道路レポート 房総東往還 大風沢旧道 第5回

公開日 2022.07.11
探索日 2021.01.20
所在地 千葉県鴨川市

 隧道に挟まれた、孤立の中間部。


2021/1/20 9:19 

探索は進行中。現在私は、埋没した1本目の隧道(西隧道)を尾根越えによって突破し、地形的にその存在がほぼ確実視される2本目の隧道(東隧道)との間にある、推定長さ200m以下の短い明り区間に降り立った。

現在地は右図の通り、実入海岸で太平洋に注ぐ独立した小さな水系(沢)の源流付近にいる。
東隧道が現存し貫通可能であるかはまだ分からないが、もしそちらも通行不能である場合、ここは、他のいかなる道とも繋がっていない、尾根越えによってでしか訪問ができない、(私が大好きな)孤立した廃道ということになるだろう。孤立廃道万歳! 古くは明智隧道で発見し、砂糠山で開花した、私の“孤立廃道好き”という性癖が、大いに刺激されるシチュエーションである。




海を見渡せる尾根から50mほど斜面を下ったところにあるすり鉢状に窪んだ地形の一方から、幅10mはあろうという、明治の道としては広すぎる平場が伸びていた。
この広さの理由は、道の都合というよりもズリ処分の都合だったのだろうが、道としての機能を喪失してから長い月日を経過した現在では、全体がスギの植林地になっていた。

だが、植林をしたということすら人類に忘れられてしまったのか、その森は荒れ果てていた。
この事実は、ここへ来ることがいまや容易ではない、すなわち、もう1本の隧道も貫通していないということを先触れしているように、私には思えた。




道は緩やかに下りながら、林の中を東へ延びていく。
それにしても、幅の広さに驚いている。
繰返しになるが、大量のズリの処分のために必要以上に道幅が広くなったのだろうと想像する。隧道がこの区間の両側にあったなら尚更だ。
両側に茶屋を何軒か設置して、ちょうど良い道幅が中央に残りそうな感じである。

天津側から傾斜橋を渡って西隧道へ登るところの急さと狭さを考えると、同じ道とは思えない豹変ぶりだ。当時の人も、この変化には驚いたのじゃないだろうか。
……この辺の統一感の無さとか、なんというか設計が雑な気がするんだよな…。
どうしても、短命だったということを念頭に置いて見てしまう、そんな私の印象ではあるけれど。




道の右側は谷になっていて、見下ろすとこんな感じで結構広い。
谷の周囲も全て植林地のようだが、やはり荒れ果てていて倒木が目立つ。

この谷に沿って500mほど下ることが出来れば、そこを海沿いの国道が通っている。
既に何度も書いていることだが、この短命に終わった山越えルートに代わって明治30年代に整備されたと考えられている道だ。
つまり新道と旧道の関係だったわけだが、両者を谷沿いに結ぶ連絡路は整備されなかったようで、歴代の地図にも描かれていないし、現地にもそれらしいものは見当らなかった。






(同日別時刻に撮影) 《現在地》

せっかくなので、この探索が終わった後の移動中に撮影した、「谷」の入口を海岸ルートである国道側から見た景色も紹介しておこう。
この写真の中央やや左に入っていく谷筋が見えるが、その500mほど奥が、大風沢旧道の在処だ。

たぶんこの風景ならば、外房を旅行したことがある人の大半が目にしているだろう。
ほとんど知られてこなかった大風沢旧道とは対称的に、こちらは活躍が大変長い道なのである。



ただし、上の写真で目立っているトンネルは、新実入トンネルという名前通りの新しいもので、令和元(2019)年に開通したばかりだ。
それまでは、すぐ隣に口を開けている明治30年代に整備されたと考えられる実入隧道が、改築を受け入れながら100年以上も現役で頑張ってきた。
一番右にある赤色のトンネルは、「トンネル水族館」と銘打たれた歩道用のトンネルだ。
3本のトンネルが並んでいる状況は、老兵の活躍の長さを物語っている。


――話を本編の時間軸に戻す。




9:22 《現在地》

頭の中で思い描いていたイメージよりも早く、2本目の隧道の擬定地に迫った。
廃道の探索では、近いと思っていたのに案外遠いという“想定外”は多いが、
その逆を感じるというのは、あまりない気がする。 うん、新鮮だ。

最初の隧道から100mも離れないうちに、道の行く手を急な斜面が遮ってくる。
そして道は不自然なほどの広幅員を維持したまま、その斜面の下の平場に終わる。
デジャブのような風景の展開。この正面の尾根を貫く位置に2本目の隧道があったようだ。



正面尾根の基部に“らしき”凹みを検知!

