引沼集落で林鉄起点と“隧道0”を捜索する
2021/5/15 17:01 《現在地》
前回の最後、15:13に白砂川大橋から帰路に就いた私は、ポケモンGOのイベント「コミュニティデイ」の終了時刻とほぼ同時に、今朝の出発地点にほど近い白砂大橋へ戻ってきた。
この場所を自転車で走るのは、23時間ぶりである。
本レポートの導入回で紹介した、昨日夕方の偵察をスタートした場所がここだった。
たった1日では橋から見える風景に変化はないが(雨が降ったくらいだ)、景色を眺める私の心はまるで別物といえた。
昨日はこの景色を見ながら、そのどこかに隠されている未知の林鉄に対して、期待よりも遙かに大きな恐怖心を持っていた。だが、1日でその大部分を征服し、数多くの成果を挙げた今の私にとっては、“知る者”の自尊心を駆り立てる、なんとも心地の良い景色であった。
終盤の私がポケ活ばかりに現を抜かしていた訳ではない証しに、これから本日最後の探索を始めよう。
まだ、今日の探索は終わっていないぞ!!
まだ見ぬ白砂川林鉄の隧道が、この近くに眠っている可能性がある!
もう良い具合に夕方だが、今から探索を試みるのは、今朝の探索スタート地点と、白砂川林鉄の本来の起点までの区間である。
上の図に緑の丸線で描いた辺りに、地図上の計測でおおよそ800m内外の未探索の軌道跡が存在する可能性が高いのだ。
本編導入回の復習となるが、この林鉄の起点については、昭和28(1953)年の文献に次のような記録を見つけている。
引沼の農協事務所前には、白砂川の奥から営林署の林産物搬出用軌道がきているので、これから奥地の開発にはこれの利用も考えられる。
『群馬県地下資源調査報告書 第3号』より
「引沼の農協事務所前」が、白砂川林鉄の起点であったと読み取れる。
その詳しい場所はまだ不明だが、引沼集落はそれほど広い範囲ではない。
先ほどの地図に青丸でハイライトした範囲のどこかであろう。
さらにこの同じ資料には、起点付近に隧道が存在したと読み取れる次のような記述もあった。
六合村の葦谷地(Yoshiyachi)とは、花敷温泉の北東部に当り、白砂川に沿ってトンネルをくぐって3Kmほど登った左岸(南岸)の地名である。ここには営林署の軌道が通じていて、歩行及び物資の運搬には至極便利となっている。高距は海抜900m余の場所で、引沼部落との高さの差は100mを越えない。
『群馬県地下資源調査報告書 第3号』より
本日の探索でこの「葦谷地」と見られる場所を通っている。
そこは探索のスタート地点から2.4kmほど進んだ場所で、起点からだと確かに「3kmほど」の場所である。
起点からこの葦谷地までの間に「トンネル」があったと文献にはあるが、今日探索した区間内にはなかった。今日最初に見つけた「隧道1」は、葦谷地を過ぎた後であった。
よって起点から今朝のスタート地点までの推定0.8km内外の軌道跡には、隧道があった可能性が高い。
この区間には、並行する国道405号に白砂トンネルがあるので、軌道跡にもあったとしても不思議ではない。
さらに、探索済み区間との接続関係を考えれば、それはおそらく温泉療養施設「バーデ六合」(探索当時は営業中だが現在は閉業)が建っている尾根の近辺だろうということまで、相当絞ることが出来ている。
人里の間近にありながら、まだ発見された記録がない、もし見つかれば白砂川林鉄の最も訪れやすい遺構となるであろう隧道を、今から探しに行こう!
