廃線レポート 早川(野呂川)森林軌道 奥地攻略作戦 第5回

公開日 2022.10.18
探索日 2017.04.13
所在地 山梨県早川町

  ※ このレポートは長期連載記事であり、完結までに他のレポートの更新を多く挟む予定ですので、あらかじめご了承ください。


 林鉄? 鉱山軌道? 謎の拠点跡


2017/4/13 7:08 《現在地》

6年前の断念地点を見て引き返しをスタートして20分後、危険な戻り道も無事制し、本日最初に軌道跡に到達した地点へ1時間10分ぶり帰還した。
路盤の真ん中に無遠慮に転がされていたデポしたザックを背負い直し、いよいよ初めて突入する領域への前進をはじめる。




上の写真の所から30mばかり進み、谷になったガレ場を横断する。
厳密には、この場所が本日最初に出会った軌道跡だ。誰かが取り付けたピンクテープを先ほども見ている。
このまま奥の岩場を豪快に削り取った軌道跡へ。
そこは、これまでより格段に道幅が広い気がした。




なお、探索当時の最新版の地形図(→)には、この地点から200mくらい先まで、軌道跡らしき道が、徒歩道として描かれていた。
そして、このたった200mは、廃止後の早川森林軌道が地形図に描かれていた奈良田以奥で唯一の区間だった。
これは林道になっている部分を除いての“唯一”であったが、この線の存在は、偵察探索以前において、左岸に軌道跡が存在したと推定できる唯一の表記だった。

いま、改めて現地調査によって、この徒歩道が確かに軌道跡を現わしていたことを確かめることが出来た。
これがもっと大胆に全線が描かれていたら、先行の探索者は、もっと遙かに多かったことだろう。

なお、最新の地理院地図ではこの道も消えている。
令和の世においては、一欠片さえの“匂わせ”さえ、この最凶の林鉄は許されていない。




道の幅広さを感じる岩場を、カーブひとつ分だけ進むと、地形図の表現通り、単調な斜面が現われた。その斜面を横断する始まりの所に、トタンの波板がたくさん散らばっていて、見るからに、崩壊した小屋の屋根らしかった。山小屋のように大きなものではなく、ただの小屋のスケール感だ。

前回と今回と合わせてここまで約2km分の軌道跡を踏破しているが、軌道跡に建物があった痕跡は初めてだ。路盤を塞ぐ配置だが、軌道廃止後に設置されたと断定はできない。機関庫だった可能性もあるからだ。

なお、推定軌間610mmの【車軸】を見つけたスギ林は、ちょうどこの真下辺り……ここから転げ落としたら自然と辿り着きそうな場所だったが、これは偶然の一致だろうか……。



7:19 《現在地》

小屋跡を過ぎて少し進むと、びっくりするくらい道幅が広くなった!
奈良田橋からおおよそ3kmの位置だ。

軌道跡でこの幅は、複線区間だった可能性が高いと思う。
林鉄の複線といえば、木材の積込み線はもちろん、列車の行き違いや留置など様々な目的で設置されることがあったが、規模が大きいものを駅と呼ぶこともあった。
ここまで見てきた中で初めての複線区間である。

ただし、必ずしもこれが林鉄時代の複線区間とは判断できない事情がある。
今日の探索によって、林鉄廃止後に改めて軌間610mmのレールを敷設していた、鉱山軌道の可能性が高い利用者の存在が示唆されている。
トタン屋根の小屋も、林鉄があった戦前のものとは思えなかった。
林鉄廃止後に軌道跡を利用した何者かが、この部分を拡幅して複線にして、例えば鉱石の積込みに使っていた。そんな可能性もあるのだ。

……まあ鉱石といっても、この場所から湧き出してくるわけもなく、謎は深いのだが…。



この複線らしき幅広区間は、だらだらとした斜面に沿って100m以上も長く続いていた。
この長さは単なる行き違いのための待避線ではなく、もっと重要な運行上の拠点として利用されていたのだろう。
そして終盤とみられるところで、1本のレールを発見!

ひと目で分かるこのレールの細さは、6kg/mレールで間違いない。
しかし、見つかったのは1本だけで、しかも長さが1mほどしかない。
手前側はレールの途中で綺麗にカットされており、奥側はもともとのレールの端だったようで、次のレールと繋げるための継目版(ペーシ)が、ボルト・ナット(モール)が付いたままカットされていた。しかもモールはまだ錆色に染まりきっていないので新しく見える?

状況からして、最後に敷かれていたレールが一欠片残ったというよりは、廃レールを切断して何かの用途(例えば標識柱)に使っていた名残っぽい。
でも本当の元を辿れば、林鉄か、その後の謎の利用者か、どちらかが敷設して使っていたレールではあるのだろうな。




――そして、複線区間が終わり――


今日初の“展望地”、現る。




7:26 《現在地》

見渡したこれより奥の早川は、両岸がおびただしく咬合していた。

このように咬合する谷と尾根のセットを6回くり返した先に、今日の最終目的地(夜叉神隧道)が待っている。

そして、明日の最終目的地は……、 驚くなよ…



終点「深沢尾根」は、一番奥に見える白い頂の山腹だ!

