け止める、網場(あば)と呼ばれる頑丈な係留具だろう。
ここで流材を受け止め、鳶口などで路盤へ引き揚げ、トロッコに乗せ替えて運んでいたらしい。
岸は狭く、広い作業スペースはとてもなさそうだ。そんな作業性の低さが地元の不興を買ったのだろうか。
そして次が掲載する最後の1枚であるが――。

キスギテルー!!!
超絶はっきりレールと枕木のある軌道が写っている!
表題からしてもろに「木材運搬軌道ノ図」であり、本軌道を主題とした1枚だ。
堰堤の上流左岸側から見下ろし気味に軌道と堰堤を撮影している。
本軌道のレールが写っている写真を初めて見たが、枕木の下にバラストが敷かれていないのが特徴的だ。
しかし、路盤の雰囲気は、今回実際に探索した廃線跡の【ワンシーン】
にそっくりであり、同じ路線だと感じられる。
それにしても、これだけ鮮明な軌条の写真から、どうにか軌間を計測する手立てはないものだろうか。
明らかに狭軌であることは分かるが、林鉄の一般的な762mmなのか、工事用軌道でしばしば採用された610mm(もしくは稀に500mm)かの判断は難しい。
個人的には、なんとなく762mmより狭いような感じを受けるが、皆さまはいかがだろう。
現存する【隧道】
の特異な狭さを知るだけに、案外610mmだった可能性というのもありそうな気はしている。
なお、対岸の湖面に接して、石組みの立派な取水口が見えている。
会社は当初、この導水路を利用して流材を行うことを村との間に取り決めていたらしい。
だが、前の写真で見たように、網場が上流に設置されていたのであれば、この取水口から流材を行うことは難しいだろう。
軌道と導水路という二つの補償方法を、どの段階で選択したのかは不明だが、最終的に軌道を利用することに決定したのだろう。(この軌道も村は「設備不完全」と評していたが)
以上、大変貴重な古写真資料をご提供いただき、誠にありがとうございました。
おかげで軌道の実態が一層鮮明になったと思う。
あとは、四国水電が徳島県に提出したはずの申請書類が発見されれば、軌道の軌間サイズへの疑問も解決出来ると思うのだが…。
旧堰堤の痕跡が、今も地上に存在した! 2026/5/1追記
上記“追記”公開直後、今度は徳島県在住のhiro氏(X:@Rotary_13B_REW)より、見逃していた重大事実への指摘があった。
(↑)レポート中で掲載した写真に、私が水没により現存しないと判断した旧三縄堰堤の一部が見えているのではないかとのご指摘であった。
至急、元の写真を使って検証してみると……(↓)。
マジだった!
私が現ダムの堤上から、上流の湖面を撮影した写真に、「竣成紀念写真帖」で見ることができた旧堰堤右岸の取水口部分の特徴的な階段構造(“矢印”の部分)や、石造堤体の袖部が、はっきりと写っていた!
これにより、現三縄ダムの施設敷には、旧堰堤の附属施設であった石造擁壁の一部が取り込まれ、現役で使用されていることが分かった。
それだけではない。
この“気づき”によって、水没と考えていた軌道末端部の位置についても、その認識を新たにする必要があった。
すなわち、旧堰堤の右岸側の袖部が水面上に存在しているということは、対岸に存在する同高度の袖部も、同程度浮上しているはずであって、
チェンジ後の画像に示した“黄色矢印”の位置に見える小さな陸地こそが、それであると判明すると共に――
その隣のほぼ同じ高さに軌道が存在していたことが、『竣成紀念写真帖』によって明らかであるから――
水没と判断していた軌道末端部の路盤は、この探索日において、
極めて水面すれすれの位置に浮上していたのである!!!
気付いていれば行けたのに、私はそれを見逃した! 許してくれ〜〜〜……