17:04 《現在地》
2日間を通じ初めて白砂大橋の下流側へ探索の足を伸ばしている。
写真は、橋のすぐ下流にある白砂トンネル(全長112m)を潜るところだ。
このトンネルは昭和42(1967)年の竣工と記録されているが、昭和34年の地形図に既に描かれている。
トンネルを出て右側に少し草が生えた空地があり、何気なく旧道でもないかと目を向けたところ、【性具】
が化粧箱や【プレゼントシート】
ごと捨てられていた。いくら満足が得られなかったとしても、自分の技術を棚に上げて、道具のせいにするのは良くない。
チェンジ後の画像は、トンネルの坑門上部の斜面を望遠で撮影した。
とりあえず、軌道跡やその隧道のある気配はない。
登って確かめることはせず、再び自転車に跨がって引沼集落を目指した。
ちなみに、雨はピークを過ぎたのか、少なくとも今は小康状態でほぼ止んでいた。
17:10 《現在地》
緩やかな下り坂の国道を進んでいくと、あっという間に引沼集落の入口に辿り着いた。
白砂川左岸の緩斜面に広がる山間の集落で、温泉に恵まれてはいるものの、長野原の市街地から15km近く峡谷を遡った所にある秘境である。
本来ならこの場面の背景も間近に迫る緑の山肌だが、重い雲が谷に垂れ込めているせいで、まるで山の上のような景色だ。
目の前の青看がある交差点を右折すると花敷温泉へ、左折すると集落内の生活道路である。
とりあえず軌道跡がどこへ降りてくるのか分かっていないので、より山際にある左の道を進むことにした。
17:14
明確なあてがないので、山から下りてくる軌道跡を出来るだけ高い位置、集落の外れで捕捉しよう。
そのような方針を立てた私は、広い道から外れて、地理院地図にも描かれていない山手へ延びる小道を上っていった。
登っていけばどこかで軌道跡と交差するのではないか。
目指す軌道跡の道は、水平に近い独特の勾配を持っているはずで、私ならその違和感に気付けるはずだと考えた。
17:18 《現在地》
来たか?!
集落の最も高い辺りまで登っていくと、車の通れない幅の狭い道が、山から緩やかに下りてくる所にぶつかった。
立地のイメージ的にはドンピシャだ。
この道を上流と下流のどちらへ進むか考えたが、少しでも明るいうちにトンネルの可能性が高い山側を攻略することにした。
軌道跡となれば自転車は役立たないだろうから、徒歩に切り替えて、突入開始!
17:19
明らかに古そうな山道だ。
軌道跡にしては、少し勾配が強い気もするが、この立地条件の符合は捨て置けない。
高確率で、探しているものだと思う。
全てが目論見通りであれば、ここから400mくらいで、隧道の存在が強く疑われる「バーデ六合」が建つ尾根に到達するはずだ。
14:32 《現在地》
…………ダメみたい。
即落ち2コマみたいで恥ずかしいが、どうも、この道は違うらしい。
集落のはずれで出会ったときは、これぞ!と思ったが、山へ入るとすぐに急坂となり、ものの100mほどで30mは登ってしまった。
明らかに、軌道跡どころか、車道ではない勾配だった。
それでもすぐに引き返さなかったのは、道の雰囲気が良かったのと、荒れていなかったこと、そして確かにバーデ六合の方向へ進んでいたからだ。
朝の出発時点でバーデ六合に車を止めてあるので、この道で車に戻るのもありだろうと思い直した。
軌道跡については、バーデ側から探すことも出来るだろうし。
17:39 《現在地》
すでに軌道跡ではないことは確信しているこの道だが、実は最初の急坂を過ぎると、あとは軌道跡と見紛うばかりの水平路であった。
しかも道幅も軌道跡として不自然でないくらいあり立派であった。
次第にまた、「軌道跡なのでは?」と心が揺れ始めた私だったが、幸いにして、この道の本当の正体を教えてくれる存在が現われた。
地図に無い道に、地図に無い分岐が現われた。
その分岐の三つ角に、小さな石の碑が置かれていた。
道標石であった。
光を当てて文字を解読すると、正面には「大日如来 右ハ山 左和光原」、側面には「嘉永七年寅七月吉日」と刻まれていた。
嘉永7(1854)年、前年に続いてペリーが来航し、日本中で地震が頻発し途中で安政に年号が変わった年に建てられた、古い道標石であった。
わざわざ軌道跡に移設するとは思われぬ遺跡であり、これらの道の正体が、地に根付いた古道であることを物語っていた。