遠い山は青く見えるものだが、青い…。明日の目的地が青いよー……。

…これはほんとうに、厳しい道行きになりそうだ…。



……まあ、行くしかない。 準備は既に万端だ。

今回ダメなら、私には無理な探索だというのが結論だと思う。

複線区間の終わりに一致しているらしき、この見晴らし良き尾根を右カーブで曲がって、先へ……


曲がると、




いきなり始まった。



 【ミニ机上調査編】 謎の610mm再生軌道の正体は?


一旦、先へ進むレポートを休め、ここまでの回の成果を振り返ってみたい。
ここでの主役は、事前情報が全くなく、その発見に大いに驚かされた、軌間610mmレールが敷設されていたと見られる複数の痕跡である。

具体的には、軌間610mm用とみられる車軸1本と、軌間610mmでレールを敷設していたとみられる枕木1本が、それぞれ路盤下の斜面と、路盤上で発見された。
どちらか一つだけだと疑わしいが、二つあるとなると、軌間610mmの軌道が存在したことは、ほぼ確定といえるだろう。

なお、これも繰返し述べていることだが、この路盤を最初に利用したのは、昭和18(1943)年に奈良田以奥へ延伸されるも、昭和20年に廃止された、早川森林軌道である。その軌間は一般的な森林鉄道と同じ762mmであり、610mmではなかった。だからこそ、その早川森林軌道の路盤で、誰が、いつ、なんのために、軌間610mmの軌道を敷設して利用したのかということが、大きな謎になっているのである。

これも本編中で何度も書いていると思うが、この軌道の正体として最も可能性が高いと思われるのは、鉱山軌道であろう。
具体的には、早川沿いからドノコヤ沢を2kmほど遡った一帯で、大正時代から昭和31年まで断続的に稼動していたとされる、芦安鉱山からの鉱石運搬軌道である。

しかし、この鉱山については、以前の回で述べたとおり、鉱石の搬出には索道を用いていたとされ、軌道による搬出の記録はない。全盛期を含む大正10年から戦前までの期間は、早川側ではなく、ドノコヤ峠を越えた芦安側へ索道で搬出しており、また昭和29年から31年まで別の鉱山会社が短期間復活稼動させた際は、今度は奈良田へ索道を敷設して搬出したとされる。
芦安鉱山の鉱石を、早川森林軌道の軌道跡を敷設して搬出したとすれば、その期間は昭和20年の林鉄廃止以降しかないだろうが、記録としては見当らない。

そもそも、芦安鉱山と軌道跡は2kmの距離と300m近い高低差で隔てられており、簡単には軌道まで鉱石を搬出できなかっただろう。
あるいは芦安鉱山ではない、もっと小規模で、ほとんど知られていない鉱山が近くにあって、その搬出用に利用された可能性も考えられる。
芦安鉱山の一帯は、戦前を通じて芦安村と西山村の所属未確定地であったようで、現在は早川町に属しているようだが、そのせいもあるのか、関係すると思われる町村史の記述が薄い。
現時点で調べられる資料には目を通したつもりだが、この軌間610mmの再生軌道については、今のところ、資料的なものは全く見つけられていない。
だから…… 「正体は、わかりません。」

「分かっていない」ことを明かすのも、机上調査の成果の一つではあると思うので、率直に開陳した次第である。


ここからはいささか“悪あがき”じみてくるが、この謎の軌道が使われていた時期や状況を知る手掛かりを、いにしえの登山者たちを手ほどきした登山ガイド本にも求めてみた。

というのも、現在ではほとんど知る人ぞ知る古道となった、ドノコヤ峠を越えて芦安と奈良田を結ぶ道は、奈良田に自動車で行けるようになる昭和30年頃まで、甲府盆地から南アルプスの高峰へ挑むための重要な入山路の一つで、奈良田は今以上に登山基地として栄えていたのである。
そのため多くの登山者がドノコヤ峠を越えている。そんな彼らは途中で芦安鉱山を目撃し、さらには早川の渓谷沿いに奈良田へ伸びる早川森林軌道の跡を目撃した者もいたのである。

右図は、昭和4(1929)年の地形図だ。
この頃まだ奈良田以奥の軌道は存在しないが、そもそも存在した期間が短すぎるので、この後の版にも一度も描かれることはなかった。
注目して欲しいのは、赤線で強調した点線の道(小径)である。
これがドノコヤ峠を越える道で、芦安鉱山を経て奈良田に至った。(オレンジの線は鉱山と芦安を結ぶ索道。また、ドノコヤ峠から「高山」を経由して奈良田へ行くルートもあった)
この道が早川沿いを通る部分で、後に敷設された軌道と交差する部分があった。

