国道127号 旧道及び隧道群 南無谷崎編 第1回(3−1)

所在地 千葉県南房総市
公開日 2013.02.04
探索日 2007.03.06

すみませんです。

何のこっちゃとお思いかも知れませんが、気付いたら前回を更新してから5年半も空けてしまいました。
これはいかん! 私が愛する国道127号の旧道&隧道群にちゃんとけじめを見せなければ!
ということで、超・遅ればせながら、復活です。


<前回までのあらすじ (4行で)>

ヨッキれんは今日、木更津駅から館山駅まで自転車で走ります。
ルートは国道127号ですが、出来るだけその旧道を残さず辿ろうとしています。
午前8時に木更津を出発し、午後2時40分に第一の難所である明鐘岬の区間を突破。

次は第二にして最後の難所、南無谷崎を攻略するぞ! (←イマココ)

※「国道127号とはなんぞや、どんな道なんだ?」 という方は、お手数ですが導入回だけ先にお読みください。それからここへ戻って来て下さいませ。

ここからは、南無谷崎とはどんなアタッキング・ルートなのかということを、少し予習しておこう。
何気なく国道を走ってもここは面白いが、道を知れば知るほどより面白く、愛着が湧く。
もちろんそれはここに限った話ではないが、せっかく「富浦町誌」や「富山町誌」が色々教えてくれるのだから、たまには予習もいいでしょ?


南無谷(なむや)崎は、明鐘(みょうがね)岬と同じく浦賀水道に面した房総半島西岸の突出部で、現在は全域が南房総市の域内であるが、平成18年までは安房郡富山(とみやま)町と同郡富浦町を隔てる自然の障壁であった。

ここは明鐘岬ほど山海の高低差は大きくないが、海岸線スレスレまで山並みが迫っていることは同じで、近世から房総西海岸の二大難所として知られていた。
そしてその険しさゆえ、幕府公認の街道である房総往還(国道127号のご先祖)はこの海岸線を避けて、市部から内陸へと迂回していた。
そのルートは現在の千葉県道258号→同88号に近く、旧三芳村(ここも現在は南房総市)の地域を通って、終点の館山(当時は北条と呼ばれた)へ向かっていた。

しかしこの本街道ルートは迂回が大きいため、近世から非公式的に木の根(きのね)通と南無谷通という二本の間道が使われていた。
木の根通の方が交通量は多く、南無谷通は間道の間道に過ぎなかった。

明治時代に入り、房総往還は房総西街道へと名前を変えた。
そして明治19年に木の根峠に隧道が貫通し、隧道を通る新木の根街道(隧道以外は従来の木の根通とほぼ同じ)が開通。
この道が房総西街道(県道)のポストを受け継いだ。



現在の木の根隧道。


木の根隧道は全長が約200mあり、開通当時は「房州一」と謳われたそうだ。
この道は市道として現在も健在であり、富山〜富浦間の水準点は国道127号ではなく、今もこの市道に沿って設置されている。
これは全国の幹線道路に沿って水準点整備が行なわれた明治中期、この道がそうした役割を担っていたことを示している。



「明治31年の富浦・岩井新道」(富山町誌)

新木の根街道は隧道前後の峠道が狭隘でやや不便であったため、より標高が低く沿線集落も多い海岸沿いを通る新道が、明治20年代に計画された。

それが南無谷新道(富浦・岩井新道)であり、旧富浦町内の区間については明治29年から31年にかけて開通している。
さらに明治33年には新木の根街道から南無谷新道へ県道の換線が行なわれている。旧富山町内の区間もこの年までには開通したのであろう。
工事の規模を考えれば難工事であったと想像されるが、残念ながらこの工事の詳しい内容を記した資料は未発見である。

この左の写真は明治31年の南無谷新道であり、素掘とも石アーチとも取れる隧道の坑門が歩行者の背後に見える。

現在の国道127号は、このときの南無谷新道をベースにしているが、昭和18年から25年にかけて「特37号国道」の改修工事が行われた際に至るところで換線を受けており、今回の探索で私が辿るべき旧道を沢山生んでいるのだった。



これが南無谷崎区間における国道127号のルートである。

典型的な海沿いの隧道連続地帯となっており、数十メートルしかない短いものから、本国道の最長トンネル(自専道区間を除く)である全長257mの岩富隧道まで、合計10本の隧道が4.5kmの区間内にひしめいている。
そして地図上にも旧隧道らしいのがいくつも見える! これは大豊作の予感がするぜ!