軌道跡探索としては完全に余談になってしまうが、この道は古い地形図に「小径」として描かれているのを見ることができた。
道標石の導き通り、確かにこの道は「和光原」へ通じていた。
昭和30年前後に現在の国道405号の元の道路が開通するまで、この徒歩道が和光原・野反湖方面と長野原方面を結ぶ主要道路だったようだ。
その愛着が成せるわざか、今でも手入れがされていたようで、バーデ六合までは良い状態が保たれていた。
17:43 《現在地》
明らかに軌道跡の想定位置よりも高所を進んで来た道は、最終的にはバーデ六合が建っている尾根の上に出た。
私が今朝出発した広場は、ここよりも20mくらい低い位置にあるから、ここは軌道跡に対しても同じくらい高い位置ということだ。
逆に言えば、軌道は確かにこの尾根を越えるために、隧道を用いる道理があったのだ。
問題は、かつて隧道があったとして、その存在を証明できるものを見つけられるかどうかだ。
バーデ六合の存在が、この尾根に相当の変化をもたらしているのは間違いない。
特にいま見ている尾根の東側については、遺構の現存は絶望的と思われた。
眼下の駐車場も、私が車を止めた出発地の広場も、どちらも軌道跡を消失へと導く存在であった。
隧道跡および軌道跡発見の可能性は、尾根の西側に託された。
この足が導き出した最後の答え合わせをしよう。
一歩引いて尾根の西側を意識すると、誂えたように、階段の小道が下って行くのが目に留まった。
今度の道は刈払いはされていなかったが、ほんの20mほど下って確かめるにはどうでも良かった。
果たして、軌道跡は、ここにあるのか。
いや、 ここになければならないはず。
なければ私は答えに窮する。
大事な起点という存在が、私の中で行方不明になる。
運動のためではなく、緊張のために、心臓が早鐘になった。
その決着は――
17:45 《現在地》
想定した位置に、明瞭な平場を発見!
軌道跡か?!
ここはもはや「隧道0」の擬定地、そのものだぞ。
「全てはこの隧道に結ばれていた」
17:46 《現在地》
重い曇天の夕暮れ、刻一刻と暗くなっていくのを感じる山の中で、私の執念じみた探索が続いていた。
本日最後のターゲット、「隧道0」(もちろん仮称)の発見を目的とした探索が、その最終局面を迎える。
おそらくここではなかろうかという地点(隧道0擬定地)へ向け、ピンポイントに尾根から下降した私を待ち受けていたのは、ここで逢うのは初めてだが、景色としては散々見覚えのある感じの“平場”であった。
レールや枕木といった直接的な遺物こそないものの、その幅や勾配の緩さは、典型的な軌道跡を思わせた。
隧道を求めた私の執念は、この日没前ギリギリというタイミングで、大きな成果を挙げたらしかった。
軌道跡とみられる平場への到達地点から、下流(起点)方向を撮影。
曲がっていて先は見通せないが、続いている気配がある。
目論見の通りであれば、この先は800mほどで引沼集落内の「起点」へ辿り着くはず。
ただ残念ながら、時間的にこの先の探索を行うことは難しい。
今求めるべきは反対側、「隧道0」の捜索に他ならない。
転進。
これが終点方向の眺め。
すぐ先に、先ほどまでいた尾根が横一線に立ちはだかっている。
「隧道0」は、この尾根を潜るものと予想しており、隧道擬定地はまさに目の前であった。
だが、ここから見る尾根の高さはいかにも低く、隧道ではなく切り通しでも十分に足りそうだった。
現状、この尾根の上には「バーデ六合」の建物や敷地が存在しており、地形が変化している可能性は極めて高かった。
17:48
残念ながら、隧道は無かった。
これが探索のリアルといえばそれまでだが、探索を引っ張った先の結論は、私を含む大多数の期待に沿うものではなかった。
この残念な結論を前に早くも自己弁護をするなら、ここには確かに、かつて隧道があった。
そのことは根拠を示しつつこの後で詳述するが、写真の“赤矢印”の位置に埋め戻されているのだと思う。
この斜面だけ樹木が生えていないのは、おそらくその名残である。
僅かな情報をもとに、短い時間でここへ辿り着いた私の動きは、優れた精度であったと思うが、隧道が残っていなかったという結果の前での自慢は虚しい。探索の過程は、成果の前で容易く色褪せるものだ。そうでないと言ってくれる人がいるかもしれないが、少なくとも探索した私本人の後味が良くなかったのは事実である。