今回は、古い登山ガイドに見つけることが出来た軌道に関する記述を、いくつか紹介しよう。
右図の赤線の道をイメージしながら読んで欲しい。

(1) 昭和36(1961)年発行
『アルパインガイド 南アルプス北部』(山と渓谷社) の記述

(ドノコヤ峠を越えて)草の生い茂った道を下ると芦安鉱山の小屋場につく。小屋は荒れに荒れて不気味である。(中略)ここから道は一段と悪くなる。ドノコヤ沢は急な下りになって流れ落ち、道は沢を幾度か渡り返し、やがて谷縁を離れてうっそうたる樹林の山腹を巻いていく。野呂川(早川)の原生林が脚下にひらけてくるが、その谷沿いの道に出るまでかなり横巻きが続く。
野呂川沿いの道に出たなら奈良田に向かう。この道には昭和初年に林用軌道が敷かれ、早川入りの木材搬出に大いに役立ったものだが、今はまったく廃道となって軌道は朽ちるにまかせられている。対岸には、奈良田から荒川合流点に至る西山発電所専用道路が走っている。早川入りもずいぶん変貌したものである。やがて対岸に西山第二発電所の建物をみると、奈良田は一投足の距離に近づくのだが、桟道がところどころ決壊しているので意外に時間がかかる。対岸の自動車道路が早川を渡ってくるところ、すなわち奈良田橋を右手脚下に見たなら、道を横切って橋のたもとまで落ちているガレの上をくだって自動車道路に出る、奈良田からドノコヤ峠に向かうのであったなら、この奈良田橋のたもとから右手のガレに登ってドノコヤ峠への道に出ると良いわけだ。

ここには、これまで本編で紹介した区間の軌道跡の一部を歩いた内容が記録されている。
昭和初年に林用軌道が敷かれ――の“昭和初年”は誤りなのだが、そう思えるほど、軌道跡は既に荒廃していたのだろう。既に対岸には電源開発道路(現在の県道)が登場しており、軌道跡は登山道として風前の灯火のようになっていたようだ。それでもこの頃は、桟橋なんかも所々残っていたらしい。
偵察探索時に見た【ジュースの空き缶】は、この時代に健脚を試すように荒廃した軌道跡を歩いた登山者が残したものなのだと思う。

このガイドが調査された昭和30年代中盤に、森林軌道跡の道を利用していたのは、わずかな登山者だけだったようだ。


(2) 昭和31(1956)年発行
『峠と高原の旅』(日本交通公社関西支社) の記述

峠から早川沿いの奈良田への道は、奈良田近くの木馬道が雪のために破損することがあり、シーズン以外には高巻きの道(二ヵ所あり)を注意しなければ、思わぬガレに突き当たる。峠からすぐ尾根にとりつき、高山を経て奈良田への道もはっきりしているが、これは奈良田の人たちの利用する道といってよい。
峠からドノコヤ沢沿いに降り、つぶれかけた芦安鉱山の宿舎跡をすぎて鉱山の入口に達する。(中略)しばらくして道は左に曲がり沢に別れをつげ早川沿いになるが、この頃前方から広河内が大きく落ち込んでくる。やがて吊橋や部落がはるか下方に見える地点に出、下りが続く。

果たしてこの昭和31年のガイドに出て来る“早川沿いの木馬道”とは、いかなる道だったのだろう。
通常、木馬道には強い勾配が必要なので、軌道跡がそのまま木馬道として使えたとは思えない。別の道があったのかも知れない。そう解釈すると、このガイドには残念ながら、軌道跡についての言及はないことになる。


(3) 昭和29(1954)年発行
『マウンテンガイドブックシリーズ 南アルプス』(朋文堂) の記述

峠から白根の南嶺を眼前に仰いで寂寞とした鉱山宿舎跡を過ぎ、暗いドノコヤ沢沿いの道が続き、やがて早川林道の軌道跡に出る。早川渓谷に沿い奈良田は……(以下略)

記述はこれだけだ。
峠から鉱山跡を過ぎて沢沿いに下ると自然に早川林道の軌道跡に出て、その後も特筆するような難場はなく奈良田に辿り着けるように感じられる記述の薄さだ。
この頃はまだ廃止から日が浅く、軌道跡は十分原形を保っていたということかと思う。
しかし相変わらず、森林軌道跡を別用途で再利用していた軌道が存在した気配は、全く感じられない。


(4) 昭和17(1942)年発行
『甲斐の山々』(朋文堂) の記述

峠から奈良田へは道も明瞭になり難はない。奈良田は白根への門戸としても有名であるが、秘境としてそれ以上に著名である。(以下略)

