国道156号旧道 福島歩危 最終回

公開日 2015.03.26
探索日 2009.11.22


「国内にも比類なき嶮難の歩危路」にして、「鬚摺・睾丸縮等の名に負う難所」と恐れられた(「序」参照)福島歩危(ふくしまほき)に切り開かれた旧国道の探索も、残りは500mほどだ。

私は、平成11年開通の福島保木トンネル(全長1106m)に対応する旧国道(全長約1500m)を、北口に当たる福島谷から自転車でスタートし、ひたすらに続くスノーシェッドの列をかいくぐりつつ、福島保木3号トンネルに進入。
照明を落とされた暗闇の洞内には、蛇行と呼んでも差し支えがないほどの連続カーブと、儚げに外光を取り込むふたつの洞門部が待ち受けていた。

現在地は、その第一の洞門部である。
そして、ここから本隧道の残りと、地形図にも姿が描かれている福島保木2号および1号と思われる2本のトンネルを、順次攻略していくことになる。

といった具合に、探索完了までの見通しは立っているが、前回までにも書いたとおり、一連の旧道には是非とも解明したい“謎”があった。そして、これまでの探索では、まだ謎は解明されていない。

謎の謎たるを皆さまにも感じて頂けるように、次の表を用意したので、ご覧頂きたい。


これまでも書いたとおり、昭和43(1968)年発行の『道路トンネル大鑑』には福島保木1号から5号までの隧道が記載されているにも拘わらず、新旧いずれの地形図にも隧道は3本しか描かれておらず、北側から探索した私が最初に出会うはずだった5号と4号をすっ飛ばし、いきなり3号に遭遇したことが謎である。記録の中の5号と4号隧道は、いったいどこへ消えてしまったのだろうか。開鑿されたと考えるのが一番自然なのだが、その跡地らしきものも、まだ見つかっていない。

そして、これまで書いていなかった謎が、もう一つある。しかも、おそらくこちらのほうが解決の難しい、ややこしい謎。

それは、『平成16年度道路施設現況調査』に関わるものだ。こちらにも福島保木1号から3号までの隧道が記録されている(4,5号はない)のだが、『道路トンネル大鑑』と見較べると、それぞれの全長をはじめとする緒元が、同じ隧道と思えないほど食い違っている。長さ、幅、高さの一つとして一致しておらず、別の隧道と考えるのが自然と思えるほどだが、名前と竣工年は変わらない。

私はこの二つの謎(消えた4,5号隧道/新旧資料間の大きなデータの違い)の解明を、探索の副目的(主目的はもちろん走破)として据えていた。
探索中もこの解決に繋がる糸口を探し求めていたので、普段以上に重箱の隅を突くように探索した自覚がある。
しかし、第5回までのレポートを書き進めながら謎に挑み、その答えが未だ明かし得ぬ深い霧の向こうにあると自覚したときから、「最終回」は5年もの月日を眠ることになってしまった。だが、完全なる解決を待ったのでは、いつまでも完結できそうにない。よって、ここまでの成果をもとに、“途中”完結の道を選ぶことにした。もちろん、謎に対しても私の「回答」は用意したので、最後までお読みいただきたい。



福島保木3号トンネルの後半戦〜1号トンネル


2009/11/22 14:07 《現在地》

福島保木3号隧道のほぼ中央付近から、進行方向を見る。

すぐ先と、だいぶ先に、左側から光が入って右の壁を明るくしている部分があるが、いずれも洞門部である。
だが、洞内風景としての隧道部と洞門部の違いは、基本的に横穴の有無だけだ。微妙に側壁のカーブが違っていたりもするが、基本的には同じ隧道の断面を共有している。
ゆえに、建造段階では別々の隧道であったとしても、完成時にはまとめて「3号隧道」を名乗ったものと考えられる。

手前の洞門部から地上に出たところまでは前回紹介したので、続いて奥の洞門部へ向かう。




奥の…つまり南側の洞門部へやって来た。

3号隧道は前半こそグネグネと曲がっていたが、後半は直線である。
そして、隧道の出口の先にも金属製のスノーシェッドと、さらに連なる2号隧道の黒い口が見えており、いかにも豪雪と険難を誇る(?)立地らしい。
まあひとことで言えば、オブローダー垂涎の風景というところだろう。

これまでの例にならって、この洞門部でも横穴から地上へ出てみることにする。




洞外へ出るも、やはり自由に動き回れる余地はほとんど無かった。
それでも、先ほどの洞門外よりは遙かに穏当な地形に見える。
どうやら最大の難所をやり過ごすことに、隧道は無事成功したらしい。

