大間線〈未成線〉   総最終回

公開日 2006.07.14
周辺地図

 大間線の工事はその第一期工事として、大湊線から分岐する下北より大畑までの18kmを昭和14年に竣功し、大畑線として開業している。
続いて第二期工事は大畑から風間浦村の桑畑までの約15kmとされ、昭和13年に着工、昭和18年の完成を目指していた。
戦時中にもかかわらず軍部の主導で工事が滞りなく続けられているように思われたが、昭和17年頃になると突然工事規模が縮小され始め、完成予定だった翌18年の2月には、工事の中止が決定された。
第二期工事区間については、その殆どの路盤が既に完成していたといわれる。

 工事の中止の直接の原因は、国の鉄道整備の優先順位が戦争の激化と共に揺れ、大間線の相対的なそれが下がっていった事にあるが、既に物資と労働力の疲弊はどの現場でも限界に達しており、昼も夜もない労働にかり出されていたのは、タコ部屋と呼ばれる閉鎖的労働環境に置かれた、労働者達であった。

 大間線跡の探索も、いよいよ最終局面を迎える。
津軽海峡に出っ張った焼山崎の懸崖を貫く焼山隧道に、未曾有の危険が潜んでいた。
一度は塞がれたが、様々な思惑によって再びその口を開いた、伝説の隧道。
その深部で、私がみたものとは……。




 焼山隧道 内部


 焼山隧道の大間方の坑口は土砂の下になっておりその姿を見ることさえ出来なかったが、大畑側は一度はコンクリートの壁で塞いだと思われるものの、その壁が崩壊しているため内部への侵入を可能なものとしていた。
しかし、何者かが置き去りにしていった一本のロープは、体重を支えるにはあまりに不安なほど痩せ細っており、これだけに頼って入洞することは危険と判断。
私が準備してあったロープの、初登場と相成った。
このロープは、数ヶ月前から常備していたものの、使用するのは今回が初めてであった。



 これまでにない特殊な入洞を前に、我々を緊張感が包んだ。
細田氏は、自主的に坑口へ残り、私をサポートすると宣言してくれた。誰だって隧道内部を見たいだろうに、その献身的な申し出に私は感激を覚えた。
そして、そのことが後々、大変大きな意味を持つことに、まだ私は気付いていなかった。

 こうして、二日間の探索で初めて2人は離れる事になった。
私は、自分の用意したロープに体重を任せると、腕の力でゆっくりと洞床の水溜まりへと下りていった。
しかし、緊張のせいか体がこわばり、目測を誤って少し早めに手を放してしまった私は、大きな水音を立ててプールに転落した。
幸い両足と尻を濡らしただけで済んだが、さい先の悪いスタートとなった。


 中に下りてみて壁を振り返ると、その立ちはだかるような圧迫感に胸が苦しくなった。
良かった。
ちゃんとロープを準備してきて、ほんと良かった。
ロープ無しで侵入していた場合、この段階でもう
自力脱出不可能
である。
大袈裟でなく、垂直の壁に足掛かりはなく、しかも壁の下の地面がお椀状に凹んだ沼地となっており、跳躍は不可能。
本当に出られなくなってのたれ死ぬ可能性極めて高しである。ちなみにケータイ(au)の電波は届かないようだった。


 坑口付近には、硬い土砂が山盛りになっている。(写真左)
セメントが含まれているのか、乾ききっていて植物も生えていない。
この小山の前後は、プールとなっている。

 行き止まりが確定している隧道の奥へと、進行を開始する。



 坑口を離れるとすぐに水没が始まり、その水深は太ももの高さより少し深いくらいである。
底に溜まった泥は、初めのうちは深く足を引っ張るが、少し進むと浅くなっていく。
水深もやがて浅くはなっていくのだが、その変化のペースは緩やかで、最初のうちは気がつかなかった。

 洞床には、一列のU字溝が埋め込まれており、これは木野部で見た隧道と同じ構造である。
その他、内壁の状況なども、取りたてて荒れていることもなく、漏水も僅かで、綺麗なコンクリートの壁が水面の上に続いている。