戦前に発行された登山ガイド本の記述である。
この時期、ちょうど奈良田以奥の森林軌道工事が進められていたかと思うが、その存在はおろか、これまでのガイド本には必ず登場していた芦安鉱山の存在にも全く言及がない。戦時中の当時は必死の増産体制で昼夜兼行の稼動があったはずだ。深読みすれば、このような軍事利用と関係がある記述は意図的に省かれたと見ることが出来る。
というわけで残念ながら、在りし日の軌道の活躍ぶり(あまり活躍していなかったのが真相だが)が描かれたガイド本は未発見である。


いささか成果は乏しいが、これらが私の目に付いた歴代の登山ガイド本に登場する、ドノコヤ道の記述である。
結局この手法の調査でも、軌道跡を転用した610mm軌道の存在を窺わせるものは、見つからなかった。
辛うじて、森林軌道跡が存在していて、登山道として利用されていたことに言及したものがある程度だ。

しかし、こうしたガイド本ではなく、実際の登山者の紀行文もまた膨大に存在しているはずだ。
著名な登山作家の記録のほか戦前から登山雑誌が複数存在しており、それらにも無数の南ア登山記はあるだろう。
もし皆様のうち、そうした記録にアクセス出来る方がいたら、昭和17年から30年頃までのドノコヤ道の記録がないかを探してみて欲しい。ヨッキれんからのお願いだ。


――それではそろそろ、本編探索へ戻ろう。

たしか、いきなり厳しいところからの再スタートだったな……。



 ドノコヤ(銅之古家)沢を越せ!


2017/4/13 7:27 《現在地》

さあ、皆様お待ちかね!
新たなエリアへの切り込みを、スタートしよう!
ここから推定9km先にある南アルプス林道交点付近(観音経)付近までの区間は、全て正真正銘の踏破記録完全未見、完全未知のエリアである。
これは探索者冥利に尽きるといえるが、恐ろしさも頂上級であるのはいうまでもない。今日ここまでの展開ですら平易なものではなかったが、この先には遙かに大きな恐怖を予感している。

早川林鉄跡としては稀な平和境であった複線区間の終わりのカーブを曲がった一歩目から、この有様だ。最近の地形図にいかなる道も描かれていない斜面に何かを期待するのは、やはり無理だった。完全廃道の再開だ。
とはいえ、この程度で怖じ気づくようでは、全くお話にならない。いきなり挑戦者を篩にかけてくる展開。負けられねぇ!と、(ちょっと強がりながら)鼻唄をひり出しながら、軽やか突破だ!!



突破の最中、この先の舞台となる辺りが見渡せた。
この先で早川支流のドノコヤ沢を横断しなければ、さらなる早川の上流へ進むことは出来ない。
地形図でもこのドノコヤ沢は、険しい崖に両岸を取り囲まれた峡谷として描かれており、橋の現存がほぼ期待できないことも含めて、容易には渡らせてくれない予感があった。

さて、いま初めて実見しているドノコヤ沢入口の地形だが、対岸の遠さに恐怖を感じる。
対岸の地形も緩やかではないだろうから、それも心配ではあるが、まずそれ以前に、この広い谷口を有するドノコヤ沢が、翼を持たない私に渡れるくらい狭く浅くなるまで、どれだけ遡行しなければならないかということが恐ろしかった。

もしこの先で渡れないとなると、どのように迂回すればよいのかの見当が付かないし、迂回ルートをゼロから見つけ出す時間と体力のロスを考えたくなかった。
頼むから、素直に軌道跡を辿っていった結果として対岸へ辿り着かせて欲しい。そのために出来ることなら、なんでもするつもりだ。



これは振り返りの一枚。

奥では複線幅の平和境が、名残惜しげに見送ってくれている。
次にこのような平穏な場所に辿り着けるのはいつだろうか。予想が付かない。
とにかく、こんな寒々とした険しさの中で人生を終えることだけは避けたい。今夜も必ず平穏の地で寝たい。




7:30

複線基地を過ぎた最初のガレ横断区間は50mほど続き、中ほどを過ぎると、先の道が見えてきた。
ガレ場を抜けると、岩場を削った単線幅の路盤が再開するようだ。
こういう鋭く尖った岩場の道は、見た目の恐ろしさに反して、この軌道跡の中ではむしろ安全度の高いところだ。
ただ、険しい岩道の中で唐突に路盤が切れてしまう欠壊や、桟橋の消失、そういう逃げ場の乏しい場面が現われてしまうことが、ひたすらに恐ろしかった。