動画では、今度こそ隧道内部にありつきたい私の期待感が言葉に出ているが、
この動画ではそれよりも、2本の明治隧道に挟まれて、訪れる人も絶えて久しい
孤立した廃道が見せる静かな空気を、味わって欲しい気がする。

ここは孤立廃道好きにはとても居心地の良さが感じられる空間だったぞ。
たとえば尾根を越えたり、そこに行きたいという強い意識を持って探さないと
見つけ出せない秘密の場所、秘密の道というのが、大好きなんだ。



分かりづらいと思うが、この奥に、坑口らしき跡地がある。

地形としては、あまり目立っていない。
意識して近づかなければ、隧道跡だと分からないかも知れない。
先に見た西隧道の西口では、スギの植林が道を譲るような配置になっていたが、
今度はそういうこともなく容赦なく植わっている。そして、倒れてもいた。



やはり今度もダメだろう……。

完全に埋れていた西隧道の東口ほどは崩れてなさそうだが、
とても惜しかった同西口と比べれば、切り通しのような目立つ構造がないので、
もっと簡単に埋れてしまいそうに見えた。

こんな坑口を前にするときはいつだってそうだが、

一縷の望みを胸に

近づいていく。



最近も盛んに崩壊が進んでいるらしく、まだ生々しい倒木が多くあった。

やはり厳しいな…………?  いや、でも…、案外……

いままでで一番、坑口を埋めている土砂の高さは低いかも?




開口してるッ!!!

案外にでかい開口部が、平然と残っていた!




珍しく待機せず即座に入洞!

飛びつくほどとは、やはり私は楽しみにしていたようだ…、この瞬間を!

先の西隧道の状況や、廃道としての極度の古さ、そして短命だったという情報から、

隧道群の開口については半ば諦め境地に達していたつもりだが……

やったぜ!



流れるようなムーブで入洞しての第一声――

「うおーー! 曇る!!」

廃隧道に慣れたお人なら、もうこれだけで分かるだろう。
風がある日の洞内で「曇る」は、「貫通は絶望」と、ほぼ同義。
だから即座に、「閉塞確定だ」とも言っている。

おそらくこの東隧道の反対側の出口にあたる東口については、
平成初期まで開口していた可能性が非常に高いと思われる。
『歴史の道調査報告書』に、「崩れたトンネル」があると書いてあったのは、
開口していたからこその表現だと思うのだ。当時貫通していたかは不明だが…。

そして、この2021年の探索時点では、貫通は絶望的だと即座に分かった。

それでも、もちろん奥へ行くぞ!

房総東往還の幻の隧道、ついに洞内探索の機会を得たのだ!


(私はこの後、自然科学的にも珍しい、異様な光景を目にすることに……)




 大風沢東隧道(仮称)の西口より内部へ潜入


2021/1/20 9:27 (入洞0分後) 《現在地》

隧道へ突入!

同時に、ムワッとしたぬるい空気を感じた!
それが錯覚ではないことを物語るように、首から提げた大きな一眼レフカメラのレンズが一瞬のうちに曇ってしまった。
もちろん大袈裟に言うつもりはなく、いわゆる熱気というほどの熱さではないのだが(いまだかつて、真に噴気的な意味での熱気を感じた隧道は層雲峡隧道くらいのものであろう)、入ってすぐの地点でこんなに生ぬるい空気を感じる隧道は珍しい。

内部に熱源(例えば噴気孔)を持たない地下空間の気温は、基本的に年中の変化が少ないことが特徴で、外気の温度が下がる冬期間は地下の方が温かいのも珍しいことではない。ただし、外気との換気が十分な場合はそうならない。つまりこの隧道の場合も、完全閉塞かそれに近い通気不完全の状況であることが強く疑われたのである。