 隧道は坑口から50mほど進むと、緩やかに右へとカーブしている。
私の背中を照らすように、坑口から細田氏が100万カンデラを照射してくれていたが、その恩恵も間もなく受けられなくなる。
私が歩くと水音が反響してしまい、細田氏との会話が難しい。洞外で待つ彼のために、私はこまめに立ち止まり状況を報告することを怠らなかった。
それは、自身の不安感を軽減し、外部との繋がりを持ち続けるという策でもあった。
この隧道は、坑口の高い壁の存在が、洞内探索者へ重くのし掛かる。
正直、たとえ十分な装備を持っていたとしても、一人では入りたくない。



 少しずつ水深の浅くなることを感じながら、能面のような壁に囲まれた隧道を歩いていくと、壁に数字がペイントされているのを見つけた。
「38」とある。
考えられるのは、やはり距離だが、はたして。
疑問に思いながらさらに進んでいくと……。



 今度は「32」が現れた。
もう、だいぶ水は引いてきている。
どうやら、この数字は出口までの距離を示しているようだ。
先ほどの「38」からここまでは60mほどあったと思う。
これが、いまから70年近くも前に、工事関係者によって描かれたものなのかは知る術がない。
ちなみに、焼山隧道の全長は443mと記録されている。



 ここまで何箇所か待避坑もあったが、何度目かに現れたこの穴は、まるで爛れたように壁が崩れ始めている。
この壁にだけ、一体何が起きているのだろう。
オカルトだが、強制労働の話題に事欠かぬ隧道だけに、この壁に何かあるのでは……などと、珍しく不安な気持ちになる。



 振り返ると、カーブの向こうの入口の光が壁にうっすら反射しているのみ。
すでに細田氏も、カーブに消えた私を見てとライトを照射するのを止めているようだ。辺りは真っ暗闇。
ただ、まるでチューブのような隧道だけあって、声の通りは良く、坑口から200mくらいは離れているにもかかわらず、まだ大声を出せば届いた。



 壁のペイントは、「38」に気がついて以来は、だいたい20m刻みに2ずつ減算されてペイントがあった。
写真は、ほぼ隧道の中間地点となる、出口から260mと思われる地点。
水位はもう10cmを切っており、歩くペースは各段に速くなっている。
この「26」ペイントを境に、内壁が5cmほど厚くなっているようで、壁に段差が出来ている。


 なぜか、洞床のU字溝の蓋の一部が取り外されていた。
一帯何に使ったのか。
或いは、自然現象なのか。
 それに、いよいよ陸が現れそうだ。



 行き止まりが近付いている。
それを物語るように水蒸気が立ち籠めはじめ、フラッシュを焚いて撮影することが困難になってくる。
 また、そろそろ細田氏との意思の疎通が困難になってきた。



 坑口から約300m。
闇の深淵に現れた陸地。
地中に封ぜられた陸である。
水位の増減が多少はあるのだろう。
水際の地面は水で洗われたような縦縞が鮮明で、水中で析出した成分が白い結晶状に覆っていた。

 単独入洞から11分を経過。
隧道内部に残された空間は、もう200mを切っている筈だ。
果たして、何か発見があるだろうか。
期待と不安を胸に、沈黙の闇に歩みを進める。



 焼山隧道  最深部  


 上陸してさらに歩くと、洞床には夥しい量の枯葉が散乱していた。
そのどれもが一様に黒く腐っており、至る所に白粉のようなカビが発生している。
10年ほど前まで大間方の坑口が塞がれていなかったことは、『鉄道廃線跡を歩く(V)』の写真からも明らかで、その当時に風と共に舞い込んだものに違いない。
幸い臭いはないが、一面のカビの園を踏み分けるのは、決して気分のいいものではない。
まさしく、人の訪れるべきでない場所へ来てしまったという感じがする。

 巨大な系統樹のように末広がりに成長したカビの輪。
人知れず王国を築いているかのようなカビたちの楽園であった。
そんな中、人の痕跡を発見した。



 洞床の一角に小さくたき火をしたような跡がある。
おいおい、隧道内でたき火は御法度だろ…と思いつつも、焼け残ったような残骸に目が行ってしまう。
周囲には無数に足跡が残されているが、水際にそれがないところを見ても、いまは塞がれている大間方口から来た足跡と見て間違いないだろう。
ちなみに、いちばん目立つ白い物体は、ありがちなエロDVDのパッケージではなく、ただの発泡スチロールである。
私が気になったのは……。



 ハングル! まじ?

