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廃線レポート 祖谷川三縄堰堤軌道(仮称) 最終回

公開日 2026.04.30
探索日 2026.03.16
所在地 徳島県三好市

 片洞門地帯を締め括る難所の連発!


2026/3/16 12:42 《現在地》 

現在地点は、旧三縄発電所対岸にある軌道跡の下流側末端から約1.4km前進した地点で、想定される全長に対して6割程度を終えたところだ。そんなこれまでの成果は、期待を遙かに上回るものがあって、未知の現存橋梁2本と貫通隧道2本を獲得済み!
完全踏破はもちろん、さらなる発見にも期待が募る局面に至っていた。

が、さしあたって今は、難所の最中である。
行く手には、険しい崖沿いの路盤がスッパリ切れ落ちてしまったらしき、あからさまな“断絶”が口を開けている。
向こう側の続きの路盤は間近に見えるが、果たしてこの断絶を越えられるのか、不安を感じる地形であった。

一方、チェンジ後の画像は同地点より振り返ったもので、路盤の幅以上に張り出した巨大過ぎる岩の庇(片洞門)の下に歩いてきた軌道跡が続き、最後は隧道の黒に終わるという、全オブローダー垂涎と言っても大袈裟ではなさそうな眺めだ。



この路盤の“断絶”は、高い岩壁に寄り添うように設置された大きな石垣が、おそらくは過去の水害の影響などで流失した結果であろうと推定される。
あるいは、その一部は桟橋であったのかもしれないが、どちらにしても、原型を止めていない。

それでもここは、心配したほど突破が難しい地形ではなさそうで、まずは安堵した。
もう少し路盤が低い位置にあって、直接深い淵に洗われていたらアウトだったろう。高巻きは不可能な地形である。



“断絶”の突破はシンプルで、路盤が失われた場所の地形に沿って一旦下り、それから上るというものだ。
石垣が崩れて階段状になった岩山を、下って上った。
写真は、上っていく最中のもの。上に見えるのが続きの路盤だ。



12:46

突破&振り返り!

地形的には、ここもただの石垣というよりは、桟橋であった可能性が高そうで、しかもアーチ橋だった可能性もありそうだと思った。
でも残念ながら特定出来るような手掛かりは全くなかった。



辿り着いた続きの路盤は、両側が鋭く切り立つ切り通しであった。
そして、その短い切り通し先は、再びの断絶であることが明確であった。
未だ、この難所は私を解放しないようだ。突破はお預けである。

そんな難所の最中にありながら、これまでも時折現れていた国土調査(地籍調査)の見出標が、この難所の周辺には特に多く設置されていた。
これは単純に調査が行われた目印というよりは、当地の地籍が入り組んでいて、より多くの測量点が必要になった証しと思われるが、結果としてこの“難所”にある崩壊した路盤を縦横に歩き回って測量をしたということで、私のようにただ一方的に通過すれば済む探索者の何倍も大変な移動を、測量器具と一緒に行っている踏破力には感服する。



12:47

ぐぬぅーーー!!!

次の“断絶”は、さらに規模が大きい!

橋台や石垣の痕跡もまるでなく、どうやってこの地形の断絶を軌道が越えていたのか不明だが、20mほど先に確かに続きの路盤が見えるので、越えていたのは間違いない。

結局の問題は、私がこれをどう越えるかの一点である。
断絶の手前も向こうも切り立つ崖なんで、さっきみたいに一度下りてから上ることは難しい。
であるならば……



ここだぁ〜〜!!

絶対に道を企図したものでないのは明らかだが、ちょうど私の“あらまほしき”ところに、ぶっとい生き木の根が這っていた!

それがまさに、崖を横断するための天然の桟橋になっているように見えたのである。

実際に通行に耐えられるのかどうかは、目前に寄ってみないと判断は出来ないが……、試す価値はある!



イケルゥ〜〜!(笑)

これは流石に都合が良すぎて、笑ってしまった。

もしかしたら、国土調査員たちもここを通ったりしたのだろうか。
流石に通行の痕跡は残っていなかったが、あまりにも都合が良い存在だった。
太い根に足を乗せ、上半身は苔生した崖を掴みながら、カニ歩きのようにこの高い岩場を横断して、先へ進んだ。
怖さよりも、展開の面白さが勝っていた。



12:49

よっしゃ! またしても突破!

相変わらず崖側は高い石垣で、これがなければ忽ち失われそうな路盤だが、今はまだ無事。それだけで十分だった。

そしてこの先も10分近く、断続的な崩壊による緊張を強いられたが、そこには直前の崩壊ほどの進退の緊張に及ぶほどの展開はなく、順当に耐え忍ぶことで第二の隧道を戸口に据えた、第二の難所地帯も次第に牙を潜めていった。
ちょうど地形図に崖記号が並んでいる区間と、この一連の難所は対応していた。



12:58 《現在地》

再び、地形の平穏を象徴するようにスギの植林地が現れた。
しかも、ここは路盤を含む平場が、とても広く取られていた。
複線どころかそれ以上の広さがあった。
明らかに人為的な平場であり、特に川側に石垣が築かれていることからも、意図してこの広さを得たことがよく分かった。

チェンジ後の画像も、この広い平場(広場)で撮影したものだが、広場全体が同じ高さではなく、山側に低い石垣で区別される一段高い平場があり、そこが軌道跡であるようだった。
川側の広場は、土場のような作業スペースや、建物用地といて使われていたのかも知れない。
いずれにしても、この場所には軌道時代に何かの施設があったのだろう。