開口部は、本来の断面と比べれば崩壊により著しく縮小しているものの、土砂を退かしたりはしなくてもしゃがむだけで通れるサイズは維持しており、貫通さえあれば、通気を十分得られるはずの大きさだった。



(入洞1分後)

早くも貫通を諦めてしまっているが、案の定、洞奥方向にはいかなる光も見えなかった。
それに、……落盤がひどいな…。
足の踏み場がないとは、このことだ。
まあ、こんな隧道にも慣れっこになってしまっているが…。

とりあえず立って歩けるくらいの天井の高さは残っているので、良しとしよう。
それよりも気になるのは、空気が生ぬるく、淀んでいるように感じることだ。そのせいで居心地が悪い。

さて、この仮称・東隧道の推定全長だが、西口の位置がGPSで判明しているため、そこから尾根を潜った反対側地表までの最短距離は100mと概算された。
先の仮称・西隧道(推計150m)より短いことは間違いなさそうだが、村境や行政界的な意味での峠、すなわち現在の鴨川市天津と鴨川市内浦の大字境は、この隧道上の尾根に存在する。

ところで、この洞内で撮影した写真には、白く霞が掛ったようなものと、そうでないものが混在しているが、これは常にレンズが曇り続けるため頻繁にタオルで拭っており、拭った直後に撮った写真だけは曇りが少ないので映りに差が生じている。あくまでもレンズと気温の温度差からくるレンズの曇りが原因で、洞内の空気そのものが煙っているわけではない。肉眼による目視に曇りは皆無であった。



(入洞2分後)

入口から20mほど入ったが、相変わらず洞床に「足の踏み場がない」ような崩れ放題の状況だ。このように足元が悪いため、洞床の凸凹に普段以上に注意と注目を向けながら歩く必要があったが、そんな私の視線が地面にある“奇妙な白いもの”を捉えた。

全く場違いな連想だが、黄色いカスタードクリームを散らかしたような模様が、黒い洞床のそこかしこにあった。
有機物っぽい風合いが感じられ、そこから咄嗟に思ったのはカビやキノコの類であった。
しかし触れてみると、この模様には汚れや生き物ではなさそうな硬さがあった。コツコツとした叩き心地があって、でも濡れていて…、これはまるで……、岩?

いや、鍾乳石?!

だとしたら、天井は――




鍾乳石!!!

隧道に大量のミニ鍾乳石が存在?!


すげーぞこれは、個人的に大発見だ!
いままで現役・廃止を問わず、1000本はトンネルを見てきたと思うが、
本物の鍾乳石を、完全な人工物である隧道内で見たのは、初めてじゃないだろうか。




これまでも私は、 “鍾乳石みたいな形をしたもの” ならば、いろいろな隧道で見てきている。

その代表がコンクリート鍾乳石というもので、これはコンクリートに含まれる石灰分が地下水などに溶け出して形成される。
成長が本物の鍾乳石よりも遙かに早いことが特徴で、僅か数年で10cm以上も伸びることもあるようだ。
そのため、現代のコンクリート廃隧道でよく見る。発見例レポ

それとは異なる成因による似たものに、正式名は未だ分からないが、私が“黄金様”と呼び親しんで(?)きたものもある。初出レポ
こちらはおそらく地下水に含まれている鉱物や土壌中の成分が析出したもので、実態は鍾乳石状の泥の塊だから、岩のようには硬くはないし、コンクリート鍾乳石以上に成長が早い。

だがここにあるのは、コンクリート鍾乳石や“黄金様”ではないと私は思う。
まずコンクリートの要素がどこにもないし、“黄金様”とは明らかに、硬さや細部の色が異なっている。

実は私は子供のころ鍾乳洞が大好きで、廃道にハマるまで、各地の観光鍾乳洞を結構見て歩いていた。だから鍾乳石についてはほんの少しだけ詳しい。
いまでも多分これは言われていると思うが、昔の鍾乳洞のパンフレットには必ず書いてあった印象的なワードがある。「鍾乳石は100年で1cmしか育たない」と。
この生長の遅いことが、いかにも自然の神秘や悠久のロマンを感じさせて、私が鍾乳洞を愛する最大の魅力であった。


そんな私が、いつしか人工洞窟である隧道の専門家?になってしまったのは不思議なことだが、よもやよもや、1000本以上も隧道を潜った先で出会った、石灰岩地帯ではないはずの房総山中の閉ざされた廃隧道に、これほどたくさんの鍾乳石が人知れず生長していることを見つけることになろうとは……驚きだ!