私は洞門から外へ出た一番の目的であった“二つのチェック”を済ませると、すぐに洞内へ戻った。
なお、二つのチェックとは――
1.洞門の前後にある坑門部分の処理の確認(扁額の有無も)。
2.洞門の前後の隧道部に、迂回する旧道が存在しないかの確認。
――のことであるが、ここでは“謎”に繋がるような成果は得られなかった。



14:08 《現在地》

3号隧道の南口に到着、振り返って撮影。

外へ出たといっても、明るい地表ではなく、3号隧道へ入る前にも延々と連なっていたスノーシェッドの続きが待ち受けていた。

そして、潜り終えたばかりの闇には、私が通行した事による些かの熱も既になく、廃道同然の静寂と闇が地底湖のように湛えられていた。
謎を持つ隧道は、やはり一筋縄ではいかない何かをもっているような気がした。




私は速やかにスノーシェッドの外へ出て、3号隧道南口の坑門を確認することにした。

こんな事に何の意味があるのかと問われれば、答えたい。
完成品だけを見て制作途中を知ろうとするならば、おおよそ普通は目にしない隅々まで観察しなければ、不可能なのだと。
例えば、画用紙で拵えたサイコロの裏面に書かれた文字を知るためには、手で賽子に隙間を作って内部を覗き込むより無いだろう。
この隙間を作って無理矢理中身を覗き見る行為が、路面から外へはみ出ることだ。



踏み跡のない路外の斜面を少しよじ登り、この眺めを得た。

見ているのは、3号隧道の南坑門である。
そしてこの路面からは決して目にする事が出来ない部分に、私は確かに見たのである。

一般的な坑門ならば扁額が取り付けられている場所に、それがないこと。
にもかかわらず、扁額を取り付ける為の凹みが存在することを。


…さも大層な発見であるかのように書いたが、大袈裟だったかも知れない。かく言う私も、(この時点で)これを重要視してはいなかった。
この発見は、今はまだ何も像を結ばないガラスの欠片に過ぎない。せいぜい、「隧道の建設中には、扁額を取り付けるつもりがあったのだろうか?」、などと想像が出来る程度である。決定的なものではない。




さらに同上地点から反対方向を眺めると、次の隧道(2号隧道)までのスノーシェッドを一望にする事が出来た。

2本の隧道に挟まれたスノーシェッドに切れ間はないが、途中で塗装色と作りが変化していた。
このようなスノーシェッドの変化は、これまでの区間でも繰り返し見てきたものである。
試みに大別すれば、コンクリートのもの、金属製の赤、金属製の水色という3種類があり、それらは特に法則性なく点在或いは連接していた。

上記の事実もまた、“謎”と関わりがあると私は考えた。

さらにもう一つ、この眺めからは発見があった。
次の隧道の坑門に、扁額の一部が見えたことである。
3号隧道の南口には取り付けられていなかった扁額が、次の隧道の北口には存在している。

残念ながらはじめの3文字「福島保」しか読み取れなかったが、これもまた“謎”の欠片として記憶に留めた。



道へ戻り、次の隧道へと近付いていく途中、スノーシェッドの種類が切り替わる部分で再び足を止めた。
ここで振り返って、あるいは頭上を見上げていなければ、この欠片にも気付かなかっただろう。

そして、これはとても重要な欠片であったと思う。
私は直前に得たいくつもの欠片(=気付き)と、この写真から得られた欠片…3号隧道南口の扁額は坑門に存在せず、それに繋がる水色のスノーシェッドの端部に掲げられていた…を結びつけることで――

「失われた4号、5号隧道の正体」に、思い当たったのである。
(水色のスノーシェッドは…)

と同時に、記録された時代によって変化した隧道の長さという謎にも迫れそうだ。そんな実感を得たのだった。




赤色に変わったスノーシェッドの先に、「福島保木2号トンネル」のプレートを脇に掲げた、3号隧道とそっくりな断面形を持つ坑口が近付く。
今度の隧道は短く、自転車であってもあっという間に過ぎてしまいそうだ。
そして、その出口の向こうにもまだスノーシェッドが続いているのが見えた。

なお、ここでも脇の地上に出て、2号隧道北口の扁額を間近で見ようと試みたが、地形的に果たせなかった。




「トンネル大鑑」では全長60m、「現況調査」では全長40mと記録されている、2号隧道を通過し終えた。
果たしてどちらの長さが正解だったのか。
よく考えれば、特別な計測器具を持たないこの状況であっても、ある程度は調べる術はあったのである。だが、私はそこには思いが至らなかった。
だからどちらが正解かは分からない。目測でもこれが40mの闇か、60mの闇かは、ちょっと判断できない。
地図上で計測したら、50mだった(苦笑)。




