廃線レポート 真室川森林鉄道 高坂ダム周辺区間 第4回

公開日 2015.12.20
探索日 2013.06.09
所在地 山形県真室川町

古写真の復刻的一人称、および三人称視点 


“写真の中の世界へ、ようこそ。”

今の私は、写真右端に写る“世界の端”である隧道の口に立つ。
隧道から外へ出て、眩しさに目をしばたたかせる間もなく、刹那の警笛に戦慄。
ほんの10mほど先のレール上に、機関車がこちらを向いている状況を視認。走ってくる?!
体が固まり瞬時に動けない。慌てて振り返り逃げようとするが、そこは逃げ場のない狭い隧道がッ!
機関車の速度はだいぶゆっくりだが、6両の台車に満載された木材の重量は、下り坂での停止を許さない。止まりきれない。悲惨なる人身の喪失、ぐ、グモッ…。

…なんてことが、今から半世紀くらい前には起きていたかも知れない場面だ。
今回の探索のきっかけとなった写真の世界へ辿り着いた。
探索の目的も、これでほぼ達成!万感満ちる。
林鉄の写真は色々と残っているが、写っている風景がどこなのかは分からないことも多い。
だが、運材列車8両編成が綺麗に収まっていた、絶壁と隧道と片洞門の割拠する路盤は、【ここ】にあったのだ!
半世紀ぶりの現状踏査。 いざ、決着を!



隧道を抜けると、そこは絶壁だった。

今回は古写真という前置きがあったので、崖があること自体に驚きは無かったはずなのだが、それでも隧道から出た瞬間この崖が目前にあるというのは、卑怯だ。

この規模の断崖を空間として体の隣に置いた恐ろしさは、写真で眺めるのとは比較にならなかった。
2Dと3Dの情報量の差はもちろんあるが、なによりこちらは自分の生き死と直接に関わっているのだから、主観としてのめり込まざるを得ない。

外へ出るなり、首が斜め上方45度の方向に固定された。
斜め上方45度の方向に見えた岩盤の“凄み”が、しばし私の目を奪ったのだ。
しゅんでぇ(凄い)の言葉も出ていなかった気がする。

あの一番高い所は、見上げた高さだけでも80mくらいある気がする。真の高さは河床と路盤の比高を加える必要がある。
手前の黒く膨らんだ岩場でも、実は相当高いのだ。この後でそこを見上げた写真があるので分かると思うが…。

しかも、この奥の岩場は、単に高いだけでは無い。
何だあの厳めしい造形。洒落にならないほどオーバーハングしている。人類には早すぎる絶壁。
これは溶岩か。溶岩なのか? ここは鳥海山という東北有数の大火山からそう遠くない。先ほどから節理が発達した岩盤を隧道で潜り抜けてきたが、その根本というか親玉というか、最も顕著に露出した部分がこれなのだ。地中で固まったマグマの塊が、長い年月の鮭川による浸食によって地上に露出したものだろうか。
おそらくどこかの学者が研究し解明し論文に述べている程度には顕著な大露頭だと思うが、残念ながら私はそれを知らない。
またそれ以上に興味深いのが、林鉄をここに敷いた人たちや、それ以前よりこの渓流に暮らしの根を張っていた地域の人々が、この岩をなんと呼んでいたのかということだった。幾らか調べてみたのだが、これも分からず仕舞いである。




8:08 《現在地》

あの運材列車が写っていた場所は、今、こうなっていた。

予想していた以上に緑が深い。草だけでなく、木も根付いていたのは意外だった。
やはり半世紀というたった3文字の言葉も、現実には長い時間であることを感じさせる。
また、緑は豊富だが、かといって地面が豊富にあるのかといえば、そんなことは無い。

まず、隧道を出てすぐの足元が、かなり怖い危機的な状況だ。
倒木の向こうに土が見えているが、そこは崩土が積み重なった急斜面で、下はそのまま川に落ちている。
ここを横断するには、右端の狭い草付きを踏むのがいいと思うが、大量の草が進路を遮っている。
また膨らんだ崖が体をはね返そうともしてくる。殺しに来る嫌な雰囲気だ。

最初の数歩が、いきなりの正念場だった。
次の動画も、その恐ろしさの一端を物語っていると思う。






崖と藪の複合した危険に汗が冷えるのを感じた私だが、その向こうに見える光景は、我々を歓迎してくれる雰囲気があった。

ここまで地図の上ではかなり迫りながらも、一向に廃なるものしか谷には見せなかった高坂ダムが、ようやくその現役施設たる明るい気配を見せたのだ。
塗色も白く鮮やかな鉄のアーチ橋と、まだ新しいコンクリートで凝り固められた巨大な法面。そこにあるのはダムへ通じる道路に違いない。
高坂ダム自体訪れたことが無かったので、この橋も初めて見るもの。

そしてあの橋の上こそ、今年の春に情報提供者の酒井氏が関係者の許可を得て立ち入り、古写真の現場を半世紀ぶりに“発見”した場所だろう。
これから我々もあの橋を目指し、そしてあの橋を渡って生還しようとしている。我々にとっても無くてはならない道である。