少し注目していただきたいのは、各隧道の竣工年である。
北側から順に眺めると、最北の高崎隧道から7本目の南無谷隧道までは昭和24〜25年の竣功であるが、それより南側の3本は昭和17〜19年に完成している。

これらはいずれも「特37号国道」の時代に建設されているのであるが、戦時中に南側から工事が始められ、短い3本の隧道を完成させたところで敗戦に至って工事が一時中断した。
戦後に残りの隧道を建設した事で、このような差異が生じているのである。

思い出して欲しい。
明鐘岬の区間においても、昭和18年前後に生まれた隧道と、昭和26年の前後に生まれた隧道が存在していた事を。
しかもこの南無谷崎とは逆に、区間の北側に戦前の隧道が、南側に戦後の隧道が並んでいた。

これらの事実は、特37号国道が北と南の両方向から同時に工事が進められ、その途上で終戦を迎えたことを示している。


このくらいで予習&復習は終り。
6年のブランクはあるが、あの日の熱い旅の続きへ、レッツ・ゴーだ!




南房総市「市部」からレポート開始


2007/3/6 15:31 《現在地》

前回のレポートの終わりの地点から、8kmほど移動している。
この間に鋸南(きょなん)町から南房総市(旧富山町)へ移っており、途中にもいくつかの旧道があるが、概ね市街地であり、このときの探索ではやむを得ずオミットした。
というのも、前半戦で寄り道しすぎたというか、充実しすぎたせいで、想定よりもだいぶ時間が押していた。
今回の探索は自宅(日野市)からの完全な輪行であり、かつ日帰りを計画しているので、目的地である館山駅まで残り20数キロを残した状態で午後3時過ぎというのは、焦って良い。

南無谷崎の区間で少しでも時間を使えるようにと思い、泣く泣く途中を少しターボ走行ですっ飛ばしたのである。
おかげで喉が渇くし、足も疲れてきた…ガンバレ、俺!

写真の青看&交差点は、前説で少し触れた市部の分岐地点である。
近世までの房総往還の本道はこの交差点を左折して三芳村経由で館山へ向かったが、明治以降の(そして現在の国道)ルートは直進である。



それにしてもこの市部地区の国道127号の歩道は、殺気立ってたなー。
車道の端に一段高くなった部分があり、それは前後とのつながりを見れば明らかに歩道なのだが、両サイドの敷地の塀がぎりぎりまで迫っていて、人一人がようやく歩ける幅しかない。
こんな幅ならば、歩道と車道の高さを同じままにしていてくれた方が、まだ安全だと思うわけだが、地元の人は慣れっこなんだろうか。
私は結構恐怖を感じた。
しかも、こういう区間が街中を出るまで断続的に続いた。

余談だが、この市部の地区内にある内房線の駅は岩井駅という。
旧富山町内の唯一の駅でもある。
しかし周辺に岩井なる地名は見あたらず、ハテナと思う。
後で調べて分かったのだが、この一帯(旧富山町の海岸線一帯)は明治22年から昭和3年まで岩井村、それから昭和30年までは岩井町といったそうだ。
岩井駅が開業した大正7年当時の地名だったわけである。



岩井川の支流を短い橋で渡って高崎地区に入るなり、すぐに分岐が現れた。

前説で紹介した木の根峠および木の根隧道への道は、ここを左へ進む。
その行く手に見える山並みを越えていくのであり、それなりに険しい道である。

対して、我らが国道は右方向へ。
現在はほぼ全ての車が、流れのままにこちらの道を選んでいる。




久々に山手の緑が道の近くへ迫ってきた。
道は次第に海岸線へ追いやられ、先細りゆく平地に南無谷崎の難区間の始まりを予感する展開に。
それに追い打ちをかけるように、「この先3.0km区間は連続雨量200ミリで通行止になります」という異常気象時交通規制の予告も登場した。

胸がときめく展開。

そして現れた、10連続隧道の第1本目。




いかにも窮屈そうなtunnelが現れたぜッ!


しかも、さっそく塞がれた旧道とは、

楽しめそうじゃねーか!