皆さまにとっても後味が良くないと思うが、それでもこの辺りの過程をレポートで省略しなかったのは、これを執筆している時点で、この林鉄に他の探索の記録が見当らなかったからだ。
隧道という重要な遺構が「残っていない」と判断した経過を、検証可能性のために出来るだけ詳細に記録したいと思った。
(しかし、このレポートの執筆が長い中断を挟んだのは、このような後半の展開を書くモチベーションがなかなか得られなかった私の弱さに原因がある)
隧道擬定地から左へ逸れて伸びていく道形があったので、探索の流れでそれを辿った。
先の全天球画像に点線で示した位置にある道形である。
進行方向的に、あわよくば最初の擬定地とは別の位置に隧道が存在する期待を感じたし、探索を終えスタート地点へ戻るにも逆方向にはならないと判断した結果である。
17:51 《現在地》
隧道擬定地から延びる道形は、軌道跡としても不自然ではない緩やなトラバースで100mほど進むと、国道の白砂トンネルがある尾根の頂上へ容易く達した。そこには尾根を越えるごく浅い切り通しの痕跡もあった。
このまま隧道に拠らず今朝の出発地点がある上流側に通じるのだと思った矢先、道形は斜面内で唐突に終わっていた。
崩れたという感じではなく、土工自体がここまでという形の行き止まりであった。
形状的に、この道も軌道跡なのかもしれないが、少なくとも本線でなかったことは、行き止まりの状況から明らかだ。
隧道に拠らない経路を模索した未成線か、それとも別の用途を持った引き込み線か、その正体は不明だが、後述するように軌道の現役当時から存在していた道であるらしい。
17:58 《現在地》
「隧道0」は本当に私に冷たかった。
前述の【西口擬定地】
から尾根を潜った反対側にあたる東口擬定地は、「バーデ六合」の敷地擁壁や接続する道路によって、軌道跡ごと完全に痕跡を消失している。
“黄矢印”の位置は、本編「導入回」で訪れた【軌道跡の末端】
であり、これをもって昨日から続いた長い探索は一巡した。
本来なら大きなカタルシスが得られたであろう、「全てはこの隧道に結ばれていた」という場面が、「バーデ六合」の存在によって完膚なきまでに壊されているのを目の当たりにしたが、これこそが廃なるものには抗えぬシビアな現実であった。
17:59
そして、出発から約14時間ぶりに今朝の出発地点へ戻った。
探索終了。
昨日まで、おそらく誰も知らなかった白砂川林鉄の現状の記録を、この身体で持てる限度いっぱいまで持ち帰ってきた1日だった。
終盤、成果にやや恵まれないところはあったが、出来るだけのことはやったつもりだ。
ひとまず持ち帰ってレポートを開陳し、次へ向けた作戦を練り直したい。
@ 昭和23(1948)年
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@’
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A 平成7(1995)年
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A’
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「隧道0」の在処を求め、帰宅後に歴代の航空写真を確認してみたところ、林鉄現役当時に撮影された唯一の版である昭和23(1948)年版に、その姿を見ることが出来たので報告したい。
@および@’は昭和23(1948)年版で、@’に赤線でハイライトした部分に、当時現役であった軌道のラインが見える。
軌道は“赤矢印”の位置で尾根を越えているが、明らかに隧道になっている見え方だ。
また、その西口付近で分岐し“黄矢印”の位置まで延びる道が見えるが、これが先ほど報告した行き止まりの道である。
AおよびA’は平成7(1995)年版である。
A’には@’のラインをそのまま移植したが、隧道のあった尾根とその東側の一帯が、「バーデ六合」のために大きく変化している事が分かる。
おそらく隧道が失われたのは、この施設が整備された平成の初期であろう。
残念ながら、この変化に対して私が白砂川林鉄を知るタイミングは遅すぎたのだ。
さらに、この附近に隧道が存在していたことを示唆する証言が、本編の執筆期間中に読者さまから寄せられていた。
この読者さまの旧六合村にお住まいの友人が御年88歳となる地元住民から聞き取った話として、次の内容を教えて下さった。