問題は、あそこまでどうやって無事辿り着くか。
今、路盤にいる私とHAMAMI氏は、これをどう辿りきれるか。
また谷底にいる中村氏の場合は、どうやって橋までよじ登るかが、課題になるだろう。 とりあえず、互いに橋まで行くことが当面の目標だった。



隧道前の危険箇所を振り返る。
植物のため地形はよく見えないが、よく見えない状況で、目よりも足を頼りに危険箇所を超える怖さを感じて欲しい。
こういうのが藪の濃い時期の嫌な所である。

5号隧道の北口は崩土に下の方を埋められているので、やや高さが足りなく見える。
そして崩土や倒木をもたらしたのは、左に続いている沢、というかほとんど滝というべきか細い谷だ。
その小谷を見上げて撮影したのが、右の写真である。

もちろん、この小谷は古写真にも写っていて、草一本生えていない地獄谷の様相に見えたのだが、今日は険しいなりにもそれなりに緑があった。
撮影された季節が違うのか、単に白黒とカラーの印象の違いか。



その小谷を見上げた姿勢のまま、首とカメラを左の方向、すなわち自分の居る場所の真上に向けて撮影したのが、右の写真である。

発達した柱状節理がボコボコと表面に現れている黒ずんだ岩盤が、林鉄の路盤の建築限界(車両が通行するために必要とされる定められたスペースのこと。林鉄の建築限界は林野庁が定めていた)の上限よりも遙か上で、路盤の全幅を覆うくらいまで大きく張り出している。
こういうのも片洞門ではあるのだが、どこまでが人が手を加えたものなのかは、定かで無い。流石にこの岩場の上まで削ったわけでは無いだろう。

左の写真は、この大きく張り出した岩盤を進行方向を向いて撮影した。
先ほど坑口に立って絶壁を見上げたときに、「手前の黒く膨らんだ岩場でも、実は相当高いのだ」と書いたのは、この岩盤。路盤から15mはそそり立っている。河床から数えたら25mはある巨巌だ。較べれば、背後に見える絶壁の霞むような高さが分かるだろう…!




嫌だな−…怖いなー…

このクソ藪、足元に地面がちゃんとあるのか見えないぜ。
慎重に行動しないと、草の下に地面が無くてズボッ、ひゅー、グシャ。ってな事もありうる。
安全を第一に考えれば、丁寧にナタで刈払いながら進むべきかもしれないが、距離が結構あるし…。 個人的に刈払いはあまり好きでなく、遺構を発見するための最小限度にしたいというのもある。

そうそう、そしてやっと見えてきた。恐らく最後となる3本目の隧道が。あと30mくらい。
そう考えると、今居る場所がまさに古写真の中で機関車が停まっていたあたりなのだ。ここから6両の運材台車と1両の客車が仲良く並んでいた。
…その面影は、ない。

また谷底には、崖を横断する我々の“晴れ舞台”を、カメラを構えて見守っている現場監督の中村氏の姿が小さく見えた。
気付けば随分と谷底との落差が増えていて、今となっては単純に水面を見下ろすだけでも怖ろしい。




(現場監督の中村氏撮影→→)

すげー!!!

なんか自分の探索している風景に対し、そんなコメントをするのは白々しいような気恥ずかしさもあるが、“探索者が写っている廃道の遠望写真”には、やはり特筆すべき説得力や迫力がある。

具体的には、地形に対する道の小ささ、そしてそこを通るしかない人間のさらなる圧倒的なちっぽけさといったこと。
あるいは、廃道を探索するという行為の端から見たときの意味不明さや滑稽さ。
またあるいは、神の視座に立つ優越感。

実は、私は結局谷底からの撮影はしていないので、この中村氏が見た光景を羨ましく思う。
このアングルは、路盤踏破だけに没頭していた私は見る事も、また伝える事も出来なかった、この林鉄の魅力を如実に伝えている。
(←←私が見た光景はこんなの…苦笑)
私もこの写真を後で見せて貰って、改めてこの林鉄への愛情を深めた。

しかしそれにしても、最初にここにこの路盤を建設しようと思った人物の冒険心には称賛を送りたい。
全部隧道にするとコストも工期もかかるが、桟橋では雪崩や落石が怖ろしいし、絶対に長持ちしない。
そう考えて、岩盤をコの字に掘り込んで片洞門にしたのだろう。
その際は、頭上にどれだけ高い岩場があるかとか、そんなことには拘泥せず、この堅さならばやれると自信を持って設計したのに違いない。漢(おとこ)である。




8:14 《現在地》

慎重に6分ほどかけて激藪激壁の50mを踏破。
ようやく一安心というか、一旦は息抜き出来そうな隧道に到達した。
仮称、第6号隧道である。

今度の隧道は過去の2本より短く、おそらく20mくらいしかない。
この下流側坑口は風化した表土が少し崩れていてシルエットが歪だが、内部は少し水が溜まっているくらいで崩壊も無く、頑丈な岩盤を刳り抜いた隧道である。
短い上に直線なので、通過はほんの一息。
まさに、一息入れるための隧道と思えた。

だが問題は、隧道の向こう側である。相変わらず、出口には妙に“明るい”不穏な空気が見て取れる。
万が一、ここまで来て踏破不能な地点が現れたら、手戻りは最悪レベル。
それが怖くて、のんびりする気にもなれず、さっさと通過した。




そして最後の隧道から抜け出た私の姿を、

中村氏のカメラが先回りで捉えていた!!