右の写真の鍾乳石は、この隧道内で見つけたものの中では一番大きく立派だった。
長さは3cm、厚みは数ミリ、そして幅が5cmくらいもある、板状の鍾乳石である。流れたような模様が美しい。
本物の鍾乳石がここまで育つのには、条件が良くても100年以上は確実に必要じゃないだろうか?

そして、この「100年以上」などという、ほとんどの隧道が経験しがたい長い長い月日を、この大風沢旧道の隧道は、人為的に荒されることのない状況で過ごし続けてきたのだろう。
単に古いだけではダメで、大前提として鍾乳石の自然発生が起こりうる環境だったことも重要だ。
普通は自然環境に発生すると思われているような鍾乳石も、条件さえ揃えば人工洞窟にも生じるのは当然で、この隧道が持つ希有な条件が当てはまったのだと思う。


この隧道は、明治16年頃に掘られた当初から、鍾乳洞が育ちうる環境にはあったのだろう。
自然の鍾乳洞は洞窟自体が自然に発生するが、この隧道を作ったのは、鍾乳洞を作るつもりなど全くない人間だったはず。

隧道が貫通してから、少しずつ鍾乳石が発生したのであろうが、最初のうちは全く目立たぬ白い汚れでしかなかっただろうし、あるいは閉塞によって風が止り、湿気がこもるようになるまで、鍾乳石の生育に適した環境ではなかったのかもしれない。

また、内壁には崩れている部分が目立つが、鍾乳石が生育している部分は最近崩れていないということだろう。
現在の隧道内壁は、崩壊が進んだ結果、全体的に自然洞窟のような外観で、隧道らしい掘鑿痕や切削面はまったくと言って良いほど残っていない。
鍾乳石があるのは壁全体の1割にも満たない僅かな部分だけだが、もし内壁の崩落が少なければ、もっと洞内全体が鍾乳石まみれになっていたのかも知れない。

なんかレポートとしては、急に鍾乳石の話で私が勝手に盛り上がっていて意味不明と思われているかも知れないが(苦笑)、この萌えの要点を端的に表現すれば、本来は自然界の長大なタイムスケールに属するような鍾乳石という存在が、人工物である隧道内部に形成されてしまうほど、廃止されてから長い時間を人知れずに経過している――というところである。



千葉県公式サイトの文化財紹介ページにある「白浜の鍾乳洞」より転載

もうちょっとだけ鍾乳石の話を続けたい。
これは帰宅後に調べて思ったことだが、この“大風沢東隧道の鍾乳石”(もちろん仮称)は、一般的な石灰岩中に形成される石灰洞(=鍾乳洞)にあるものとは異なる原理で出現したものではないかと思う。

千葉県には石灰岩がほとんどないはずで、そのため鍾乳洞も存在しない。その唯一の例外とされているのが、南房総市で発見された「白浜の鍾乳洞」で、昭和29(1954)年に県指定天然記念物に指定されている。

県教育委員会による「白浜の鍾乳洞」の解説文を引用しよう。

白浜の市街地の背後には、切り立つような崖が連なっている。この崖は海食崖といい、地形の変動と海による海食作用によってできたものである。鍾乳洞は、この崖にある海食洞穴の中に形成されている。洞穴は奥行き5m、高さ1.6mほどの小さなものであるが、この中に小規模な鍾乳石、石筍、石柱を観察することができる。この崖の地層は新生代中新世(約2,500万年〜500万年前)の千倉累層と呼ばれる泥岩でできており、鍾乳石は洞穴周辺の岩に含まれているカルシウム分を含んだ地下水が洞穴内にしみ出てできる。鍾乳洞は石灰岩地帯にできるものが一般的であるが、白浜の鍾乳洞は、それらとは全く違った形成過程によるものである。
地層に含まれるカルシウム分は、珊瑚礁によって作られた石灰成分が元となっているといわれ、太平洋側から移動し、日本列島の下に潜り込んでいる太平洋プレートの移動が関与していると考えられる。小さい規模ながら、泥岩の中にある鍾乳洞という珍しい光景は、日本列島形成の謎に迫るものである。