 その瞬間私の中に、今でも地元でタブーのようにして囁かれ続けている、大陸から動員された大勢の労働者達の存在をイメージした。
それはもう、反射的なものであるが無理からぬ事でもある。
だって、間違いなくそこにはハングル語で書かれた新聞が、半ば焼け残ったような無惨な姿で発見されたのである。
果たして、これは何を意味しているのか! ただの悪い冗談なのか。

 私は、咄嗟にこれをポシェットに仕舞い込んだ。
明るいところで、ちゃんと見たいと思ったのだ。



 驚きで胸をバクバクさせながらも、外で一人待つ細田氏を思い出し、なお先へと進む。
壁のペイントは「10」になり、いよいよ残りは100mなのか。
そのすぐ傍には、なにやら数式やら表のようなものがチョークで描かれていた。
その書かれた年代を推定するようなヒントを探したが、そもそも書かれている意味も分からず、断念した。



 前回の訪問者の年代を探る上で重要な発見があった。
最近ではめっぽう見ることの無くなった300mlの瓶ジュースである。
こういうものも一時期流行っていたように思えるが、それはいつ頃だっただろうか。
商品名はダイドーの『アンビーネ』。
ネットで調べると、このタイプの瓶ジュースが流行ったの昭和58年頃だという記述を見つけはしたが、このジュース自体の販売期間は不明であった。



 今度は、足元にいくつかの煉瓦が散乱しているのを見つけた。
これもまた、ミスマッチな発見である。
どう見ても、この隧道には煉瓦は似つかわしくない。
しかも中途半端に十数個くらい。
よく見ると、側面には「SK34」と刻印があり、これはJIS規格に則った耐火性煉瓦である。
すなわち、過剰に古いものではない。ほぼ、持ち込みだ……。



 壁のペイントの数字は、最後まで20m刻みで減算されていったが、「2」を過ぎたところで、洞床に流れたような砂の山が堆積しはじめ、さらに10mほど進むと、遂に行く手を砂と土砂の山が完全に遮った。
天井を見ると、綺麗な半弧に縁取られており、ここが元からの坑口であることは間違いないだろう。
焼山隧道の、塞がれた大間方坑口の裏側に、たどり着いた。

 ハングルの新聞の切れ端を携え、撤収を開始する。
ここまで、入洞からおおよそ17分を経過していた。
閉塞壁間際の天井に、たった一匹だけ、痩せ細ったコウモリが身じろぎもせずぶら下がっていたのが、印象的だった。




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 誤  算  


 背中に物言わぬ土壁。
前には光を通さぬ漆黒の闇。
手持ちのライトでその闇を切り開くようにして戻っていくと、やがて私の呼び声に呼応するようにして再び坑口から照らされた100万カンデラの明るい光が見えてきた。
ホッとする瞬間だ。一人ならこんな事もないのだから。



 大きな水音を立てながら出口を目指し足早に進む。
近付いてきた壁は、踏み込んだとき以上に高く思えた。
その壁の上には、細田氏がまるで少女のように足をこちらに投げ出して揺らしている。
しかし、その上体は当然少女のそれではなく、滑稽に思えた。