良い景色、良い軌道跡風景だ。
背景の山なみを含めてそう思う。

もしここがもっと気軽に近づける軌道跡で、
険しい場所でもこのくらいの状況であるならば、
歩いてみようと思う山好きの人は多いと思う。

とても良い景色である。



7:32 《現在地》

その次の小さな尾根を回り込むカーブ……ここも良い雰囲気ッ!
廃止から経過した年月の長さや、地形の険しさを思えば、
こういう現役さながら(言い過ぎ?)の風景に出会うのは、とても嬉しい。

GPSの画面上に表示されている地形図を、立ち止まる度に眺めているが、
いまいる高さの等高線をドノコヤ沢の奥へ素直に伸ばすとすると、
あと200mほどで、谷底と同じ高さになる。現時点で谷底は50mも下にあるが、
短い距離で、ドノコヤ沢は駆け上がってくるようだ。それほど険しい谷らしい。



先行きを地形図で想像しながら上記の小尾根を回り込むと、真っ正面にモノトーンの強烈なコントラストを背負ったドノコヤ沢の両岸が、閉じた門を思わせる圧迫感をもって立ちはだかってきた。

……う〜〜〜ん。 地形図は嘘つかないよな…。 やっぱり険しい…。

……さて、このまま200mほど水平移動を続けられれば、谷底が上がってきてくれて、橋がなくても対岸に行けると想像するが、そのような移動が実現できるかどうか、正直不安しかない風景だった。
また道がガレはじめているし…。
ともあれ、行けるうちは、前へ、前へ!




7:36

ズンズン奥へ歩いて行けてる。
谷の地形は険しく、路盤に接する近場にも大きな岩場が上に下に現われてくるが、抗する道形が上手く残ってくれていて、前進可能性の全てをそこに委ねている。

この写真の場面も、上が見えないほどの大岩の基部を削って道が延びており、片洞門というほど出っ張ってはいないが、とても美しく見応えがあった。
“岩”は、簡単に姿を変えないものの代表格とされるだけあって、条件さえ揃えば、廃止から70年を経過した道形をこれだけ保存してくれるのだ。




これは同上地点から見下ろした、ドノコヤ沢の谷底だ。
結構進んできた感じはしているのだが、まだ30mからの落差がありそう。
白い水しぶきが随所に見える流れは、急ピッチに高度を上げているのだろうが、いかんせん最初の落差が大きかったので、まだ路盤に追いつけない。
早く追いついてきて欲しい。そして対岸へ行きたい。




7:41

おおっと! これはいい切り通し!

谷沿いの険しい岩場の中にあって一服の清涼剤のような空間だ。
両側に転落しない地形がある嬉しさよ。護られてる心地良さよ〜。

いまはたとえ1メートルでも楽に谷奥へ進めることがとてもありがたい。
こうして騙し騙しに奥へ進んでいって、気付いたときには谷底がすぐ近くにあってすんなり渡れてしまうという。それが理想型。さすがに橋が架かって残っていることを期待するほど楽天家ではない。



7:42 《現在地》

切り通しを抜けると、今度は谷へ突出した小さな岩尾根があった。
いままで何度か隧道を見つけてきたパターンの地形だ。

だが今回は隧道っぽくないかな。
岩尾根の先端を回り込むように削岩された道が見える。
その直前に、道を切断する幅の狭いガレ場があるようだが、まあ越せないことはないだろう。

GPS&地形図だと、いまいる等高線がドノコヤ沢の谷底を巡って対岸へ行くところまで残り50mもない。
ただ、その割りにはまだずいぶんと谷底との比高が残っている気がするが…。
地形図、大丈夫だよね? 嘘ついてないよね??




と、ここで対岸の見通しが良かったので、じっくり凝視してみる……。

………………なければならないぞ…… 道ッ!

今いる高さとほぼ同じ高さの対岸に、等高線の如し道形を見いだせなければ、この前進の全体が無意味というか、お先真っ暗になってしまう。
辿り着くべく当座の目的地を示し、まだ先があるという安心感をくれぃっ!
狭い谷奥へ入っていく不安を克服するに、ぜひ欲しい。




路盤発見っ! 助かった!

途中どうであっても、とりあえずあそこに辿り着ければ、先へ進める余地がある。
ドノコヤ沢から一歩も進めずに終わるということは、回避出来そう。

それに、対岸の路盤に近いところの立ち木に、山梨の山を歩いているとよく目にする赤いプレートと赤スプレーの汚しが見えた。
これは境界見出標で、国有林の林班界標柱のようなものである。
林鉄が廃止された時点で、沿線の林業経営は終焉したような先入観があるが、最低限いまも林班界を表示する程度の管理が行われているならば、少なからず作業員が出入りしている見込みがあり、軌道跡が通路として保全されている希望が持てる。
少しくらいは期待したい。



対岸に“希望”を見出した私は、早くそこへ辿り着きたいという気持ちが加わり、目の前のガレ場に取り組む。

……

…………

…………………… すまん。

最初、全体が見えない段階では、越せないことはないだろうと高をくくったこのガレ場、……ちょっと生半可じゃない!