ほんの少し前の“成功体験らしきもの”をなぞるように、私は再びシェッドの外へ出て2号隧道南口の扁額を確かめようとした。

そうして驚いたのは、シェッドのためにほとんど通行人からは見えない坑門の無惨な有り様だった。
隧道そのものの強度にはさほど影響はない部分かも知れないが、ざっくり角の部分が崩落してしまった坑門は、不気味だった。
探索時点(平成21(2009)年)では、旧道化からちょうど10年が経過していたのだが、封鎖されていなかった隧道が、こんな姿を晒していたのは驚きであった。


そんな壊滅寸前に見える坑門近くの斜面をよじ登って、扁額部分の視界を得た。

そして、3号隧道の南口で見たのと同じような凹みの中に、今度はしっかりと「福島保木2号トンネル」のプレートが填め込まれているのを確かめた。

しかし考えてみれば、これは本当に憐れな扁額だ。
隧道にスノーシェッドが接続されたために、通行人からは決して見えない位置にあり続けたのだから。挙げ句、スノーシェッド上に積もった土砂によって、地中に埋まろうとしている。




2号隧道南口と1号隧道隧道北口の間を埋めるスノーシェッドは、これまで見た3つのタイプのどれとも異なる形をしていた。
だが見た目的にも、構造的にも古ぼけていて、一連のシェッドの中でも最古参級に属するものと見て取れた。

なお、先ほどの3号隧道南口と、この2号隧道南口は、共に坑門とスノーシェッドが連続する構造になっているが、前者の扁額がスノーシェッドの端部に飾られることで通行人の目に触れたのに対し、後者の扁額はそれを選べなかったが故に、目の付かない場所に取り残されたと見る。
なぜなら、こちらのスノーシェッドには扁額を取り付けるような途切れ(=設置時期のずれ)が、見あたらないのである。カーブしながら、そのまま1号隧道に繋がっている。




「トンネル大鑑」では全長67m、「現況調査」では全長116mと、まさに倍近い誤差をもって記録されている、福島保木1号トンネル

しかしこれだけの差があれば、さすがにどちらの方が実際に近いかの判断は、目測でも可能だろう。
ずばり、この隧道の長さが100mに満たないとは信じられない。ということは、大鑑は誤謬であると思う。

しかし、理由は分からない。一番興奮できるのは、「実は旧隧道が他に存在する」というパターンだが、現地調査でそのような形跡は見られなかったし、帰宅後の空中写真調査等でもそうだ。
そもそも、一連の隧道が全て昭和36年竣工として共通の外観を持っている事実に照らしても、この1号隧道が実は同年に建設された“新トンネル”だったなどとは思えない。

…単純な、本当に単純な誤記なのだとしたら(たぶんそうなのだと思うが)、罪である。
私は5年間も、この“謎”のためにレポートの続きを書けずにいたのだから。



1号隧道も直線で、楽しい旧道の出口は、すぐに近付いてきた。

これが最後の隧道と分かってはいたが、それよりも出口の向こうに“屋根のない本物の地上”が見えていたことの方が、私を開放的な気持ちにさせた。

この1.5kmの旧道のうち、ちゃんと空に面していたのは、最初と最後を除けば、前半の大沼谷橋付近の100mくらいだけだったのだ。
ほとんど全部、隧道か洞門かスノーシェッドの中にあった。
それこそは、名にし負う難所を越えるという、確かな決意の結実であったと思う。




福島保木1号トンネルの南口は、一連の隧道群で初めて道、をはみ出すことをせず扁額を読むことが出来た。

だが、それでも決して甘やかされた生き様ではなかったことを、坑門全体に刻まれた傷、染みついた汚れ、朽ちかけた高さ制限バー、注意標識などが訴えている。

繰り返しになるが、この探索当時は廃止されておらず、一般のクルマも通行できた。
だが、国道としての管理を離れた状態で過ごす時間は、それまでとは全く別次元である。もうどれだけ長持ち出来るかは、誰にも分からないだろう。



地表に出るなり間近に聞こえ始めるクルマの音。
すぐ先に現国道が見えていた。
そして最後には緩やかに曲げられた接続部分を経て、合流するのであった。

ちなみに、2014年に『廃墟賛歌 廃道レガシイ』の撮影のため、御母衣湖を(許可を得て)カヤックで横断したが、その時に湖畔へ降りたのが、この写真の場所だった。(写真)
船着き場などがあるわけでもない単なる湖岸だが、絶壁ではない数少ない湖岸として目を付けた場所だった。



14:24 《現在地》

現国道に合流し、探索終了!