50mほど進んで、広場の終わりに差し掛かると、前述した山側の一段高い部分だけが先へ進んでいくことがよく分かる。
間違いなくそこが軌道跡である。
ずいぶんと林相の荒れ果てたスギ林であるため、倒木や落ち枝が多くて歩きづらかったが、命に関わる難所よりはマシであると言い聞かせながら進んだ。



12:59

そして広場を過ぎるとすぐに、周囲がスギ林であるまま、地形図上においては道中最大のイベントであった、祖谷川に注ぐ無名の支流を軌道跡が横断する場面に差し掛かった。
前方から、勢いよく沢水の奔る音が近づいてくる。

この軌道跡を歩き始めた大序盤、沢でもないところに【立派なコンクリート桁橋】に遭遇したのである。
であればこそ、明確な谷筋であるこの場所には、それなりの橋梁があることを大いに期待していた。



が、そこに橋の痕跡と言えるものは全く何もなかった。

両岸の橋台すら残っていなかった。

谷の周囲にあったのは人工物ではなく、それを壊し尽くした水の流れだった。
平水時こそ、ご覧のような小さな流れであるのだが、三縄ダムによってある程度制御されている本流と比べて、この支流が増水したときの暴力は苛烈なのだろう。
桁も橋台もなくなっていたが、対岸にも谷を離れてすぐに続きの路盤が見つかったので(チェンジ後の画像)、横断していたこと自体は間違いなかった。

ともかく、この地形的に明瞭な進捗地点を越えたことで、踏破完了は1.7km、残りは推定1.2kmになった。



13:08 《現在地》

支流を渡って200mほどスギ林を進むと、より規模の小さな(地形図には水線のない)支流にぶつかった。
今度は両岸に空積みされた石垣と築堤があり、木橋で渡っていたことが明瞭だった。
この小支流も突破は容易かったが、対岸に残る橋台の姿が、ちょっとばかり印象的だった。



絶倫の2文字を連想したとだけ言っておこう。



いや良くほんとそんな石垣の隙間から、ここまで育った。

つよスギ。



 三縄ダムと三縄堰堤、その狭間に軌道の末路は……


2026/3/16 13:12〜13:24 《現在地》 

精の付きそうな姿をした橋台を見送って、続きの路盤へ。
その先も引き続き、単調なスギ植林地だった。
足元に並走する祖谷川も、ほとんど水のない河原が明るい日差しに照らされて、白んでいる。
地形は両岸とも直線的であり、緩やかではないが、単調である。

終点まで推定残り1km程度とみられるこの場所で緊張が緩み、強い空腹を感じたので、写真に写る路盤上の大岩に腰をおろして長めの休憩をとった。
後、再出発!



13:25

再出発して間もなく、路上に急に沢山、空き缶が現れだした。
コカコーラやジョージアオリジナルといった、最近はあまり見ない古い空き缶、あとは空き瓶が大量に散らばっている。
何事かと思ったが、山手に目を向けると(チェンジ後の画像)、かつて人家があったらしき段々の石垣が見えて納得する。

自治体によるゴミ回収の仕組みが、社会のルールとして都会から山村の隅々にまで行き届くには相当の時間があって、結果的に最後まで恩恵を受けなかった集落や孤立人家は相当数あった。 当然そのような場所では、各々や集落内で取り決めた手近な場所にゴミを投棄したのであって、期間や時期に応じた種々のゴミが周辺に遺されることとなった。



13:32

ぐわあああ!!

これは辛いヤツだ! タイミング悪く、集団枯死した竹林にぶち当たってしまった!

物凄い量の枯れた竹竿が、斜面上から路盤へと雪崩れ込んでおり、先へ進むために、踏んだり、潜ったり、大変な重労働を強いられた。

しかも、遺構とか地形という類の障害と違って、突破に伴うカタルシスは薄く、単純につまらない作業に属する障害物なんで、余計キツイ。

バッキバキ音を立てながら、ヒィヒィ突破!



13:35 《現在地》

幸い、苦しみしか生まない枯竹の森は長くは続かず、再びスギ林に戻ると同時に、明確な複線幅以上の広場が現れた。
しばらく単調な地形が続いているが、ここでは祖谷川が曲がっており、その曲がりに内接する軌道のカーブ部分が、ゆったりとした広場になっていた。
ともすれば、軌道の終点を連想するような場面であるが、その先にも平然と軌道跡は続いていることを確認。

とはいえ着実に終わりに近づいており、終点まで推定残り500mほどになった。
これから迎える軌道の上流側末端についても、現状についての事前情報は全くなかったが、旧三縄堰堤から木材を引き揚げトロッコへと積み替えるような施設が最低限あったはず。
その場所の位置は、軌道が描かれていた旧地形図の表記に依れば、ここから500mほど先の旧三縄堰堤脇附近である。

ただし、その場所の現状については、一点とても大きな懸念があった。
これから実際に現れる景色を見ながら、懸念の内容は説明することになる。
はたして、どういう状況になっているものか……。



13:37

広場を抜け、再び単線の路盤へ。

地形図を見る限りは、このまま単調な斜面がダムまで続きそうであったが、地図からは分からない障害が、またしても行く手を遮るのであった。

それは……この写真の奥に既に見えているが………



バカでっけー岩!