それに、岩場の形状的に、もしかしたら凄く短い隧道があった可能性もある。だとしたら両坑口とも埋れてしまっている。




このガレ場、さほどの幅ではないのだが、磨かれたような滑らかさと急さが、ハンパないことになっている。
まるでチューブスライダーのような形状の崖が、横断すべき土斜面のすぐ下から真っ逆さまに谷底へ通じていて、横断に失敗したら確実に谷底へ落ちることになるだろう。たぶん、骨折以下の結果になる。全隊に日陰で濡れているのも嫌だ。

正面突破は難しいと判断した。
それで、何枚か前の少し引いた写真を見直して貰うと分かるが、このガレ場の上端より上まで高巻きして、次の岩尾根をも高巻きして越えることを検討した。




貴重な数分間を使って悩んだが、結論として、ここで先の見えない高巻きへの挑戦はしないことに決めた。
頑張れば目の前のガレ場と岩尾根は越えられる可能性があるが、実はドノコヤ沢を渡った対岸にも、かなり大きなガレ場が灰色の縦筋となって(この写真のように)目視できていて(これはおそらく地形図にも描かれている地形である)、ここよりも上流でドノコヤ沢を渡ると、対岸で、あのガレ場を横断しなければならなくなるのである。

もちろん、1メートルでも多く路盤を辿り、完全踏破を目指したい心積もりではあるのだが、全体から見ればまだまだ序盤に過ぎないドノコヤ沢の完璧を期するあまり、中盤以降の簡単に引き返せないし、再挑戦も難しいエリアで、無念の時間切れとなることを恐れた結果、対岸に進むべき路盤を既に見出していることも考慮して、ここでは無理を避け、見えている対岸路盤へのショートカットを選択することにした。



7:54 

ということで、なんだかんだ上記のガレ場に突き当たった時点から12分を逡巡に費やしてしまったが、谷底を経由した対岸へのショートカットを一決したあとは、すぐさま行動を開始した。

まずは、断念地点であるガレ場から、直前の切り通しを引き返し、谷底がこの写真のように見通せる場所へ。
ここから、左に見える樹木が多く生えている小尾根を経由すれば上手く谷底へ降りられそうだと、周到な私は一度通った時点で当りを付けていた。
この手の林鉄歩きでは常に周囲に目を光らせ、手戻りが発生したときにも素早く先へ進む手立てが素早く見いだせるよう、意識している。

(←)
うっへぇ…

これは下降の途中、たまたまドノコヤ沢の奥を見通せるアングルがあったので撮影した1枚だ。

トンデモナイ連瀑で、高度を上げまくっているのが見えた!!!

果たして、林鉄はあの連瀑の内部に突入しながら、架橋によって横断していたのだろうか。
それとも、50mほど先のこの連瀑帯よりも手前に、巨大な橋を架けて横断していたのか。
どちらにしても、険しさがありふれている早川林鉄の中でも十指に入る難所であったことは、想像に難くない。

ドノコヤ沢、ほんとうに、恐ろしい谷…。

このさらに1km以上も上流に、最盛期は数百人が寝泊まりした芦安鉱山の繁栄があったとは信じがたい。万難を排させる鉱石の魔力の凄まじさよ。




8:02 《現在地》

慎重に斜面を選んで、滑落なくドノコヤ谷底へ到達!

飛石伝いに徒渉して、左岸の人を卒業、右岸の人となる。

写真は上流方向を見ている。
下降してくるときに見えた連瀑は見えなくなったが、いま見える奥の谷の曲がりのすぐ先が連瀑地帯だ。
そこに差し掛かる前か、連瀑地帯の最中で、軌道は谷を渡っていたはずである。

両岸の路盤の高さを見る限り、手前の架橋だとすれば定義クラスの大架橋。
しかし橋はおろか、橋脚の姿も見えない。
連瀑の最中で渡っているとしたら正気の沙汰ではないが、「身の毛がよだつ処の沙汰ではない」が信条(?)である早川林鉄なら、何があっても驚くにはあたらないのだろう。

見にいってみたい気持ちは当然あったが、一度谷底へ降りてしまった以上、たとえ短い距離であっても、遡行するには、路盤を歩行するよりも遙かに時間を要するだろう。
将来的にこの辺りまでならば再訪するのも吝かではないと思ったので、ここは大人しく対岸……、いや、いま渡ったばかりのこの右岸上部の路盤へと、直登をはじめることにした。



8:12 《現在地》

10分後、先ほど遠望で見た赤ペンキの立ち木にタッチ!

ドノコヤ沢、楽には越せない予感はあったが、案の定だったな……。

完全なる踏破という無謀な野望は、早くも捨てさせられてしまった。

とはいえ、そんなものは偵察探索時点で望めないことを理解していた。

私が変な拘りを守り抜けるほど、早川は、甘いところではない。



今は背にした難所のことよりも、この右岸側の道が思いのほか優しげに見えることを、喜びたい。

ドノコヤ沢を初めて越えて、前進継続!