大阪在住の稲葉氏から寄せられた
「証言の内容」
- 軌道があったことを覚えている。昭和3年から始まって26年頃までやっていたと思う。
- 子供の頃、使われなくなった線路やトロッコがそのまま残っていて、それに乗って遊んでいた。
- 当時のトンネルが山の中に今でも残っている場所がある。
- 切り出した木は、今の入山(引沼は大字入山の一部)のガソリンスタンドがある場所までトロッコで運ばれた。その近くにもトンネルがあったが、埋められたか壊されたかして残っていない。
これは現時点で私が把握できている、白砂川林鉄の現役当時や廃止間もない状況を伝える唯一の証言である。
この証言にある運行期間(昭和3〜26年頃)は、私が矢部三雄氏から教わった林道台帳ベースの運行期間(昭和13〜32年)と少し違っているが、それが単純な記憶違いに起因するものなのか、別の理由があるのかは不明だ。
現在88歳である人物は、昭和26(1951)年当時は14歳、昭和32(1957)年には20歳となるので、廃止されたトロッコで遊んだのが子ども時代の話とすれば、前者の方が整合性は大きい気はする。
ただいずれにしても、全国の主要な林鉄と比べて廃止の早い路線であったのは確かで、このことが遺構の探索や情報の捜索を難しくしている。
そして、4つ目の証言に登場する、起点の近くにあったが埋められたか壊されたかして現存してないトンネルが「隧道0」だと思われる。
実は後にさらなる“秘密兵器的”資料の登場によって、この隧道の長さが判明するのであるが、その話はまた後ほど、最後の最後に…。
次の日に居残りをして、“起点”を探した
2021/5/16 9:22 《現在地》
一夜明けた5月16日も私は現地にいた。
本当は移動して別の探索を行う予定だったが、数日前に秋田を出発した時点で見た天気予報がいつの間にか覆され、今日も終日雨の予報となってしまったので、当初の予定を中止して、引続き昨日のやり残しを探索することにした。
やり残しと言えば、奥地に残した「隧道6」を想像した方もいると思うが、昨日以上に天候は悪く、奥地へ行く気力は無い。
昨日の最後のやり残し……「隧道0」から起点までの推定800mの探索を行った。
写真は、「バーデ六合」の裏手にある「隧道0」の西口跡地だ。
時間があるので昨日よりじっくりと観察したが、残念ながらやはり痕跡は特にない。
木が生えていないことは、一応痕跡と言えると思うが…。
今日はここから、昨日歩くことが出来なかった起点までの軌道跡を探ってみよう。
この区間についても、地形図を見る限り、取り立てて何かがありそうな感じはないが、昨日歩いた軌道跡と同様に、事前情報は全くない。
実際に歩いて、どこに何があるのかを記録に残すのは、やり甲斐がある仕事である。これをしたいがために居残りをしたのだ。
よきよき。
踏み跡は見当らないが、雰囲気の良い軌道跡だ。
昨日歩いた区間は、どこも近くに安全な逃げ場がなく常に緊張を強いられたが、ここなら安心して歩ける。
濡れた路盤に枕木やレールは見当らないが、藪が浅く歩き易い。
緩やかな下り坂が斜面伝いに淡々と延びていく。ときおり右の方から国道を走る車の音が聞こえてくるが、路面はまだ見えない。
9:32
小さな橋の跡があった。
写真中央に見える2本の低い木柱は、明らかに木橋を支えていた橋脚の名残である。
高さも長さも1〜2mの小さな小さな橋の跡。
そして、路盤から見下ろす橋の背後には、昨日自転車で走った国道の路面が見えてきた。
徐々に国道へ近づいているので、遠からず遭遇することになりそう。
9:36
「隧道0」から300mほどで、軌道跡は国道と完全に並行するようになった。
相変わらず軌道跡はとても良く残っており、昨日まで国道を何度も通りながら、この軌道跡には全く気付いていなかったということが愉快であった。裏返せば、私だけは知っているという優越感だ。
この軌道が一度でも地形図に描かれていたら、こうはならなかっただろう。
軌道跡と国道が仲良く並走する状態から、次に予想される展開は、両者の合流であったが…。
9:39 《現在地》
「隧道0」から約400m、いよいよ国道が合流するかに思われた軌道跡だが、悲しいかな、国道側にはその意思がなく、接近しすぎた結果として、国道の落石防止柵で軌道跡は途切れてしまった。