 さあ、出るぞ。
まずは、自分が用意した、入るときにも使った真新しいロープに足と手を掛け登ろうとした。
しかし、私は手間取った。
登れないぞこれ……。

 ひとえに、私の体重が一年前のそれでないこと、元々脚力に比べ腕力はからっきしなことなどが原因だが、その腕の力だけではつるっとしたロープをよじ登れなかった。
壁に足がかかればよいと思ったが、壁は苔で滑っていてそれは不可能。
3回くらい滑り落ち、指先にしびれるような痛みを感じる頃には、最初は冗談っぽく笑っていた私の笑顔も引きつったようになり、「おいおい…」という感じになってきた。
 心底、2人で一緒に入らなかったことに安堵した。もし2人ともこちら側だったとしたら…… 考えただけでも恐ろしい。

 結局、細田氏がロープの一端を腰に巻き、私を牽引する形になり、私もその助力を受けてなんとかロープをよじ登り事なきを得た。

 山行がとして、これまで無数の廃隧道へ侵入してきたが、このような脱出困難な局面に陥ったのは、2度目である。
改めて、自身の腕力の無さを恥ずかしく思うと共に、細田氏の先見の明に感謝したのである。

<教訓>
 脱出困難の可能性のある廃隧道は、
 必ず外にヘルパー役を置いて探索する。





 そんなこんなで散々坑口付近で暴れたので、ポシェットの中の新聞の切れ端は、さらにボロボロになってしまっていた。
だが、その発行年だけでも確認できないか。
我々は目を皿のようにして、欄外に注目した。





   し〜〜〜〜〜〜〜〜ん。


 実は、こんな話が、この焼山隧道にはある。
戦後しばらくしてから、ここで映画の撮影が行われたというのだ。
その映画の内容は、朝鮮人労働者に関するものだったと言うことも分かっている。
ちなみにそのときには、既に塞がれていた隧道を再び掘り起こして使ったという。(鉄道廃線跡を歩く(V)より)

 あのたくさんの足跡も、煉瓦も、この新聞紙も、撮影の小道具の残骸だったのね…。
不自然にコンクリートの閉塞壁が半分だけ崩れたようになっているこの大畑方坑口についても、細田氏の推理は鋭い。
撮影のために中にはいるだけならば大間方を解放するだけで十分だが、実際に撮影を行うには、風が通っていないと難しいだろう。そのためにこの大畑方の坑口にも風が通るように穴を通し、現在の姿になっているのではないかというのだ。

 なるほど。ありうると思う。


 着替えて車に乗り込んでからもしばらく私の興奮は冷めなかった。
全身泥まみれになりながら、自分が隧道内に取り残されるような悪夢を体験してしまったのだ。
やはり、廃隧道は危険な場所に違いはない。
油断は、禁物であった。



 最果ての橋台跡 


 大間線の工事が実際に着工されたといわれる区間は、いよいよこの桑畑で最後となる。
焼山隧道と桑畑地区までの間は、荒涼とした海岸線をに国道と築堤が寄り添って真っ直ぐ続いており、築堤の所々には暗渠も残っている。
 桑畑地区では、「釜ノ沢」と「ニタ川沢」の2つの小河川が海に注いでおり、この付近に駅が設置される予定であったとされる。
実際の集落はニタ川沢の左岸(より大間寄り)に連なっている。

 大間線を取り扱った数多くの書籍、またはネット上の従来の情報でも良く取り上げられているのが、この駅予定地付近にあったという「ニタ川沢橋梁の橋台跡」である。
当然我々としてもこの物件を確認した上で大間線探索にけりを付けたいと考えていた。

 だが…… そこには予想外の展開が待ち受けていたのだ。
大間線レポ、最終シーンである。



 これが、おそらく廃線ファンの間ではお馴染みの景色となる、「大間線最果ての遺構」である。
つまり、ニタ川沢橋梁の橋台跡。
駅はこの奥の(大畑方)の平場に設置される予定だったといわれている。

 …のはずなのだが…



 これ、明らかに釜ノ沢ですよ。
現地の標識も、平行する国道の橋の河川名も、地形図上で見ても、従来(なぜか)ニタ川沢橋梁として紹介されてきた橋台跡は、間違いなく釜ノ沢にある。
某著のバイブル的な権威が幾多の誤植を生み続けてきたのか、私がそもそも何かを間違っているのか…。