↓↓



(↑現場監督の中村氏撮影↑)

マジで、すっごい場所ですわ……。

もしここが比較的簡単にアクセス出来る場所だったなら、一端の観光地として、
今頃は評価もされていたのではないだろうか。全くの無名にしておくには惜しい風光だ。
まあ、そういうガツガツしていない所も、東北の深山にある美点だと思うけれど。

それに、ただの美景では終わっていない。林鉄の路盤跡が、完璧なる絶壁に堂々とした瑕(きず)をつけて横断している。
貴重な自然景観の破壊の一つには違いないかも知れないが、これは人智と恪勤の証明として君臨しているのだ。
もっと多くの人々にむけて、地元が誇っていい宝だと思う。




崖をゆく私の足は、ここで一旦止まった。

そのとき、私の見た風景は――

↓↓

こちらはこちらで、劇的な路盤状況の変化に震えていたのだ。

あの激藪が、短い隧道を抜けた途端に完全に消滅し、

本来の形にかなり近いだろう路盤が、足元に残っていた。


ただし、

この先……



狭い。



でも、いける。 大 丈 ブイ!


お誂え向きに、まだ新しいロープが張ってあるのがありがたい。
無くてもいけるが、無かったら心の葛藤はもう少し激しいものになっていた。
早くも橋の上に移動していた(早いな!)中村氏に見守られながら、間もなく横断開始する。

なお、このロープを設置したのは、おそらくダムの関係者だ。
ここは普段はダム関係者くらいしか訪れないはずの場所だし、
ちょうどこのすぐ下にダムの排水路が口を開けているので、
その周囲の刈払いは保守業務の範囲と見られる。
路肩側の壁面がコンクリートで固めてあるのもそうだろう。



ホッとしたー。

これにて、踏破目標の達成が、ほぼ確約された。

あと20mほど、ロープの張ってある片洞門路盤の狭くなった所を抜ければ、クリアだ!

いくらかリラックスして、
(←)来た道を振り返って、
頭の上の一番高い崖を見上げて(→)

この現場を堪能した。



そして最後となるこの岩場。

ここも堪能する。

というのも、この探索の最後となるこの残り20mは、真室川林鉄全体で見ても、現時点で把握している最奥の遺構となっている。
この先は見ての通りで、ダム関連の橋や道路の護岸などで完全に路盤は消失。
そのまま、もう200mばかりで巨大なコンクリートダムの壁に遮蔽され、その向こう側は深い深い湖底である。
そして想定される終点辺りまで、湖面は続いてしまっている。

果たして、ダムが建設される以前には、この先にどんな景観があったのか。
地形的には相変わらず険しかったようだから、隧道もこの3本きりでは無かったのかもしれない。
あるいは、高坂ダムの工事誌のようなものが編纂されていれば、ダム建設前の風景を確認出来るかと期待したが、このダムは広大な湛水域を持つ割に立ち退きを余儀なくされる住民が一人も無かった(いうまでも無く山奥過ぎて村落が無かった)というほどだから、補償の関係者も必然的に少なく、事業主体の山形県も工事誌を編纂しなかったようである(非公刊品でも存在しているなら見てみたいものだ)。



最後の分かり易い難関(主に精神面の揺さぶり)を、慎重な足どりで踏破する。

こういう形ではあっても、一応林鉄の路盤跡が通路として活用されているのは嬉しい。
しかしその一方、前半の2本の隧道周辺は緑に没し、ここからだと全く路盤が見えない状況だ。
これらの優れた明瞭な林鉄遺構が、ダム関係者という口の堅い人々以外にはどれだけ無名であったのか。オブローダーの不介入が伺えるような状況だった。



8:21 《現在地》

探索開始から約2時間10分を要し、目的地までの
踏破達成!

現代的な力を存分に感じさせるアーチ橋の巨体に身を寄せると、ふわふわとして確固たる足場の乏しい廃の世界を脱した事が実感出来た。
中村氏もこの橋の上で我々の到着を待っている。

路盤を離れる前の最後、排水路へと下る階段を上り下りして、例の古写真と近いアングルと思える場所を見つけ出して、そこからの撮影を行った。
次の写真がそれである。



実はちょっと失敗。下の河原から撮影した方が、もっとぴったりだったろう。

それでも半世紀という年月が変えたものと、変えないもの、その対比くらいはこの写真でも十分だ。

こんなに探索し甲斐のある素晴らしい林鉄が、ダムのために、ここで唐突に打ち切られているのが悔しい。
でも、それを含めて、徹頭徹尾ひとのためだけに働いた、この愛らしい小さな鉄道の美しさなのだ。
こんなに残っていたものがあるだけで、それを人の手で見つけてあげれただけで、満足である。




さて脱出しよう。