厳密には、落石防止柵が設置されている用地が軌道跡に由来する平場だったが、軌道跡に残された幅はほとんどなく、私は雨でしとどに濡れた笹を全身で掻き分けながら通り抜けるハメになった。
この展開、果たして通り抜けが出来るのか、大いに不安だった……。
9:42
が、全身びしょ濡れの刑と引き換えに、なんとか落石防止柵の監獄から解放された。
そこには引沼集落のはずれの人家があり、少々通行が憚られる地点へと私は山から溢れ出た。
住人に見つかって怒られる前に、さっさと国道へ脱出する。
9:43 《現在地》
結局、最後の最後で軌道跡は国道との合流を阻まれ、その存在が白日に晒されることを防いでいた。
これでは自然に発見されなかったのも道理であろう。
しかもここだけでなく、この軌道が他の道路と接近する全ての場所で、軌道跡の存在が隠蔽されていた。
全て偶然だと思うが、ここまで徹底されると、この軌道が持って生まれた宿命かもしれないなんて思ったり。
ともかく、引沼集落へ到達した。
昨日の夕方も来ているが、軌道跡を辿って到達したのは初めてだったから、達成感があった。
昨日終盤の展開を振り返ると、軌道跡だと思った道が古道だったり、「隧道0」にも素気なくされたり、正直、長い死闘の締め括りを労われた気がせず、心残りであった。
だが、居残りをして良かった。成果としては相変わらず地味だったが、こういう落ちついた締め括りが私は欲しかったのだと思う。
9:45 《現在地》
引沼集落へ降りてきた軌道跡だが、集落内に入ると全く痕跡を見いだせなかった。
状況的には、国道との並走状態から自然に併用軌道の形態へ遷移していたと考えられるが、現役である道に近づけば痕跡がないのは道理である。
とにかく何が何でも人目に付く場所にこの軌道の遺構は無かった。最後まで徹底していた。
チェンジ後の画像に赤線で描いた位置が、軌道跡の推定ラインであるが具体的な痕跡は全くない。
沿道の住宅敷や法面を経由して最終的には国道の併用軌道となる線形を想定した。
また、山の上に描いたピンクの破線は昨日歩いた古道である。
痕跡が無いのはやむを得ないとしても、白砂川林鉄の起点がどこにあったのかははっきりさせたかった。
起点の位置については、事前情報として、「引沼の農協事務所前」というキーワードがあったので、現地でそれらしいものを探してみるも見当らず。
そこで、雨の中ではあったが、犬の散歩をしていたご年配の方に聞いてみたところ……。
引沼での聞き取り
- 森林軌道があったというのは分からないが、「農協事務所」なら、ガソリンスタンドの向かいにあった。
……との情報を得ることが出来た。
引沼集落内には、国道沿いにガソリンスタンドが1ヶ所だけある。
9:50 《現在地》
引沼バス停の前にあるこのガソリンスタンドだ。
この道路の向かいが、かつて農協事務所があった場所だという。
現在は民家の敷地となっており、全く面影はないが、この場所こそが、昭和34(1959)年に全廃となった白砂川林鉄の起点であった。
引沼集落内の位置としては概ね中央にあり、「隧道0」からだと想定通り約800mの地点だった。
一般的に国有林森林鉄道の起点には貯木場という施設があって、道路や鉄道など林産物の二次輸送を中継したが、この場所にも貯木場があったのだろうか。もしあったとしても、さほど広い敷地はなかっただろう。
他に欠かせぬものとしては、旧草津営林署に属する国有林経営の現場出先機関である担当区事務所も近隣にあったものと推測するが、これについても情報は見当らない。
昭和23(1948)年と平成7(1995)年の航空写真を再び比較してみる。
昭和23年版では、現在地の付近に大きな屋根を持つ建物があり、これは倉庫っぽい。
屋外の貯木場というよりは、木炭の貯蔵倉庫のような感じだ。
もしそうだとすると、白砂川林鉄が搬出した林産物は、木炭が主力であったということが考えられる。
このような推理は、奥地の軌道沿線がほとんど広葉樹で人工林がほとんどなかったことや、廃止時期の早さとも符合する。
また、平成7年版と比較から、起点附近の軌道が現在は国道である道路との併用軌道だったことも読み取れる。
今では住人の中でも知る人は少ない印象がある軌道だが、かつては引沼住民の誰もが知る存在だったのだろう。
以上で、終日ではなかったが、なんだかんだと3日間に及んだ白砂川林鉄の初動探索、その現地報告を終える。
このあとは追加情報として、謎多き林鉄が丸裸となりかねない“凄い資料”を紹介するので、最後までお付き合いください。