 で、従来最果てとされていたニタ川沢はこちら。
釜ノ沢よりも100mほど大間寄りに流れている。
しかし、ここはご覧のように河川改修が進んでおり、両岸共に橋台と断定できる残存物はない。



 それでも、ニタ川沢の左岸の山肌には、辛うじて石垣の一部分が覗いており、ここにもかつて鉄道敷きが建設されただろう事を想像させてはくれる。

 いずれにしても、大間線最果ての遺構と断定できる橋台は、従来の常識よりも100mほど大畑寄りに「後退」してしまった。


 のかと思いきや、まだ話は終わらなかった。

  衝撃の発見は、このあとすぐ!



 夢の着地点 


 ニタ川沢橋梁で疑問を覚える数分前、我々はそれよりも300mほど大間寄りの国道脇に、このバス停を発見していた。
国道の山側に設置された桑畑のバス停である。
バス停の隣に建つ、鳥居を隠すような覆いがなんとなく気になった我々は、車をそばに停めて、この灯りの点灯する場所へと近付いてみた。



 それは案の定、国道を挟んで反対側にある海沿いの桑畑集落とバス停とを繋ぐ、国道の地下をくぐる地下道であった。
また、山側に急な階段で続く神社への参道も兼ねているようだった。
なんとなく、前日に見た下風呂の地下通路(あれは駅の通路として建設されたものであった)を思い出し、それとは出自の異なる通路には思えたが、入ってみた。



 アーチだよおい!

 これって、もしかしてもしかするんじゃないの?!

 我々は、早朝の通る人もない地下道で色めき立った。
そこにあったのは、途中までは四角の断面だが、集落側半分はアーチ型となった地下通路であった。



 それは、これまで丸一日余り見続けてきた大間線のアーチ構造物の特徴をそのまま有した、紛れもなく大間線の残存遺構と断定できる光景であった。
現在の国道は、桑畑集落を山側に迂回する築堤をそのまま利用し、これを山側に拡幅して使っているに違いない。
従来いわれていたニタ川沢の橋台よりも300mほど終点に近い位置である。
つまり、第二工区の終点とされた桑畑駅よりもさらに終点寄りまで工事が進められていたことを意味するのだ。

 ほぼ確信に近いものはあったが、近くを歩いていた年配の方に伺ってみると、呆気なく「鉄道跡だ」と言うではないか。
決まった!



 そういう目で見ると、例えばこの桑畑集落の入口。
背にしているのはニタ川沢の国道橋であるが、右の旧道と左の現道との関係は、下風呂や木野部でも度々見た、鉄道跡を国道に転用したときのパターン的光景そのものである。
もっと最初から疑って掛かっても良いと思われるほどだ。



 さらに想像以上に鉄道工事跡と思われる遺構は大間方へと続いていた。
桑畑集落内の現国道の路肩の石垣は、全て当時のものではないだろうか。
途中にはボックスカルバートが埋め込まれている箇所もあり、この年代は不明だが、おそらくそれを含め、大間線の残存遺構だろう。



 桑畑駅跡と言われる釜ノ沢からは約700mの地点であった。
遂に全ての大間線遺構は途絶えた。
この次の易国間(いこくま)の集落まで今しばらく、海と山の折り合わせた隙間を縫って国道は走るが、その沿線に大間線を感じさせる遺構はなかった。
以後、同様である。

 なお、この桑畑でお話を伺った住人の一人は、この写真の場所に工事関係者の飯場が建っていたと証言した。
そこは俗に言うタコ部屋の現場であり、ある時死の者狂いで逃げ出してきた若者を、村人数人で協力し夜に乗じて小舟で沖へ逃がした事もあったという。



 大間線が半世紀以上ものあいだ目指し続け、遂に夢果てた大間まで、あと15kmの地である。
道中最大の難所、木野部峠を攻略しておきながらの、無念の工事中止であった。

 いまでは国道がその代役を務め続けている。
大間線の遺したものを、ときおり足元に踏みしめながら。