ここしばらく、地形に岩がちな感じがなかったので油断していたし、全く意外な展開で、驚いた。

2階建て家屋くらいの巨大な岩石が、どこからどうやって転がってきたものか、路盤を完全に遮る位置に鎮座していたのである。
邪魔すぎて草wwwである。
川側へは迂回しにくいので、山側へ高巻くように回り込んで進むことにした。



13:40

予想外の展開が続いている。

大岩を巻き越えたが、その先に路盤は再開していなかった。
遺構だけを見ていれば、あの大岩に突き当たって終点を迎えたのだと判断したくなるような状況だ。
が、この軌道の設置目的を考えれば、まだ終わるはずがないのである。

路盤というか、平場が全く見当たらないこの場所は、おそらく軌道廃止後(とはいえ相当昔)に生じた大規模な山崩れの痕だと思う。
直前の大岩も、その名残だろう。
地形を変えるほどの大崩壊痕に改めて植林が行われ、それが十分に育ったのが現状なのだろう。



13:42

100mくらい全く平場のない斜面をトラバースして進むと、唐突に“鉄橋”が眼下に現れた。

鉄製の人道橋が岸から川の中ほどにあるコンクリート製の塔へ架け渡されているという、一見して水位観測所だと分かる特徴的な構造物だった。
このような施設の出現は、いよいよ三縄ダムに近づいている証しだろう。
軌道跡を辿り始めて約2.5km、初めて現役の施設と遭遇したのである。



13:43 《現在地》

そして、水位観測所へと通じる川縁の通路が、まさに軌道跡の続きであった。
写真は来た方向(下流)を振り返って撮影したもので、奥は山崩れによって軌道跡の跡形もない。
だから、下流に存在する一連の軌道跡のことを知らない人に、今いる場所がその続きだと言ってもピンと来ないだろうが、私にはそれが分かるのである。辿ってきたから!

これが私には堪らない優越感であった。(こんなニッチな優越感で満足する取り柄の乏しい男だぜw)



そしてこれが同一地点から眺める、上流方向の景色。

ここで三縄ダムを初めて目視!

三縄ダムは、四国電力が運用している発電専用ダムで、着工昭和32年、竣功昭和34年、堤高17mの重力式コンクリートダムであるという。
そしてここから私にとっての重要なポイントなのだが、今回事前に読んだ資料に拠ると、このダムは大正元年に完成した三縄堰堤の70m下流に新設されたもので、その完成と引き換えに旧ダムは廃止・水没したという。

今回探索している軌道を附属施設としていたのは旧ダム(三縄堰堤)であり、旧ダム跡地へ辿り着くことでその真の終点(起点?)にありつける目論見だったが、そこは旧ダムと共に水没している可能性があった。
いずれその現状を確かめるためには、まず手前にある三縄ダムまで辿り着かねばならない。
が、三縄ダムの堤上は一般には開放されていないらしく、ここからどこまでそんな施設に近づけるかという懸念もあった。

……今のところ、立ち入りを制限するものは見当たらないが、そもそもこの岸を辿ってくる人を想定していないだけのような気も…。



引き続き同じ場所での撮影だ。
この足元の平場が軌道跡なのであるが、ここにおそらく軌道時代からあったであろう橋の残骸が遺されていた。
“赤矢印”の位置にあるのが、祖谷川に突出していた橋台の石垣跡で、“黄矢印”の位置には(チェンジ後の画像)、同じ橋のコンクリート製の主塔の残骸が転倒状態で放置されていた。
すなわちここにあった橋は吊橋形式だったのだろう。



これは軌道が描かれている昭和8(1933)年の地形図だが、「現在地」の位置に、祖谷川を渡る橋の記号が描かれている。
この橋の残骸が、ここにあるものの正体だろう。
当時はここで軌道を離れ、川を渡って県道が通る大申(おおもうし)集落へ行くことができたようだ。
今回も通れれば良いエスケープルートになったのであるが……。



現在は橋がなく、徒渉以外に渡る術はない。
橋台の残骸がある位置から対岸を見ても、そこには大規模な護岸擁壁があるだけで、対になる橋台跡さえ見当たらない。
(この巨大な護岸も新しい三縄ダムと共に設置されたもので、後の机上調査でその真の正体が判明した)

以上、三縄ダムの約250m下流に存在する水位観測所地点の報告を終え、さらにダムへと近づいていく。
正直、立ち入って良い場所なのかの自信が持てず、緊張した。



13:46

水位観測所から上流へ向かおうとすると、すぐに道は急な上り坂になって、川を離れてスギ林へ入っていく。
この後いろいろ動き回って判明したことだが、これを辿っていくと三縄ダムに出る。他の場所には通じていない、いわば構内専用通路である。

どう見ても軌道跡はこのような急坂ではなく、引き続き川岸の定位置を進んでいくのである。
しかしそこは再びの廃道であり、しかもこれまで以上に笹藪や草藪、灌木の藪に覆われた、厳しい廃道だった。
地形的な困難ではなく、ただただ藪の深さに辟易する廃道。



13:51

そこから5分間、藪のせいで全くペースの上がらぬ廃道を耐え進むと、岩場の縁に刻まれた道形が見つかった。
この険しさと引き換えに、ちょっとだけ見通しがあったので撮影をしたが、この前後は視界が通らぬ激藪だった。
ここしばらく道形以外の遺構がなく苦しい展開だが、ここまで来たからには何をも見逃したくないので、出来うる限り忠実に軌道跡を辿った。

だが、それにもいよいよ物理的な限界が……。



13:54

差し迫る三縄ダム!!