 長い道のりが越える、“最初の尾根”へ


8:12〜8:15 《現在地》 

険悪な支流であるドノコヤ沢を、両岸の強引な昇降劇によって強引に横断し、なんとか北岸の路盤にたどり着いた。
この北岸は、南岸に比べれば傾斜が緩やかで、単調は斜面であった。
それでも、直登には厳しい傾斜なので、足に疲労というダメージが蓄積しないよう、じっくり時間をかけてよじ登った。今日だけでなく、明日も探索に使い続ける足である。使い切るのは、まだ早い。

というわけで、南岸の路盤を離れて18分後に辿り着いたこの北岸の路盤であるが、第一印象はワルくなかった。
道幅がしっかりしていて、歩き易そうな印象を受けた。

写真は、今回は辿ることを断念した、ドノコヤ沢架橋地点側の路盤を振り返っている。
50mほど先で、対岸からも白く見えた大きく凹んだ崩壊地が、路盤を切断しているのが見える。実際に挑戦はしていないが、横断は難しそうに思えた。




路盤に登り着いた地点は林班の界であるらしく、路盤の近くにはそのことを報せる立ち木に塗られた赤ペンキや、結わかれた赤テープ、赤色の境界見出標、さらに赤ペンキで塗装された写真の標柱などが、どんなに地形が荒廃してもどれか一つは残ってくれよと託すような大雑把さで点在していた。

標柱はしっかりとしたもので、文字入りのタイルがセットされていた。
しかし、各タイルに書かれた文字は「一」「乃子(この二文字が縦に連なって一文字に見える文字)」「一」「六」という、部外者には理解の難しい内容だった。

ちなみに、この辺りは既に恩賜林と呼ばれる山梨県の県有林である。早川林鉄敷設の重要な目的が、奈良田以奥に広がる広大な恩賜県有林からの運材であった。




8:16

歩行再開1分後の模様。

これは助かる!期待以上の道の良さだ!

ドノコヤ沢の南岸は全般的に険悪で崖や崩壊地がとても多かったが、この北岸は一般的な山の斜面と思える地形で、路盤も極めて鮮明に残っていた。
稼げるところでは、しっかりペースを稼ぎたい。疲れないギリギリの早足で、ザクザクと踏み進んだ。

なお、立ち木のピンクテープも頻繁に現われていて、どこかに(私が来たものとは違う)山林関係者が出入りするルートがあるのだと思った。
それを逆に辿れれば安全なエスケープルートになるだろうから、可能なら見つけ出して進みたいところだ。

今回探索する早川左岸の山域には地形図に全く道が描かれておらず、事前に想定できた入山ルートは非常に限られているが、実際に利用可能な作業路があるのだとしたら、ぜひ把握して今後の探索に繋げていきたいのである。



8:22

何事もなく平和に5分ばかり進むと、前方から水の流れる音が近づいてきた。景色も閉じて、日陰の谷が眼前を塞いできた。

そこに待ち受けているのはドノコヤ沢の支流で、地形図に水線は描かれていないが、地形図の印象よりも大きく広い谷であるようだ。
ドノコヤの本流には手こずらされたが、今度はどうだろう。
恐る恐るという気持ちで、近づいていくと……





これはっ……!

谷に入る最後のところに、少しばかり怖い落差はあるが、何とかなりそう。

そして今さらだけど、やっぱり橋はないんだね。
残っているはずもないよな。橋台すらも、残ってはいない様子。




8:27 《現在地》

慎重に岩場をへつって、渡るべき谷へ降りた。

写真は徒渉地点から上流を見ている。
ドノコヤ本流と比べれば優しげな谷だが、上流に鉱山があったりはしない分、こちらの方が人跡未踏かもしれない。
徒渉地点の海抜は約1000mあり、全国の林鉄としては比較的稀な高度領域に、早くも突入していく。(ちなみに明日目指す予定の終点、海抜1500mを越える)




対岸はごくごく狭い、その辺の集落の公民館くらいの広さのスギ植林地があって、その林床に苔生した橋台が辛うじて原形を留めていた。
風化しすぎていて、ただの石垣のようだが、位置的に橋台だったと思う。
これを起点に、路盤が再開している。




8:30

橋台上に立って、渡った谷を振り返る。

これまでの道行きから見れば、平易な谷だった。
ドノコヤ沢で怖じ気づいた心を、いくらかは癒してくれた気がする。
今日の行程では、このあとも何度か谷を横断することになるはずだが、全ての谷がドノコヤの難しさだったら、嫌になる。
こういう優しい谷もあるのだと教えてくれたのは、精神衛生上に宜しかった。