上記の通り、「白浜の鍾乳洞」にある鍾乳石は、海底で堆積した泥岩地層に含まれている珊瑚礁由来の石灰分(カルシウム)が地下水と一緒に沁みだして出来たもので、地中の石灰分から生まれているところは普通の鍾乳石と一緒だが、石灰岩ではなく泥岩より生じているところが特殊なのである。

そして私の見立てでは、「白浜の鍾乳洞」と同じく外房海岸に面する鴨川市の当地も、地質は同じような泥岩であって、これは千葉県の地山としては一番ありふれている。だから隧道の雰囲気にも特別珍しいところは無いのである。この鍾乳石の存在を除いては!

たまたまこの隧道で鍾乳石を見つけたが、外房エリアに無数にある素掘りの隧道には、今後100年200年と経過していくうちに、大鍾乳洞を形成するものが他にもあるかもしれない。
おそらく「白浜の鍾乳洞」は地表から浅すぎるので、既に鍾乳石が生育する環境ではないと思う。対して、隧道の中にはもっと鍾乳石の生育に適したものもありそうだ。おそらく本隧道もそうであろう。いずれは、「白浜の鍾乳洞」を上回る鍾乳石の殿堂になるのかも……。

まあ、冷静に考えれば、遠い未来に鍾乳石の一大洞窟がここに出来たとしても、いまのような開口部はとうになくなっていて、永遠に誰の目にも触れないということになりそうではあるが……。



(入洞3分後)
いやはやまさしく地底の神秘を目の当たりにした。
人造と天造が共作せる、悠久の芸術品だ。

だが、現地の私には、この芸術をゆっくり鑑賞する心境はなかった。
思いがけない発見でいささか興奮してしまったせいもあるのか、ますます息苦しくなってきたからだ。なんか、暑いだけじゃなくて息苦しいんだよ、さっきから。

……まあ、気のせいだと思うけどな。
隧道発見時にいつもみたいに息を整えないで、いきなり飛び込んだのも原因かも。
これまで数え切れないほど閉塞隧道に潜ってきて、酸欠の危機に陥ったことは極めて特殊な場合だけであるし、今回のような通常に開口している短い隧道では、まずリスクはないと判断している。鍾乳石が酸欠を造るなんて話も聞いたことはないしな。

パックに入ったおいなりさんみたいに寄り添う2匹のでかいコウモリが、天井でふくふくしていたので、空気はある。


空気ありまくりだろ。

2匹がいた地点の少し奥では、数百匹のコウモリが密集して冬眠していた。
いまは冬眠中なので近づいても静かでいいね。
そして、コウモリが張り付いている壁に鍾乳石はない。
鍾乳石は濡れた壁に出来ているので、彼らとしても居心地が良くないのかもしれない。


(入洞4分後)

景色としては、自然洞窟と何も変わらないな。
全体が満遍なく崩れているが、かといって閉塞するほどの大崩壊も起きていないという、微妙なバランスを保っていた。
また、これは明治時代の隧道としては珍しい特徴だが、入洞からここまでずっと下り坂が続いている。

振り返って考えると、尾根を下りて西隧道の東口から歩き出してからここまで、地上も地下もずっと下り坂だ。
だから一連の大風沢旧道としてのサミットは、埋没した西隧道の内部にあった可能性が高い。東隧道は下りの途中にあるだけの存在だろう。
西口からこの隧道へ入ると下りの突っ込み勾配であるわけだが、今のところ地底湖のような水没はない。ちょっと奥は心配だが…。

チェンジ後の画像は、振り返って撮影。
元々小さかった入口は、洞床の障害物のために、もうほとんど見えなくなった。
しかし距離的にはまだ30〜40mしか来てないだろう。隧道の全長の半分にも達してなさそうだ。