そしてここに至っては、認めざるを得なかった。

この先の軌道跡は、三縄ダムの堤体に呑まれて切断されているということを。

これにより、三縄ダムより70m上流にあったとされる三縄堰堤に附属した軌道由来の諸施設も、今は水面下であることが、ほぼほぼ確定してしまった。

残念だが、受け入れざるを得ない現実だ。ただ、いかなる“残念な解”であっても、自分の手で解き明かしたことは、満足だ。



13:56 《現在地》

そして、ジエンド。

軌道跡から続いてきた平場は最後、三縄ダム堤体に突き刺さっていく。

旧ダムがどうなっているのかはまだ見えないが、おそらくこの高さだと……。



一段登って、三縄ダム堤上路へ。
すんなりと入れてしまっているが、県道がある側からだと、ここは立入禁止柵の向こう側である。
だからここから堤上路を渡って県道へ行く事は出来ない。

そして、一連の軌道跡探索に関わる最後の1枚が……これ(↓)。



14:00

堤上路から撮影した、三縄ダム湖の様子である。
70m上流と言えばすぐその辺りだが、そこにあったとされる旧ダムは跡形もなく水没し、直前まで辿ってきた軌道跡がある高さも、しっかり水面下であった。
したがって、これ以上軌道跡について発見できるものはなかった。

これを見届けた後、渡れぬダムに見切りを付けて、左岸の道なき斜面をしばしよじ登った。そこには市道が通じており、これを介して車のデポ地まで約1.6km歩いた。
14:45、探索終了。

以上が、「祖谷川三縄堰堤軌道(仮称)」を踏破した記録である。
上流側の僅かな区間(推定100m前後)だけは水没のため確かめられなかったが、それ以外の2.7kmほどを実踏することが出来た。
結果、2本の隧道を見つけるなど、大変に満足のいく成果を得ることが出来た。
未知の軌道を歩くのは、とっても愉しい。



 机上調査編 〜最古級の水電補償軌道〜


まずは探索で得た成果のまとめであるが、推定全長2.8kmの軌道跡のうち、三縄ダム湖による水没により確認不能である推定0.1kmほどを除いた、実測2.7kmを踏破した。

この間には、目立つものだけでも右図に示したような各種遺構があり、素掘りの隧道2本や、コンクリートガーダー橋1本アーチ橋1本が含まれる。
また、本軌道の性質を象徴するような非常に珍しい遺構として、軌道運材と河川流材を結び付けるコンクリート製シュート(投入口)を発見した。

一方で、レールや枕木などの軌道施設そのものは現存しておらず、残骸を見ることもなかったが(そのため軌間を知る手掛かりもなかった)、1本目の隧道内に枕木を敷設していた痕跡らしき路盤の凸凹があったことから、文献情報に照らしても、軌道であったことは疑っていない。

全体的な軌道跡の状況は荒れており、地形図に全く道として表記されていないことが肯けた。特に下流側半分には切り立った岩崖を隧道や片洞門で潜り抜けていくようなシビアな場面が多く、崩壊と相まって危険度が高かった一方で、探索して楽しいのもこの区間であった。
また、軌道の敷設時期や廃止時期を明確にする遺構も見られなかったが、廃止から相当の時間が経過していることは荒廃の状況から窺えた。

もう一つ特筆すべき立地上の特色として、この軌道はほとんど他の道路や村落に接続しない、外部から孤立した存在であったことが挙げられる。これは本軌道があくまでも祖谷川の河川流材の一部を代替する目的のためだけに存在していて、他の利用は考慮しなかったからだと考えられる。

続いては探索後の机上調査であるが、まずはいつものように歴代の地形図調べから。


@
地理院地図(最新)
A
昭和32(1957)年
B
昭和8(1933)年
C
明治31(1898)年

@地理院地図には、三縄ダムと三縄発電所、そしてそれらを結ぶ地下の導水路が見える。だが、これらの施設はいずれも昭和34(1959)年に完成したもので、本軌道が建設されるきっかけとなった旧ダムや旧発電所とは世代が違う。

A昭和32(1957)年版は、旧ダム&旧発電所の最末期を描いているが、この時点で既に軌道は描かれなくなってた。軌道はダムの更新を理由に廃止されたわけではなく、それ以前に廃止されていた可能性が高い。

B昭和8(1933)年版は、本編中でも度々参考にしたもので、赤くハイライトした位置に今回探索した軌道が描かれている。

なお、掲載は省略したが、この軌道は昭和28(1953)年版までは引き続き描かれていた一方で、三縄堰堤や三縄発電所が初めて描かれた版である昭和3(1928)年版には描かれていなかった。
そのため、必ずしも堰堤の完成と同時に軌道の運行が始まったわけではない可能性があるが、これは文献で改めて検証したい。

C明治31(1898)年版は、当地を描いた最古の5万図である。ここにあるのは、一切の人の手の加わる前の原始河川、原始峡谷であった時代の祖谷川と、それを取り囲む険しい山並みの方々に営まれた小集落たちの姿である。そこには僅かながら道もあるが、当時は祖谷川に沿って三縄、西祖谷山、東祖谷山の各村を連絡する祖谷街道(現在の県道32号の前身)は建設前で、そのことが文明の侵入を緩やかにしていた。


ここからはいよいよ、探索後に紐解いた新たな文献を頼りに、実踏だけでは窺い知れなかった軌道の詳細へと踏み込んでいこう。

探索前『西祖谷山村史』を読んだことで、本軌道は、大正元(1912)年に完成した三縄発電所に対する流材補償の目的で、堰堤と発電所放水口を結ぶ区間に敷設されたものだということが判明していた。また実踏によって、記述通りの立地だったことも裏付けられた。

この『村史』に近い内容を記した文献が他にも見つかった。三縄村の後継である池田町が昭和58(1983)年に発行した『池田町史 下巻』である。
流材との関係も含めて、次のように記されていた。

道路のない昔は木材の搬出はすべて流材によっていた。川の瀬肩に材木で鉄砲堰を造り、簗を設け、木材の間には芝と苔を詰め水路を作り、流材は一本一本「鳶口」で簗に引き入れ、水と共に次の淵まで流す方法が取られていた。