“禁断の資料”を召喚して、探索の答え合わせ
上は今回の探索のまとめの地図だ。
万沢林道と合流した先の終点附近のみ未確認だが、記録にある全長(9337m)のうち、7〜8kmの距離を探索した。
全線とも歴代の地形図には一度も描かれたことがない道だったが、確かに軌道跡は存在し、レールこそ見なかったが、枕木は数ヶ所で発見出来た。
また、架かっているものはなかったが、20基を超える多数の木橋の跡も見つかった。
この軌道跡の特筆すべき遺構としては、多数の隧道の存在が挙げられる。
全部で5本の隧道を発見し、うち4本については内部の探索が出来たほか(4本は貫通、1本は閉塞)、埋め戻された跡地と想定しうるものが1本と、斜面の崩壊により完全に埋れたものと想定しうるものが1本あり、今回の探索区間内には合計7本の隧道が存在したものと思われる。
これは決して少なくない数であり、如何に険しい地形を克服しようとした軌道であったかが窺える。
以下に、この7本の隧道(擬定地を含む)について、一覧にしてまとめてみた。
実はこのまとめが、これから述べる“探索の答え合わせ”に関する重要なキーとなる。
林道台帳(あるいは土木台帳)というものが存在する。

今回特別に見せていただいた「白砂川林道」の林道台帳
道路法における道路台帳に相当するもので、国有林経営の重要な資産である国有林林道のデータがまとめられた巨大なデータベースである。
現行の林道だけでなく(国有林林道の種別の一つである国有林)森林鉄道についても、過去に作成されたものが戦災などで喪失していなければ存在する可能性が高く、各地の森林管理局に所蔵されている。
もし所蔵されている場合は、原則的に、行政文書公開請求の手続きを取ることで誰でも閲覧が可能だ。
以前私も当サイトでも紹介した“ある林鉄”について、この手続きで林道台帳を取り寄せたことがある。(重要な追記のために取り寄せたが、まだ追記の執筆が出来ていない)
また、古い林道台帳が関係者によって個人的に所蔵されている場合もある。
私は今回、本編の探索後に、ある方から白砂川林鉄の林道台帳を見せていただいた。
実際に林道台帳を見たことがある人はあまり多くないかも知れないが、右図が実際の白砂川林道(←これが正式な路線名)の林道台帳の一部である。
定められたフォーマットに事業年度ごとの林道の改廃や修繕などの記録が詳細になされている。
手書きの文字が非常に小さく、読み取るのには苦労した。
以下に述べることは、林道台帳によって知り得た内容である。
一林鉄探索者として、個人的には、
林道台帳は“禁断の資料”だと思っているが、
その威力のほどをご覧いただくとしよう。
(↑)この図は台帳の一部を表として書き出したものである。
先ほど、林道台帳には事業年度ごとの林道の改廃や修繕などの記録が記載されていると述べたが、ここにあるのは白砂川林鉄の昭和20年度末現在の状況である。
多種多様なデータが記録されているのが分かると思う。
そしてその中には、これまで見た他の資料からは読み取れなかったものも多くある。
中でも探索者として最も興味深いのは、橋梁と隧道の数および長さについての記述である。
(→)
当該部分を切り出したのが右の図である。
昭和20(1945)年当時、全長9337mの路線中に、合わせて21本の橋と、7本の隧道があったことがはっきりと記されている。
さらに橋の構造の内訳としては、抛渡木橋(←いわゆる方杖橋のこと)が5本と、杭建木橋(←単純木橋)が16本で、隧道の構造の内訳としては、捲立(←覆工のあるもの)が1本で75m、素掘が6本で合計246mであったことまでが判明するのである!
あくまでもこのような数字が分かるだけだが、実際に現地を探索した結果と照合すると、これが強烈無比な探索の答え合わせとなる。
もし現地で見つけた以上に橋や隧道が記録されていたら、それは見逃したということに他ならないのである。
こんなに冷徹な探索のアンサーって、なかなか無いよ! ぶっちゃけ怖いよ!
が、もっと怖いのは、これを探索前に見ることだろう。
隧道があると分かって行くのは興奮するかもしれないが、見つけた後はどうなる。
数的に、これでおしまいということが先に分かってしまうのだ。
あるいは、出発前から「隧道は無い」と分かってしまったとしたら、それでもモチベーションを保てるか?