8:35

支流の谷を越えた先も、路盤の状況は悪くなかった。
間もなくドノコヤ沢を出て、再び早川本流を遡るようになる。
既にその広がりが、明るい景色の中に感じられるようになってきた。

なお、特になんの目印もないとこだが、ちょうどこの写真の辺りが、早川町と南アルプス市(旧芦安村)の境である。
この先の軌道跡は全て南アルプス市内であるが、同市内のうち、早川流域の定住者人口はゼロであり、集落などは存在しない。
また、この先しばらくは早川が南アルプス市と早川町の境になっており、県道がある右岸は引続き早川町である。軌道跡だけ、一足先に、市民となる。

チェンジ後の画像は、法面の拡大写真。
燃え上がる炎のような怪しい模様というか、層理が刻まれている。
これは地表に露出した断層で、地層が超強圧でねじ切られた破砕帯なのだろう。




ブオーーーーォオオン!!!

……場違いなエキゾーストノートを峡に響かせたのは、工事関係者が運転しているとみられる、谷底の県道を行く車列だった。
私があの道の入口である、一般車の立ち入りを制限している開運ゲートを越えて3時間45分、あの道を離れて3時間26分後に耳と目にした、おそらく今日初めての通行車輌である。

まさか対岸から、カモシカではなく、人間が見ているとは、ドライバーも思っていないだろうな。
ふふふ……。見ているぞ……。

なお、対岸の県道も谷底より50m前後は高い所を通っているのだが、私がいる場所は谷底より100m以上高い。
だからこれだけ見下ろす感じになっている。




8:40 《現在地》

“尾根A”到達!

奈良田橋から軌道延長推定4.0km地点、仮称“尾根A”に到達した!

この探索のために、地形図にはほとんど地名らしい地名がない、
ドノコヤ沢から夜叉神隧道の間で軌道跡が横断する主だった尾根に、
「尾根A〜F」の仮称を付けて説明に使うことにしたのだが、
このうち最初の尾根に辿り着いた。

浅いけれども、風通しが良い、とても爽快な切り通しが残っていた。
橋頭堡を確保したような満足感の中で眺めると、ますます気持ち良いね!



切り通しの出口に立つと、次の“尾根B”がよく見えた。

見ての通り遠くはなく、おそらく700mくらい歩けば辿り着ける。
路盤そのものは見えないが、相変わらず水平に近いラインで続いていると思う。
見る限り、地表は木々に覆われていて、破けてしまっている場所はない。

この区間は、すんなり行けると良いな。

前進継続!



8:42

“尾根A”を過ぎた直後の路盤風景。
依然として、快調そのもの!
既に早川本流沿いに復帰しているが、単調な斜面に右山左谷の道が直線的に延びている状況で、歩き易い。

偵察探索で歩いたのも早川沿いであったが、崩壊に次ぐ崩壊で、歩ける区間は断続的だった。
それに比べれば、遙かに状況が良い。
この違いの原因として最も考えられるのは、軌道が徐々に高度を上げ、谷底から離れたからではないかと思う。
一般的に、川の浸食が地形荒廃の最大の原因であり、軌道跡は早川という浸食の核心から距離を置きつつあることで、荒廃に歯止めが掛っているのではないだろうか。

もしこの仮定が正しければ、この先の状況にも期待が持てる。
この調子で展開すれば、想定よりは幾分楽に目的を達成できるのではないだろうか。
まだまだ距離が長いので油断するには早すぎるが…、光明は差してきたぞ!




8:45

ん?

(まさか、フラグを踏んじまったんじゃ…?)




不気味だ。

谷などありそうにもない場所で、なぜか、路盤が切断されている。

遠目には、路盤を含む地表の断絶があるということだけが見え、深さが分からなかったが、


近寄って見ると…………





8:47 《現在地》

えええぇーー!!!

なぜ平穏だった区間で、唐突に、これがお出しされるの……?

何が起きたんだよ。早川林鉄……。




なんたる断絶…。

やっぱり、破砕帯のところがごっそり落ちたとかなんだろうな…。

きっつい…。




眼前の崖は、100m以上に下方の早川谷底から見えない上部まで果てしなく伸びており、高巻きは不可能。

かといって、早川谷底まで迂回するのは最後の手段過ぎる。それをしたら1時間はロスるだろう。

ん?



まさか……

あれが私に与えられた 突破ルート か?!

少なくとも、ケモノたちはあれを使っているのだろう。明確に踏み跡感がある。

あとは、人間という二足歩行動物にも再現可能なルートであるかどうか。



……考えろ、ヨッキ!


ここには、いのちが、かかってくるぞ。







(本日最終目的地)
夜叉神隧道西口直下まで(推定).3 km

(明日最終目的地)
軌道終点深沢の尾根まで(推定)13.7 km