祖谷川・松尾川は水量が豊かで早くから水力発電に利用された。大正元年に完成した三縄発電所の取水に大申堰堤(※引用者注:三縄堰堤のことだろう)が築かれた。それまで、祖谷川・松尾川の木材は吉野川まで流送によっていたのが、出合・大利間の祖谷川の水がことごとく隧道に流れ込んだので左岸の川崎地に木材運搬用の軌条が設けられた。堰堤で水揚げされた材木は「トロッコ」に積まれ、川崎で元の祖谷川にもどされた。レールは外されたが林用軌道の跡は今も残っている。

『池田町史 下巻』より

取り立てて新しい内容はないが、複数の文献に記述があることは、実在の裏づけになる。


『四水三十年史』より

右写真は、三縄発電所の事業主である四国水力電気株式会社が昭和3(1928)年に刊行した『四水三十年史』に掲載された、「三縄水力発電所全景」の写真である。
中央に写る大きな建物が、現在は廃墟となって残っている【煉瓦造りの旧発電所】で、軌道跡らしき道が、“矢印”の位置にはっきりと見えている。
残念ながら撮影年月日がはっきりしないので、発電所完成直後に軌道が開設されていた証拠とはならないが……。

本編中にも一度掲載しているが、『四水三十年史』にある三縄発電所の工事経過の文章を再掲しよう。

明治44年5月10日、三縄水力発電所建設の工事を開始し、関係官民を現地に招待して地鎮祭並に起工式を挙行した。
古来禽聲水韻(鳥の声、水の音)の外聞く事の無った祖谷川沿岸の幽境は此日よりして現代科学の試練場と化したのである。

起工以来数回の洪水に見舞われたる外種々の困難に逢い尋常ならざる辛苦を嘗め、1年6ヶ月の歳月を費やして大正元年10月23日落成し、官庁の検査を了え、翌11月10日より一般に供給を開始した。之れ実に当社事業上に一時代を画したもので頗る重大なる意義を有するに依って、会社は此の日を以て開業記念日と定めた。

『四水三十年史』より[再掲]

ところで、ダムの建設に伴って困難となる河川流材の補償として、電源事業者が代替の運材路を整備することは、流材が盛んであった時代にはしばしば見られることであった。

例えば、有名な千頭森林鉄道の始まりも、古来千頭御料林の伐出が寸又川の流送により行われていたところへ、昭和初期に第二富士電力が計画したダム計画に伴って、流材補償と工事用軌道の両目的から、同社が昭和6(1931)年に敷設した軌道に由来しているものであるし、かつて岐阜県に存在した私鉄の北恵那鉄道は、大正時代に大同電力が木曽川を堰き止めて大井堰堤を建設しようとした際、付知御料林の流材補償として建設が計画され、諸般の事情から私鉄として開業したものだった。
また、補償によって建設されたのは必ずしも軌道に限らず、昭和5(1930)年に富山県の庄川に相次いで建設された小牧堰堤や祖山堰堤では、流材補償として電力会社は通称「百万円道路」と呼ばれる湖畔道路を開設した。これが現在の国道156号の元になっている。

以上挙げた例のように、我が国の初期のダム開発には、しばしば流材補償の問題がついて回っていたが、中でも今回探索した三縄堰堤のケースは、非常に初期のものであると思われる。単純に大正元年完成という時期がどの比較対象よりも古く、しかも計画自体は明治末から動いていたものである。
これを断言出来るだけの裏付けはまだないが、本軌道は、日本初の電源開発に伴う流材補償目的の軌道だった可能性がある。
もしそうであれば、当初考えていた以上に貴重な産業遺産といえると思う。(より古い事例をご存知の方がいたらご一報を)

そして、このように日本初か、それに近いくらい初期の事例となったダム開発に伴う補償の問題は、地元住民と電源開発会社の間の軋轢という、後にも各地で繰り返される出来事の初期的な事例となったことも判明した。
今度は、『池田町史 上巻』の記述を元に、三縄発電所の建設を地元がどのように受け止めたかを見ていこう。

香川県仲多度郡の讃岐電気株式会社は、石炭の値上りで経営が悪化したため祖谷川の豊富な水量に着目し、明治42年8月30日、徳島県知事に水力利用許可申請を提出し、12月27日に許可を得て、明治43年2月、三縄村大字大利字日浦に、三縄発電所をつくる工事をはじめるとともに、同年、社名を四国水力電気と改称した。

『池田町史 上巻』より

香川県で発足した讃岐電気は、明治42年12月に徳島県知事から三縄発電所建設のための水利利用許可を得ている。
このときの命令書が『四水三十年史』に掲載されているが、県はその中で会社に対し17条の命令を下している。その一部を紹介しよう。

第1条許可を受けたる者は明治35年本県令第34号土木工事取締規則を遵守すべし
第2条本許可の有効期間は許可の日より50ヶ年とす
第3条(略)
第4条使用の水量は1秒間300立法尺を超過することを得ず
第5条祖谷川を流下する木材に対しては許可を受けたる者の費用を以て相当の設備をなし無償にてこれを通過せしむべし。通過の木材によりて生ずる総ての損害は許可を受けたる者の負担とす
第6条水路その他の工作物及び木材の通過に対する設備はその設計工法等に付き更に当庁の許可を受けるにあらざれば施工する事を得ず。前項許可の申請は土木工事取締規則第2条及び第4条に依り書類及び図面を調製し第3条但書きに依れる電気事業の許可を受けたる日より6ヶ月以内に当庁に出願すべし
(以下略)
『四水三十年史』より