うぁ…。

この先は、今まで以上に崩れているな…。

大規模な崩落によってホール状に広がってしまった部分が、連続している。
ここまで洞内に崩れていないと思える部分はほとんどなく、いくら古いとはいえ、そもそもの地盤が隧道には不向きだったと思えてくる状況の悪さだ。

ところで、ほとんどこの直下40mほどの深さに、昭和4(1929)年に竣工した外房線の大風沢隧道が、本隧道と斜めに交差するような形で貫通している。
高低差が大きいので、外房線の隧道工事が本隧道の崩落に影響を与えたかは不明だが、以前の回にも書いたように、大風沢隧道の工事は3度も土砂崩落を起こした難工事だったという記録があるのだ。

すなわち、平成10(1998)年に天津小湊町史編さん委員会が発行した『ふるさと資料天津小湊の歴史 下巻』によると、「天津〜小湊区間は第4工区になるが、この区間は起工も竣工も最後となった。(中略)内浦〜天津間の山地には断層線が走り、地層が複雑で、工事中に大風沢トンネルでは3回の滑落、天津トンネルでは長雨による剥落があり、竣工期限を50日も延期しなければならなかった」とある。

外房線のさらに半世紀前に試されていた大風沢旧道の工事もまた、同じような地盤の悪さに直面し、一度は強引にでも貫通に漕ぎ着けたのであろうが、隧道の崩落は止まず短期間で放棄せざるを得なくなった。
そんな仮説が容易にイメージできる、本隧道の著しく悪い崩落ぶりであった。



隙あらば鍾乳石。

ホール状に崩れて広がった天井部分にも、鍾乳洞的な生成物がおびただしく成長しているところがあった。
そんな場所はきっと崩壊が古く、明治のうちに崩れてしまった箇所かも知れない。
そして遠い未来には、美しい鍾乳洞のホールになるかも知れない。

そもそも、鍾乳石は地下水の影響がなければ生まれないので、この隧道は房総ではやや珍しい、水気が豊富な廃隧道だ。しかし洞床の水捌けも良いようで、どこにも水が溜まっていないのは救いだ。




大波小波、容赦なく寄せまくってきている。

天井に頭が当たりそうなアップダウンをいくつか越えた先で、ついに、それ以上の奥行きが見えない土砂の壁が現われた。

上部に隙間があればいいが、なければこれで終わりだ。
崩れすぎているせいで、コウモリすら奥には棲んでいなかった。
怪しくも美しい鍾乳石に人知れず飾られつつある、幻の明治隧道は――



9:32 (入洞5分後) 《現在地》

落盤により完全閉塞!

粒の細かい石炭みたいな濡れた土砂が天井まで積み上がっていて、

通り抜け出来る隙間はどこにもなかった。



既に振り返っても光は見えない状況だが、

ここまで、入口からの推定距離はおおよそ50mであり、

閉塞地点は全長の中間付近ではないかと推測された。

ここまで全洞が下り坂で、なぜかずっと息苦しいと感じる状況が続いている。
深刻な苦しさが有ったわけではないが、呼吸に普段と異なる違和感があったのは確かだ。
まあ、このくらいの息苦しさは、これまでいろいろな洞内で体験してきたものではあった。
そのうえで、自然に開口している隧道内で深刻な酸欠は起こらないというのが私の経験則で、
今回もそれを再確認したのであった。もちろん、体質その他の理由で、あなたも無事とは限らない。

長居したくなる要素は全くないので、速やかに脱出する。



入口へ戻っていくシーンを動画で撮ってみたので、ご覧いただきたい。

動画の中でも、息苦しいって言い過ぎだな(苦笑)。




9:36 (入洞9分後) 《現在地》

生還!

坑口前から振り返る天津側の廃道風景と、
(チェンジ後の画像は)坑口から少し離れた位置より見た坑口の開口部。
この開口部もいまは結構大きいが、上部の斜面は不安定そうなので、
ちょっとした倒木の不機嫌なんかで、完全に埋没してしまいそうである。


ともかくこれにて2本の隧道に挟まれた中間部の探索が終了。
残りは、内浦(小湊)側の峠道のみとなったが、そこへ行くためには
もう一度、面倒な尾根越えを成功させる必要がある。