林道台帳は、探索に使う資料としてはあまりにも核心を突き過ぎている。
私がこれを、探索中の想像する楽しみを殺しかねない“禁断の資料”だと見なしている理由が、分かっていただけたかと思う。
今回だって、私も早速ダメージを受けた。
既に現地で7本の隧道を見つけている私は、終点附近になお1〜2kmの未探索区間を残したにもかかわらず、そこには隧道が無いことが、ほぼほぼ分かってしまった!
(もちろん、予測が覆される可能性は僅かにあるが……例えば、台帳に記載されない未成区間の存在や、いわゆる作業線など)
(→)
林道台帳の恐ろしさは、開設から廃止までの路線の変化も一覧に出来てしまうことだ。
右図は、各年度ごとの延長の増減と、それに伴う橋梁と隧道の変化をまとめた表だ。
途中でフォーマットが変化している影響で一部の欄は空欄のままだが、これによりどの位置に隧道があったかということも、かなり絞り込める。
具体的には、昭和13年度に開設された4377m内には本数は不明だが75mの隧道があり、翌14年度に延伸された480mの区間内にはさらに(やはり本数不明で)134.5mの隧道があり……といったようなことが読み取れる。
そしてこれももちろん、現地探索の成果と照合させることで、より詳細に路線の変遷を推理する材料となる。
この手法を使って、各年ごとの路線の変化を地図上にまとめたものが次の図だ。(↓)
@ 昭和13(1938)年度
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A 昭和14(1939)年度
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B 昭和15(1940)年度
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C 昭和16(1941)年度
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D 昭和24(1949)年度
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E 昭和28(1953)年度
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F 昭和32(1957)年度
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@はこの路線の最初の開通区間で、全長4377mである。
具体的には、引沼の起点から葦谷地までの区間であろう。
この区間内には75mの隧道があったというが、これは「昭和20年度末」の台帳に記されていた「捲立」の隧道1本分と長さが一致するので、現地探索で見つけた最も起点側の「隧道0」のことだと判断できる。
現状では跡形もない「隧道0」だが、長さ75mの覆工がされた隧道という、かなり具体的な姿が判明した。
Aは昭和14年度末の状況を推理したもので、この年度内に2回に分けて延伸された580mの区間のうち、最初の480mに合計134.5mの隧道があったという。
現地と照合すると、「隧道1」「2」「3」の3本が、この区間内にあったものと推理できる。3本合わせて134.5mであろう。
Bは昭和15年度末の状況で、同じ手法で現地と照合していくと、「隧道4」「5」の2本が、この区間内にあったと推理できる。合計30.5mである。
Cは昭和16年度末の状況で、この延伸によって本路線は歴代最長の9337mとなった。「隧道6」が、この区間内に記録のある81mの隧道の正体であろう。
Dは昭和24年度末の状況で、一挙に4960mが廃止され@昭和13年度末と同じ4377mに縮小している。隧道も75mになっているから、再び「隧道0」だけになったのだろう。
今回実際に見つけて内部の探索をした隧道は全て、昭和24年度に廃止されたものだったことになる。千頭の奥地や早川の奥地並に廃止の早い路線であった。
Eは昭和28年度末の状況で、この年に706mが廃止されると共に、隧道がゼロになっている。
台帳を見なければ分からなかったことだが、今回最後に訪れた引沼集落内の起点は、「隧道0」と共に、全廃以前には既に廃止されていたのである。
昭和20年代に廃止されたというのは、前章で紹介した88歳の住民の証言にも符合する。
引沼の代わりに起点となったのは、「バーデ六合」のある「隧道0」の東口付近であろう。
Fは昭和32年度末の状況で、この年に最後まで残っていた3673mが廃止され、白砂川林鉄は全廃された。
最後まで残ったのは上述の地点から葦谷地までの区間であるが、この区間の沿線には人家がないので、引沼の住人は既に廃止されたものと判断したかもしれない。
以上、令和になるまでほとんど知られていなかった白砂川林鉄に、私が全力でぶつかった探索記録であった。
林道台帳は、林鉄を調べるうえで大変に有用だということが分かったと思うが、個人的にはあくまでも探索後の答え合わせにのみ使いたいと思う。
ただ、皆さまがこっそりと所蔵しているものがあったら、こっそりと教えてくれても良いよ…。