このように、命令書の中で既に、「流下する木材に対しては許可を受けたる者の費用を以て相当の設備をなし無償にてこれを通過せしむべし」の条件があり、これが軌道の建設として処置されたことになる。
続く条文ではさらに、この「木材の通過に対する設備」についても、「設計工法等に付き更に当庁の許可を受けるにあらざれば施工する事を得ず」とあって、設計についても県が監督したことが分かるのである。

なお、17条の命令の中で、補償に関する内容はこの「木材の通過に対する設備」だけであり、今日ならば当然重要視されるであろう田畑や住居、道路等に対する水没補償についての記述はみられない。それだけこの流材に対する補償は、県の利害にとっても重要であったということが窺えるのである。
そして会社は、この命令に従って工事を進め、完成させた。

この工事は77万円の経費で大正元年10月23日に完成し、11月10日より水力電気が初めて香川県に送電された。大字松尾字大申に、高さ13m、長さ70mの堰堤を築き、祖谷川の水をせき止め、約1700mの送水トンネルを通じて、大水槽に導き入れ、直径2m、長さ50mの鉄管4列で落差とし、三相交流発電機を回転させた。出力は2000kWで、その後2400kWの増設がなされた。

『池田町史 上巻』より

会社と県の間で円満に進んでいるように見えるが、実際には不満を募らせている者がいた。
地元の三縄村である。
同村は運転開始の3年後に村民大会を開き、そこで村内にある四国水電の一切施設の撤去を決議したのである。
このように強硬な反対を生じた経過は、次のように記されている。

三縄発電所建設時の紛争
三縄発電所の建設について、三縄村と、四国水力電気株式会社との間に紛争が生じた。
明治42年8月30日、讃岐電気株式会社は、三縄発電所建設について三縄村との間に契約書を取り交わし、翌31日、村長の副申が県へ提出された。契約書によると、

  1. 上流の木材や樵木の流下は隧道内を流すか、入口で適切な方法を設けて木材その他の流下に大なる支障のないようにする。
  2. 原動力及び電燈は本営業中無限をもって、三縄村には他村へ供給する定価より減額して供給する。

三縄発電所は明治43年2月起工、大正元年10月23日第一期の工事が竣工し、11月10日より水力電気が香川県に送電された。
ところが、大正元年9月、豪雨による堰堤上部の崩壊亀裂のため、近くの民家2戸が転覆し、四国水力電気株式会社から見舞金が贈与された。また、契約書にある三縄村に電燈をつける件も実現せず、トンネル内を材木を流すことなど思いもよらず、木材運搬の施設も形ばかりで実用にならないという状況であった。

その上、当初は思ってもみなかった種々の問題が続出した。土地買収のトラブル、道路の荒廃、風俗の悪化など、住民にとって発電所の建設は、大きな犠牲を強いられることばかりであった。大正2年、村へ対する2200円の寄附も、期待よりはるかに低い額であったのであろう、受理が保留されている。

『池田町史 上巻』より

これが三縄村が会社に不満を募らせた理由であるが、興味深いのは、明治42年時の村と会社間の契約では、木材の運搬方法として、発電用導水路内を流下させることが想定されていたらしいことだ。
だが、実際に発電所の運転が始まると、「トンネル内を材木を流すことなど思いもよらず」であったというのは、どういうことだろう。
流材を発電用水路を使って流すことは一挙両得のようにも見えるが、実際は思うようにいかなかったということなのか。

ちなみに、この四国水電が三縄発電所に引き続き、大正15(1926)年に同じ祖谷川の上流に竣工させた出合発電所では、西祖谷山村内に設置した善徳ダムから8kmの長い地下導水路を建設しているが、この時も導水路を流材路として兼用する工作を行っており、こちらは実際に利用もされたというから、手法としては通用するものだった。あるいは初期の事例故、構造に問題があったのかも知れない。

またこれに加えて、「木材運搬の施設も形ばかりで実用にならないという状況」とも書いている。
これは会社が整備した今回探索した軌道を指していると考えられる。やはり三縄発電所の運転開始時点で軌道も開設されていたのである。
「形ばかりで実用にならない」とあるのは、その設計に何らかの不良があったのだろうが、詳しい事情は明らかではない。

大正2年9月三縄村長に就任した坂本政五郎は、こうした状況を見て、会社に交渉したが、要領を得ないまま大正4年を迎えた。村民の間にも、村内点灯の約束は果たされず、それに伴って土地買収、道路の荒廃、魚道、木材搬出の不便などの不満が一挙にふき出し、大正4年3月18日の村民大会となった。
村民大会は三縄小学校運動場で開かれ、「四国水力電気株式会社発電所撤廃期成同盟会」を組織し、「発電、送電設備で三縄村にあるものを徹頭徹尾撤廃せしむ」ことを決めた。
その理由として、次の10項目が列挙された。

  • 一、負担の重課を忍び開鑿したる道路を破壊したる事。
  • 一、軌道の設備不完全なる事。 (他8項目あり)
『池田町史 上巻』より

このように、村が四国水電施設の一切を村内より追い出すことを決議した理由の中にも、「軌道の設備不完全なる事」があって、この問題はかなり重大視されていたようである。
また、「負担の重課を忍び開鑿したる道路を破壊したる事」ともあるが、これは明治35年から大正9年まで長い年月と沿道3ヶ村(三縄、西祖谷山、東祖谷山)の多額の出費を以て全長50kmが完成した祖谷川沿いの祖谷街道(現在の県道の原型)が、電源開発のために破壊されたことがあったのだと推測される。