約40分の探索であったが、廃道ではなく旧道ということで困難もなく、排ガスと騒音に揉まれる現国道より万人にオススメ出来るのではないかとさえ思った(ただしライトは必要だが)。
と同時に、ここがどれほどの難所であったかも、連続する構造物と切り立った眺めから十二分に体感できたから、全体として充実度のとても高い探索だった。





“謎”に対する私なりの回答


最後に、私が“謎”としていた二つの事柄について、回答を与えたい。
ただし冒頭でも言い訳したとおり、あくまで現時点での推論である。


【謎1】 消えた4、5号隧道の正体について 

『道路トンネル大鑑』には記載があるものの現地には見あたらない2本の隧道の正体は、水色塗装のスノーシェッドであったと考える。


まずは右の動画をご覧頂きたい。
これは、自転車で一連の探索を終えた直後に、愛車ワルクードで同じように旧道を北から南へ通り抜けながら撮影したものである。

この動画中の0:25付近と、0:35付近に通過する水色塗装のスノーシェッドこそが、福島保木5号トンネルおよび同4号トンネルと呼ばれていたものだと私は確信している。
残念ながら扁額などは見あたらないが、当初は3号隧道南口と同じように取り付けられていた可能性がある。

そう考えた論拠は、次の空中写真を見ながら説明する。



右図は、昭和43(1968)年に撮影された空中写真(元データ)である。
御母衣湖の誕生にあわせて湖岸に国道が開通したのは昭和36(1961)年だから(以前の国道は水没)、この空中写真は開通後間もない時期のものである。
そしてこれをつぶさに確認すると、当時のスノーシェッドやトンネルの位置が分かる。

現在の旧国道はほとんど全線がスノーシェッドかトンネルに覆われているが、そのスノーシェッドには大まかに3つのタイプがあった。
コンクリート製のもの、赤色塗装の鉄製、水色塗装の鉄製の3タイプである。
そして右の空中写真と比較すると、水色塗装の鉄製スノーシェッドは昭和43年の時点で存在していたが、他の2タイプは全く無かったことが分かったのだ。

そして、3号隧道南口に繋がる水色塗装スノーシェッドに、隧道の扁額が取り付けられた(写真)ことも、重大な論拠になっているし、このことはもう一つの謎とも密接に関わっている。


【謎2】 『トンネル大鑑』と『現況調査』の間のデータの違いについて 

これに対する私の回答は、『トンネル大鑑』が、水色塗装のスノーシェッドの長さを接続する隧道の長さに加えているが、『現況調査』は、あくまで隧道部分だけをカウントしている――というものだ。


3号隧道と2号隧道の長さの違いついては、上記の回答に自信がある。
だが、1号隧道の長さの違いについてだけは、本文中でも述べた通り、大鑑が誤謬を犯していると判断するより無いと思っている。

長さ以外の幅員や高さの値も違っているが、これらは「有効幅員」や「車道幅」の違いなど、二つの資料で計測方法が異なるので、問題とはしなかった。


謎解きについては、以上である。
普段、トンネルや橋ほどには注目されることの少ないスノーシェッドであるが、今回はそこから思わぬ謎の答えに近付くという展開が個人的に面白かった。

考えてみれば、雪寒法(積雪寒冷特別地域における道路交通の確保に関する特別措置法、昭和31年制定)の誕生によって、ようやく道路の本格的な克雪が目指されはじめた昭和30年代においては、スノーシェッドの存在は非常に珍しく、完成を記念して隧道と同じような扁額や名前を与えることが、試されていたのかも知れない。
そうであるならば、生きたまま煙のように消えた4号、5号隧道とは、本邦道路の質・量両面の確かな進歩を表す、そんな平和なマイルストーンだったと言えるのではないだろうか。




おそらくこれが、「福島保木5号トンネル」(目の前の水色スノーシェッド)と、
「同4号トンネル」(赤いスノーシェッドの先の水色スノーシェッド)だった。


【追記】 完成当時のスノーシェッドの写真が発見された。

この写真は、電源開発株式会社が御母衣ダム完成を記念に発行した、その名も『御母衣ダム』というタイトルの写真帳に掲載されていた1枚である。

特に本文での言及はないのだが、この写真に写る2本のスノーシェッドの形状や配置は、明らかに私が「4号、5号トンネル」と推測したものである。

それにしても、単品で見せられると、天井が水平になっているこの形状は違和感が大きい。
雪崩に直撃された場合、横に衝撃を逃がすことが出来ず、そのまま押し潰されてしまいそうだが、スノーシェッドの初期作故に、まだ洗練されていなかったということだろうか。

ともかくこの写真が出て来たことで、本文でも述べたとおり水色塗装のスノーシェッドが国道開通当初からのものであったことが確定した。
また、そこに隧道のような扁額は取り付けられていなかったことや、シェッド内部の路面が未舗装であったことなども新たに確認された。
この「未舗装」というのも、『トンネル大鑑』における「4号、5号トンネル」の記述に合致しており、私の推理を裏付ける成果であった。