この村民大会の決議をうけ、村長坂本政五郎は村民492人の連判で会社宛に催促状を送付し、訴訟も辞さない構えを示した。
しかし同年12月9日に徳島県と三好郡が仲介に入り、村と会社の間で和解が成立している。
会社は6800円を10ヶ年に分割して村に寄附することになったが、結局村内点灯の約束は果たされず、後の第二期工事(大正14年に着工した出合発電所)にも禍根を遺したという。

残念ながら、私が探索した軌道について、村が不満を持った点をどのように改善したかの記録は全くないのだが、軌道跡に存在する2本の隧道のどちらにも旧線と思しき隧道を通らないルートの形跡があったのは、このときに会社が改良を行った痕跡かも知れない。
現地では、どのタイミングでルート変更が行われたのか分からなかったが、これは一つの有力な説だと思う。
そしてもしその通りであれば、旧線部分は本当に短命だった(大正元年から4年ごろまでしか使われなかった)ことになる。


このように、産みの段階で地元社会に大きな負担と動揺を強いた三縄発電所だったが、その後の経過についての情報は少なく、軌道の行方についてはなおさらである。
軌道の運用に関する数少ない情報が、既に再三引用している『西祖谷山村史』にあった次の記述だ。

そしてその輸送には、祖谷川運輸株式会社が当たることとなり、株主として当該電力会社はもとより民間株主坂本正五郎・田中正一等がこれに当たることとなった。

『西祖谷山村史』より[再掲]

ここに登場する祖谷川運輸株式会社が軌道の運行を担った時期があるようだが、具体的な内容について他の資料は見当たらない。
ただ、同社の株主として名前が挙げられている坂本正五郎は、他の資料によると坂本政五郎が正しく、これは三縄村長として四国水電と折衝に当たった人物に他ならない。
彼は村長を辞して後、大正15年に同社を設立、代表取締役となって祖谷川流域での運送事業に力を尽くしたようである。
その後、少なくとも1960年台まで会社は存続した形跡があった。

ここまで仮称として本編の表題としていた「祖谷川三縄堰堤軌道」だが、正式名称らしいものを一つ与えるとすれば、「祖谷川運輸軌道」は良さそうである。

そして、この軌道の廃止がいつ行われたかについても、文献的情報は全く欠けている。
昭和34(1959)年8月に発行された雑誌『電気とガス』に、「新三縄堰堤工事と地滑りについて」という記事が掲載されている。
これは同年に運転を開始した(現在の)三縄ダムの建設に伴って生じた地滑り災害の記録だが、記された詳細な図面に、左岸に通じる軌道やその跡地らしき道路は書かれておらず、四国電力が新三縄ダムを着工した昭和32年の時点で、既に軌道は廃止されていたと考えて良い。

そもそも、祖谷川における流材事業の一部を担う事に特化した軌道だったのだから、肝心の祖谷川における流材が廃れれば、軌道は不要となったはず。
具体的には、前述した祖谷街道(大正9年完成)が自動車道として改良され、トラックによる運材が可能になった時点で、お役御免であったと思う。
『西祖谷山村史』には、昭和22(1947)年12月8日に、「村民多年の要望であった池田町と東祖谷山村久保間に省営トラックが開通した」との記述があるので、この時期に祖谷街道の自動車道化は完成したようである。軌道の廃止も、おそらくこの時期だろう。


以上が、1枚の古地形図から私が辿り着いた、古き林用軌道の物語であった。


 四国水電の写真帖に軌道の写真が発見された!!
2026/5/1追記

来たぞ来たぞ! 凄い写真が発見された!!

本レポートを公開したその日の夜、全国の古い発電所やダムなどの文献・現地調査を行っている古川旭氏(X:@doboku_MDより、今から1年ほど前に旧三縄発電所の竣工記念写真帖をオークションで落札しており、その中に軌道が写り込んでいる写真があったので、スキャンしたデータを送付するとの大変ありがたい内容のメールをいただいたのである。


明治31年開通、福浦隧道(2代目)

まずは、その表紙と奥付を共有しよう。
画帖仕立てにされた厚紙の表紙に、「四国水力電気株式会社 祖谷川水力工事 竣成紀念写真帖」の表題が「Shikoku Hydro-Electic Co.,Ltd.」の英文や、流れる水を描いた意匠と共に刻まれている。

奥付には、「印刷所 凸版印刷株式会社」「四国水力電気株式会社編」「大正二年四月十五日印刷発行」との記載がある。

中に綴じられている写真は全部で12点あり、それぞれ次のキャプションを有する(翻訳英文も附属するが省略する)。なお表示は掲載順で番号は私が付した。また旧字体は新字体に改めた。

  1. 工事中ニ於ケル取入口
  2. 徳島県下祖谷川ニ於ケル堰堤工事中
  3. 堰堤の前面
  4. 堰堤背面ノ木材運搬軌道ノ図
  5. 吉野川鯛ノ浜ニ於ケル機械運搬ノ図
  6. 発電所排水路出口(鉄筋コンクリート工事中ノ景)
  7. 水槽ノ図(容量四万立方尺)
  8. 発電所全景
  9. 発電所内部(三千馬力二千キロワツト)
  10. 送電線路鉄塔
  11. 丸亀変電所
  12. 隧道内部ノ図

これから上記のうち、本編と関係が深いと思う4点の写真を一緒に見ていこう。




対岸から撮影された旧三縄発電所の全景写真である。

以前の回にも紹介した【古写真】と比べてみると、いろいろと違いがあるが、それはこの写真はまだ完成する前の建設中に撮されたものだからだろう。
分かりやすい違いとしては、建物の背後の落水路が2本しかないが、これは最終的に4本になる。
建物の下の放水口も、完成時はより複雑な形状になっている。
また、発電所の建物の形も異なっており、後に増設を受けていることが分かる。
一連の施設の背後の高い位置を横切る明確なラインが見えるが、そこが現在の県道の位置である。当時の祖谷街道だ。

なお、撮影者が立っている場所が、まさに今回探索した軌道ではないかと思う。
比較的近いポジションから【今回撮影した写真】と見較べると、百年を越える月日で、地形を隠す立派な森が出来上がったことが分かる。




建設中の旧堰堤を下流左岸側から撮影している。

地味に三縄堰堤の写真を初めて見た。三縄ダムに水没したため、もう見ることができない構造物である。
高さは25尺(≒7.6m)と記録されており、現在のダム(17m)と比べるとだいぶ低かった。
いかにも古色を帯びた、前面切石布積みの堰堤だったことが見て取れる。
背景の急な斜面のずっと上の方に少しだけ道が見切れているが、あそこが現在の県道で、当時の祖谷街道だ。

ここまでの写真には、今回探索した軌道は写っていないが、いよいよ次の写真に……。




湛水した状態の堰堤を、今度は下流右岸側からやや見下ろし気味に撮影している。
谷の奥に集落が見えるが、あそこが祖谷川と松尾川の合流地点にある出合集落だ。

このアングルだと軌道が写り込んでいるはずなので、あるべき場所をズームアップしてみよう!!!




キター! 見える! 見えるぞ〜〜!!

堰堤の天端すれすれの高さに、高い石垣の法面擁壁や、木製の桟橋を連ねた、いかにも軌道らしきラインがはっきり見える!

この旧堰堤があったのは、【現在のダム】の70m上流で、【このように】完全に水没してしまっている。

写り込んでいる軌道は、旧堰堤の上流へ伸び、目測100mほど先で終わっていたようだ。
ちょうどその場所の前の水面に線上の何かが写っているのだが、おそらくこれは上流から流れてきた流材を受け止める、網場(あば)と呼ばれる頑丈な係留具だろう。
ここで流材を受け止め、鳶口などで路盤へ引き揚げ、トロッコに乗せ替えて運んでいたらしい。
岸は狭く、広い作業スペースはとてもなさそうだ。そんな作業性の低さが地元の不興を買ったのだろうか。


そして次が掲載する最後の1枚であるが――。




キスギテルー!!!

超絶はっきりレールと枕木のある軌道が写っている!

表題からしてもろに「木材運搬軌道ノ図」であり、本軌道を主題とした1枚だ。
堰堤の上流左岸側から見下ろし気味に軌道と堰堤を撮影している。
本軌道のレールが写っている写真を初めて見たが、枕木の下にバラストが敷かれていないのが特徴的だ。
しかし、路盤の雰囲気は、今回実際に探索した廃線跡の【ワンシーン】にそっくりであり、同じ路線だと感じられる。

それにしても、これだけ鮮明な軌条の写真から、どうにか軌間を計測する手立てはないものだろうか。
明らかに狭軌であることは分かるが、林鉄の一般的な762mmなのか、工事用軌道でしばしば採用された610mm(もしくは稀に500mm)かの判断は難しい。
個人的には、なんとなく762mmより狭いような感じを受けるが、皆さまはいかがだろう。
現存する【隧道】の特異な狭さを知るだけに、案外610mmだった可能性というのもありそうな気はしている。

なお、対岸の湖面に接して、石組みの立派な取水口が見えている。
会社は当初、この導水路を利用して流材を行うことを村との間に取り決めていたらしい。
だが、前の写真で見たように、網場が上流に設置されていたのであれば、この取水口から流材を行うことは難しいだろう。
軌道と導水路という二つの補償方法を、どの段階で選択したのかは不明だが、最終的に軌道を利用することに決定したのだろう。(この軌道も村は「設備不完全」と評していたが)




以上、大変貴重な古写真資料をご提供いただき、誠にありがとうございました。
おかげで軌道の実態が一層鮮明になったと思う。
あとは、四国水電が徳島県に提出したはずの申請書類が発見されれば、軌道の軌間サイズへの疑問も解決出来ると思うのだが…。



 旧堰堤の痕跡が、今も地上に存在した!
2026/5/1追記


上記“追記”公開直後、今度は徳島県在住のhiro氏(X:@Rotary_13B_REW)より、見逃していた重大事実への指摘があった。


(↑)レポート中で掲載した写真に、私が水没により現存しないと判断した旧三縄堰堤の一部が見えているのではないかとのご指摘であった。

至急、元の写真を使って検証してみると……(↓)。


マジだった!

私が現ダムの堤上から、上流の湖面を撮影した写真に、「竣成紀念写真帖」で見ることができた旧堰堤右岸の取水口部分の特徴的な階段構造(“矢印”の部分)や、石造堤体の袖部が、はっきりと写っていた!
これにより、現三縄ダムの施設敷には、旧堰堤の附属施設であった石造擁壁の一部が取り込まれ、現役で使用されていることが分かった。

それだけではない。
この“気づき”によって、水没と考えていた軌道末端部の位置についても、その認識を新たにする必要があった。


すなわち、旧堰堤の右岸側の袖部が水面上に存在しているということは、対岸に存在する同高度の袖部も、同程度浮上しているはずであって、

チェンジ後の画像に示した“黄色矢印”の位置に見える小さな陸地こそが、それであると判明すると共に――


その隣のほぼ同じ高さに軌道が存在していたことが、『竣成紀念写真帖』によって明らかであるから――


水没と判断していた軌道末端部の路盤は、この探索日において、

極めて水面すれすれの位置に浮上していたのである!!!



気付いていれば行けたのに、私はそれを見逃した!  許してくれ〜〜〜……







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